禍津神の誘惑
オルガが執務室を出ていった後。
乱暴に閉められた扉の向こうから。
遠ざかっていく足音と。
「胃薬……どこに置いた……」
という、疲れ切った声が微かに聞こえてきた。
やがて。
その声も、王城の静けさへ溶けていく。
先ほどまでオルガの怒声が響いていた執務室には。
何事もなかったかのような静寂が戻っていた。
エミリアは椅子へ腰を下ろすと。
机の上へ散らばった報告書を、一枚ずつ整え始める。
帝国軍の動向。
国境付近で急増した兵糧の買い付け。
徴発される軍馬。
街道を移動する兵士達。
そして。
戦争の気配を嗅ぎ取り、王国から逃げようとしている商人達。
どの報告にも。
ローゼンバーグ王国へ迫る危機が記されていた。
だが。
それらへ目を通すエミリアの横顔に、焦りはない。
その少し後ろでは。
セリアが静かに控えていた。
オルガとの会話を聞いた今も。
その表情は穏やかに保たれている。
けれど。
帝国がエミリアを害そうとしている。
その事実を思うだけで。
伏せられた瞳の奥には、冷たい怒りが燻っていた。
そこへ。
執務室の扉が、控えめに叩かれる。
「エミリア様」
聞き慣れた声だった。
「入りなさい」
エミリアの許可を受け。
扉がゆっくりと開いた。
顔を覗かせたのは、リンだった。
お仕置きが終わったばかりのリンは。
ようやく戻ることを許された診療所で、溜まっていた仕事を片づけていたはずだった。
それでも。
王城で何か騒ぎが起きたと聞きつけ。
居ても立ってもいられず、ここまでやって来たらしい。
「さっき」
リンは、閉じられた扉の向こうを気にするように振り返った。
「オルガさんが、すごい顔で走っていったんですけど」
それから。
心配そうにエミリアを見る。
「何かあったんですか?」
「帝国が攻めてくるそうよ」
エミリアは。
明日の天気でも告げるように答えた。
リンが瞬きをする。
「帝国が?」
「ええ」
「随分と大勢で来るつもりみたいね」
リンの顔から。
僅かに笑みが消えた。
だが。
そこにあるのは、帝国への恐怖ではない。
エミリアの平穏を乱そうとする者へ向けられた。
静かで。
冷たい敵意だった。
その隣で。
セリアが一歩前へ出る。
「エミリア様」
胸元で両手を重ね。
真剣な眼差しをエミリアへ向けた。
「帝国との戦」
「私は、何をすればよろしいでしょうか」
エミリアが顔を上げる。
「私は神官です」
セリアは続けた。
「傷ついた者達を癒やし」
「神聖魔法をもって、帝国の進軍を全力で止めます」
その声には。
迷いのない決意が込められていた。
エミリアのために。
王国のために。
戦場へ立つ覚悟がある。
そう告げている。
だが。
エミリアは静かに首を横へ振った。
「今回の盤上に」
「貴方の駒はないわ」
セリアの表情が固まる。
「……私の駒は、ないのですか?」
「ええ」
エミリアは。
少し意外そうにセリアを見つめた。
「それにしても」
「貴方の方から、戦争へ参加して人を殺したいと言い出すなんて」
「少し意外だったわ」
「違います!」
セリアは、反射的に声を上げた。
「私は、そのようなつもりでは……」
そこまで言いかけて。
言葉が止まった。
戦場へ出る。
帝国の進軍を止める。
それがエミリアと王国を守るための行動であっても。
敵と相対する以上。
誰かを傷つけることになる。
時には。
その命を奪うことにもなるだろう。
神官として人を癒やすことと。
エミリアの敵を排除すること。
その二つが。
常に同じ方向を向くわけではない。
エミリアに現実を突きつけられ。
セリアの決意が、一瞬だけ揺らいだ。
だが。
リンは違った。
「ボクは殺すよ」
迷いのない声だった。
セリアが振り返る。
リンは。
何を悩む必要があるのかとでも言うように。
真っ直ぐな目でエミリアを見ていた。
