双月、嗤う
千人殺しのオルグレンが。
白銀の聖鎧に包まれたまま、砕けた街道へ倒れていた。
大きく陥没した胸当てから。
蒼い魔力の残滓が、細い煙となって立ち昇っている。
豊穣神の加護を宿した鎧も。
名工バランが鍛えた巨大な鎚も。
完全には砕けていない。
だが。
その武具を纏っていた男は。
もう動かなかった。
帝国兵達は。
声を失っていた。
一つの戦場で。
千を超える敵を、自らの手で殺した怪物。
帝国軍の切り札として現れ。
三人の女を叩き潰すはずだった男が。
その三人によって。
地へ沈められた。
「オルグレン……将軍……?」
誰かが。
掠れた声を漏らした。
槍が落ちる。
続いて。
盾が落ちた。
乾いた音が重なるたび。
辛うじて帝国軍を繋ぎ止めていたものが。
一つずつ切れていく。
「逃げろ……」
一人の兵士が後退した。
「勝てるわけがない……!」
そして。
背を向けた。
それを合図にしたように。
兵士達が一斉に動き始める。
「撤退だ!」
「山道へ戻れ!」
「殺されるぞ!」
それは。
指揮官から下された命令ではなかった。
生き残りたいという本能が。
数千の兵士を同時に北へ走らせた。
槍を捨てる。
負傷者を置き去りにする。
互いを押し退け。
転倒した仲間を踏み越えながら、街道へ殺到していく。
騎兵は歩兵を押し退け。
制御を失った荷車が、退路を塞ぐ。
隊列は崩れ。
指揮官の声も。
もはや誰の耳にも届かなかった。
ベルンは。
その光景を静かに見つめていた。
双月偃刃を握る指には。
まだオルグレンと打ち合った感触が残っている。
巨大な鎚を受け流した衝撃。
刃と鎧が擦れ合った振動。
クルドを射出するため。
全身の魔力を武器へ注ぎ込んだ感覚。
疲労はある。
呼吸も乱れている。
それなのに。
身体は不思議なほど軽かった。
病に蝕まれ。
剣を握る力さえ失っていった、かつての身体ではない。
足は動く。
腕も上がる。
双月偃刃の重ささえ。
今は心地よく掌へ馴染んでいた。
ベルンは。
自分の手を見つめる。
指を開き。
再び、柄を握った。
その瞬間。
身体の奥を。
微かな熱が駆け抜けた。
「……妙だな」
戦いの直後に。
血が昂ぶることはある。
死線を越えた直後。
身体へ力が満ちる感覚も知っている。
だが。
今のこれは。
ベルンが騎士だった頃に知った高揚とは、僅かに異なっていた。
胸の奥から。
腹へ。
そこから脚の先へ。
淡い痺れを伴った熱が。
新しい身体の内側を流れていく。
苦痛ではない。
むしろ。
思わず息を吐きたくなるほど心地よかった。
「若返った影響か……?」
自分でも納得していない声で。
ベルンは呟いた。
その時。
逃げていた帝国兵の一人が振り返った。
恐怖に顔を歪め。
剣を振り上げる。
「来るな!」
ベルンは。
反射的に身を沈めた。
振り下ろされた剣を。
双月偃刃の湾曲した刃で受け流す。
甲高い金属音。
相手の体勢が崩れる。
ベルンは一歩踏み込み。
返す刃で、その鎧を切り裂いた。
兵士が地面へ崩れ落ちる。
その瞬間。
先ほどよりも強い感覚が。
ベルンの身体を駆け抜けた。
「――っ」
思わず。
短い吐息が漏れた。
衣装の内側で。
胸の先へ細い痺れが走る。
同時に。
下腹部の奥へ。
じわりと熱が落ちていった。
明らかに。
以前の男の身体では。
覚えたことのない反応だった。
ベルンが。
僅かに目を見開く。
「これは……」
戦いの昂ぶりだけではない。
だが。
何故、今。
この身体がそんな反応を示したのか。
ベルンには分からなかった。
敵を斬ったことへ。
喜びを感じたわけではない。
血を見て。
興奮したわけでもない。
ただ。
目の前の脅威を退けた。
それだけのはずだった。
考えようとした時。
少し離れた場所で。
弓を持った兵士が振り返る。
逃げながら。
震える手で矢を番えようとしていた。
ベルンの意識が。
その姿を捉える。
射られる前に止める。
そう判断した時には。
身体は既に。
大地を蹴っていた。
黒い衣装が翻る。
長い髪が。
戦場の風を受けて広がった。
一瞬で距離を詰める。
矢が放たれるより早く。
双月偃刃が弓を斜めに切断した。
続く一撃が。
兵士を地面へ沈める。
再び。
身体の内側へ熱が走った。
ベルンの呼吸が。
