↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
71/147

双月、嗤う

千人殺しのオルグレンが。


白銀の聖鎧に包まれたまま、砕けた街道へ倒れていた。



大きく陥没した胸当てから。


蒼い魔力の残滓が、細い煙となって立ち昇っている。



豊穣神の加護を宿した鎧も。


名工バランが鍛えた巨大な鎚も。



完全には砕けていない。



だが。



その武具を纏っていた男は。


もう動かなかった。




帝国兵達は。


声を失っていた。



一つの戦場で。


千を超える敵を、自らの手で殺した怪物。



帝国軍の切り札として現れ。


三人の女を叩き潰すはずだった男が。



その三人によって。


地へ沈められた。



「オルグレン……将軍……?」



誰かが。


掠れた声を漏らした。



槍が落ちる。



続いて。


盾が落ちた。



乾いた音が重なるたび。



辛うじて帝国軍を繋ぎ止めていたものが。


一つずつ切れていく。



「逃げろ……」



一人の兵士が後退した。



「勝てるわけがない……!」



そして。


背を向けた。



それを合図にしたように。



兵士達が一斉に動き始める。



「撤退だ!」


「山道へ戻れ!」


「殺されるぞ!」



それは。


指揮官から下された命令ではなかった。



生き残りたいという本能が。


数千の兵士を同時に北へ走らせた。



槍を捨てる。



負傷者を置き去りにする。



互いを押し退け。



転倒した仲間を踏み越えながら、街道へ殺到していく。



騎兵は歩兵を押し退け。


制御を失った荷車が、退路を塞ぐ。



隊列は崩れ。



指揮官の声も。


もはや誰の耳にも届かなかった。




ベルンは。


その光景を静かに見つめていた。



双月偃刃を握る指には。


まだオルグレンと打ち合った感触が残っている。



巨大な鎚を受け流した衝撃。



刃と鎧が擦れ合った振動。



クルドを射出するため。


全身の魔力を武器へ注ぎ込んだ感覚。



疲労はある。



呼吸も乱れている。



それなのに。



身体は不思議なほど軽かった。



病に蝕まれ。


剣を握る力さえ失っていった、かつての身体ではない。



足は動く。



腕も上がる。



双月偃刃の重ささえ。


今は心地よく掌へ馴染んでいた。



ベルンは。


自分の手を見つめる。



指を開き。



再び、柄を握った。



その瞬間。



身体の奥を。


微かな熱が駆け抜けた。



「……妙だな」



戦いの直後に。


血が昂ぶることはある。



死線を越えた直後。


身体へ力が満ちる感覚も知っている。



だが。



今のこれは。


ベルンが騎士だった頃に知った高揚とは、僅かに異なっていた。



胸の奥から。


腹へ。



そこから脚の先へ。



淡い痺れを伴った熱が。


新しい身体の内側を流れていく。



苦痛ではない。



むしろ。


思わず息を吐きたくなるほど心地よかった。



「若返った影響か……?」



自分でも納得していない声で。


ベルンは呟いた。



その時。



逃げていた帝国兵の一人が振り返った。



恐怖に顔を歪め。


剣を振り上げる。



「来るな!」



ベルンは。


反射的に身を沈めた。



振り下ろされた剣を。


双月偃刃の湾曲した刃で受け流す。



甲高い金属音。



相手の体勢が崩れる。



ベルンは一歩踏み込み。


返す刃で、その鎧を切り裂いた。



兵士が地面へ崩れ落ちる。



その瞬間。



先ほどよりも強い感覚が。


ベルンの身体を駆け抜けた。



「――っ」



思わず。


短い吐息が漏れた。



衣装の内側で。


胸の先へ細い痺れが走る。



同時に。



下腹部の奥へ。


じわりと熱が落ちていった。



明らかに。



以前の男の身体では。


覚えたことのない反応だった。



ベルンが。


僅かに目を見開く。



「これは……」



戦いの昂ぶりだけではない。



だが。



何故、今。


この身体がそんな反応を示したのか。



ベルンには分からなかった。



敵を斬ったことへ。


喜びを感じたわけではない。



血を見て。


興奮したわけでもない。



ただ。



目の前の脅威を退けた。



それだけのはずだった。



考えようとした時。



少し離れた場所で。


弓を持った兵士が振り返る。



逃げながら。


震える手で矢を番えようとしていた。



ベルンの意識が。


その姿を捉える。



射られる前に止める。



そう判断した時には。



身体は既に。


大地を蹴っていた。



黒い衣装が翻る。



長い髪が。


戦場の風を受けて広がった。



一瞬で距離を詰める。



矢が放たれるより早く。


双月偃刃が弓を斜めに切断した。



続く一撃が。


兵士を地面へ沈める。



再び。



身体の内側へ熱が走った。



ベルンの呼吸が。


