魔繰糸のクルド
ガルドスの剣が、三人へ向けて振り下ろされた。
「弓隊! あの女どもを射殺せ!」
号令を受け、攻城兵器の建造を護衛していた弓兵達が一斉に動き出す。
前列が片膝をつき、その隙間から後列が弓を構える。
さらにその背後にも、幾重もの弓兵が並んでいった。
狙うのは足元でも、退路でもない。
魔紋の射手ウル。
双偃月のベルン。
魔操糸のクルド。
帝国皇族を侮辱した三人を、確実に射殺すための斉射だった。
「殿下」
ザルガンが、慌てて声を上げる。
「相手の力も分からぬまま攻撃を仕掛けるのは――」
「黙れ!」
ガルドスは振り返ることさえしなかった。
「帝国皇族を侮辱した者に慈悲など必要ない! 一人残らず射抜け!」
弓兵達が弦を限界まで引き絞る。
その正面で、ウルの額を覆うサークレット状の魔導装具に淡い光が走った。
目には見えない波が、帝国軍の前列を撫でていく。
並んだ弓兵の数。
矢の向き。
張り詰めた弦。
それを押さえる指の、僅かな震え。
矢が放たれる瞬間まで、ウルにはすべて見えていた。
『来るぞ』
戦場の喧騒に遮られることなく、その声がベルンとクルドの耳元へ届く。
『クルド。防げ』
「了解」
クルドが、二人を庇うように一歩前へ出た。
「射て!」
無数の弦が、ほとんど同時に鳴った。
空へ放たれた矢は黒い群れとなり、三人の頭上を覆い尽くす。
生き残る隙間さえ残さぬほどの矢の雨が、三つの青薔薇へ降り注いだ。
クルドはそれを見上げながら、両腕を胸の前で交差させる。
「俺はさ」
腕輪と手袋が一体となった魔導具へ、淡い青紫色の光が灯った。
「ウル姉やベル姉ほど、強くないけど……」
指先まで刻まれた魔力回路が、一本ずつ目を覚ましていく。
「――アラクネコード」
その名を口にした瞬間、クルドの両腕を覆う魔導具が強く発光した。
アラクネコード。
クルドの魔力を、特殊な糸へと変換するために作られた専用魔導具。
手首や指先から糸を生成し、流し込む魔力を調整することで、強度、粘着性、伸縮性、さらには鋭さまで、用途に応じた性質を与えることができる。
「これは、すごく俺向けの装備だよ」
クルドが、交差させていた両腕を大きく左右へ広げた。
その動きに合わせ、両手首から無数の糸が放たれる。
糸の端は地面へ突き刺さり、砦の石壁へ貼り付き、破壊された攻城兵器の残骸へ絡みついた。
そこを支点として、さらに何本もの糸が上下左右へ伸びていく。
交差し、重なり、瞬く間に三人を覆う巨大な網を形成した。
直後。
矢の雨が、糸の網へ激突した。
鈍い衝突音が、途切れることなく鳴り響く。
一本。
十本。
百本。
押し寄せる矢は、強靱さと粘着性を与えられた糸へ絡め取られ、次々と勢いを失っていった。
一層目を貫いた矢も、幾重にも張り巡らされた糸に捕らえられ、三人へ届く前に動きを止める。
やがて、最後の一本が網へ突き刺さった。
三人の前には、無数の矢が中空へ縫い止められていた。
「な……」
帝国兵達が言葉を失う。
「矢が止められた……?」
「全部だぞ……」
クルドが指先を軽く動かした。
張り巡らされていた糸が一斉に緩み、捕らえられていた矢が地面へ降り注ぐ。
無数の鏃が甲高い音を立てながら、三人の足元へ積み重なっていった。
ベルンが、楽しそうに口元を緩める。
「見事だな」
「だろ?」
クルドも笑みを返した。
「これくらいなら、俺にもできるよ」
「何をしている!」
ガルドスの怒声が飛んだ。
「弓が通じぬなら、馬で踏み潰せ!」
待機していた白銀騎兵団が、一斉に槍を構える。
銀色の穂先が並び、騎士達が軍馬へ鞭を入れた。
「突撃!」
幾重にも重なる蹄の音が、大地を揺らす。
始めは緩やかに。
だが、軍馬は瞬く間に速度を増していった。
