無銘、潜む
ジジッ――
静かな室内へ。
微かな雑音が響いた。
卓上に置かれた小型の通信魔導具が。
淡い青色の光を明滅させている。
『――こちら、北砦』
途切れかけた声が。
雑音の向こうから届く。
『帝国軍、全面撤退を確認』
『敵指揮官は残存騎兵に護衛され、北へ離脱』
『降伏者、多数』
『山中への侵入を試みた部隊は、全て阻止しました』
『砦及び守備隊に、重大な被害はありません』
一拍置いて。
最後の報告が続いた。
『イミタート三名』
『全員、生存しています』
室内へ。
短い沈黙が落ちた。
窓の外には。
険しい山々が連なっている。
傾き始めた陽が。
幾重にも重なる稜線を、淡い金色に染めていた。
ここは。
ローゼンバーグ王国内の、どこか。
王都ではない。
北砦でもない。
帝国との国境に連なる山々を。
遠くに望むことのできる場所。
その静かな一室で。
二人の女が。
大きな卓を挟んで向かい合っていた。
一人は。
黒を基調とした衣装を纏う。
ローゼンバーグ王国の女王。
黒薔薇のエミリア。
もう一人は。
その傍らへ控える。
メイド姿のルミだった。
エミリアは。
通信魔導具の傍らへ置いていた指を離した。
「ご苦労だったわ」
『はっ』
「降伏者は武装を解除させなさい」
「負傷者は」
「敵味方を分けず治療すること」
『承知しました』
「それから」
エミリアは。
僅かに声を和らげた。
「三人には」
「よくやったと伝えておいて」
『必ず』
通信魔導具の光が消える。
ジジッ、と。
最後に小さな雑音を残して。
室内は。
再び静寂に包まれた。
戦場から遠く離れたこの場所へ。
勝敗の報せが届くまで。
ほとんど時間はかかっていない。
伝令を馬で走らせる必要もない。
狼煙を上げ。
中継地点を経由させる必要もない。
北砦で起きた出来事は。
砦の通信設備と。
黒墓標に搭載された魔導通信機構を通して。
戦いが終わった直後には。
既にエミリアのもとへ届けられていた。
エミリアは。
卓上へ広げられた盤面へ。
視線を落とした。
盤上には。
三つの黒いポーンが並んでいる。
その前には。
横倒しとなった白いナイト。
さらに後方には。
隊列を崩した多数の白い駒が。
無秩序に散らばっていた。
北砦へ向かった帝国軍。
その結末を示す盤面は。
もはや。
戦の形を保っていなかった。
エミリアは。
倒れた白いナイトを摘まみ上げた。
指先で。
ゆっくりと回す。
白い駒の表面へ刻まれた紋様が。
窓から差し込む光を反射した。
「残念」
言葉とは裏腹に。
エミリアの口元には。
僅かな笑みが浮かんでいた。
「千人殺しだなんて聞いたから」
「もう少し」
「粘ると思っていたのだけれど」
白いナイトを。
盤外へ置く。
小さな音が。
静かな部屋へ響いた。
「三人で十分だったようね」
ルミが。
エミリアの傍らから。
盤面を覗き込む。
「見事な勝利でございます」
「ええ」
エミリアは。
三つの黒いポーンへ。
順番に視線を向けた。
最も後方に置かれた駒。
黒墓標と共に。
戦場全体を掌握したウル。
敵陣の中央近くまで進んだ駒。
オルグレンを足止めし。
双月を振るったベルン。
二つの駒の間を自在に動き。
糸によって。
三人の戦術を繋いだクルド。
一万の白い軍勢を前にしても。
三つの黒い駒は。
一つも。
盤面から失われていなかった。
「ウルは」
「最後まで戦場全体を見ていたようね」
エミリアが。
最も後方にある駒へ触れる。
目を閉じたまま。
敵兵の位置も。
退路も。
降伏の意思さえも選別する。
山中への侵入を阻みながら。
街道を退く者までは追わなかった。
与えられた命令を。
過不足なく遂行している。
「余計なことをせず」
「必要なことだけをする」
エミリアは。
小さく頷いた。
「相変わらず」
「優秀な猟師だわ」
次に。
ベルンを表す駒へ。
指を移した。
「ベルンは」
