魔紋の射手
ローゼンバーグ王城、地下訓練室。
かつて騎士達が剣を振るい、槍を交え、己の技を磨いていたその空間は、今では原形をほとんど残していなかった。
石造りの壁面には、幾重もの魔導回路が埋め込まれている。
衝撃吸収。
魔力拡散。
飛散物の遮断。
破損した設備を一時的に補強する、自動修復機構。
訓練室と観覧席の間には、半透明の多重防護結界が張られ、淡い光の膜が静かに揺らめいていた。
観覧席の中央で。
エミリアは、優雅に脚を組んでいた。
黒いドレスの裾を整え、肘掛けへ片腕を預けながら、眼下の訓練場を見下ろしている。
その傍らには。
黒と白のメイド服に身を包んだクロエが立っていた。
いつもの白衣はない。
工具も。
記録板も。
魔導具も持たされていない。
自ら設計に関わった訓練装置を、別の研究員が操作している。
研究員の指が操作盤へ伸びるたび、クロエの視線も、その動きを追っていた。
魔力弁の開閉。
射出機構の順番。
標的へ与えられる初期回転数。
一つ一つが、気になって仕方がないのだろう。
クロエの指先が、ほんの僅かに持ち上がった。
「クロエ」
エミリアは、訓練場を見たまま呼んだ。
「まだ何もしていないよ」
「しようとしたでしょう」
「……操作に少し無駄があっただけだねぇ」
「貴方の仕事は、研究員の指導ではないわ」
エミリアが空になった杯を、僅かに持ち上げる。
クロエは操作盤へ未練がましい視線を向けた後、渋々と水差しを手に取った。
「良いお仕置きでしょう?」
「悪趣味だねぇ」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
エミリアは満足そうに笑った。
だが。
今日、この場の主役はクロエではない。
訓練室の扉が開いた。
そこから、一人の女が姿を現す。
黒を基調とした、肌をほとんど露出しない狩装束。
身体の動きを妨げない細身の衣服へ、夜を溶かし込んだような深い藍が重ねられている。
襟元。
手袋。
長い上衣の縁。
そこへ施された銀の装飾が、冷たい月光のように輝いていた。
胸元には。
青い薔薇。
エミリアに生き方を認められ、新たな肉体を与えられたイミタートの証。
長い黒髪。
若く整った顔立ち。
そして。
目元を覆う、薄い黒藍のヴェール。
美しい女だった。
しかし。
その美しさには、若い娘らしい華やかさも。
自らの姿を意識した、媚びるような柔らかさもない。
長い年月。
雨風の中で獲物を待ち。
命を得るために、命を仕留め続けてきた者の静けさがあった。
女は観覧席の正面まで進む。
歩幅は一定。
背筋は伸び。
上衣の裾は、足へ絡むことなく美しく流れていた。
足音すら、ほとんど響かない。
やがて彼女は止まり。
片脚を静かに引いた。
片手を胸元へ添え。
もう片方の手で衣服の裾を整える。
そして。
流れるような所作で、エミリアへ深く頭を下げた。
平民の猟師であった者とは思えないほど。
洗練された、美しい礼だった。
エミリアが僅かに眉を上げる。
「随分と様になったわね」
女は頭を上げた。
「ルミ殿に」
僅かな間を置く。
「嫌というほど、叩き込まれました」
若く美しい女の声。
けれど、その言葉の奥には。
長い年月を生きた老人の渋さがあった。
傍らでクロエが小さく笑う。
「歩き方から衣服の扱いまで、一からやり直させられたらしいねぇ」
「山では」
女は短く答えた。
「獣は礼の角度を見ませんので」
エミリアの口元が、僅かに緩む。
「でも、覚えたのでしょう?」
「必要でしたので」
それだけだった。
苦労を語ることも。
