地下に眠る天才 ③
「エミリア様!」
勢いよく執務室の扉が開いた。
飛び込んできたのはクロエだった。
深いスリットの入った黒いチャイナドレス。
白衣。
そして伊達眼鏡。
三日間に及ぶ悪の美学レッスンの成果である。
もっとも。
興奮すると全て吹き飛ぶのだが。
「出来ました!」
案の定だった。
エミリアはペンを置く。
「何が?」
クロエは満面の笑みを浮かべた。
「トイレです!」
沈黙。
そして。
エミリアは静かに立ち上がった。
「案内しなさい」
◇
そこにあったのは。
白い陶器で作られた便器だった。
まだ王都に上水設備は存在しない。
そのため。
魔導バッテリーと魔道具を利用した試作品である。
しかし。
形状は間違いなく。
前世で見慣れた水洗トイレだった。
「まだ試作段階ですが」
クロエは説明する。
「給水機構」
「排水機構」
「洗浄機構」
「全て問題なく動作します」
「将来的には上水設備へ接続する前提ですね」
エミリアは感動していた。
本当に作った。
この短期間で。
「使っても?」
「もちろんです!」
クロエの目が輝く。
「むしろ使ってください!」
「感想をお願いします!」
◇
「では失礼するわ」
エミリアは試作トイレの扉を閉めた。
王国初。
魔道具式水洗トイレ。
まだ上水設備は完成していない。
そのため魔導バッテリーを利用した試作品ではあったが。
それでも。
エミリアにとっては革命だった。
「ついに……」
感慨深い。
前世では当たり前。
だが。
この世界では夢の設備。
エミリアは静かに腰を下ろした。
◇
数分後。
「……素晴らしいわ」
文明の勝利だった。
思わず天を仰ぐ。
やはり水洗トイレは偉大である。
心からそう思った。
そして。
以前の自分の発言を思い出した。
『特にウォシュレットが必要だわ!』
そのため。
クロエは律儀に搭載していた。
洗浄機能付きである。
「仕事が早いわね……」
少しだけ緊張する。
そして。
魔道具のスイッチを押した。
次の瞬間。
「ひゃっ!?」
身体が跳ねた。
予想以上だった。
思わず立ち上がりそうになる。
冷たい。
くすぐったい。
妙な感覚だった。
『な、何ですか今の!?』
頭の中で。
エミリアの魂が悲鳴を上げる。
(ウォシュレットよ)
『ウォシュレット!?』
(説明すると長いわ)
『凄いです!』
『凄いです!』
『凄いです!』
(落ち着きなさい)
『だって!』
『だって凄いじゃないですか!』
『水が!』
『お尻を!』
(言わなくていいわ)
エミリアは額を押さえた。
頭の中が騒がしい。
『これ王城全部に付けましょう!』
(そのために水道を作ってるのよ)
『天才ですか!?』
(当然でしょう)
『さすがです!』
『未来の悪の女王です!』
(でしょう?)
少しだけ気分が良くなる。
そして。
エミリアは静かに頷いた。
「確かに便利ね」
前世では当たり前だった。
だからこそ。
失って初めて価値が分かる。
文明とは偉大である。
◇
数分後。
「どうでした!?」
扉を開けた瞬間。
クロエが飛び出してきた。
目が輝いている。
完全に発明家の顔だった。
「完璧よ」
エミリアは満足そうに頷く。
『最高でした!』
(静かにしなさい)
『でも最高でした!』
(それは認めるわ)
クロエは嬉しそうだった。
「それは良かった!」
「では改良案を――」
「その前に資料を見せなさい」
◇
執務室。
机の上には大量の書類が積まれていた。
上水設備計画書。
取水設備案。
王都配管設計図。
沈殿槽設計。
ろ過設備案。
維持管理計画。
どれも完成度が高い。
「順調ね」
「ええ」
クロエも満足そうだった。
「面白い研究でした」
「でした?」
「はい」
クロエはあっさり答える。
「基礎理論は完成しました」
「後は実務担当者へ引き継げば問題ありません」
「私は別の研究を始めようかと」
エミリアは苦笑した。
本当に発明バカだった。
普通なら人生を賭けるような大事業である。
だが。
クロエにとっては。
既に完了した研究らしい。
「次は何を研究するの?」
クロエの目が輝く。
「実はですね――」
「待ちなさい」
エミリアは手を上げる。
「その前に」
「私も試してみたいことがあるの」
クロエが首を傾げる。
「試したいこと?」
「ええ」
エミリアは楽しそうに笑った。
「少し手伝ってもらえるかしら?」
その笑顔を見て。
クロエも笑う。
「もちろんです」
「面白そうですね」
「でしょう?」
エミリアは立ち上がった。
「研究室へ行くわよ」
こうして。
王国初の水洗トイレ完成を祝う暇もなく。
新たな研究が始まるのだった。
◇
研究室。
クロエは新しい設計図を机いっぱいに広げていた。
「それでですね、エミリア様!」
「次は魔導バッテリーの小型化を――」
「待ちなさい」
エミリアが手を上げる。
クロエは不思議そうに首を傾げた。
「何でしょう?」
「その前に少し話があるの」
珍しく真面目な声だった。
◇
「実は」
エミリアはゆっくり口を開く。
「私は本当のエミリアではないの」
クロエは黙って聞いていた。
「私は異世界から来た人間よ」
「今はエミリアの身体を借りている状態なの」
数秒の沈黙。
「なるほど」
クロエはあっさり頷いた。
それだけだった。
エミリアは頭を抱える。
「驚かないの?」
「異世界の知識がありますよね?」
