断章 無能姫の夢 挿絵有
第二章 帝国編スタートです
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蓮は、夢を見ていた。
いや。
夢を見ている、というより。
エミリアの夢に、引きずり込まれていた。
匂いがある。
音がある。
肌に触れる空気の冷たさがある。
胸の奥に沈む、重たい感情がある。
それらは蓮自身のものではない。
けれど、確かに蓮の内側にあった。
これは。
エミリアの記憶だ。
蓮は、夢の中でそう理解した。
エミリアは、ローゼンバーグ王家の第四子として生まれた。
上には兄が三人いた。
父である王にとって、望まれていたのは後継ぎとなる男子だった。
すでに三人の王子がいる以上、四番目の子に大きな期待などない。
まして、その子は女だった。
その時点で、父はエミリアへの興味を失った。
母は、正妃ではなかった。
城下で見かけた歌姫を、王が気に入り、無理やり側に置いた。
その女が、エミリアの母だった。
愛のない関係で生まれた子。
望まれて生まれたわけではない子。
父からは興味を失われ。
正妃からは、当然のように嫌われ。
母からも、疎まれた。
誰も、エミリアを見なかった。
けれど。
セバスは笑ってくれた。
年老いた執事は、幼いエミリアへ膝を折り、優しく微笑んだ。
「おはようございます、エミリア様」
たったそれだけの言葉が。
幼いエミリアには、救いだった。
エミリアは、身体の弱い子供だった。
起きている時間より、寝ている時間の方が長かった。
熱を出し。
咳き込み。
食事もろくに取れず。
細い腕は、触れれば折れてしまいそうだった。
王族でなければ、とっくに死んでいたのではないだろうか。
医師も、侍女も、最低限の世話はした。
けれど、それだけだった。
苦しんでも。
泣いても。
寂しくても。
誰も本気で困った顔をしなかった。
けれど。
セバスは、下手な子守唄を歌ってくれた。
音程は外れていた。
歌詞も、時々間違えていた。
それでも、眠れない夜。
熱に浮かされた視界の中で聞こえるその声だけは、優しかった。
エミリアの顔立ちは、母によく似ていた。
美しい女になるだろう。
誰もが、そう言った。
けれど、幼い頃のエミリアの身体は、あまりに細かった。
肉がつかず。
頬はこけ。
腕も足も、骨と皮だけのようだった。
貧相。
病弱。
役に立たない。
嫁ぎ先もない。
政治の駒にもならない。
そんな声が、城のあちこちで囁かれるようになった。
エミリアは、役立たずの子供だった。
けれど。
セバスは、困ったように笑って言った。
「笑ったお顔は、叔母様のように美しゅうございますよ」
それが本当なのか。
慰めなのか。
幼いエミリアには分からなかった。
それでも、嬉しかった。
八歳を過ぎた頃から、寝込む日は少しずつ減っていった。
十歳になる頃には、普通に歩けるようになった。
十二歳になる頃には、身体に肉がつき始めた。
かつて骨と皮だけのようだった少女は、少しずつ女性らしい輪郭を得ていった。
けれど、エミリアに任される仕事はなかった。
寝込んでいた時間があまりにも長く、教育は最低限しか受けていない。
王族として、政治に関わることもない。
儀礼に出ることも少ない。
誰からも期待されていない。
けれど。
セバスは、エミリアに言った。
「必要でございます」
「エミリア様が王族である以上、最低限のことは覚えていただきます」
セバスの教育は、優しいだけではなかった。
礼儀。
言葉遣い。
歩き方。
客人への接し方。
王族として、最低限恥ずかしくない振る舞い。
エミリアにとって、それは厳しかった。
けれど、嬉しかった。
誰も必要としない自分に、セバスだけは必要だと言ってくれたから。
その頃から、戦争が始まった。
やがて、国は勝利した。
王都には物が集まり、王城の食卓は豊かになった。
エミリアは知らなかった。
豊かになったのは、王族と一部の貴族だけだということを。
それでも、城の中では贅沢ができた。
美味しいものが食べられるようになった。
エミリアは、食べ物の味を誰よりも細かく見分けることができた。
何が使われているのか。
どの順番で火を通したのか。
どんな香草を合わせたのか。
一口食べるだけで、料理の形が頭の中に浮かんだ。
料理長と一緒に、同じ味を再現することすらできた。
けれど、それは今の国には必要のないものだった。
