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見えない泥沼

帝都を発った帝国軍一万の進軍は。


当初、何の問題もなく進んでいた。


先頭を行くのは。


第七皇子ガルドス率いる白銀騎兵団。


磨き上げられた銀色の鎧。


風にはためく白い外套。


選び抜かれた軍馬に跨る、帝国でも屈指の貴族騎兵達。


その後ろには歩兵。


騎士達に仕える従者。


予備の馬。


兵糧や飼葉、水を積んだ荷車。


攻城に必要な資材を運ぶ補給部隊が、長い列となって続いていた。


帝国領内の街道は広く。


軍を動かすために整備されている。


白銀騎兵団の進む速度が落ちることはなかった。


ガルドスは馬上から後方を振り返り。


満足げに笑った。


「この調子なら、予定より早く着くな」


軍の先頭を進む騎兵達にも、まだ十分な余裕があった。


軍馬の足取りは力強く。


隊列も美しく保たれている。


誰の目にも。


帝国軍の進軍は順調に見えた。


ただし。


それは馬に乗る者達から見た話だった。


騎兵の後を追う歩兵達は。


既に、その速度へついていくだけで精一杯だった。


鎧。


武器。


携行食。


水筒。


野営道具。


それらを背負ったまま。


馬の歩調へ遅れないよう、休息を削って歩き続ける。


少しでも間隔が開けば。


後方の指揮官から怒声が飛んだ。


「遅れるな!」


「白銀騎兵団の足を引っ張るつもりか!」


歩兵達は返事をする余裕もなく。


黙って足を動かした。


まだ行軍は遅れていない。


予定通り進んでいる。


その事実が。


彼らの疲労を、問題として扱わせなかった。


国境付近へ到達した頃。


騎兵達には、まだ余力が残っていた。


一方で。


歩兵達の肩は大きく上下し。


靴の中では血豆が潰れ始めていた。


それでも。


大きな遅れはない。


脱落者も僅か。


ガルドスにとっては。


全てが順調であることに変わりはなかった。


やがて帝国軍は。


かつてローゼンバーグ王国から奪った土地へ入った。


帝国にとっては、過去の勝利を示す領土。


だが。


そこには帝国領内のような豊かさも。


整備された街道もなかった。


村々は疲弊し。


畑は荒れ。


道には長年放置された轍が刻まれている。


帝国は土地を奪い。


税を取り立てた。


しかし。


人々の暮らしや街道を整えるためには、ほとんど何もしていなかった。


「道が悪いな」


ザルガンが前方を見ながら言った。


「この先は進軍速度を落とすべきです」


「必要ない」


ガルドスは即座に退けた。


「ここまでは予定通りだ」


「帝国領内の街道とは条件が違います」


「多少荒れているだけだろう」


ガルドスは白銀騎兵団へ前進を命じた。


砦さえ越えてしまえば。


その先にある小国など、騎兵で踏み潰せる。


だからこそ。


こんな場所で時間を失う理由はない。


帝国軍は、速度を落とさなかった。


最初のうちは。


大きな問題など起きなかった。


車輪が少し揺れる。


馬が僅かに足を取られる。


疲れた歩兵の歩調が乱れる。


どれも。


軍全体を止めるほどの問題ではなかった。


やがて。


帝国軍は大山脈を越える北街道へ入った。


本来なら。


歩兵を含めた軍でも、一日ほどで抜けられる山道。


だが。


一万の兵と。


それを支える大量の荷車が進むには。


道はあまりにも細かった。


街道は山脈の間を縫うように伸び。


進むほど道幅を失っていく。


騎兵は横へ広がれない。


数騎ずつ。


場所によっては、ほとんど一列になって進むしかなかった。


白銀騎兵団の強みである。


集団突撃も。


素早い展開も。


包囲機動も。


この場所では使えない。


だが。


まだ戦場ではない。


山道を抜ければいい。


砦へ着けば。


再び騎兵本来の力を発揮できる。


ガルドスも。


騎士達も。


そう考えていた。


最初に軍を止めたのは。


道の端へ転がっていた、小さな石だった。


騎馬や商人の荷車なら。


少し避ければ通り抜けられる程度のもの。


だが。


大量の飼葉を積んだ軍用荷車には。


その僅かな余裕がなかった。


車輪が石へ乗り上げ。


荷台が大きく傾く。


積み上げられていた飼葉の束が崩れ。


街道へ散乱した。


「止まれ!」


御者が叫ぶ。


荷車が一台、動きを止める。


その後ろも。


さらに後ろも。


前方で何が起きたのか分からないまま。


補給部隊の列が次々と停止していった。


兵士達が集まり。


石を道の外へ転がす。


散らばった飼葉を積み直す。


