臆病者の選択
――その少し前。
千人殺しのオルグレンが。
遅れていた後続部隊を引き連れ、戦場へ姿を現した頃。
帝国軍の空気は、一変していた。
「オルグレン将軍だ!」
「千人殺しが来たぞ!」
「これで勝てる!」
崩れかけていた兵士達が歓声を上げる。
ガルドスもまた。
失いかけていた覇気を取り戻し、剣を高く掲げていた。
帝国屈指の英傑。
豊穣神の加護を宿した聖鎧。
名工バランが鍛えた、城壁さえ打ち砕く巨大な鎚。
オルグレンならば。
三人の女を叩き潰せる。
千人殺しならば。
この絶望的な戦況さえ、覆すことができる。
帝国軍の誰もが。
そう信じて疑わなかった。
ただ一人。
ザルガンを除いて。
焼け落ちた指揮陣の外れで。
ザルガンは、前線へ進んでいくオルグレンの背中を見つめていた。
二メートルを超える巨躯。
白銀の聖鎧。
大地を揺らしながら運ばれる巨大なウォーハンマー。
あの男の強さを。
ザルガンもよく知っている。
並の戦場であれば。
オルグレンが到着した時点で、勝敗は決したも同然だった。
本来ならば。
安堵するべき場面だった。
だが。
胸の奥で鳴り続けている警鐘は。
一向に静まらなかった。
それどころか。
オルグレンが三人へ近づいていくほど。
その音は。
これまでにないほど激しさを増していく。
逃げろ。
ここにいてはならない。
今すぐ。
この戦場から離れろ。
理屈ではない。
臆病とも呼べる。
ザルガン自身の生存本能。
幾度となく死の兆候を嗅ぎ取り。
彼を危険から遠ざけてきた感覚が。
今度ばかりは。
絶叫するように逃亡を命じていた。
ザルガンは。
オルグレンの向こうにいる三人へ視線を向けた。
一万の帝国軍を。
僅か三人で蹂躙している女達。
森を迂回した奇襲部隊を。
振り返ることすらなく全滅させた射手。
遠く離れた指揮陣へ。
たった一発で焼け野原を作り出した黒い十字架。
オルグレンが強いことなど。
分かっている。
だが。
あの三人が。
オルグレンより弱いという保証は、どこにもなかった。
「……今しかない」
誰にも聞こえない声で。
ザルガンが呟く。
帝国軍の視線は。
すべてオルグレンへ集まっている。
ガルドスも。
兵士達も。
間もなく始まる。
千人殺しと三人の女との戦いへ、意識を奪われていた。
自分を狙った黒墓標の射手も。
今はオルグレンへ銃口を向けている。
逃げるなら。
この瞬間しかなかった。
ザルガンは。
近くに残っていた数人の護衛を呼び寄せた。
「まだ動ける馬を集めろ」
護衛の一人が。
怪訝そうに顔を上げる。
「馬を、ですか?」
「ああ」
ザルガンは。
前線から目を逸らさずに答えた。
「指揮陣は壊滅した」
「伝令と退路を確保しなければ、勝利した後に軍を動かせん」
もっともらしい理由だった。
慎重な第六皇子が。
混乱した後方を立て直そうとしている。
護衛達は。
その言葉を疑わなかった。
「承知しました」
生き残った軍馬が集められていく。
その間に。
ザルガンは戦場の西側に残された林へ目を向けた。
あの林は。
帝国まで続く抜け道ではない。
砦前の戦場を半円状に迂回し。
長く伸びた帝国軍の隊列、その後方へ出るための短い林道だった。
正面の街道は。
今も戦場へ向かう後続兵と補給馬車で埋まっている。
この場所から直接引き返せば。
ガルドスにも。
周囲の指揮官にも、逃亡を悟られるだろう。
だが。
林を使って一度前線から姿を消し。
後方の隊列へ合流すれば。
ザルガンが戦場を離れたことに。
すぐ気づく者はいない。
「殿下、馬を確保しました」
ザルガンは短く頷き。
軍馬へ跨がった。
「行くぞ」
「どちらへ向かわれるのですか?」
「後方部隊と補給線を確認する」
前線では。
オルグレンを中心として歓声が上がり続けていた。
ガルドスも。
ザルガンがその場を離れることなど、少しも気にしていない。
視線を向ける者はいない。
呼び止める者もいない。
ザルガンと僅かな護衛達は。
戦場の外縁を静かに進み。
そのまま林の中へ姿を消した。
短い林道を抜けた先には。
北砦へ向かって延々と続く、帝国軍の後続部隊があった。
疲弊した歩兵。
到着の遅れた弓兵。
泥に車輪を取られた補給馬車。
置き去りにされかけた攻城資材。
彼らの意識は。