「エミリア様の邪魔をする奴らなんでしょう?」
「だったら」
「ボクは殺す」
躊躇も。
葛藤もない。
それがエミリアの望みであるなら。
リンにとっては。
それだけで十分だった。
「だってボクは」
リンは胸を張る。
「悪の幹部だからね!」
セリアの眉が動いた。
「リン」
「何?」
「私とて」
セリアは、少しだけ語気を強める。
「エミリア様のご意思を妨げる者であれば」
「容赦するつもりはありません」
「でも、さっき迷ってたよね?」
「迷ったのではありません」
「人の命を奪うという行為を、軽々しく口にすべきではないと考えただけです」
「でも、敵がエミリア様を傷つけようとしたら?」
「その時は排除します」
「殺すの?」
「必要であれば」
「やっぱり殺すんじゃない」
「貴方のように、嬉しそうに口にするつもりはありません!」
「ボクだって殺すことが嬉しいわけじゃないよ」
リンは、少し考える。
そして。
悪びれもせず付け加えた。
「エミリア様に褒めてもらえるなら、嬉しいけど」
「それを喜んでいると言うのです!」
いつの間にか。
二人の間では。
誰がよりエミリアの役に立てるのか。
誰こそが、エミリアに最も必要とされているのか。
悪の幹部としての地位を巡る争いが始まっていた。
「治療ならボクにもできるよ」
「神聖魔法による治療は、私にしかできません」
「でも、薬の知識はボクの方が上だよ」
「戦場で即座に傷を塞ぐのであれば、神聖魔法の方が適しています」
「だったら、ボクは敵を全部倒すから」
「貴方一人に、エミリア様の敵を排除する栄誉を独占させるつもりはありません!」
「じゃあ、どっちが役に立つか競争する?」
「望むところです!」
執務室の中で。
リンとセリアの視線が、激しくぶつかり合う。
その様子を。
エミリアは無言で見つめていた。
悪の組織の幹部達が。
主君からの寵愛と評価を求め。
自分こそが一番の幹部だと主張し。
互いに功績を奪い合おうとしている。
忠誠心。
嫉妬。
対抗意識。
女王の隣に立つにふさわしいのは自分だと。
互いに一歩も譲らない配下達。
「……良いわ」
エミリアの唇から。
熱を帯びた声が漏れた。
両腕が。
自らの身体を抱き締める。
指先で肩を掴み。
込み上げる歓喜を抑えるように、腕へ力を込めた。
「幹部同士が」
「自分こそ一番だと、功績を競い合う……」
エミリアの頬が。
僅かに紅潮する。
「これよ……」
「こういうのが、悪の組織なのよ……!」
身体の奥から湧き上がる感動に。
エミリアは小さく身を震わせた。
幸い。
リンとセリアは互いとの言い争いに夢中で。
自分達の主が。
背後で恍惚としていることには気づいていなかった。
「エミリア様が一番必要としているのはボクだから!」
「その根拠のない自信は、どこから来るのですか!」
「エミリア様がボクを診療所から離したくないのは、それだけボクが必要だからだよ」
「それは貴方が戦場へ出ない理由ではありませんか!」
「セリアだって留守番かもしれないよ?」
「私はエミリア様に直接お尋ねしているところです!」
「でも、駒はないって言われてたけど?」
「それは……!」
エミリアは。
そこで我に返った。
自らの身体を抱いていた両腕を、静かに解く。
頬に残る熱を誤魔化すように。
小さく咳払いをした。
「止めなさい」
二人の言い争いが。
ぴたりと止まる。
リンとセリアが。
同時にエミリアへ顔を向けた。
「今回」
エミリアは。
先ほどまでの恍惚など微塵も感じさせない顔で告げる。
「貴方達の役割は」
「この国での待機よ」
「ですが、エミリア様」
セリアが食い下がる。
「帝国軍が迫っているのであれば――」
「だからこそよ」
エミリアは。
机へ広げられた地図の上へ指を置いた。