作業そのものは、すぐに終わった。


ガルドスへ報告するほどの出来事でもない。


ただの。


些細な遅れだった。


再び進み始めた帝国軍を。


次に止めたのは、道へ深く刻まれた轍だった。


先頭の騎兵は問題なく越えた。


歩兵も、足元へ注意すれば通れる。


だが。


水樽を積んだ重い荷車の車輪が。


轍の中へ深く落ち込んだ。


御者が馬へ鞭を入れる。


車輪は土を削るだけで、前へ進まない。


兵士達が荷台を押す。


別の馬を繋ぐ。


積荷を一度降ろし。


車輪の下へ板を差し込む。


ようやく荷車が動いた時には。


轍はさらに深くなっていた。


その後ろから来た荷車が。


同じ場所へ車輪を取られた。


一本目の荷車を助けるために敷いた板が割れ。


壊れた木片が、さらに道幅を狭める。


「また止まったのか」


先頭を行くガルドスが眉をひそめた。


「後方で荷車が道へ嵌まったとのことです」


伝令の報告へ。


ガルドスは苛立たしげに舌を打つ。


「その程度、兵に持ち上げさせろ」


「既に作業を始めています」


「ならば急がせろ」


伝令は頭を下げ。


後方へ戻ろうとした。


だが。


狭い山道では馬を走らせることができない。


騎兵の間を抜け。


歩兵を避け。


荷車の隙間を縫う。


命令を伝えるだけでも。


平地とは比べものにならないほど時間がかかった。


一つの問題を片付けている間に。


別の場所で、次の問題が起きた。


道の隅へ落ちていた。


錆びた小さな鉄片。


壊れた荷車から外れたようにしか見えない。


先頭の騎兵は、それに気付かず通り過ぎた。


後続の軍馬が踏みつける。


金具が蹄の間へ食い込み。


馬が甲高く嘶いた。


突然、前脚を跳ね上げ。


騎手を振り落とす。


後ろを進んでいた馬が避けようとし。


道の端へ身体を寄せる。


崩れかけた路肩が沈み。


馬の脚が深く落ち込んだ。


「後ろを止めろ!」


「馬を押さえろ!」


怒声が飛び交う。


傷ついた馬を列から外そうとする。


しかし。


山道には、そのための場所すらない。


予備馬を呼ぼうにも。


予備馬を連れた部隊は、遥か後方にいる。


負傷した騎士。


脚を痛めた馬。


それらを道の外へ動かすだけで。


白銀騎兵団の進軍は止まった。


後ろを進む歩兵達も。


立ち止まることになった。


それを休息と呼ぶには。


あまりにも短い時間だった。


座ることも。


荷物を下ろすことも許されない。


ただ。


重い装備を背負ったまま。


前方が動き始めるのを待つ。


やがて進軍再開の命令が届く。


疲れ切った脚を。


再び動かさなければならない。


歩き続けるよりも。


何度も止まり。


その度に歩き出す方が辛かった。


一万の軍勢にとって。


一つの停止は、一つでは終わらない。


前方が止まれば。


理由を知らない中央が詰まる。


中央が止まれば。


後方は前へ進むことも、下がることもできなくなる。


ようやく先頭が動き出した頃には。


補給部隊の中で、別の荷車が故障している。


前を進ませれば。


後ろとの距離が開く。


後ろを待てば。


先頭が時間を失う。


急がせれば事故が増え。


慎重に動かせば、進軍は遅れる。


そのどれもが。


僅かな問題だった。


敵兵の襲撃ではない。


道を完全に塞ぐ大岩があったわけでもない。


橋を落とされたわけでもない。


ただ。


商隊なら避けられる石。


一台ずつなら越えられる轍。


道の端に落ちた鉄くず。


壊れた荷車の部品。


少し狭くなった街道。


それだけだった。


だが。


一万の兵と馬と荷車が進む時。


その小さな障害は。


軍の全身へ、確実に遅れを伝えていった。


国境までは元気だった軍馬にも。


疲労が見え始めた。


荒れた道を避け。


狭い場所で身体を捻り。


急に止められ。


重い騎士を乗せたまま、再び歩き出す。


一定の速度で進むよりも。


停止と再出発の繰り返しは、馬の体力を奪った。


石を踏み。


蹄を痛める馬。


轍へ脚を取られ。


筋を傷める馬。


路肩で足を滑らせる馬。


致命傷ではない。


すぐに走れなくなるほどでもない。


それでも。


出発した時と同じようには動けない。


白銀騎兵団が持っていた余裕は。


一頭ずつ。


一歩ずつ。


確実に失われていった。


山道の途中。


細い沢へ辿り着く頃には。


馬も兵士も、喉を渇かせていた。


だが。


一万の軍勢が利用するには。


あまりにも小さな水場だった。


一度に水を飲める馬は僅か。


先頭の馬へ飲ませている間に。


後続の列が伸びていく。