「少し前へ出すぎたようだけれど」
通信による第一報には。
戦果だけではなく。
三人の行動記録も含まれていた。
オルグレンを倒した後。
ベルンが逃げる帝国兵を追い。
ウルの制止へ返事をしながらも。
すぐには足を止めなかったこと。
最後には。
クルドがアラクネ・コードで。
強引に引き戻したことも。
既に。
エミリアの耳へ入っている。
「まあ」
「久しぶりに満足に剣を振るえたのだもの」
「少しくらい」
「気持ちが昂ぶることもあるでしょう」
エミリアは。
ベルンの駒を。
指先で僅かに後ろへ戻した。
「次からは」
「二人との距離を意識するように伝えておきなさい」
「叱る必要はないわ」
「かしこまりました」
ルミが。
静かに頭を下げる。
エミリアは。
それ以上。
ベルンの行動を問題にはしなかった。
大きな被害を出したわけではない。
仲間の制止を受け。
術式の発動時には。
既に平静を取り戻している。
戦場での僅かな昂ぶり。
その程度のことだと。
エミリアは判断していた。
そして。
ベルンが展開した黒姫月鏡についても。
報告は届いていた。
黒墓標の内部へ。
一時的な魔力鏡面を形成し。
高出力の魔導光を反射。
収束。
分岐。
内部回路へ集中する熱と負荷を分散させる。
その補助がなければ。
三重術式《黒葬光》は。
黒墓標そのものを。
内側から焼き切っていた可能性がある。
「黒姫月鏡も」
「問題なく機能したようね」
エミリアの指が。
ベルンの駒の傍らを。
軽く叩いた。
「虚実を操るだけでなく」
「あれほどの光まで制御できたのなら」
「作らせた甲斐があったわ」
最後に。
エミリアは。
クルドを表す駒へ触れた。
「クルドも」
「よく動いたわね」
ベルンを止め。
ウルの照準を。
黒葬光の軌道へ伝え。
三人の魔力と装備を。
一つの巨大な術式として繋いだ。
単独で。
最も目立つ役割ではない。
だが。
クルドがいなければ。
ウルの索敵も。
ベルンの鏡面制御も。
黒墓標の出力も。
一つの攻撃として成立しなかった。
「糸を操る者が」
「仲間まできちんと繋いだ」
エミリアは。
三つの黒い駒を眺めながら。
満足そうに目を細めた。
「三人とも」
「本当によく働いてくれたわ」
ルミは。
その横顔を見つめながら。
静かに微笑んでいた。
いつもの。
従順な侍女の笑み。
けれど。
その奥には。
僅かな満足が滲んでいる。
エミリアが。
その変化を見逃すはずもなかった。
「あなたも」
「随分と楽しそうね、ルミ?」
「そう見えますか?」
「見えるわ」
エミリアは。
盤上の三つの駒から。
ルミへ視線を移した。
「何か」
「自分の仕掛けが上手く働いた時の顔をしているもの」
ルミは。
唇の前へ。
そっと指を添えた。
「私の仕掛けも」
「順調に働いているようですので……」
「仕掛け?」
エミリアが。
僅かに眉を上げる。
ルミは答えない。
ただ。
曖昧な微笑を浮かべている。
エミリアは。
少しだけ考えた後。
納得したように頷いた。
「ああ」
「イミタート達へのマナー教育ね」
ルミの笑みが。
ほんの僅かに深くなった。
「ウルは」
「元が猟師とは思えないほど」
「落ち着いた振る舞いになったし」
「ベルンも」
「随分と女性らしい魅力が出てきたわ」
「クルドには」
「まだ少し少年っぽさが残っているけれど」
エミリアは。
クルドの駒を。
指先で軽く動かした。
「そこが」
「あの子の可愛らしいところでもあるものね」
「あなたに任せて正解だったわ」
「恐れ入ります」
ルミは。
何食わぬ顔で頭を下げた。
エミリアは知らない。
イミタートとして生まれ変わった三人の身体へ。
ルミが。
ごく淡い祝福を残していたことを。
彼女達が。
力を振るい。
何かを成し遂げた時。
その新しい身体が。
本人達の意識より僅かに早く。
温もりと高揚を返すことを。
それは。
人格を塗り替えるものではない。