自分の努力を誇ることもない。
必要だから覚えた。
猟師であった頃から。
ウルという者は、そうやって生きてきたのだろう。
「ウル」
エミリアが名を呼ぶ。
「はい」
「見せなさい」
「貴方が、もう一度手に入れた狩りを」
ウルは。
再び、美しく頭を下げた。
「承知いたしました」
所作は優雅だった。
だが、その言葉に甘さはない。
ウルは訓練室の中央へ進む。
両手には。
黒と銀で作られた二挺の魔導銃が握られていた。
黒い銃身へ、銀の補強材が絡みつくように走り、その隙間を深い藍の魔力光が脈打っている。
火薬は使わない。
使用者の魔力を銃内部へ送り込み。
一瞬だけ、小規模な爆発魔法へ変換する。
その爆発によって、実体弾を撃ち出す。
同時に。
銃身と内部機構を爆圧から守るため、武器そのものへ強化魔法を展開する。
弾丸を飛ばすための魔力。
銃を壊さないための魔力。
一発撃つごとに、その両方を要求される。
常人が使えば、数発で魔力を使い果たす。
無理に連射すれば、銃身の強化が途切れ、武器そのものが使用者の手の中で爆ぜるだろう。
現状、安定して使用できるのは。
ドールズ。
イミタート。
あるいは、並外れた魔力量と制御能力を持つ魔法使い。
その程度の者に限られている。
ウルは、訓練室の中央で静かに立った。
銃口は下へ向けられている。
肩に力は入っていない。
これから始まるものが、命に関わる試験であることなど、何の意味も持たないかのようだった。
目元は、薄いヴェールに覆われている。
失明しているわけではない。
イミタート化によって。
かつて失われていた視力は、既に取り戻している。
それでもウルは。
あえて、自らの視界を閉ざしていた。
頭部へ装着された銀のサークレットから。
淡い魔力が流れ始める。
光はない。
大きな音もない。
ただ。
目には見えない波が。
水面へ落ちた雫のように、静かに広がっていく。
一度。
二度。
三度。
魔力波は床を撫で。
壁へ触れ。
天井を這い。
訓練室を満たす空気そのものへ染み込んでいく。
そして。
返ってくる。
壁の硬さ。
床の僅かな傾斜。
柱の位置。
結界を走る魔力の脈動。
装置の内部で回転を始めた歯車。
射出器へ送り込まれる魔力。
金属部品の温度。
研究員が操作杖を握る指先の震え。
観覧席を隔てる防護結界の振動。
エミリアが杯を置いた際に生まれた、僅かな空気の揺れ。
それら全てが。
視覚とは異なる形で、ウルの意識へ流れ込む。
見ているのではない。
音だけを聞いているのでもない。
魔力。
音。
温度。
気流。
振動。
それらが一つに重なり。
訓練室そのものが、ウルの内側へ精密な立体図として構築されていく。
今のウルは。
探知範囲を、この訓練室の内部だけへ限定していた。
広く探れば。
より遠くの存在を捉えることもできる。
だが。
今は、その必要がない。
範囲を狭めた分だけ。
受け取る情報は深くなる。
壁の向こうに何があるかではなく。
この部屋の中で。
何が。
いつ。
どのように動こうとしているのか。
その一つ一つを。
内部機構の動作すら含め、細部まで読み取る。
操作盤の前に立つ研究員が、唾を飲み込んだ。
「第一段階」
「魔導標的、四基」
「起動します」
操作杖が下ろされる。
訓練室の壁面が開いた。
内部から現れたのは、円盤状の魔導標的だった。
中央に小型の魔導炉。
その周囲へ、鋭い鋸刃が輪のように並んでいる。
円盤はその場で高速回転を始めた。
低く。
耳障りな唸り声が、訓練室を満たしていく。
それは玩具のヨーヨーに似ていた。
