双偃月のベルン
「後は任せたよ、ベル姉!」
「任された」
クルドの身体が、伸縮する糸に引かれて帝国兵達の頭上へ舞い上がる。
その影を潜るようにして、ベルンは帝国軍へ向かって歩き始めた。
駆けもしない。
腰を落として身構えることもない。
両肩から余計な力を抜き、まるで見慣れた街路を散策するような自然な足取りで、混乱する兵士達との距離を縮めていく。
その両手には、剣とも槍とも呼べない二振りの異形の武器が握られていた。
大きく湾曲した、厚みのある黒い刀身。
一見すれば、閉じた鉄扇を長く引き延ばしたようにも見える。
だが、扇を閉じた状態ではない。
これこそが、武器本来の姿だった。
ベルンは刀身の根元から下方へ突き出した持ち手を握り、その奇妙な形状のまま振るっている。
黒い表面に刻まれた魔力回路には、淡い青色の光が流れていた。
二振りが宙へ描く弧を月に見立て、与えられた名。
双偃月。
もっとも、その姿は偃月刀とは似ても似つかない。
「来るぞ!」
落馬した白銀騎士が立ち上がり、正面から斬りかかった。
長剣が、ベルンの頭上へ振り下ろされる。
ベルンは歩みを止めなかった。
左手の双偃月を僅かに持ち上げ、迫る刃の側面へ滑らせる。
金属同士が激しくぶつかる音はしなかった。
刃と刃が触れた瞬間、ベルンが手首を返す。
長剣の軌道が外へ逸れた。
力を受け止めたのではない。
騎士自身の振り下ろす力を利用し、刃先の向きを変えただけだった。
剣に引かれて騎士の上体が傾く。
その脇腹へ、右手の双偃月が滑り込んだ。
黒い刀身が鎧の継ぎ目を捉え、青い線を引きながら走り抜ける。
騎士は声を発することもできず、膝から崩れ落ちた。
その身体が地面へ倒れ切る前に、次の槍がベルンの胸元へ迫る。
ベルンは半歩だけ右へずれた。
穂先が衣服のすぐ脇を通過する。
同時に、右手の双偃月で槍の柄を下から打ち上げた。
槍兵の両腕が大きく持ち上がる。
無防備になった胸元を、左の刃が斜めに駆け抜けた。
右から剣。
背後から戦斧。
さらに正面から、盾を構えた兵士が押し込んでくる。
ベルンの左右の腕が、別々の意思を持つように動いた。
右の双偃月が剣を払い、そのまま戻る動きで盾の縁を叩く。
左の双偃月は背後へ回り込み、戦斧の柄を受け止めると、滑らせるように軌道を逸らした。
振り下ろされた戦斧が、隣にいた兵士の盾へ激突する。
盾兵の体勢が崩れた。
ベルンはその隙間へ、静かに足を踏み入れる。
右の刃が首筋を裂き。
左の刃が、戦斧を引き戻そうとした兵士の胸元へ突き込まれた。
一方が守り。
もう一方が命を奪う。
その役割は固定されていない。
右で斬った直後には左が守り。
左で敵の武器を絡め取れば、右が別の敵へ向かう。
攻撃を終えた動きが、そのまま防御の構えへ繋がる。
防御に使った刃は、力を流した直後には次の敵を斬っていた。
踏み込み。
重心の移動。
刀身の角度。
腕を戻す位置。
どの動きにも無駄がない。
まるで騎士の教本に描かれた模範動作を、実戦の中で途切れることなく繋げているようだった。
しかし、教本と決定的に違うものが一つある。
その動きの果てには。
必ず、一つの命が失われていた。
ベルンは歩みを止めない。
一人を斬れば一歩進み。
攻撃を受け流せば、さらに一歩進む。
帝国兵達が押し戻しているつもりでも、気づけばベルンの方が深く入り込んでいる。
いつしか彼女は乱戦の外縁ではなく、帝国軍の中央へと切り込んでいた。
「さすがに帝国兵だ」
横から突き出された槍を双偃月の湾曲部へ引っ掛け、外側へ巻き取る。
槍を奪われまいと兵士が力を込めた瞬間、ベルンは逆らわず、前へ一歩踏み出した。
兵士が自ら引く力によって引き寄せられる。
その喉元を、反対側の刃が横切った。
「侵略を常とする国だけあって、王国の兵士とは練度が違う」
倒れる兵士から槍を手放し、次の敵へ顔を向ける。