兵士達も水筒を満たそうと集まり。


水樽へ水を補おうとする補給兵も加わる。


狭い道の中へ。


人と馬が重なった。


「時間をかけるな!」


指揮官が叫ぶ。


馬へ十分な水を飲ませれば。


進軍が遅れる。


飲ませずに進ませれば。


砦へ着いた時に力が残らない。


ガルドスが選んだのは。


僅かな水だけを与え、先へ進ませることだった。


「殿下」


ザルガンが馬を寄せた。


「一度、隊列を整え直すべきです」


「またそれか」


「歩兵は、山道へ入る前から疲弊しています」


「歩兵が歩いて疲れるのは当然だ」


「軍馬にも負傷が増えています」


「予備馬と替えろ」


「その予備馬を連れた部隊が、後方へ取り残されています」


ガルドスは後ろを振り返った。


街道を埋め尽くす。


帝国兵と軍馬の列。


だが。


道は山肌に沿って何度も曲がり。


木々が視界を遮っている。


補給部隊が今どこにいるのか。


最後尾がどこまで進んでいるのか。


ガルドスの位置からは、何も分からなかった。


「遅れているなら、急がせればよい」


「急がせるほど事故が増えます」


「臆病者め」


ガルドスが吐き捨てた。


「それでも帝国皇族か!」


ザルガンの表情が僅かに硬くなる。


「敵を恐れているのではありません」


「ならば進め」


「敵と戦う前に、軍の長所を失う必要はないと申し上げています」


「この程度で失われる長所など、最初から存在しない」


「殿下」


「砦さえ落とせばいいのだ」


ガルドスは前方へ向き直った。


「小国の砦を前に、立ち止まる理由などない」


進軍は続けられた。


日数を失ったわけではない。


山道を越えるために。


何日も費やしたわけでもない。


本来なら一日で抜けられる道を。


予定していた一日の中で進んでいる。


だからこそ。


誰も、自分達が追い詰められているとは思わなかった。


歩兵は。


帝国領内で騎兵の速度についていくため。


既に体力を削られていた。


余裕のあった騎兵も。


山道で馬の脚を傷め。


停止と再出発を繰り返し。


機動力を失いつつあった。


補給部隊は遅れ。


予備馬も。


飼葉も。


兵糧も。


攻城資材も。


後方へ取り残されている。


一万の兵は。


まだ一人の敵とも戦っていない。


それでも。


帝都を発った時と同じ一万ではなくなっていた。


陽が山の稜線へ近付き始めた頃。


街道の先に。


大山脈の出口が見えた。


その向こう。


山と山の隙間を塞ぐように築かれた。


灰色の石壁。


ローゼンバーグ王国の北砦群。


「見えたぞ!」


ガルドスが声を上げた。


白銀騎兵団から歓声が返る。


だが。


帝都を発った時のような。


力強い声ではなかった。


先頭を進んでいたガルドスと騎兵達は。


確かに、北砦群へ辿り着いた。


しかし。


歩兵の大半は、まだ山道の中にいる。


補給部隊はさらに後方。


予備馬も。


兵糧も。


飼葉も。


攻城資材も揃っていない。


白銀騎兵団の騎士達は戦える。


だが。


彼らを乗せる軍馬は。


荒い息を吐き。


汗に濡れた頭を低く垂らしていた。


砦の城壁上に見える王国兵は。


最低限の人数だけだった。


一万の帝国軍を迎え撃つには。


あまりにも少ない。


それでも。


彼らは慌てていなかった。


騒ぎ立てることもなく。


増援を呼び集める様子もなく。


ただ静かに。


山道から吐き出されてくる帝国軍を見下ろしている。


「兵を並べる余裕さえないらしい」


ガルドスが笑った。


ザルガンは答えず。


砦を見上げた。


王国兵の数が少ないのではない。


あれだけの人数しか。


外へ出しておく必要がないのではないか。


そんな考えが。


胸の奥へ浮かんだ。


帝国軍は。


日程を大きく遅らせることなく。


北砦群へ到着した。


それでも。


一万の軍勢が、一つの軍として辿り着いたわけではない。


歩兵の体力を削り。


軍馬の脚を傷め。


騎兵の機動力を奪い。


補給を切り離し。


長く引き延ばされた隊列から。


戦える者だけが順番に。


砦の前へ吐き出されてきた。


ほんの少し。


歩く速度を上げさせられ。


ほんの少し。


休息を削られ。


ほんの少し。


進路を狭められ。


ほんの少しずつ。


兵と馬と補給を引き離された。


その積み重ねによって。


帝国軍は。


自分達が策へ嵌まったことすら知らないまま。


最も戦いにくい形で。


北砦群の前へ辿り着いていた。


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