飢える民がいる国で、姫が料理の味を覚えて何になる。
誰もそうは言わなかった。
けれど、誰も必要とはしなかった。
それでも。
セバスは、美味しいと言ってくれた。
「これは、見事でございますな」
そう言って、エミリアが考えた料理を一緒に食べてくれた。
その年。
戦争で、兄が一人死んだ。
エミリアは、綺麗なものを見るのが好きだった。
美しい布。
繊細な刺繍。
色の組み合わせ。
服の形。
綺麗なものを見ると、もっと綺麗にしたくなった。
針子達と話すのは楽しかった。
襟の形。
袖の長さ。
飾り紐の位置。
布地の重なり。
エミリアが話すと、針子達は目を輝かせてくれた。
けれど、それも今の国には必要がなかった。
美しい服など、飢えた国には贅沢でしかない。
飾るための布があるなら、兵の外套に回せ。
誰もそうは言わなかった。
けれど、誰も必要とはしなかった。
それでも。
セバスの服を作った時、セバスはとても喜んでくれた。
「これは、私にはもったいないほどでございます」
そう言いながら。
少しだけ照れたように笑ってくれた。
また、戦争で兄が死んだ。
エミリアは、本を読むのが好きだった。
小さい頃から、寝台の上で多くの本を読んだ。
物語。
詩。
古い伝承。
礼法。
歴史。
一度読んだものは、一言一句忘れなかった。
望めば、何年も前に読んだ本の一節ですら、そのまま思い出せた。
けれど、今の国に物語は必要なかった。
学が足りなかったエミリアは、帳簿を見ても、数字や文字を覚えることはできたが、その意味を正しく理解することはできなかった。
書かれていることを忘れない。
それだけでは、何の役にも立たなかった。
それでも。
セバスは、困ったように笑った。
「最近忘れ物の多い私には、羨ましい限りでございます」
褒めてくれた。
役に立たない記憶力を。
必要ないはずの才能を。
セバスだけが、褒めてくれた。
エミリアは、必要のない姫だった。
そして。
戦争に負けた。
最後の兄が死んだ。
敗戦によって、それまで見ないふりをされていた王国の歪みが、一気に噴き出した。
ローゼンバーグ王国に残された王族は、エミリアだけになった。
いつしか彼女は、無能姫と呼ばれるようになっていた。
国を救う知恵もない。
兵を率いる力もない。
政も知らない。
ただ美しく、ただ何もできない姫。
けれど。
セバスは変わらず、エミリアにお茶を淹れてくれた。
「エミリア様」
「本日は、少し香りのよい茶葉を用意いたしました」
変わらない声。
変わらない所作。
変わらない笑顔。
それが、エミリアには痛かった。
十六歳になった頃。
エミリアは、美しくなっていた。
誰もが見惚れ、息を呑むほどの容貌。
完璧な比率の身体。
母から受け継いだ美貌は、病弱だった幼少期が嘘のように花開いた。
けれど、今更ローゼンバーグ王国に関心を抱く国などなかった。
政治の駒にすらなれない。
美しいだけの姫に、価値はない。
そして。
父である王は、王城に残された価値ある宝を持ち出し、国を捨てて逃げた。
正妃も、王族として残ることを選ばなかった。
母もまた、エミリアの側には残らなかった。
かつてエミリアを望まなかった者達は、最後までエミリアを見ようとはしなかった。
残されたのは、壊れかけた国と、無能姫と呼ばれる自分だけ。
けれど。
セバスは残ってくれた。
家族は、もう自分一人しかいなかった。
だからエミリアは、初めて自分の国を、自分の目で見た。
そこにあったのは、地獄だった。
何一つ実ることのない荒れた大地。
市場には、枯れた作物しか並ばない。
大通りですら清潔感はなく、路地へ入ればゴミが散乱していた。
街と街を繋ぐ街道は整備されておらず、流通は滞っていた。
飢えた民の一部は、他人から奪う野盗へと身をやつしていた。
兵は足りず。
金はなく。
書類は嘘だらけ。
誰も、正しい数字を出さない。
誰も、責任を取らない。
誰も、何とかしてくれない。
エミリアは、何とかしようとした。
自分にできることをしようとした。
美味しい食べ物。
作れるわけがなかった。
食材がない。
畑が荒れている。
流通が死んでいる。
綺麗な服。
そんなものがあっても、奪われるだけだった。
布も針も、人の手も足りない。
素晴らしい物語。
そんなものを読んでいる暇があるなら、生きるために働け。
そう言われれば、それまでだった。
政。
何をすればいいのか、分からなかった。