僅かに弾む。



疲労が消えたわけではない。



それでも。



次の動作だけが。


不自然なほど滑らかに繋がっていく。



武器を持ったまま逃げる兵士。



退きながら隊列を組み直そうとする者。



こちらへ槍を向ける者。



ベルンの視線が。


一人ずつ捉えていく。



一歩。



刃が閃く。



もう一歩。



双月偃刃が弧を描く。



ベルンの剣技に。


乱れはなかった。



相手の動きを読み。



最小限の足運びで間合いへ入り。



反撃を許さず。


確実に無力化する。



それは。



長い経験によって磨かれた。


熟練の騎士の技だった。



敵味方の区別もついている。



武器を捨て。


戦意を失って地へ伏した者には手を出さない。



理性を失い。


闇雲に刃を振り回しているわけではなかった。



だが。



一人を倒すたび。



新しい身体の奥へ。


不可解な熱が返ってくる。



その熱が。


疲労を覆い隠す。



次の敵へ踏み込むことを。


少しずつ容易にしていく。



ベルン自身も。


追い過ぎていることには気づいていた。



一度。


足を止めるべきだとも思った。



だが。



意識がそう判断するより早く。



視界の端で動いた刃へ。


身体が反応してしまう。



槍を躱す。



懐へ入る。



双月偃刃を振るう。



また一人。


帝国兵が倒れる。



ベルンの口元へ。


微かな笑みが浮かんだ。



本人が。


意識して作ったものではない。



弾む呼吸と。


身体を巡る熱が。



自然に表情へ滲み出ているだけだった。



その姿は。


美しかった。



黒い衣装を翻し。



二振りの刃を舞わせる。


若い女騎士。



長い髪が風へ流れ。



熱を帯びた頬と。



僅かに細められた瞳が。



普段の落ち着いたベルンとは異なる、艶やかさを与えている。



だが。



逃げる帝国兵達にとっては。



それ以上に。


恐ろしい姿だった。



仲間を倒すたび。



女は疲れるどころか。


より軽やかになっていく。



刃を振るうたび。



頬は赤みを増し。



口元の笑みが。


僅かに深まっていく。



何故。


あの女が笑っているのか。



誰にも分からない。



ベルン自身にさえ。


分かっていなかった。




『ベルン』



ウルの思念が届く。



『止まれ』


『前へ出過ぎている』



ベルンは。


その声を確かに聞いた。



「分かっている」



返事もした。



実際に。


止まるつもりだった。



だが。



横合いから。


一人の帝国兵が槍を突き出してくる。



ベルンの身体が反応した。



穂先を避け。



柄へ刃を絡める。



槍を弾き飛ばし。



もう一方の刃を振るう。



兵士が倒れる。



身体の奥に残っていた熱が。


再び僅かに強まった。



その余韻に押されるように。



次の一歩が出る。



「……止まれ」



今度は。


ベルンが自分自身へ言い聞かせた。



だが。



足は完全には止まらなかった。



思考が消えたわけではない。



人格を失ったわけでもない。



ただ。



意識が身体へ命令を下すよりも先に。



新しい身体が。


目の前の戦場へ反応してしまう。



熱に浮かされたような感覚。



判断と動作の間へ。



僅かなずれが生まれていた。




第七皇子ガルドスは。


馬上からその光景を見ていた。



オルグレンを倒した女騎士が。



逃げる帝国兵達の間を。


舞うように駆け抜けていく。



一人。



また一人。



そのたびに。



彼女はますます美しく。


生き生きとしていく。



「何だ……」



ガルドスの唇が震えた。



「何なのだ、あの女は……」



怒りに我を忘れているようには見えない。



憎しみに駆られているわけでもない。



剣筋は冷静で。



動きには。


一切の無駄がない。



それなのに。



仲間から制止されても。


止まらない。



理性を残したまま。



何かに酔わされるように。


兵士達を追い続けている。



「止めろ……」



ガルドスが呟く。



「誰か」


「あの女を止めろ……!」



だが。



誰もベルンへ近づけない。



立ち向かえば。


一合も持たずに倒される。



逃げても。



武器を手放さない限り。


ベルンは追いついてくる。



返り血が。


白い頬へ僅かに散った。



ベルンは。


それに気づかない。



呼吸を弾ませ。



熱の残る瞳で。


次の敵を捉えている。



その姿が。



ガルドスには。


人の形をした何かにしか見えなかった。



「化け物……」



掠れた声が漏れる。



その時。



ベルンの視線が。


僅かにガルドスの方角へ向いた。



実際には。



次に武器を構えた者を探しただけだったのかもしれない。



だが。



ガルドスには。


自分が次に選ばれたように見えた。