「だが」
剣を受け流し、柄頭で相手の顎を打ち上げる。
仰け反った身体へ、青い刃を走らせた。
「それは、十全であればの話だ」
長い行軍による疲労。
空腹と渇き。
山道で傷ついた軍馬。
クルドによって崩された陣形。
倒木と糸に塞がれた視界と足場。
兵士達は密集し、本来の間合いで武器を振るうことすらできない。
隣には敵ではなく味方が立ち。
後ろへ下がろうとしても、別の兵士に背中を押される。
一人一人が優れた兵士であることと。
優れた軍隊として戦えることは、同じではなかった。
「何をしている!」
ガルドスの怒声が戦場を突き抜けた。
女一人に中央を食い破られていく光景に、顔を怒りで歪めている。
「相手は一人だ!」
剣を高く掲げる。
「慌てるな!」
「囲め!」
「合図と同時に、四方から一斉に叩け!」
その声は、混乱する兵士達へ確かに届いた。
帝国兵は烏合の衆ではない。
幾度も戦場へ立ち、命令へ反応することを身体に叩き込まれた兵士達だった。
先走って攻撃していた者達が後退する。
乱れていた呼吸を整え。
互いの位置と武器を確認しながら、ベルンの周囲へ円を作っていく。
正面には盾と剣。
左右には長槍。
背後には斧と戦槌。
武器同士がぶつからない距離を保ち。
一人が避けられても、別の一人が逃げ先を狙えるよう立ち位置を変える。
「そうだ!」
ガルドスが笑みを取り戻す。
「一人ずつ向かう必要などない!」
「帝国兵の連携を見せてやれ!」
ベルンは包囲されても、構えを変えなかった。
二振りの双偃月を両脇へ下げたまま、静かに兵士達を見渡している。
兵士達が呼吸を合わせた。
正面の男が短く顎を引く。
それを合図に、全員が同時に地面を蹴った。
正面から剣。
左右から二本の槍。
背後から斧。
僅かに遅れて、戦槌が頭上へ振り下ろされる。
一つを避ければ、その先に別の武器がある。
どこへ逃げても、何かが身体へ届く。
混乱の中で組み立てたものとしては、見事な連携だった。
剣が肩口へ食い込み。
槍が脇腹と太腿を貫く。
斧が背中へ突き刺さり。
戦槌が頭上から叩きつけられた。
「やった!」
兵士の一人が叫ぶ。
その時。
包囲の外から、穏やかな声が届いた。
「どこを見ているんだね?」
兵士達の動きが止まる。
倒木の傍ら。
先ほどまで誰もいなかった場所に、ベルンが立っていた。
傷一つ負わず。
胸元から下げた、小さな鏡のペンダントへ指を添えている。
「それは鏡像だよ」
武器を突き立てられたベルンの姿へ。
細い亀裂が走った。
一筋。
続いて二筋。
透明な亀裂は瞬く間に全身へ広がり、甲高い音と共に砕け散る。
血も。
肉も。
そこにはなかった。
残ったのは、光を反射しながら宙を舞う無数の魔力片だけだった。
二振りの双偃月が放つ魔力を互いに照らし合わせ。
胸元の鏡を媒介として、ベルンと寸分違わぬ像を作り出す。
兵士達が包囲していたのは、初めから虚像だった。
誰もが砕け散る光へ意識を奪われる。
ほんの一瞬。
だが、ベルンにはそれで十分だった。
兵士達が再び倒木へ目を向けた時、そこにベルンの姿はなかった。
「どこへ行った!」
「包囲を崩すな!」
「周囲を探せ!」
怒号が飛び交う。
次の瞬間。
ベルンはガルドスの目前に立っていた。
「なっ……!」
馬上のガルドスが、思わず上体を仰け反らせる。
ベルンは双偃月を両脇へ下げたまま。
胸元の鏡へ指を添え、穏やかに微笑んだ。
「私は、双偃月のベルン」
二振りの黒い武器に刻まれた青い回路が、呼応するように明滅する。
「二つに分かれた月は、互いを照らし合い」
「その光から、虚像を作り出す」
ベルンはガルドスを見上げた。
「さて、皇子」
スカートの裾を摘み。
ルミナから徹底的に仕込まれた、優雅なカーテシーを披露する。
「今、貴方が見ている私は」
微かに首を傾げた。
「幻か?」