僅かに弾む。
疲労が消えたわけではない。
それでも。
次の動作だけが。
不自然なほど滑らかに繋がっていく。
武器を持ったまま逃げる兵士。
退きながら隊列を組み直そうとする者。
こちらへ槍を向ける者。
ベルンの視線が。
一人ずつ捉えていく。
一歩。
刃が閃く。
もう一歩。
双月偃刃が弧を描く。
ベルンの剣技に。
乱れはなかった。
相手の動きを読み。
最小限の足運びで間合いへ入り。
反撃を許さず。
確実に無力化する。
それは。
長い経験によって磨かれた。
熟練の騎士の技だった。
敵味方の区別もついている。
武器を捨て。
戦意を失って地へ伏した者には手を出さない。
理性を失い。
闇雲に刃を振り回しているわけではなかった。
だが。
一人を倒すたび。
新しい身体の奥へ。
不可解な熱が返ってくる。
その熱が。
疲労を覆い隠す。
次の敵へ踏み込むことを。
少しずつ容易にしていく。
ベルン自身も。
追い過ぎていることには気づいていた。
一度。
足を止めるべきだとも思った。
だが。
意識がそう判断するより早く。
視界の端で動いた刃へ。
身体が反応してしまう。
槍を躱す。
懐へ入る。
双月偃刃を振るう。
また一人。
帝国兵が倒れる。
ベルンの口元へ。
微かな笑みが浮かんだ。
本人が。
意識して作ったものではない。
弾む呼吸と。
身体を巡る熱が。
自然に表情へ滲み出ているだけだった。
その姿は。
美しかった。
黒い衣装を翻し。
二振りの刃を舞わせる。
若い女騎士。
長い髪が風へ流れ。
熱を帯びた頬と。
僅かに細められた瞳が。
普段の落ち着いたベルンとは異なる、艶やかさを与えている。
だが。
逃げる帝国兵達にとっては。
それ以上に。
恐ろしい姿だった。
仲間を倒すたび。
女は疲れるどころか。
より軽やかになっていく。
刃を振るうたび。
頬は赤みを増し。
口元の笑みが。
僅かに深まっていく。
何故。
あの女が笑っているのか。
誰にも分からない。
ベルン自身にさえ。
分かっていなかった。
『ベルン』
ウルの思念が届く。
『止まれ』
『前へ出過ぎている』
ベルンは。
その声を確かに聞いた。
「分かっている」
返事もした。
実際に。
止まるつもりだった。
だが。
横合いから。
一人の帝国兵が槍を突き出してくる。
ベルンの身体が反応した。
穂先を避け。
柄へ刃を絡める。
槍を弾き飛ばし。
もう一方の刃を振るう。
兵士が倒れる。
身体の奥に残っていた熱が。
再び僅かに強まった。
その余韻に押されるように。
次の一歩が出る。
「……止まれ」
今度は。
ベルンが自分自身へ言い聞かせた。
だが。
足は完全には止まらなかった。
思考が消えたわけではない。
人格を失ったわけでもない。
ただ。
意識が身体へ命令を下すよりも先に。
新しい身体が。
目の前の戦場へ反応してしまう。
熱に浮かされたような感覚。
判断と動作の間へ。
僅かなずれが生まれていた。
第七皇子ガルドスは。
馬上からその光景を見ていた。
オルグレンを倒した女騎士が。
逃げる帝国兵達の間を。
舞うように駆け抜けていく。
一人。
また一人。
そのたびに。
彼女はますます美しく。
生き生きとしていく。
「何だ……」
ガルドスの唇が震えた。
「何なのだ、あの女は……」
怒りに我を忘れているようには見えない。
憎しみに駆られているわけでもない。
剣筋は冷静で。
動きには。
一切の無駄がない。
それなのに。
仲間から制止されても。
止まらない。
理性を残したまま。
何かに酔わされるように。
兵士達を追い続けている。
「止めろ……」
ガルドスが呟く。
「誰か」
「あの女を止めろ……!」
だが。
誰もベルンへ近づけない。
立ち向かえば。
一合も持たずに倒される。
逃げても。
武器を手放さない限り。
ベルンは追いついてくる。
返り血が。
白い頬へ僅かに散った。
ベルンは。
それに気づかない。
呼吸を弾ませ。
熱の残る瞳で。
次の敵を捉えている。
その姿が。
ガルドスには。
人の形をした何かにしか見えなかった。
「化け物……」
掠れた声が漏れる。
その時。
ベルンの視線が。
僅かにガルドスの方角へ向いた。
実際には。
次に武器を構えた者を探しただけだったのかもしれない。
だが。
ガルドスには。