ローゼンバーグ王国。
バルディア帝国。
二つの国を隔てる大山脈。
その南側へ築かれた北砦群。
幾つもの街道と。
王都へ至る道。
「私の指し手が」
「万が一にも失敗した時」
「この国へ迫る敵を止める者が必要になるわ」
リンの表情が、僅かに変わる。
「エミリア様の策が」
「失敗するの?」
「可能性を捨てる者に」
「策を立てる資格はないわ」
エミリアは淡々と答えた。
勝つ自信はある。
それでも。
自信と過信は違う。
考えられる限りの状況を想定し。
最悪の結末へ備える。
そのために。
リンとセリアを、今回の盤上から外しておく。
「セリア」
「はい」
「貴方は今まで通り」
「この国の人々を救いなさい」
「祈りを広め」
「傷ついた者を癒やし」
「国民が不安に飲まれないよう、導くのよ」
セリアは。
僅かに迷った後。
深く頭を下げた。
「承知いたしました」
「リン」
「はい」
「貴方も診療所へ戻りなさい」
「薬を作り」
「治療師を育て」
「戦争が始まっても、病人と怪我人を救える準備を整えるの」
リンは。
少し不満そうに唇を尖らせる。
「敵を殺す役目は?」
「必要になれば呼ぶわ」
その一言で。
リンの顔が明るくなった。
「分かりました!」
呼ばれる可能性がある。
それだけで満足したらしい。
エミリアは。
二人を交互に見つめる。
「それまでは」
「この国を」
「今まで通り、美しい国にしなさい」
「戦争が始まったからといって」
「人々の暮らしまで醜くなることを、私は許さないわ」
リンとセリアは。
今度こそ揃って頭を下げた。
「はい」
「エミリア様」
その時。
「では」
静かな声が。
エミリアの傍らから響いた。
いつからそこにいたのか。
黒と白のメイド服を纏ったルミが。
いつも通りの穏やかな笑みを浮かべて立っている。
だが。
その身体から感じられるものは。
普段のメイドのものではなかった。
空気が重くなる。
部屋を満たす魔力が。
目には見えない何かに押さえつけられたように震えた。
ルミの姿そのものは変わっていない。
それでも。
その輪郭の内側には。
人ならざる何かが重なっている。
月と。
死と。
転生を司る存在。
メイドという姿の奥から。
禍津神ルミナが、この場を覗き込んでいた。
「神の奇跡を望みますか?」
穏やかな問いだった。
だが。
その言葉が持つ意味は、あまりにも大きい。
「あなたが本気で望むのであれば」
ルミは微笑む。
「帝国程度」
「消滅させるのは、簡単なことですよ」
セリアが息を呑んだ。
リンも。
先ほどまでの明るい表情を消し。
ルミを見つめている。
帝国を消滅させる。
誇張でも。
比喩でもない。
目の前にいる存在は。
それを実行できる神だった。
エミリアは。
心の底から嫌そうに、眉をひそめた。
「本気で言っているの?」
「ええ」
「それを私が望むかどうかくらい」
エミリアは、呆れたように息を吐く。
「もう分かっていると思っていたのだけれど?」
ルミは。
神威を纏ったまま、静かに微笑む。
「人の心は」
「変わりやすいものですからね」
「昨日望まなかったものを」
「今日も望まないとは限りません」
「あなたが望むのであれば」
ルミは。
何でもないことのように続けた。
「この世界全てを支配する」
「悪の女王にして差し上げることすら」
「容易いことですよ」
エミリアの表情が。
さらに不機嫌なものへ変わる。
「なら」
「改めて言っておくわ」
エミリアは椅子から立ち上がった。
神威を前にしても。
怯むことはない。
ルミの内側から覗く神へ。
真っ直ぐに視線を返す。
「貴方から貰った」
「この力だけで十分よ」
「神の力によって用意された」
「綺麗なだけの国なんて、いらないわ」
エミリアは胸元へ手を添える。
「私は」
「私の意思で」
「私の理想で」