口元に愉快そうな笑みを浮かべる。
「それとも、悪夢かな?」
「貴様ぁ!」
ガルドスが怒りに任せて剣を振り下ろす。
刃がベルンの肩から胸元へ食い込んだ。
だが。
再び鏡の割れる音が響く。
ベルンの身体が、光の破片となってガルドスの目前で砕け散った。
「どこだ!」
ガルドスが馬上から周囲を見回す。
「出てこい!」
その様子を、少し離れた倒木の上からクルドが眺めていた。
飛び込んできた槍へ糸を絡ませ、軌道を捻る。
逸れた穂先が隣の兵士の盾へ突き刺さった。
「ベル姉、ノリノリだなぁ」
『女王からの指示だ』
ウルの声が耳元へ届く。
『初めに大仰な行動を見せ、敵の混乱を誘う』
「それは聞いてたけどさ」
クルドは伸ばした糸に身体を引かせ、兵士達の頭上へ跳び上がった。
追いすがった騎士の兜を、黒いハイブーツの踵で打ち抜く。
「今のベル姉、結構素な気もするんだよな」
別の倒木へ着地する。
「訓練の時も、ああやって俺のことよく馬鹿にするし」
『ハルトも同じことを言っていたな』
「やっぱり?」
クルドが楽しそうに笑った。
会話の最中にも、ウルの魔導銃が火を噴く。
クルドの死角から剣を振り上げていた兵士の肩が弾け、武器が地面へ落ちた。
『クルド。右から二人』
「了解」
細い糸が二人の足へ絡みつく。
クルドが指を引くと、互いに別方向へ進もうとしていた兵士達が引き寄せられ、正面から衝突した。
周囲には、なおも帝国兵が押し寄せている。
それでも。
二人の声にも。
動きにも。
焦りはなかった。
まるでベルンの芝居を、安全な観客席から眺めているかのような余裕を残しながら。
ウルとクルドは、目の前の敵を淡々と捌き続けていた。
帝国軍の中央では。
ベルンが、何事もなかったように再び姿を現していた。
先ほどのような、人一人を丸ごと再現する鏡像は使わない。
精巧な姿を作り、離れた場所で動かすには相応の魔力を消耗する。
あれは敵の注意と判断を乱すための、大掛かりな演出だった。
以降、ベルンが用いるのはもっと小さな幻。
立ち位置を半歩ずらし。
刀身の角度を僅かに違って見せ。
振るわれた刃の軌跡を二つへ分ける。
それだけだった。
だが。
一瞬の判断が生死を分ける戦場では、その僅かな違いこそ致命的だった。
「右だ!」
騎士が叫ぶ。
ベルンの右手が持ち上がり、青く光る双偃月が外側から迫る。
そう見えた。
騎士は盾を右へ向ける。
次の瞬間。
左肩へ、本物の刃が深く食い込んだ。
「なぜ……」
騎士が驚愕に目を見開く。
彼が防いだ青い軌跡は、刀身の動きを刃一枚分だけずらして映した幻に過ぎなかった。
本物の双偃月は、その僅かに内側を通っていた。
ベルンが刃を引き抜く。
騎士の身体が力を失い、盾の陰へ沈んでいった。
別の槍兵が、正面から穂先を突き出す。
槍はベルンの胸元へ吸い込まれた。
確かに身体を貫いた。
兵士には、そう見えた。
だが。
ベルンの輪郭が淡く揺らぐ。
穂先は衣服すら掠めず、空を貫いていた。
本物のベルンは。
兵士が見ていた位置から、僅か半歩左に立っている。
「大きな幻など必要ない」
ベルンは槍の柄を双偃月の湾曲へ引っ掛けた。
手首を捻る。
槍兵の両腕が交差し、体勢が前へ崩れる。
「半歩」
反対の刃が、鎧の隙間へ差し込まれた。
「刃一枚」
ベルンが横へ引く。
兵士が崩れ落ちた。
「それだけ違って見えれば」
倒れる身体の脇を通り抜ける。
「人は簡単に死ぬ」
正面から三人の槍兵が踏み込んだ。
一本は胸。
一本は腹。
もう一本は足を狙っている。
ベルンは左の双偃月を翻した。
黒い刀身が、三本の槍へ順に触れていく。
最初の穂先を上へ弾き。
二本目を外側へ流す。
三本目は湾曲した刀身へ引っ掛け、そのまま隣の槍へ押しつけた。
三本の長柄が絡み合う。
兵士達が引き抜こうとした時には、右の双偃月が既に動いていた。
青い弧が、三人の前を横切る。