遠くから聞こえる戦場の轟音へ向いていた。
隊列の脇へ現れたザルガンを見ても。
逃亡してきたとは誰も思わない。
「道を開けろ!」
護衛が声を張り上げた。
「第六皇子殿下が、後方の状況を確認される!」
兵士達が。
慌てて街道の脇へ退いていく。
補給馬車も停止し。
騎馬が通れるだけの細い道を空けた。
ザルガンは。
皇族の権威によって開かれた道を進む。
前線から離れていく。
一歩。
また一歩。
街道を南へ向かう後続兵とは反対に。
ザルガン達だけが、北へ進んでいた。
それでも。
疑問を口にする者はいない。
慎重で知られる第六皇子が。
後方や補給線を確認するために戻っている。
誰もが。
そう思い込んでいた。
やがて。
砦前の戦場は木々と山肌に遮られ。
完全に見えなくなる。
そこまで来て。
護衛の一人が尋ねた。
「殿下」
「後方の確認は、どこまで行われますか?」
「このまま北へ向かう」
ザルガンは前だけを見た。
「帝国領まで戻る」
護衛達の顔へ。
驚きが広がった。
「しかし」
「ガルドス殿下とオルグレン将軍は――」
その時だった。
背後の空が。
蒼く染まった。
木々の隙間から。
巨大な蒼い光が、一直線に戦場を貫くのが見える。
続いて。
山そのものが揺れたような轟音が響いた。
大地が震える。
補給馬車を引く馬達が嘶き。
ザルガンの軍馬も、前脚を大きく持ち上げた。
ザルガンは手綱を強く引き。
暴れる馬を必死に抑える。
風に乗って。
遠く離れた戦場から、帝国兵達の叫びが届いた。
「オルグレン将軍が!」
「将軍が倒されたぞ!」
「千人殺しが……!」
護衛達が。
反射的に背後を振り返る。
だが。
ザルガンは。
一度も振り返らなかった。
確認する必要などなかった。
大地を揺らした衝撃。
空へ立ち昇る蒼い光。
そして。
帝国兵達の声に滲む絶望。
それだけで。
何が起きたのかは十分に分かった。
千人殺しのオルグレンが。
豊穣神の加護を宿した聖鎧ごと。
あの三人に打ち倒されたのだ。
「進め!」
ザルガンが叫んだ。
「馬を止めるな!」
「ですが、ガルドス殿下が!」
「まだ兵も大勢残っています!」
「戻れば我々も死ぬ!」
普段の慎重さを失ったような声が。
街道へ響いた。
「あのオルグレンが倒されたのだぞ!」
「あの三人を、誰が止められるというのだ!」
護衛達は。
それ以上何も言えなかった。
ザルガンは。
ただ前だけを見ていた。
馬の脚が岩へ取られないか。
進路を塞ぐ荷車はないか。
帝国へ戻る道が残されているか。
考えているのは。
生き残ることだけだった。
卑怯者。
臆病者。
皇族の誇りを持たぬ男。
これまで。
何度もそう呼ばれてきた。
それでも構わない。
誇りを抱いたまま死ぬより。
臆病者としてでも。
生き残る方がいい。
背後から。
再び黒墓標の機関音が響いてきた。
獣が唸るような音。
続いて。
無数の銃声と、帝国兵達の悲鳴。
オルグレンを倒しても。
あの三人の戦いは終わっていない。
その事実が。
ザルガンの心をさらに追い立てた。
「王国には……」
馬を走らせながら。
掠れた声が漏れる。
「関わるべきではなかった……」
ザルガンの脳裏へ。
第二皇子バルカーボの姿が浮かんだ。
死ぬことも。
狂うことも。
逃げることすら許されず。
毎日同じ時刻に。
神罰を繰り返している兄。
あの時点で。
気づくべきだったのだ。
バルカーボが。
神の怒りに触れた時点で。
ローゼンバーグ王国には。
関わるべきではなかった。
あの国には。
人間の理屈で触れてはならない何かがいる。
「帝国は……」
ザルガンの唇が震える。
「とんでもないものに、手を出した……」
背後の戦場は。
既に木々の向こうへ消えていた。
三人の女達の姿も。
蒼い光も。
もう見えない。
それでも。
黒い十字架。
蒼い星。
三つの青薔薇は。
消えることのない恐怖として。
ザルガンの心へ深く刻み込まれていた。
ザルガンは。
一度も立ち止まらなかった。
一度も振り返らなかった。
ただひたすら。
ローゼンバーグ王国から。
一歩でも遠くへ離れるために。
北へ向かって。
軍馬を走らせ続けた。
そして戦場では。
誰一人として。
第六皇子ザルガンが既に消えていることに。
まだ気づいていなかった。
感想いただけると嬉しいです