国庫は空。
国を回すための書類は、虚偽だらけ。
記憶することはできる。
けれど、そもそも書かれていることが嘘なら、覚えたところで意味がない。
私は、無能で役立たずの姫だ。
その事実だけが、胸の奥に沈んでいった。
いつからか。
エミリアは、セバスと話さなくなった。
セバスは変わらず優しく笑ってくれる。
変わらずお茶を淹れてくれる。
変わらず、エミリア様と呼んでくれる。
それが、怖かった。
いつか、見限られるのではないか。
無能な自分に、とうとう失望するのではないか。
最後に残ってくれた人にまで捨てられたら。
自分は、本当に何もなくなってしまう。
そんな時だった。
帝国から、書簡が届いた。
ローゼンバーグ王国を滅ぼされたくなければ。
王女エミリアを、帝国皇子の愛妾として差し出せ。
そうすれば、国を併合し、存続だけは許してやる。
それは、慈悲のつもりだったのだろう。
滅ぼされるよりはましだと。
無能姫一人を差し出せば、国が残るのだからありがたく思えと。
そういう意味だったのだろう。
エミリアは、書簡を握りしめた。
どうすればいいのか、分からなかった。
助けてくれる臣下はいない。
正しい道を示してくれる者もいない。
国は壊れている。
民は飢えている。
セバスは、それでも残ってくれている。
誰か。
助けてください。
この国を。
民を。
セバスを。
私はもう。
何をしたらいいのか分かりません。
幼い頃。
誰も笑ってくれなかった。
でも。
セバスは笑ってくれた。
誰も認めてくれなかった。
でも。
セバスは認めてくれた。
誰も残らなかった。
でも。
セバスは残ってくれた。
だから。
今度は私が。
守りたかった。
この国を。
民を。
そして――
セバスを。
その時だった。
神は、本当にいた。
そこで、蓮は目を覚ました。
天蓋のある寝台。
静かな寝室。
重たい夜の空気。
自分のものになった、エミリアの身体。
蓮は、しばらく天井を見つめていた。
頬が濡れていた。
涙だった。
自分が泣いていることに気づいて、蓮は小さく息を吐いた。
「……引っ張られたわね」
蓮は、指先で涙を拭う。
記憶としては、知っていた。
けれど、知っていることと、味わうことは違う。
今の夢は、ただ過去を眺めたのではない。
エミリアとして泣き。
エミリアとして怯え。
エミリアとして、セバスに縋った。
だから、涙が出た。
蓮自身の涙ではない。
だが、この身体に宿るエミリアの涙だった。
『……ごめんなさい』
内側から、か細い声がした。
エミリアの声だった。
『見せるつもりじゃ、なかったの』
蓮は、目を閉じた。
「謝る必要はないわ」
『でも……』
「でも、何?」
『恥ずかしいの』
エミリアの声は、小さく震えていた。
『何もできなかった私を』
『無能だった私を』
『セバスに縋ることしかできなかった私を』
『蓮に、見られてしまった』
蓮は、ゆっくりと身体を起こした。
寝台から下り、鏡の前へ立つ。
そこには、美しい少女が映っている。
白い肌。
黒い髪。
整いすぎた顔立ち。
完璧な比率の身体。
かつて無能姫と呼ばれた少女の姿。
そして今は、蓮の器となった身体。
蓮は、鏡の中の自分を見つめ、薄く笑った。
「何を言っているの」
『蓮……?』
「この身体は、もう私のものよ」
蓮は、侍女が用意していた黒い衣装へ手を伸ばす。
白ではない。
淡い色でもない。
喪服でも、姫のドレスでもない。
悪の女王に相応しい、黒。
「無能姫など、どこにもいない」
蓮は、黒を纏う。
一つずつ。
丁寧に。
迷いなく。
「ここにいるのは」
「美しく」
「傲慢で」
「誰にも差し出されることのない」
「ローゼンバーグ王国の女王よ」
鏡の中の少女が、笑った。
それは、幼いエミリアが浮かべていた弱い笑みではない。
神すら従わせた、悪の女王の微笑だった。
内側のエミリアは、何も言えなかった。
ただ。
少しだけ、泣きそうな気配がした。
蓮は、それ以上慰めない。
優しい言葉など、今は必要ない。
必要なのは、証明だ。
この身体は、もう差し出されない。
この国は、もう踏みにじられない。
この王宮に、無能姫などいない。
蓮は、黒い袖を整えた。
そして、静かに呟く。
「さあ」
「今日も、私の国を作りましょう」
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