思考を縛るものでもない。
誰かへの崇拝を。
強制するものでもなかった。
ただ。
本人も気づかないほど僅かに。
身体が喜びを示す。
その程度の。
小さな仕掛け。
ウルは。
それを狩りの昂ぶりとして受け入れた。
クルドは。
新しい身体が。
以前より素直に感情を示すのだと思っている。
そしてベルンは。
かつての身体では知り得なかった反応へ。
一時だけ。
意識を引かれた。
ルミは。
そのことを口にしない。
エミリアも。
それ以上は追及しなかった。
既に。
彼女の関心は。
次の盤面へ移っていたからだ。
北砦の戦いを示した盤の隣へ。
もう一つ。
より大きな盤面が置かれていた。
山脈を模した起伏。
細く険しい道。
深い谷。
切り立った崖。
その間を縫うように。
多数の白い駒が。
列をなして進んでいる。
だが。
その盤面には。
迎え撃つ黒い軍勢が存在しなかった。
砦もない。
騎士団もいない。
旗もない。
白い駒の進路を阻むものは。
何一つ。
置かれていなかった。
ルミが。
静かに盤面を見つめる。
「こちらも」
「進んでいるようですね」
「ええ」
エミリアは。
それ以上のことを言わなかった。
白い駒が。
誰を表しているのか。
どれほどの数なのか。
どこへ向かっているのか。
ここで。
改めて口にする必要はない。
エミリアは。
盤の脇へ置かれていた。
一つの黒い駒を手に取った。
形だけなら。
ポーンに近い。
だが。
通常の駒が持つ特徴は。
ほとんど削ぎ落とされている。
頭部を示す丸み。
身体の輪郭。
所属や役割を示す装飾。
どれも。
意図的に曖昧に作られていた。
正面も。
背面もない。
紋章も。
名前もない。
辛うじて。
盤上で使う駒だと分かるだけ。
無銘の黒駒。
エミリアは。
その駒を。
盤上へは置かなかった。
指先で挟み。
ゆっくりと転がす。
白い駒の群れは。
敵の姿がないことを。
安全だと思っている。
だが。
見えていないことと。
存在しないことは。
同じではない。
既に。
白い駒の列へ。
紛れ込んでいるのかもしれない。
あるいは。
遥か前方で。
彼らが来るのを。
待っているのかもしれない。
進軍路の脇に。
補給の列に。
斥候の中に。
誰にも気づかれないまま。
盤面の隙間へ。
無銘の黒駒が。
既に入り込んでいるのかもしれなかった。
「正面から迎える必要なんて」
「ないもの」
エミリアは。
無銘の黒駒を持ったまま。
窓の外へ目を向けた。
険しい山々へ。
夜の色が。
少しずつ降り始めている。
山の向こうから。
白い駒の列が近づいている。
自分達が。
誰にも知られず。
誰の目にも留まらず。
静かに進んでいると信じながら。
エミリアの表情には。
焦りも。
緊張もなかった。
ただ。
盤面の上で。
全ての駒が。
定められた位置へ進みつつあることへの。
静かな確信だけがあった。
その時。
ジジッ――
沈黙していた通信魔導具が。
再び。
淡い光を灯した。
エミリアは。
視線だけを通信機へ向ける。
『――こちら』
短い雑音。
その向こうから。
感情の薄い声が届いた。
名は告げられない。
所属も。
位置も。
通信を受け取る側には。
最初から分かっていた。
『配置、完了』
『対象に変化なし』
『全て』
『予定通りです』
それだけだった。
場所も。
人数も。
何を行ったのかも。
一切語られない。
報告は。
必要なことだけを伝えている。
エミリアは。
手の中の無銘の黒駒へ。
視線を落とした。
そして。
ゆっくりと。
口元を持ち上げた。
「そう」
通信の向こうへ。
静かに答える。
「なら」
「万事、抜かりはないようね」
『はい』
ジジッ――
通信が切れた。
淡い光が消え。
室内へ。
再び静寂が戻る。
エミリアは。
無銘の黒駒を指先で弄びながら。
白い駒が進む盤面を見つめた。
その口元には。
先ほどよりも。
僅かに深い笑みが浮かんでいた。