ただし。
糸の代わりに魔力による軌道制御機構を備え。
外周には。
肉も骨も容易く切り裂く回転鋸が並んでいる。
射出器が火花を散らした。
四つの円盤が。
異なる方向から、同時に訓練室へ放たれる。
一つは正面。
一つは右。
一つは天井近くを滑り。
最後の一つは、床すれすれを這う。
真っ直ぐには来ない。
壁や床へ魔力の糸を打ち込み。
ヨーヨーが弧を描くように軌道を変えながら。
中央に立つウルを、四方から包囲しようとする。
ウルは。
顔を上げなかった。
正面の円盤を見ない。
右も。
左も。
頭上へ視線を向けることもない。
だが。
彼女には、全てが見えていた。
円盤内部の歯車が回る。
魔導炉から、左右の推進器へ魔力が分配される。
右側の出力が、僅かに上がる。
円盤が軌道を変える。
鋸刃が空気を切り裂く。
生じた乱流が、別の円盤の進路を僅かに押す。
床近くを走る一基が巻き上げた塵。
その塵が、次に来る円盤の刃へ触れ、細かく砕ける。
訓練室の中にある、あらゆる動き。
機械の内部で生まれる小さな変化。
それによって生じる空気の流れ。
全てが。
ウルの中では、一つの狩場として繋がっていた。
獲物がどこにいるのか。
それだけではない。
次に、どこへ来るのか。
そのさらに先で。
どの方向へ逃げようとするのか。
既に読み切っている。
右手が上がる。
派手な動きではない。
肩を大きく回すことも。
銃口を振り回すこともなかった。
ただ。
必要な角度まで。
ほんの僅かに手首を持ち上げる。
引き金を引いた。
銃の内部で、魔力が弾ける。
空気の奥を打ち鳴らすような。
短く、重い爆発音。
弾丸が放たれた。
その瞬間。
円盤はまだ、そこにはいなかった。
弾丸は。
何もない空間へ向かって飛んでいく。
操作盤の前に立つ研究員が、目を見開く。
外した。
そう思ったのだろう。
だが。
次の瞬間。
右方向から弧を描いてきた円盤が。
自ら、弾丸の軌道へ飛び込んだ。
鋭い金属音。
弾丸が、円盤内部の魔力制御核を正確に打ち抜く。
回転を失った円盤が。
勢いだけを残して空中を滑り、床へ落ちた。
ウルは。
標的を狙って撃ったのではない。
標的が来る場所へ。
先に、弾丸を置いたのだ。
続いて。
左手の銃が火を噴く。
二発。
一発目は、天井へ。
二発目は、ウルの背後へ。
どちらにも。
発砲の瞬間には、標的が存在していない。
天井近くを旋回していた円盤が、出力を変える。
降下。
ほぼ同時に。
ウルの背後へ回り込もうとしていた円盤が、壁面を蹴った。
二つの円盤が。
それぞれ別の角度から。
自ら、弾丸の進路へ重なっていく。
一発目が。
回転鋸の中心にある軸受けを撃ち抜いた。
二発目は。
外殻の僅かな隙間を抜け、内部の推進用魔石だけを砕いた。
二基の円盤が。
ほぼ同時に落下する。
最後の一基。
床すれすれを進んでいた円盤が、突然軌道を変えた。
ウルの正面ではない。
彼女の脚の間を抜け。
背後から跳ね上がり、喉元を狙う軌道。
不意打ちを想定した変則機動だった。
ウルは動かない。
振り返らない。
ただ。
僅かに右脚を半歩引いた。
円盤が脚の脇を通過する。
鋸刃が巻き起こした風が、長い上衣の裾を揺らした。
ウルは。
その気流すら、既に読んでいる。
円盤内部。
姿勢制御機構の一つが作動する。
回転軸が傾く。
上昇。
首を狙う。
ウルは銃を、背中側へ向けた。
腕を大きく回すことなく。
肘だけを折り。
肩越しに銃口を向ける。
引き金。
弾丸は。
ウル自身の身体すれすれを通り過ぎた。
長い髪の一房が、弾道によって生まれた風に揺れる。
