盤上の青薔薇
投石機の組み立てが始まってから。
しばらくの時間が経っていた。
帝国軍は北砦群から十分な距離を取り。
工兵達が地面へ太い木材を並べ、投石機の土台を組み上げていく。
先ほど攻城部隊を壊滅させた砦の武器も。
ここまでは届かない。
北砦群は沈黙を守ったまま。
帝国軍の作業を妨害する様子を見せなかった。
「やはり、あの武器には射程がある」
ガルドスが満足げに口元を歪める。
「投石機が完成すれば、今度はこちらが一方的に攻められる」
第一陣を失った動揺も。
少しずつ帝国兵達の間から消え始めていた。
投射腕が運び込まれ。
太い縄が機構へ取り付けられていく。
完成まで、あと僅か。
その時だった。
北砦群の奥から。
重く低い音が響いた。
工兵達の手が止まる。
帝国兵達の視線が。
一斉に砦へ向けられた。
固く閉ざされていた城門が。
ゆっくりと開き始めている。
「敵襲!」
兵士の一人が叫んだ。
盾兵が前へ出る。
弓兵が矢を番え。
騎士達も腰の剣へ手を掛けた。
ガルドスは馬上から。
開かれていく門の奥を睨みつける。
砦へ籠もっていた王国軍が。
投石機の完成を阻止するため、打って出てきた。
誰もがそう考えた。
だが。
門の奥から姿を現したのは。
隊列を組んだ兵士達でも。
突撃してくる騎兵でもなかった。
三人。
たった三人の女性だった。
帝国兵達の間から。
小さなどよめきが広がっていく。
戦場へ姿を現れるには。
三人とも、あまりにも美しかった。
顔立ちも。
背丈も。
纏う雰囲気も異なる。
それでも三人には。
一目で同じ存在だと分かる共通点があった。
衣装は、いずれも黒を主体としている。
意匠や差し色こそ異なるが。
全身の半分を大きく超える部分が。
深い黒によって染め上げられていた。
そして胸元には。
鮮やかな青い薔薇が咲いている。
糸によって作られた装飾でありながら。
本物の花のような立体感を持つ。
ローゼンバーグ王国で。
限られた者だけが身につけることを許された印だった。
さらに。
三人の耳元には。
よく似た意匠の機械的な装具が取り付けられている。
片耳を覆う金属製の部品。
頭部へ固定するための黒い枠。
頬へ沿うように伸びた、細い機構。
美しい女達が身につけるには。
どこか無骨で。
戦場で使うことだけを目的として作られたように見えた。
先頭を歩くのは。
三人の中で最も年長に見える女性。
黒と濃藍を基調とした。
肌をほとんど見せない衣装を纏っている。
その頭部を覆う装具だけは。
他の二人よりも明らかに大きく、複雑だった。
額には。
魔力回路を刻んだサークレット状の金属装具。
そこから伸びた枠が、こめかみと耳を覆い。
さらに後頭部まで回り込んでいる。
顔の上半分を隠す装具とも一体化し。
側面には幾つもの魔晶石と調整機構が並んでいた。
女性は。
巨大な何かを黒い布で包み。
肩へ担いでいる。
その歩みは静かで。
帝国軍一万を前にしても、僅かに乱れることはなかった。
その隣を歩くのは。
背筋を真っ直ぐに伸ばした、堂々たる女騎士。
黒を主体とした騎士服へ。
青と白。
鋼色の装飾が加えられている。
耳元には。
先頭の女性と同じ系統の装具。
腰には。
左右一振りずつ。
独特な湾曲を持つ、二つの武器が収められていた。
無骨な装備さえも。
長年使い続けてきた武具の一部であるかのように。
自然に身につけている。
最後の一人は。
三人の中で最も若く見えた。
黒を主体としながら。
淡い青と灰銀。