白銀の鎧を纏った騎士と軍馬が、一つの巨大な壁となって三人へ迫る。
山道を越え、疲労を蓄積しているとはいえ、帝国が選び抜いた精鋭騎士と軍馬による集団突撃。
十分に加速した騎兵隊を、三人の力だけで正面から受け止めることは難しい。
だが。
受け止める必要などなかった。
ウルのサークレットへ再び光が走る。
見えない波が、迫る騎兵隊を隅々まで捉えていった。
先頭を走る軍馬。
その背後へ密集する騎士達。
僅かに乱れた隊列。
そして、砦前の開けた土地へと続く街道。
その両脇には、山から続く細身の木々が幾つも残されていた。
『クルド』
ウルの声が耳元へ届く。
『先頭を崩せ。その後、木を使って後続を止めろ』
クルドは迫る騎兵隊を見据え、楽しそうに笑った。
「了解。ちょうど支点が欲しかったところだよ」
姿勢を低くする。
黒いハイブーツに組み込まれた魔導機構へ、青紫色の光が灯った。
次の瞬間。
足元で反発する魔力が弾け、クルドの身体が横方向へ一気に射出された。
騎兵隊と正面からぶつかるのではない。
迫る軍馬の進路を横切るように駆け抜けながら、左右の指先から糸を放っていく。
一方を街道脇の岩へ。
もう一方を、反対側に立つ木の幹へ。
地面から僅かに浮いた高さへ、何本もの糸が張り巡らされた。
先ほど矢を止めた網とは、糸の性質が違う。
軍馬の脚を切断しないように強靱さと伸縮性を持たせ、触れたものへ絡みつくよう調整されていた。
細く、光をほとんど反射しない糸を、突進する騎兵達が見抜くことはできない。
『接触まで、三秒』
ウルの声が届く頃には、クルドは既に騎兵隊の進路から離れていた。
先頭を走る軍馬の前脚が、張られた糸へ触れる。
糸は衝撃を受けて伸び、そのまま脚へと絡みついた。
疾走していた馬体が、大きく前へ傾く。
一頭目。
続いて、二頭目。
三頭目。
先陣を走っていた軍馬が次々と体勢を崩し、背に乗っていた騎士達が勢いのまま前方へ投げ出されていく。
後続の騎兵には、何が起きたのか分からない。
倒れた馬を避けようと手綱を引く者。
右へ進路を変えようとする者。
左へ逃れようとする者。
急停止を試みる者。
だが、突撃のために密集した隊列には、馬一頭が向きを変える余地さえ残されていなかった。
後続の軍馬が、倒れた先頭へ次々と衝突する。
騎士が落馬し、長槍が宙を舞い、軍馬同士が激しく身体をぶつけ合った。
白銀騎兵団の突撃陣形が、先頭から崩れていく。
しかし。
クルドの狙いは、それだけではなかった。
騎兵隊の進路を横切ったクルドは、そのまま街道脇へ駆け込む。
指先から放たれた新たな糸が、並んで立つ木々の根元へ幾重にも巻き付いた。
先ほどまでの、柔軟で粘着質な糸ではない。
流し込む魔力が切り替わった瞬間、細い糸が鋼の刃にも似た鋭さを帯びる。
さらに別の糸を、高い位置にある枝へと絡ませた。
根元を切断する糸。
そして、倒れる方向を制御するための糸。
クルドが両手の指を強く握り込む。
幹の根元へ巻き付いた糸が、一気に締まった。
樹皮へ細い線が走り、次いで鈍い音が響く。
幹が斜めにずれた。
「木が倒れるぞ!」
帝国騎士の一人が叫ぶ。
だが、既に前方には倒れた軍馬と騎士がいる。
後方からは、止まり切れない騎兵が押し寄せている。
左右にも、進路を失った味方が密集していた。
逃げ場などない。
クルドが、枝へ繋いだ糸を強く引く。
切断された木が、狙いどおり街道側へ傾いていった。
最初の一本が、崩れた騎兵隊へ倒れ込む。
太い幹が数騎を押し潰し、広がった枝葉が騎士達を馬上から叩き落とした。
続いて二本目。
さらに三本目。
左右から倒れ込んだ木々が街道を横断し、巨大な障害物となって騎兵隊を分断する。
先頭を崩された騎兵達は、後ろへ戻れない。
後続の騎兵隊も、倒木によって前へ進めなくなった。
