閑話 ウル
【ウル――老猟師が青薔薇となるまで】
ウルは、目の不自由な猟師だった。
完全に何も見えないわけではない。
光の強弱。
大まかな輪郭。
近くで動くものの影。
それくらいなら、僅かに捉えることができた。
だが、獲物を目で追い、狙いを定めるには到底足りない。
それでもウルは、誰かに養われることなく、狩りによって生計を立てていた。
ウルには、自分の狩場があった。
木々の位置。
岩場の形。
獣道。
水場。
地面の傾斜。
風の抜ける場所。
音が反響する場所。
枝葉の擦れる音。
地面へ伝わる振動。
ウルは長い年月をかけて、その全てを身体へ刻み込んでいた。
優れた聴力と、僅かに残された視力。
そして、自ら整えた狩場を頭の中へ立体的に描き出す空間把握能力。
それらを組み合わせることで、ウルは獲物の位置を捉えた。
獲物そのものを見る必要はない。
どこから来て。
どこへ逃げ。
どの場所で足を止めるのか。
狩場の全てを知るウルには、それが分かった。
決して豊かな暮らしではなかった。
だが、その日の糧を得るには十分だった。
そもそもウルは、多くを求める性格ではない。
今日を生きるための肉がある。
雨露をしのげる小屋がある。
寒さを越すための薪がある。
それでよかった。
必要以上の獲物が得られた時には、近隣に暮らす者達へ分け与えた。
恩を売るためではない。
感謝されたいわけでもない。
自分一人では食べ切れない。
腐らせるくらいなら、誰かの腹へ入ったほうがいい。
ウルにとっては、その程度のことだった。
だが。
戦争が始まった。
兵士達が山野を行き来し。
故郷を追われた人々が森へ入り。
獣達は怯え、これまで通っていた獣道を変えた。
あるいは、より深い山へ逃げていった。
ウルが長い年月をかけて作り上げた狩場は、少しずつ別の場所へ変わっていった。
そこへ、老いが重なる。
山を歩く脚が弱くなった。
弓を引く腕から力が失われた。
そして何より。
視力を補い続けてきた聴力にも、陰りが見え始めた。
以前なら聞き逃さなかった足音を聞き逃す。
風の音と、獣の気配を見誤る。
矢を放っても、僅かに狙いが外れる。
ウルは、自分が猟師として終わりつつあることを理解した。
やがて。
自分一人が生きるための獲物すら、十分に仕留められなくなった。
それでも、ウルは独りではなかった。
かつてウルから獲物を分けてもらっていた近隣の者達が、今度はウルを助けた。
僅かな麦。
固くなったパン。
形の悪い野菜。
時には、薄いスープ。
誰もが豊かではなかった。
それでも皆、自分達が食べる分から少しずつ取り分けて、ウルのもとへ持ってきた。
そうして。
ウルは辛うじて、その日その日を生き延びた。
だが、戦争は終わらなかった。
食糧はさらに減り。
畑は荒れ。
物価は上がり。
これまでウルを助けてくれていた者達も、自分の家族を食べさせるだけで精一杯になっていく。
助けたいという気持ちが消えたわけではない。
ただ。
もう分けられるものが残っていなかった。
誰もが限界を迎えようとしていた。
その時だった。
エミリアによる炊き出しが始まった。
飢えた者を追い返さず。
身分も。
職業も。
過去も問わず。
温かな食事を与える場所。
その日の腹を満たすだけではない。
明日も生きられるかもしれないと、人々が思える場所。
ウルも。
ウルを支えてきた近隣の者達も。
そこで救われた。
ウルは、エミリアを神のように崇めたわけではない。
王侯貴族の理想を理解したわけでもない。
国の未来や大義について、難しい言葉で考えたわけでもなかった。
ただ。
自分を食わせてくれた者達がいる。
その者達ごと救ってくれた女王がいる。
それだけは、はっきりと理解していた。
やがて。
イミタートという存在の話が、ウルの耳へ届いた。
老いた身体を作り直し。
失ったものを取り戻し。
もう一度、生きる力を与えるもの。
ウルは考えた。
若返りたいわけではない。
美しい身体が欲しいわけでもない。
もう一度、自分のために狩りがしたいわけでもない。
だが。
もし、この老いぼれの技がまだ使えるというのなら。
自分を助けてくれた者達のために。
その者達へ希望を与えたエミリアのために。
残された力を使うことはできる。
ウルは、自らイミタート化を志願した。
その決意を。
ウルは大仰な言葉では語らなかった。
王国へ命を捧げるとも。
女王へ永遠の忠誠を誓うとも言わなかった。
「受けたものは、返す」
ただ、それだけだった。
だが。