直後。
背後から跳ね上がった円盤の中心へ。
弾丸が吸い込まれた。
弾ける音。
砕かれた制御核が光を失う。
回転鋸は、ウルの肩へ届く寸前で力を失い。
静かに床へ落ちた。
四基。
四つの標的。
使用した弾丸も。
四発。
無駄弾は一発もない。
ウルは最初から一度も。
標的へ視線を向けていなかった。
訓練室へ。
静寂が戻る。
研究員達は、床へ転がった円盤を見つめていた。
いずれも。
外殻はほとんど壊れていない。
撃ち抜かれているのは。
回転軸。
魔力制御核。
推進用魔石。
その円盤を動かすために必要な、最小限の部品だけだった。
機械を破壊したのではない。
動きを止めた。
獲物を仕留めるために。
どこを射抜けばよいのか。
それを知り尽くした猟師の撃ち方だった。
エミリアは。
肘掛けへ頬杖をつき、僅かに目を細める。
「続けなさい」
研究員が我に返った。
「は、はい!」
慌てて操作盤へ手を伸ばす。
「第二段階!」
「魔導標的、十二基!」
クロエの眉が、僅かに動く。
当初の試験計画よりも多い。
一度目の結果を見た研究員が、予定を変更したのだろう。
クロエの唇が開きかける。
「クロエ」
エミリアが呼ぶ。
「何も言っていないよ」
「顔に書いてあるわ」
クロエは黙った。
その間にも。
十二の射出口が、一斉に開く。
今度の円盤は、先ほどより小さい。
だが。
速度は速く。
回転数も高い。
それぞれが異なる起動音を発しながら、訓練室へ放たれる。
十二基の回転鋸が。
空間を埋め尽くした。
交差。
反転。
急上昇。
急降下。
壁へ当たる寸前で折れ曲がり。
互いの軌道を隠すように重なり。
一基が別の一基を盾にして、ウルへ接近する。
目で追おうとすれば。
一つへ意識を向けた瞬間、他の十一が死角へ入る。
だが。
ウルに死角はない。
魔力波が満たしたこの空間では。
前も。
後ろも。
右も左も。
頭上も足元も。
全てが等しく、狩場の一部だった。
魔力波が円盤へ触れる。
返ってくる。
外殻の輪郭。
刃の角度。
回転数。
内部の歯車。
魔力の流れ。
温度の偏り。
部品同士の摩擦。
鋸刃によって生じた乱気流。
十二基が互いに作り出す風の壁。
その風に押され。
それぞれの軌道が。
設定値から僅かにずれていく。
ウルは。
そのずれすら読む。
銃声が響いた。
一発。
続けて二発。
間を置かず。
三発。
ウルの両腕が、舞うように動くことはない。
華麗な身のこなしでもない。
ただ。
必要な方向へ。
必要な距離だけ。
必要な瞬間に動く。
右手が上がる。
左手が下がる。
身体を半歩ずらす。
腰を僅かに捻る。
振り返らず、背後へ撃つ。
頭上へ銃口を向けた直後。
そのまま前方の床へ撃ち下ろす。
全ての動きが、最短だった。
剣舞のような華やかな美しさではない。
長い年月をかけ。
不要な動きを削り落とした果てに残る。
実用の美しさだった。
弾丸が。
次々と空間へ置かれていく。
まだ標的はいない。
だが。
一瞬後。
円盤がそこへ来る。
一基が撃ち抜かれる。
その残骸が、別の円盤の進路を僅かに変える。
だが。
その変化も、既に計算されている。
変わった軌道の先には。
次の弾丸が待っていた。
一基。
二基。
三基。
回転鋸が。
次々と力を失って落ちていく。
ウルは標的を追ってはいない。
十二基全ての現在位置。
次の位置。
そのさらに次の位置。
互いが作る気流。
互いが遮る魔力波。
内部機構が命令を受けてから。
実際の動きへ反映されるまでの、僅かな遅れ。
その全てを。
一つの空間として捉えていた。