僅かな紫を差し込んだ軽装。
他の二人よりも布面積は少なく。
身体の動きを妨げるものが、徹底して削られている。
両腕には。
腕輪と手袋が一体化したような魔導具。
指先まで細い魔力回路が伸びていた。
脚を覆う黒いハイブーツにも。
金属製の部品と魔力機構が組み込まれている。
その耳元にも。
二人と同じ意匠の装具が取り付けられていた。
武器も。
衣装も。
戦い方すら異なる。
それでも。
同じ黒を纏い。
同じ青薔薇を咲かせ。
同じ装具を耳元へ付けた姿は。
三人が一つの部隊であることを。
何より雄弁に示していた。
帝国兵達は。
警戒することさえ忘れたように、三人を見つめていた。
荒れた山道。
疲れ切った兵と馬。
破壊された攻城兵器。
血と土埃に汚れた戦場。
その中で。
三人の存在だけが。
まるで別の世界から切り取られたもののように美しかった。
「ほう」
ガルドスが。
愉快そうに口元を緩めた。
先ほどまでの苛立ちが。
嘘のように消えている。
「ようやく、自分達の立場を理解したらしい」
ザルガンが眉を寄せる。
「何を仰っているのです」
「決まっている」
ガルドスは三人を値踏みするように眺めた。
「砦を守り切れぬと悟り」
「怖気づいた女王が、美しい娘を差し出してきたのだ」
周囲の貴族騎士達から。
下卑た笑いが漏れる。
ガルドスは満足げに続けた。
「降伏の詫びとしては悪くない」
だが。
ザルガンだけは笑わなかった。
降伏する者が。
武器を携えて現れるだろうか。
白旗も掲げず。
帝国軍一万を前にして。
何故、あれほど落ち着いていられる。
三人の歩調には。
迷いも。
恐怖もなかった。
三人が砦の外へ出ると。
その背後で。
城門が再び動き始めた。
重い扉が。
ゆっくりと閉じていく。
自ら。
砦へ戻る道を閉ざした。
「殿下」
ザルガンが低く告げる。
「あれは、降伏の使者ではありません」
ガルドスの笑みが。
僅かに薄れた。
三人は帝国軍の前まで進み。
一定の距離を残して、揃って立ち止まった。
帝国兵達が武器を向けても。
誰一人として表情を変えない。
最初に。
巨大な何かを担いだ女性が一歩前へ出た。
ルミナから徹底的に仕込まれた。
優雅で隙のない礼を見せる。
「青薔薇のイミタート」
静かな声が。
帝国軍の前へ響いた。
「魔紋の射手、ウル」
続いて。
二つの湾曲した武器を携えた女性が前へ出る。
騎士らしく堂々と。
それでいて優雅に一礼した。
「同じく」
顔を上げ。
力強い笑みを浮かべる。
「双偃月のベルン」
最後に。
最も若く見える女性が。
軽やかに一歩進み出た。
制服を整え。
洗練された所作で礼をする。
「同じく」
柔らかな笑みを浮かべたまま。
「魔操糸のクルド」
三人の礼には。
僅かな乱れもなかった。
先ほど笑っていた貴族騎士達さえ。
思わず口を閉ざすほど。
美しく。
堂々とした振る舞いだった。
ベルンが顔を上げる。
「我らが主」
「ローゼンバーグ王国女王」
「エミリア・ローゼンバーグ様より」
一万の帝国軍を見渡し。
「この軍を率いる者へ」
「伝言を預かっている」
ガルドスが。
再び尊大な笑みを浮かべた。
「女王からだと?」
「降伏の条件ならば、聞いてやろう」
クルドが一歩前へ出る。
柔らかな笑みを崩さないまま。
エミリアから預かった言葉を、そのまま告げた。
「ノックの仕方も分からないおバカさんに」
「私の国へ入国させる気はないわ」
帝国軍から。
笑い声が消えた。
クルドは構わず続ける。
「礼儀を勉強し直してから」