一拍遅れ。
三人の身体へ赤い線が浮かび上がった。
槍が手から落ちる。
兵士達はほとんど同時に膝をつき、そのまま倒れた。
その向こうから、盾を構えた騎士が突進する。
ベルンは振り抜いた右腕を戻さない。
左の双偃月を盾の縁へ引っ掛け、騎士の身体を僅かに横へ導いた。
受け止めない。
逆らわない。
前へ進む力を、そのまま隣へ流す。
騎士は止まることができず、味方の兵士へ肩から衝突した。
そこへ、戻ってきた右の双偃月が滑り込む。
黒い刃が兜と胸当ての間へ深く食い込んだ。
ベルンは刃を抜きながら、次の敵へ視線を向ける。
「次」
倒れる騎士を見送らず、さらに前へ進む。
右が剣を受け。
左が敵を斬る。
左が槍を巻き取り。
右が脇腹を薙ぐ。
防いだ刃がそのまま攻撃へ繋がり。
斬った刃は、戻る途中で別の武器を弾いた。
ベルンの歩みは止まらない。
歩く。
払う。
流す。
斬る。
また歩く。
帝国兵達が立ち塞がるたび。
その身体が左右へ分かれるように倒れていく。
ベルンの進む先にだけ。
血と倒れた兵士によって、一本の道が作られていた。
背後から、戦斧を振り上げた兵士が近づく。
しかし、踏み込んだ足首へ細い糸が絡みついた。
「ぐっ……!」
足を引かれ、戦斧の振り下ろしが僅かに遅れる。
ベルンは振り返らない。
右手の双偃月を、身体の脇から後方へ突き出す。
湾曲した先端が、兵士の鎧の隙間へ深く食い込んだ。
「助かる、クルド」
倒木の上から、クルドが軽く手を振る。
「どういたしまして」
その直後。
ベルンの死角で弓を引き絞っていた兵士の肩が弾けた。
乾いた銃声が、僅かに遅れて戦場へ届く。
弓兵の手から矢が落ちた。
『右後方、二人』
ウルの声が耳元へ響く。
「承知した」
ベルンは右足を軸に身体を回転させる。
二振りの双偃月が、異なる高さで円弧を描いた。
上を通る刃が剣を弾き。
低く走った刃が、もう一人の胴を斬り裂く。
クルドの糸が敵の一歩を遅らせ。
ウルの銃弾が死角を消す。
だが。
帝国軍の中央を押し潰しているのは、あくまでもベルンだった。
その時。
混乱を逃れていた一騎が、歩兵達を押し退けて姿を現した。
「道を開けろ!」
騎士が軍馬へ鞭を入れる。
本来の突撃に必要な距離はない。
速度も十分ではない。
それでも。
軍馬と重装騎士の質量が合わされば、人一人を踏み潰すには足りる。
歩兵達が慌てて左右へ退く。
できた狭い道を。
騎士がベルンへ向かって駆け抜ける。
ベルンは逃げなかった。
左手の双偃月へ、強く魔力を流し込む。
黒い刀身に刻まれた青い回路が、眩い光を放った。
内部で機械音が鳴る。
刀身の一部が幾つもの節へ分かれ、外側へ展開していく。
閉じた扇を開くように。
あるいは、月の欠片が連なって円を描くように。
湾曲した部品がベルンの前へ広がり、円形の盾を形作った。
軍馬が、真正面からそこへ突っ込む。
ベルンは踏ん張らない。
円状へ展開した刀身を斜めに傾け、衝突する馬体の肩へ滑らせる。
凄まじい重さが腕へ伝わった。
だが、その力はベルンを押し潰さない。
馬体の進む方向へ沿い。
円を描く刀身の表面を滑り。
横へと流されていく。
軍馬は標的を捉えられず、ベルンの脇を通り過ぎた。
前脚が地面を滑り、体勢が大きく傾く。
騎士が驚愕に目を見開き、振り返った。
その時には。
ベルンの右手にある双偃月が、青白い光を放っていた。
黒い刀身の周囲で、空気が歪む。
魔力によって生み出された高熱が、刃の輪郭を覆っていた。
ベルンが一歩踏み込む。
右の双偃月を、低い位置から横薙ぎに振り抜いた。
青白い軌跡が。
傾いた軍馬と。
その背へ乗る騎士を。
まとめて通り抜ける。
一瞬、何も起こらなかったように見えた。
次の一歩を踏み出そうとした軍馬の身体が崩れる。
鎧がずれ。
鞍が落ち。
焼けた切断面から白い煙が立ち上った。