「木を退かせろ!」
「騎兵を下がらせろ!」
「前が詰まっている!」
「馬から降りろ!」
幾つもの命令が飛び交う。
だが。
クルドの仕事は、まだ終わっていなかった。
「障害物ってさ」
両腕を広げる。
アラクネコードから、再び無数の糸が放たれた。
「邪魔になるだけじゃないんだよ」
倒れた木の幹。
折れた枝。
街道脇の岩。
地面へ転がった槍。
破壊された攻城兵器の残骸。
放たれた糸が、そのすべてへ貼り付いていく。
倒木から倒木へ。
幹から岩へ。
岩から地面へ。
戦場に生まれた障害物を支点として、蜘蛛の巣のような糸が次々と張り巡らされていった。
「こうして使えば」
クルドが、楽しそうに指を動かす。
「全部、俺の足場になる」
粘着性を持たせた糸が、騎士の外套と隣にいる騎士の鎧を貼り付ける。
軍馬の手綱を別の馬の鞍へ結びつけ、盾を持つ腕を倒木の枝へ絡め取る。
軍馬の脚には糸を纏わせ、地面へ転がる槍や馬具へと繋いでいった。
一人を完全に縛り上げる必要などない。
ほんの僅かに、動きを妨げるだけでいい。
一人が進めば、隣の騎士が引かれる。
一頭が後ろへ下がれば、別の軍馬が体勢を崩す。
騎士と軍馬。
武器と倒木。
そのすべてが糸によって繋がれ、互いの動きを阻む障害物へと変わっていった。
「糸を切れ!」
「先に木を退かせろ!」
「馬が動かん!」
「味方を引っ張るな!」
怒号が飛び交う。
剣で一本の糸を切ったところで、別の糸が鎧へ貼り付いている。
軍馬を前へ進ませようとすれば、繋がれた別の馬まで引きずられる。
白銀騎兵団は、騎士の大半を失ったわけではない。
軍馬も、その多くがまだ生きている。
それでも。
騎兵隊の力そのものである速度、隊列、突撃力。
そのすべてが、クルドの糸によって奪われていた。
その光景を。
ザルガンは、馬上から呆然と見つめていた。
騎士達は生きている。
軍馬も、すべてが倒れたわけではない。
兵力そのものは、ほとんど残っている。
それなのに。
白銀騎兵団は、もはや一つの部隊として動くことができない。
「あの女……」
ザルガンの頬を、冷たい汗が伝った。
敵兵を一人ずつ倒したのではない。
先頭を崩し。
後続を分断し。
人と馬を、互いの進路を塞ぐ障害物へ変えた。
僅かな時間で。
白銀騎兵団から、騎兵隊としての機能だけを奪い去ったのだ。
「あれだけで……」
掠れた声が漏れる。
「騎兵隊そのものを、殺したのか……」
たった一人。
それも、三人の中では最も若く見える女が。
ならば。
残る二人は、何をする。
ザルガンの視線が。
双偃月を携えたベルンへ。
巨大な魔導銃を構えるウルへと移る。
二人には。
焦りも。
緊張もなかった。
クルドが戦場を作り上げるまで。
自分達の出番を待っていただけなのだ。
胸の奥で。
何かが、強く警鐘を鳴らした。
この戦場に留まってはならない。
まだ撤退するほどではない。
兵も残っている。
ガルドスも、戦いはこれからだと考えている。
それでも。
ザルガンの身体は、無意識に周囲を確かめ始めていた。
後方へ続く街道。
倒木を避けて通れる山肌。
自分が乗る馬の疲労。
護衛として近くに残っている兵の数。
勝つための道ではない。
この戦場から。
自分だけでも生きて帰るための道を探していた。
「何を怯えている、ザルガン!」
ガルドスが苛立たしげに吐き捨てる。
「騎兵が止められた程度で、戦いが終わったと思っているのか!」
剣を高く掲げる。
「歩兵を出せ!」
「馬を降りた騎士と合流し、三人を包囲しろ!」
後方に控えていた帝国兵達が、盾と槍を構えて前進を始める。
倒木を乗り越え、糸を剣で切り払いながら、動きを失った騎兵達の間へ流れ込んでいく。
落馬した騎士達も立ち上がり、剣を抜いた。