「出直してきなさい」
沈黙が落ちた。
それが。
帝国皇族へ向けられた言葉であると。
理解するまでに。
誰もが僅かな時間を必要とした。
ウルが静かに告げる。
「女王陛下からの伝言は以上だ」
続いて。
ベルンが穏やかな笑みを浮かべたまま。
一歩前へ進む。
「なお」
「このままお帰りにならない場合は」
腰の双偃月へ。
片手を添える。
「強制的にご退出いただくよう」
「我ら三名が仰せつかっている」
美しい娘達を差し出し。
降伏を乞いに来た。
そう信じていたガルドスの顔が。
怒りによって、みるみる歪んでいった。
「……おバカさんだと?」
ガルドスの声が低く沈んだ。
周囲にいた帝国兵達も。
誰一人として言葉を発しない。
「小国の女王が」
ガルドスの手が、腰の剣へ伸びる。
「この俺に、礼儀を学び直せと言ったのか!」
ベルンは。
穏やかな笑みを崩さなかった。
「我らは、女王陛下より預かった言葉を伝えただけだ」
「返答も必要ない」
ウルが静かに続ける。
「帰れ」
簡潔な一言だった。
そこに交渉の余地はない。
帝国軍が撤退するならば。
三人は、そのまま見送る。
撤退しないのであれば。
力ずくで追い返す。
提示された選択肢は。
初めから、その二つしかなかった。
「帰れ……だと?」
ガルドスの口元が震える。
「帝国の皇子である、この俺に」
「貴様らの方が、帰れと言ったのか!」
クルドは柔らかな笑みを保ったまま。
僅かに首を傾げた。
「ちゃんと聞こえていたようで安心しました」
丁寧な言葉。
優雅な所作。
それだけに。
向けられた侮辱は、より明確に伝わった。
「殿下」
ザルガンが、声を低くする。
「挑発に乗ってはなりません」
三人の女性は美しい。
だが。
それだけではない。
第一陣を殲滅した砦から。
投石機の完成を待つことなく、自ら外へ出てきた。
武器を持ち。
退路となる城門まで、自分達の背後で閉ざした。
一万の帝国軍を前にしても。
三人の呼吸には。
僅かな乱れすらない。
「あの三人は」
ザルガンは警戒を解かなかった。
「我々と戦うために出てきています」
「見れば分かる!」
ガルドスが怒鳴り返す。
「ならば、望み通りにしてやればよい!」
剣が鞘から引き抜かれた。
白銀の刃が。
三人の青薔薇へ向けられる。
その頃。
ローゼンバーグ王城。
エミリアは。
執務机の上に置かれたチェス盤を眺めていた。
盤上には。
白と黒の駒が並んでいる。
白は帝国。
黒はローゼンバーグ王国。
エミリアは細い指で。
白いナイトを一つ摘み上げた。
軽やかに盤上を飛び越えさせ。
黒いルークの正面へ置く。
続いて。
もう一つのナイトも。
その隣へと移動させた。
北砦群を示す黒いルーク。
その前へ集められた。
帝国の騎兵と兵士達。
エミリアは盤上を眺め。
満足そうに目を細めた。
「そろそろ」
白いナイトから指を離す。
「盤面が動いた頃かしら」
そして。
黒い駒の中から。
三つのポーンを取り出した。
一つ。
二つ。
三つ。
黒いルークの前へ。
横一列に並べていく。
ポーン。
盤上で最も小さく。
最も価値が低いと見なされる駒。
白いナイトと比べれば。
見た目にも頼りない。
それでも。
エミリアは三つのポーンを見つめ。
愛おしそうに指先で撫でた。
「私のポーンは」
中央の一つを。
僅かに前へ押し出す。
「特別製よ」
黒いルークの前で。
三つの小さな駒が。
帝国のナイトと。
その後ろに続く白い軍勢を待ち受けていた。
悪の女王は。