ここは訓練室ではない。
ウルにとっては。
かつて自ら作り上げた狩場と同じだった。
一本の木が。
どこに立っているのか。
岩の陰へ。
どの獣が潜んでいるのか。
風がどちらへ流れ。
枝葉がどのように鳴るのか。
目で見る必要はない。
狩場そのものを知っていれば。
獲物がどこへ逃げるのかも。
どこで足を止めるのかも。
どこへ弾丸を置けばよいのかも。
全て分かる。
違うのは。
今のウルが立っている狩場を。
何年もかけて作る必要がないということだけ。
魔力波が届いた瞬間。
どのような場所であろうと。
そこは彼女の狩場になる。
最後の二基が。
左右から同時に迫った。
一基は高く。
一基は低く。
ウルの逃げ場を塞ぐように。
鋸刃が唸る。
空気が裂ける。
ウルは。
そこで初めて、大きく動いた。
一歩。
前へ出る。
二基の円盤が。
彼女がいた場所へ向かって交差する。
だが。
ウルは既に、そこにはいない。
右手の銃口が。
左側の円盤へ向く。
左手の銃口が。
右側の円盤へ向く。
二つの引き金が、同時に引かれた。
二発の弾丸が。
互いに反対の方向へ飛ぶ。
円盤は。
最後まで軌道を変えようとしていた。
右の推進器が出力を上げる。
左の姿勢制御板が開く。
内部の魔力が流れを変える。
だが。
その命令が、実際の動きへ変わるよりも早く。
弾丸が到達した。
二つの魔導核が。
同時に砕ける。
回転音が止まった。
最後の円盤が。
床へ落ちる。
訓練室に残ったのは。
微かに漂う魔力の残滓と。
床を転がる金属片の音だけだった。
ウルは。
銃口を下ろす。
呼吸は乱れていない。
肩も動いていない。
ヴェールの奥の表情も。
試験が始まる前と、何一つ変わっていなかった。
十二基。
十二発。
やはり。
無駄弾は一発もない。
しばらく。
誰も声を出さなかった。
やがてエミリアが。
静かに口を開く。
「見事ね」
ウルは。
声の方へ顔を向けなかった。
向ける必要がないからだ。
エミリアがどこに座り。
どのような姿勢で自分を見ているのか。
杯を置いた指が。
どれほど僅かに動いたのか。
その全てを。
ウルは既に把握している。
それでも。
ウルは銃を収めると。
観覧席の正面へ、静かに身体を向けた。
片脚を引く。
背筋を伸ばす。
片手を胸元へ添え。
長い上衣の裾を乱さぬよう整えながら、深く頭を下げた。
先ほどまで。
全方位から迫る殺傷兵器を、一発の無駄もなく撃ち落としていた者と同じとは思えない。
静かで。
美しく。
完璧な礼だった。
「恐れ入ります」
短い言葉。
所作は洗練されている。
だが。
その声の奥には、飾り気のない老猟師がいる。
クロエが、僅かに口元を緩める。
「すっかり淑女だねぇ」
ウルは頭を上げた。
「ルミ殿が」
「獲物より、しつこかったので」
クロエが吹き出しそうになる。
エミリアも。
僅かに唇を緩めた。
「せっかく目を取り戻したのに」
エミリアは、ウルのヴェールへ視線を向ける。
「見ないのね」
ウルは。
少しだけ沈黙した。
問いの意味を。
言葉の裏まで確かめるように。
やがて、短く答える。
「見えるものが増えれば」
「見落とすものも増えます」
目は。
一つの方向しか見られない。
視線を向けた先を鮮明に映す代わりに。
背後を。
側面を。
遮蔽物の向こう側を捨てる。
だが。
今のウルにとって。
視覚を閉ざした世界は、暗闇ではない。
魔力。
音。
温度。
気流。
振動。
その全てが折り重なり。
視覚よりも広く。
深く。
確かな形で、世界を描き出している。
エミリアは。