騎兵としての突撃力を失ったとしても、白銀騎兵団が精鋭であることに変わりはない。
後続の歩兵が加わり、三人を取り囲もうと動き始める。
だが。
整然としていた戦列は、既にどこにも存在しなかった。
倒木。
軍馬。
散乱した武器。
幾重にも張り巡らされた糸。
その中へ、騎士と歩兵が入り乱れていく。
クルドは、自ら作り上げた戦場を見渡した。
倒木。
騎士。
軍馬。
散乱した武具。
すべてが糸によって結ばれ、巨大な巣の一部へと変わっている。
「どう?」
クルドが二人へ振り返った。
「すごく俺向けだろ?」
「そうだな」
ベルンが、腰に収めていた二振りの武器を抜き放つ。
大きく湾曲した双偃月。
魔力が流れ込むと、鋼色の刃へ赤い熱が広がっていった。
「戦場を滅茶苦茶にすることに関しては、お前の右に出る者はいないだろう」
「それ、褒めてる?」
「もちろんだ」
その時。
倒木の陰から、一人の騎士が飛び出した。
落馬した際に兜を失い、額から血を流している。
それでも剣を握る腕には、まだ十分な力が残っていた。
「貴様ぁ!」
騎士が、クルドの背後から斬りかかる。
『クルド。後ろだ』
ウルの声が耳元へ届く。
だが。
クルドは振り返らなかった。
「分かってるよ」
倒木の枝へ糸を放つ。
伸縮性を与えられた糸が縮み、クルドの身体を斜め上方へ引き上げた。
騎士の剣が空を切る。
標的を失った騎士は、勢いを止められない。
糸と倒木によって足場を制限され、そのまま前へ踏み込んでしまう。
その先には。
双偃月を構えたベルンが立っていた。
空中から身体を反転させながら、クルドが笑う。
「ベル姉。一人お願い」
「任された」
ベルンは一歩も下がらない。
右手の偃月刃を肩へ担ぎ。
左手の刃を、静かに前へ差し出した。
騎士は、目の前に現れた新たな敵へ剣を振り下ろす。
ベルンの左手が動いた。
双偃月の刃が、騎士の剣へ触れる。
ぶつかるのではない。
僅かに角度を変え。
振り下ろされた力を、そのまま横へ流した。
騎士の剣がベルンの身体を外れ、地面へ深く突き刺さる。
体勢を崩した騎士の首元へ。
右手の偃月刃が、静かに添えられた。
それは。
ほんの一瞬の出来事だった。
「なるほど」
ベルンが楽しそうに笑う。
「クルドが整えた戦場は、随分と戦いやすい」
騎士が剣を抜こうとする。
その前に。
ベルンの膝が鎧の隙間へ入り、騎士の身体を地面へ転がした。
「少し休んでいるといい」
意識を失った騎士を残し。
ベルンは顔を上げる。
正面からは、剣を抜いた白銀騎士達。
その左右からは、盾と槍を構えた歩兵達が迫っていた。
『ベルン』
ウルの声が耳元へ届く。
『正面から騎士が九人』
『左から歩兵が十五』
『倒木の陰に槍兵が三人』
ベルンは、押し寄せる帝国兵達から目を離すことなく笑った。
「承知した」
右手の偃月刃を肩へ担ぎ、左手の刃を低く構える。
「クルドが整えてくれた戦場だ」
一歩。
帝国兵達へ向かって踏み出す。
「存分に使わせてもらうとしよう」
クルドは別の倒木へ糸を放ち、伸縮する力で帝国兵達の頭上へ舞い上がった。
そのまま軽やかに着地し、ベルンへ手を振る。
「後は任せたよ、ベル姉!」
「任された」
ベルンが。
押し寄せる騎士達へ向かって歩き出す。
その後方では。
ウルが巨大な複合魔導銃を静かに構えていた。
サークレットから広がる見えない波が、戦場のすべてを捉えている。
崩れた騎兵。
迫る歩兵。
再び矢を番える弓兵。
動き出した伝令。
命令を叫ぶ指揮官。
そのすべてが。
既にウルの狩場の中にあった。
クルドが戦場を崩し。
ベルンが敵陣へ踏み込む。
そしてウルが。
二人の目となって戦場全体を支配する。
三つの青薔薇と帝国軍は。
そのまま激しい乱戦へともつれ込んでいった。