「美しい悪の女王になるのよ」
その言葉には。
一片の迷いもなかった。
神によって与えられた勝利など。
エミリアの勝利ではない。
神によって完成させられた理想郷など。
エミリアの国ではない。
失敗も。
犠牲も。
選択も。
その結果も。
全てを自ら引き受けてこそ。
エミリアが求める理想は完成する。
「それ以上」
エミリアは目を細めた。
「くだらないことを言うのなら」
「ルミ」
「貴方にも暇を出すわよ」
ルミの笑顔が固まった。
部屋へ満ちていた神威が。
一瞬にして薄れていく。
「それは困るわ」
声も。
普段の、どこか楽しげなものへ戻っていた。
「こんなに面白いものを」
「最前列で見られなくなるなんて」
ルミは頬へ片手を添える。
「神にも一生というものがあるのなら」
「きっと一生、後悔するわ」
エミリアは鼻を鳴らした。
ルミは。
改めて目の前の少女を見る。
禍津神から力を与えられた人間。
世界へ干渉できるほどの力を手にしていながら。
ほとんど、それを使おうとしない。
神へ願えば。
困難など、いくらでも取り除ける。
敵を滅ぼし。
国を豊かにし。
世界を跪かせることさえできる。
それでも。
自分の足で進もうとする。
「禍津神から力を貰っておきながら」
ルミは呆れたように笑う。
「ほとんど使っていないのですから」
「本当に」
「面白い人間ね」
エミリアの眉が動いた。
「使っているでしょう?」
「魅了は貴方に使ったし」
「憑依は、この間役に立ったじゃない」
ルミは。
しばらく黙った。
そして。
深いため息をつく。
「魅了は」
「神へ使うための力ではないのよ……」
「それに」
「そもそも、神へ通じるものでもないのだけれど……」
エミリアは。
誇らしげに胸を張った。
「つまり」
「私の悪の矜持の前には」
「神すら跪くということね!」
そう結論づけると。
エミリアは満足げに、高らかに笑った。
ルミは何も答えなかった。
訂正するだけ無駄だと。
既に理解している顔だった。
いつの間にか。
リンとセリアは。
先ほどまでの言い争いを完全にやめていた。
二人は。
エミリアとルミの会話へ聞き入っている。
神の力を前にしても屈せず。
与えられる勝利を拒み。
自らの意思だけで国を守ろうとする。
世界すら差し出せるという神へ。
いらないと。
一切の迷いなく言い切った。
「エミリア様……」
セリアの瞳が潤む。
「なんという、気高いお方……」
リンも。
胸の前で両手を握り締めていた。
「やっぱり」
「エミリア様はすごい……」
二人の中で。
エミリアという存在の器は。
また一段と大きくなっていた。
当の本人は。
二人から向けられる熱い視線にも気づかず。
机へ広げられた地図へ目を落とす。
帝国。
王国。
国境。
街道。
山脈。
そして。
既に配置を終えた、幾つもの駒。
「そろそろ」
エミリアの指が。
地図の上を静かに滑った。
「あちらの駒も」
「動き始める頃ね」
帝国が最初に打つ手。
その裏側へ隠された、もう一つの手。
そして。
それを迎え撃つために用意した返しの一手。
エミリアの頭の中で。
盤上の駒が動き始める。
「私の読みから」
「大きく外れることはないと思うけれど」
エミリアの口元が。
邪悪に吊り上がった。
「楽しいわね」
その笑顔は。
国を守ろうとする、か弱い少女のものではない。
自ら仕掛けた罠へ。
獲物が足を踏み入れる瞬間を待ち望む。
悪の女王の笑みだった。
そして。
おそらく。
蓮がルミナから授かった力は。
憑依と。
魅了と。
それから――
もう一つ。
確かに。
何かあったはずなのだが。
それが何だったのかは。
与えた神にも。
授かった本人にも。
そして。
もしかすると読者にすら。
すっかり忘れ去られていた。
感想いただけると嬉しいです