周囲の帝国兵達から、悲鳴が上がる。
「化け物だ!」
「勝てるわけがない!」
「逃げろ!」
一人が武器を捨てた。
それを合図にするように、数人の兵士が背を向けて走り出す。
ベルンはその背中を、静かに見つめた。
「すまんな」
右手の双偃月を腰の横へ引く。
「今回は主から」
黒い刀身へ、青い魔力が集まっていく。
「容赦はするなと言われている」
横薙ぎに振り抜いた。
刃から、月を思わせる青い斬撃が放たれる。
斬撃は地面すれすれを走り、倒木や味方の兵士の隙間を縫いながら、逃げる者達へ迫った。
だが。
兵士達の目には、斬撃が二つに分かれて見えていた。
右へ向かう青い弧。
左へ向かう淡い弧。
どちらが本物なのか。
見極める時間はない。
兵士達は互いに別の方向へ飛び退いた。
その結果。
誰もいないように見えた中央へ、身体が集まる。
本物の斬撃が、その中央を走り抜けた。
悲鳴が途中で途切れる。
複数の兵士が、ほとんど同時に地面へ崩れ落ちた。
一人だけ、倒木の陰へ逃げ込む。
ベルンは左手の双偃月を持ち上げた。
「逃がすわけにはいかんのでね」
腰を捻り。
武器を投擲する。
青い線を纏った双偃月が、高速で回転しながら飛んだ。
兵士が振り返る。
彼の目には、三つの武器が迫っていた。
一つは頭上から。
一つは右側から。
もう一つは正面から。
兵士は頭を庇い、地面へ伏せる。
だが、それらは幻だった。
本物の双偃月は倒木の横をかすめ。
低い位置から回り込む。
黒い刃が、逃げる兵士の背中を斜めに切り裂いた。
双偃月はそのまま大きな円を描く。
別の帝国兵が構えた槍を途中で断ち。
再びベルンのもとへ戻ってきた。
ベルンは振り返らない。
差し出した左手へ、回転を弱めた持ち手が正確に収まる。
帝国兵達は強い。
武器の扱いも。
集団戦の経験も。
ローゼンバーグ王国の兵士達より上だろう。
だが。
ここへ辿り着くまでに。
あまりにも多くのものを失っていた。
山道による疲労。
水と食料の不足。
傷ついた軍馬。
遅れた後続。
クルドによって破壊された隊列。
ウルに把握された位置と動き。
そして。
戦場そのものを奪われている。
「初めに」
ベルンは左右の双偃月を静かに構えた。
「一万の兵を、我ら三人で撃退しろと聞いた時は」
右の刀身へ、青白い熱が宿る。
左の刀身には、鏡のような淡い光が揺らめいていた。
「ここが死地になると思ったものだが……」
帝国兵達が、ベルンから距離を取る。
誰も先に踏み込もうとしない。
彼女が見えている場所に、本当にいるのか分からない。
二振りの武器が。
どの角度から迫るのか分からない。
飛ぶ斬撃も。
投擲された刃も。
目に映る軌道が真実とは限らない。
「戦う前から、結果は決まっている」
ベルンは、恐怖に染まった兵士達の顔を見渡した。
「そういうことか」
その声には、畏怖と僅かな愉悦が混じっていた。
「兵をここまで疲弊させ」
一歩、前へ進む。
その動きだけで。
正面の兵士達が、反射的に一歩後退した。
「戦場を完全に、我らのものとしている」
ベルンは二振りの双偃月を持ち上げた。
「我らが主は」
黒い刀身に刻まれた青い光が、帝国軍の中央を照らす。
「本当に恐ろしい御方だな」
次の瞬間。
二つの青い軌跡が、帝国兵達の中へ走った。
本物の刃。
それに重なる幻の刃。
僅かにずれたベルンの輪郭。
帝国兵達は、自分が何を見ているのかさえ分からないまま武器を振るう。
その間を。
ベルンは再び、悠然と歩き始めた。
斬り。
払い。
流し。
そして進む。
双偃月が青い月光のような軌跡を描くたび。
帝国軍の中央から、一人。
また一人と兵士が倒れていく。
中央戦線は。
双偃月のベルンただ一人によって。
完全に押し潰されようとしていた。
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