自分が次に選ばれたように見えた。
息が止まる。
剣を握る手が震えた。
「来るな……」
ベルンは。
ガルドスの声など聞いていない。
もう一歩。
前へ踏み出そうとする。
その腰へ。
青紫色の糸が巻きついた。
ベルンの身体が。
後方へ強く引かれる。
踏み込みが崩れた。
それまで滑らかに続いていた動きが。
そこで初めて。
強制的に中断される。
身体を巡っていた熱の流れも。
同時に。
大きく途切れた。
ベルンの双月偃刃が。
反射的に翻る。
腰へ巻きついたものを。
斬り払おうとする。
だが。
刃が糸へ触れる寸前。
「ベル姉!」
クルドの声が。
今度こそ。
はっきりと意識へ届いた。
ベルンの刃が止まる。
目を見開く。
腰へ巻きついたアラクネ・コード。
その先で。
クルドが両足を踏ん張り。
全身を使って糸を引いていた。
『ベルン』
ウルの思念が届く。
『戻れ』
短い声。
いつもと変わらない。
落ち着いた声音。
『もう追う距離ではない』
ベルンは。
ゆっくりと周囲を見渡した。
いつの間にか。
ウルとクルドから。
大きく離れていた。
足元には。
斬り伏せた帝国兵達。
武器を捨てた者達は。
さらに離れた場所で震えている。
その向こうでは。
残った兵士達が。
恐怖に駆られ、北へ逃げ続けていた。
ベルンの胸が。
大きく上下している。
頬の熱。
身体の奥へ残る。
淡い痺れ。
意識は。
最初から失われていなかった。
自分が何をしていたのかも。
理解している。
それでも。
ここまで二人から離れていたことだけは。
認識できていなかった。
「……そうか」
ベルンが。
小さく息を吐いた。
双月偃刃を下ろす。
「私は」
「ここまで追っていたのか」
「ウル姉が何度も呼んでたよ」
クルドが。
糸を緩めながら答える。
「返事までしてたのに」
「全然止まらなかった」
ベルンは。
まだ熱の残る手を見つめた。
「声は聞こえていた」
指をゆっくりと開く。
今度は。
自分の意思で柄を握り直した。
「止まるつもりもあった」
それでも。
身体は動き続けていた。
何かに操られた感覚はない。
自分以外の何者かに。
意識を奪われたわけでもない。
ただ。
この新しい身体が示した反応は。
ベルンが想像していたよりも強く。
僅かな間だけ。
判断を追い越してしまった。
「……危なかったな」
ベルンは。
クルドへ向き直った。
「助かった」
クルドが。
ほっとしたように息を吐く。
「本当に怖かったんだからね」
「ああ」
ベルンは素直に頷いた。
「すまなかった」
その声は。
いつものベルンへ戻っていた。
落ち着いた。
大人の女性の声。
表情からも。
先ほどまで浮かんでいた妖しい笑みは消えている。
ただ。
身体の奥に残る熱だけが。
今の出来事が。
単なる戦いの昂ぶりではなかったことを伝えていた。
ウルは。
魔導ソナーで戦場全体を確認していた。
ベルンを恐れた帝国兵達は。
既にかなり遠くまで下がっている。
街道へ密集する者。
林へ逃げ込む者。
斜面を駆け上がる騎兵。
通常射撃だけで追うには。
広がり過ぎていた。
『敵が散った』
ベルンが。
逃げる兵士達へ目を向ける。
「私が追い立てたせいだな」
『反省は後だ』
ウルは。
黒墓標を引き寄せた。
巨大な十字架の先端が。
北へ逃げていく帝国兵達へ向けられる。
『今は』
『戦列を組み直す力を奪う』
黒墓標が。
大地へ深く突き立てられた。
固定杭が展開し。
重い音と共に。
地面へ食い込んでいく。
装甲板が左右へ開く。
内部へ格納されていた変換機構と。
収束用の砲身が姿を現した。
長大な銃身を巡る魔導回路が。
一本ずつ。
青い光を灯していく。
ベルンは。
その様子を見つめながら。
双月偃刃を握り直した。
先ほどまでとは違う。
今度は。
身体に残る熱ではなく。
自分の意思で構える。
「もう大丈夫だ」
ウルが。
僅かに顔を向ける。
ベルンは。
静かに頷いた。
「次は」
「きちんと合わせる」
クルドも。
両手の指を開いた。
アラクネ・コードが。
淡い青紫色の光を帯び始める。
ウルは。
逃走する帝国軍の位置を確認した。
『ベルン』
『クルド』
黒墓標の内部から。
低い駆動音が響き始める。
『《黒葬光》を使う』
感想いただけると嬉しいです