一度そう決めたウルの意志は、決して揺らがなかった。
そうして。
死を待つだけだった老猟師は。
若く美しい女性の身体へと再構成された。
失われていた視力。
衰えていた聴力。
山を歩く脚。
武器を扱う腕。
そして、人の領域を大きく超えた身体能力と魔力。
それら全てを取り戻し。
青薔薇のイミタートとして、もう一度立ち上がった。
だが、取り戻したものだけではなかった。
かつて、老いた男の身体で生きてきたウルは、目覚めた瞬間、自分の身体がまるで別物になっていることを知った。
手は細く、指は長い。
声は低く掠れたものではなく、澄んだ若い女の声になっていた。
背筋は軽く伸び、足は驚くほどよく動く。
だが、胸元や腰回りの重心は、昔の身体とはまるで違う。
歩こうとすれば歩幅が合わず。
振り返れば髪が揺れ。
何気なく声を出せば、自分のものとは思えない声が返ってくる。
ウルは、しばらく黙って自分の手を見つめた。
若い。
女の手だった。
だが、掌に残る感覚は変わらない。
弓を握っていた記憶。
獣の皮を剥いだ感触。
木の枝を払い、土の上を歩いた年月。
身体は変わっても、それを覚えているのは同じ自分だった。
だからウルは、戸惑いながらも受け入れた。
自分は、自分だ。
男の身体で老いた猟師だったことも。
今、若い女の身体になったことも。
どちらも否定する必要はない。
使える身体になった。
なら、使えばいい。
それがウルの結論だった。
もっとも。
新しい身体を得たからといって、すぐに王国のために働けたわけではない。
ウルを待っていたのは。
ルミによる、徹底した作法指導だった。
歩き方。
立ち方。
座り方。
衣服の扱い。
礼の仕方。
人前での振る舞い。
宮廷における最低限の作法。
元平民の老猟師だったウルにとって、それらは狩りよりも理解し難いものだった。
山では。
誰も歩幅を咎めない。
獣は礼の角度を見ない。
獲物を仕留める際に、指先の美しさを気にする必要もない。
まして、女の身体に合わせた衣服の扱いなど、ウルにはまるで分からなかった。
裾を踏む。
髪を払う動きが雑になる。
胸元の布地を直す仕草がぎこちない。
座れば膝の置き場に困る。
礼をすれば、身体の重心が昔の感覚とずれてわずかに崩れる。
そのたびに、ルミは静かな笑みを浮かべたまま、容赦なく修正した。
「ウル様」
「そのお身体は、すでにエミリア様に認められた青薔薇でございます」
「であれば、内も外も、美しく在らねばなりません」
ウルには、その理屈が半分ほどしか分からなかった。
だが。
エミリアに認められたものを、粗末に扱うわけにはいかない。
そう言われれば、従う理由としては十分だった。
何度でも歩かされ。
何度でも座り直させられ。
衣服の裾を雑に扱えば、最初からやり直し。
礼の角度が僅かに違えば、静かな笑顔と共に修正された。
その結果。
ウルは、美しい女性として一通りの作法を身につけた。
必要な場面では、優雅に歩き。
静かに頭を垂れ。
洗練された所作で礼を取ることができる。
だが。
中身まで変わったわけではない。
姿は美しい女性。
振る舞いも整えられている。
それでも。
口を開けば、言葉は短い。
考え方は素朴で。
必要なことだけを語る。
かつてのように「儂」と名乗ることは、もうやめた。
老いた男の猟師としての自分を捨てたわけではない。
ただ、今の身体で、今の役目を果たすためには、その呼び方が少し合わなくなっただけだった。
だからウルは、自分のことを「自分」と呼ぶようになった。
男でも女でも。
老人でも若者でも。
猟師でも青薔薇でも。
変わらずそこにいるもの。
それを表すには、その言葉が一番しっくりきた。
エミリアに対しても。
騎士のように長い忠誠を述べることはない。
神官のように女王を讃えることもない。
ただ、命じられた役目を果たす。
守るべき者がいるなら守る。
仕留めるべき獲物がいるなら仕留める。
「自分を食わせたのは、あんただ」
「自分を食わせた者達を救ったのも、あんただ」
「なら、この力を使う先は決まっている」
それが。
ウルなりの忠義だった。
格式ばったものではない。
高い理想から生まれたものでもない。
受け取ったものを返す。
役に立てるなら働く。
ただ、それだけ。
けれど。
一度決めれば、決して曲げない。
飾らず。
騒がず。
静かに最後まで役目を果たす。
それこそが。
エミリアに「生き方が美しい」と認められた。
老猟師ウルの在り方だった。
感想いただけると嬉しいです