息が止まる。



剣を握る手が震えた。



「来るな……」



ベルンは。


ガルドスの声など聞いていない。



もう一歩。



前へ踏み出そうとする。



その腰へ。



青紫色の糸が巻きついた。



ベルンの身体が。


後方へ強く引かれる。



踏み込みが崩れた。



それまで滑らかに続いていた動きが。



そこで初めて。


強制的に中断される。



身体を巡っていた熱の流れも。



同時に。


大きく途切れた。



ベルンの双月偃刃が。


反射的に翻る。



腰へ巻きついたものを。


斬り払おうとする。



だが。



刃が糸へ触れる寸前。



「ベル姉!」



クルドの声が。



今度こそ。


はっきりと意識へ届いた。



ベルンの刃が止まる。



目を見開く。



腰へ巻きついたアラクネ・コード。



その先で。



クルドが両足を踏ん張り。


全身を使って糸を引いていた。



『ベルン』



ウルの思念が届く。



『戻れ』



短い声。



いつもと変わらない。


落ち着いた声音。



『もう追う距離ではない』



ベルンは。


ゆっくりと周囲を見渡した。



いつの間にか。



ウルとクルドから。


大きく離れていた。



足元には。


斬り伏せた帝国兵達。



武器を捨てた者達は。


さらに離れた場所で震えている。



その向こうでは。



残った兵士達が。


恐怖に駆られ、北へ逃げ続けていた。



ベルンの胸が。


大きく上下している。



頬の熱。



身体の奥へ残る。


淡い痺れ。



意識は。


最初から失われていなかった。



自分が何をしていたのかも。


理解している。



それでも。



ここまで二人から離れていたことだけは。


認識できていなかった。



「……そうか」



ベルンが。


小さく息を吐いた。



双月偃刃を下ろす。



「私は」


「ここまで追っていたのか」



「ウル姉が何度も呼んでたよ」



クルドが。


糸を緩めながら答える。



「返事までしてたのに」


「全然止まらなかった」



ベルンは。


まだ熱の残る手を見つめた。



「声は聞こえていた」



指をゆっくりと開く。



今度は。



自分の意思で柄を握り直した。



「止まるつもりもあった」



それでも。



身体は動き続けていた。



何かに操られた感覚はない。



自分以外の何者かに。


意識を奪われたわけでもない。



ただ。



この新しい身体が示した反応は。



ベルンが想像していたよりも強く。



僅かな間だけ。


判断を追い越してしまった。



「……危なかったな」



ベルンは。


クルドへ向き直った。



「助かった」



クルドが。


ほっとしたように息を吐く。



「本当に怖かったんだからね」



「ああ」



ベルンは素直に頷いた。



「すまなかった」



その声は。


いつものベルンへ戻っていた。



落ち着いた。


大人の女性の声。



表情からも。



先ほどまで浮かんでいた妖しい笑みは消えている。



ただ。



身体の奥に残る熱だけが。



今の出来事が。


単なる戦いの昂ぶりではなかったことを伝えていた。




ウルは。



魔導ソナーで戦場全体を確認していた。



ベルンを恐れた帝国兵達は。


既にかなり遠くまで下がっている。



街道へ密集する者。



林へ逃げ込む者。



斜面を駆け上がる騎兵。



通常射撃だけで追うには。


広がり過ぎていた。



『敵が散った』



ベルンが。


逃げる兵士達へ目を向ける。



「私が追い立てたせいだな」



『反省は後だ』



ウルは。


黒墓標を引き寄せた。



巨大な十字架の先端が。



北へ逃げていく帝国兵達へ向けられる。



『今は』


『戦列を組み直す力を奪う』



黒墓標が。


大地へ深く突き立てられた。



固定杭が展開し。



重い音と共に。


地面へ食い込んでいく。



装甲板が左右へ開く。



内部へ格納されていた変換機構と。


収束用の砲身が姿を現した。



長大な銃身を巡る魔導回路が。



一本ずつ。


青い光を灯していく。



ベルンは。



その様子を見つめながら。


双月偃刃を握り直した。



先ほどまでとは違う。



今度は。



身体に残る熱ではなく。


自分の意思で構える。



「もう大丈夫だ」



ウルが。


僅かに顔を向ける。



ベルンは。


静かに頷いた。



「次は」


「きちんと合わせる」



クルドも。


両手の指を開いた。



アラクネ・コードが。


淡い青紫色の光を帯び始める。



ウルは。



逃走する帝国軍の位置を確認した。



『ベルン』


『クルド』



黒墓標の内部から。



低い駆動音が響き始める。



『《黒葬光》を使う』


感想いただけると嬉しいです

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。