「あるわ」
クロエの目が輝いた。
「最高じゃないですか!」
「未知の技術!」
「未知の理論!」
「未知の文化!」
「もっと早く言ってください!」
『そんなことって……』
頭の中でエミリアの魂が呟く。
王国の存亡に関わる秘密より。
異世界知識の方が重要らしい。
◇
「それで本題よ」
エミリアは机の上へ一枚の設計図を置いた。
先程完成したばかりの水洗トイレだった。
「クロエ」
「はい」
「今の魔道具って基本的に一つのことしか出来ないでしょう?」
「そうですね」
クロエは頷く。
「火を出す」
「水を出す」
「風を起こす」
「基本的には単機能です」
エミリアは設計図を指差した。
「今回のトイレもそう」
「水作成」
「水操作」
「給水」
「排水」
「全部別々の魔道具よ」
「ええ」
「寄せ集めですね」
◇
「でも魔法使いは違うでしょう?」
エミリアは続ける。
「火を出して」
「操って」
「維持して」
「複数の術式を同時に扱う」
クロエの表情が変わった。
研究者の顔になる。
「……なるほど?」
「なら」
エミリアは笑う。
「魔道具も同じことが出来るんじゃないかしら?」
クロエは固まった。
「待ってください」
珍しく即答しない。
「その発想自体はあります」
「あるの?」
「ええ」
クロエは頷く。
「私も考えたことがあります」
「複数の術式を統合する理論」
「ですが成立しませんでした」
その声には悔しさが混じっていた。
「何かが足りなかったんです」
◇
エミリアは楽しそうに笑った。
「だから試したいの」
「試す?」
「ええ」
クロエを見る。
「貴方の知識を借りて」
「私の知識と合わせる」
「そうすれば答えが見えるかもしれない」
クロエは数秒呆然とした。
そして。
「面白い!」
満面の笑みになった。
「やりましょう!」
◇
蓮は意識を集中する。
そして。
エミリアの身体から離れた。
◇
『あれ……?』
エミリアは目を瞬いた。
指が動く。
腕が動く。
身体が動く。
『動きます……!』
思わず立ち上がる。
久しぶりだった。
自分の身体を自分で動かす感覚。
『私……』
『私です……!』
感動する。
その時だった。
鏡が目に入る。
『……』
沈黙。
『きゃあああああっ!?』
研究室に悲鳴が響いた。
『なっ!?』
『何ですかこの格好は!?』
慌てて身体を隠す。
顔が真っ赤だった。
『背中が開いてます!』
『足も見えてます!』
『何故こんな服を!?』
ルミは平然としていた。
「中身の趣味ですね」
『良かった……』
一瞬安心する。
「良くないですけど」
『良くないです!!』
◇
一方その頃。
蓮はクロエの身体で目を閉じていた。
圧倒的な知識が流れ込んでくる。
魔石学。
術式理論。
素材学。
魔道具理論。
老人が人生を捧げて積み上げた知識の全て。
(何だこれ)
(頭おかしいだろ)
『褒め言葉として受け取っておきます』
頭の中でクロエが答えた。
(全部理解してるのか?)
『しています』
(全部?)
『全部です』
(怖っ)
◇
蓮は設計図へ視線を落とす。
(やっぱりここだ)
『ええ』
クロエも同じ場所を見ていた。
『私もここまでは辿り着いていました』
『ですがその先が見えなかった』
(魔法使いは複数の術式を扱える)
『ええ』
(なら魔道具も出来るはずだ)
蓮は紙へ線を引く。
術式。
術式。
術式。
それらを繋ぐ。
まるで電子回路のように。
◇
『待ってください』
クロエの声が震えた。
『そうか……』
『術式そのものではない』
『術式の接続です』
猛烈な勢いで計算を始める。
『出来る』
『理論上可能です』
(マジか)
『いえ』
『可能どころではありません』
クロエは歓喜していた。
『相乗効果が発生します』
『複数の術式を一つの基盤で制御できます』
『自動化も可能です』
『条件分岐も――』
(落ち着け)
『無理です』
◇
二人は沈黙した。
紙を見る。
回路を見る。
理論を見る。
理解した。
これは新しい魔道具ではない。
新しい学問だ。
◇
(魔道具じゃないな)
『ええ』
(新しい技術体系だ)
クロエは静かに頷いた。
『魔科学』
(いい名前だ)
『そして』
クロエは笑う。
『これから生まれるものは魔道具ではありません』
『魔導具です』
◇
しばらく後。
蓮はエミリアの身体へ戻った。
机の上の回路図を見る。
「……あれ?」
理解できる。
理由は分からない。
だが理解できる。
理論が。
構造が。
感覚として残っている。
◇
「エミリア様!!」
クロエが勢いよく立ち上がった。
「予算ください!」
「いくら?」
「とりあえず全部です!」
「却下よ」
「では半分で!」
「却下」
「四分の一!」
「却下」
「十分の一!」
「何に使うの?」
クロエは満面の笑みを浮かべた。
「温水です!」
沈黙。
「温水?」
「トイレから温水を出せるようにします!」
「冷たい水しか出ませんからね!」
「快適性向上です!」
「王国の未来です!」
エミリアは額を押さえた。
「……善処するわ」
「やりました!」
その日。
ローゼンバーグ王国に魔科学という新たな学問が誕生した。
なお。
最初の研究テーマは温水洗浄便座だった。
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