これから盤上で起きる出来事を思い浮かべ。
心底楽しそうに嗤った。
北砦群。
ガルドスの剣が。
三人へ向けて振り下ろされた。
「捕らえろ!」
その号令に。
前衛の帝国兵達が武器を構える。
盾兵が前へ出る。
槍兵が隊列を組み。
貴族騎士達が剣を抜いた。
「生意気な女どもを」
ガルドスが怒声を上げる。
「俺の前へ引きずり出せ!」
「抵抗するなら、手足を斬り落としても構わん!」
「殿下!」
ザルガンが叫ぶ。
「まずは相手の力を――」
「黙れ!」
ガルドスは聞く耳を持たなかった。
「たった三人だ!」
「帝国兵が、女三人を前に怖気づいたと言わせるつもりか!」
帝国兵達が。
一斉に三人へ向かって動き始める。
それを見たクルドは。
先ほどまで浮かべていた完璧な笑みを消した。
「あーあ」
肩から力を抜き。
いつもの口調で息を吐く。
「せっかく丁寧に教えてあげたのにな」
ベルンも。
儀礼用の穏やかな表情を崩した。
代わりに浮かんだのは。
強敵との戦いを前にした、騎士の笑み。
「礼儀を学び直す気はないらしい」
「面倒だな」
ウルが短く呟く。
「でも」
クルドは迫ってくる帝国兵を眺めながら。
楽しそうに口元を吊り上げた。
「強制退去させる方が、俺達らしくない?」
「違いない」
ベルンが笑った。
「ウル」
「どう動く?」
ウルは答えず。
肩に担いでいた巨大な物体を地面へ下ろした。
それを覆っていた黒い布が。
ゆっくりと滑り落ちていく。
現れたのは。
人の身長にも迫る巨大な複合魔導銃。
長大な銃身と。
左右へ張り出した機構。
その姿は。
巨大な十字架を思わせた。
ウルの額を覆うサークレット状の魔導装具へ。
淡い光が走る。
魔力回路が。
こめかみから耳元。
後頭部へ向かって順番に灯っていく。
同時に。
ベルンとクルドが耳元へ付けていた無骨な装具にも。
青い光が宿った。
ウルの見えない波が。
三人の周囲へ広がっていく。
迫る兵士。
槍の向き。
騎士達の呼吸。
山道に残る後続。
指揮官。
伝令。
軍馬。
その全てが。
ウルの中で、一つの狩場へと変わった。
『クルド』
ウルの声が。
離れた場所にいるクルドの耳元へ、明瞭に届く。
『右を崩せ』
クルドは。
驚くこともなく笑った。
「了解」
両腕を軽く振る。
腕輪と手袋が一体化した魔導具へ。
淡い魔力の光が走った。
指先から。
細く輝く糸が僅かに覗く。
脚を覆うハイブーツからも。
低い駆動音が響き始めた。
『ベルン』
「聞こえている」
『中央を止めろ』
「任された」
ベルンが。
腰に下げていた二振りの武器を抜き放つ。
左右の手へ握られたのは。
大きく湾曲した二振りの偃月刃。
刃へ魔力が通い。
鋼色の表面へ、赤い熱が広がっていく。
「ウル」
ベルンは。
迫る帝国兵から目を離さずに尋ねた。
「お前はどうする?」
ウルは。
巨大な魔導銃を持ち上げた。
砲身を。
帝国軍の後方へ向ける。
「全てを見る」
引き金へ。
指を掛ける。
「逃げ道も」
「進む道も」
「狩る相手も」
三人の青薔薇が。
それぞれの位置へ別れていく。
右へ。
中央へ。
そして。
戦場全体を見渡す後方へ。
たった三人。
けれど。
三人は互いの目となり。
耳となり。
刃となる。
迫る帝国兵を前に。
魔紋の射手ウル。
双偃月のベルン。
魔操糸のクルド。
三つの特別製のポーンが。
戦闘を開始した。
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