満足そうに唇を吊り上げた。
「貴方の周りは」
「全て、貴方の狩場になるのね」
ウルは、静かに頷いた。
「波が届くなら」
「逃がしません」
エミリアは、頬杖をついたままウルを見つめる。
「その力を」
「私のために使うつもり?」
ウルは。
すぐには答えなかった。
自分を飾る言葉を探しているのではない。
忠義を美しく聞かせるための言葉など。
元より持ってはいない。
ウルは。
もう一度、片脚を引いた。
ルミから叩き込まれた通りの。
美しく整った姿勢。
そして。
胸元の青薔薇へ、静かに手を添える。
「儂が生き延びたのは」
「近所の者達のおかげです」
洗練された立ち姿から。
老猟師の言葉が落ちる。
「その者達を食わせ」
「もう一度、明日を見せたのは」
ウルは、ヴェールの向こうからエミリアを捉えた。
目ではない。
魔力波でもない。
自らの意志で。
「エミリア様です」
ウルは。
深く頭を下げる。
礼の角度は完璧だった。
だが。
口にした言葉は、どこまでも素朴だった。
「受けたものは、返します」
「この身体も」
「この目も」
「この力も」
「国の役に立つというのなら」
「命じてくだされ」
ウルは頭を上げる。
ヴェールに隠された表情は見えない。
けれど。
その声に迷いはなかった。
「獲物は」
「必ず、仕留めます」
騎士の誓いではない。
神官の祈りでもない。
平民の猟師が。
自分へ糧を与えてくれた者へ、恩を返す。
ただ、それだけ。
だが。
一度決めたなら。
決して曲げない。
言葉で飾らないからこそ。
その忠義には、揺るぎがなかった。
エミリアは。
しばらくウルを見つめていた。
やがて。
満足そうに微笑む。
「良いわ」
「気に入った」
その時。
床へ転がっていた円盤の一つが、僅かに震えた。
内部へ残っていた補助魔力が、遅れて作動したのだろう。
壊れたはずの回転鋸が。
一瞬だけ刃を回し。
床を跳ねる。
研究員が声を上げるより早く。
ウルの右手が動いた。
顔は向けない。
銃口だけが。
静かに標的を捉える。
発砲。
弾丸は。
動き始めた円盤へ向かったのではない。
円盤が跳ね上がる先へ置かれた。
一瞬後。
標的は。
自ら弾丸へ飛び込むように撃ち抜かれた。
今度こそ。
完全に動きを止める。
ウルは銃を下ろした。
そして。
何事もなかったように告げる。
「これで終わりです」
観覧席で。
クロエの目が、抑えきれない好奇心に輝いていた。
ウルの魔力波。
弾道予測。
機械内部の読み取り精度。
改善案が。
既に幾つも浮かんでいるのだろう。
クロエが一歩、前へ出かける。
その前へ。
エミリアが空になった杯を差し出した。
「クロエ」
クロエの足が止まる。
「……水だねぇ」
「ええ」
クロエは。
訓練室のウルと。
自分達が作り上げた探知魔導具と。
床に転がる標的とを、名残惜しそうに見比べた。
それでも。
今は研究者ではない。
エミリアの側仕えである。
渋々と、水差しへ手を伸ばす。
その様子を横目で眺めながら。
エミリアは、静かに笑った。
一度は。
老いによって狩場を失い。
自らの糧すら得られなくなった猟師。
その者が今。
新たな身体と。
新たな目と。
新たな狩場を手に入れた。
魔力波が届く全ての空間を支配し。
獲物が来る場所へ、弾丸を置く。
帝国が大軍を動かそうとしている、その裏側で。
ローゼンバーグ王国では。
また一つ。
これまで世界に存在しなかった戦い方が、生まれようとしていた。
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