薔薇の祝福
月の光が、帝国の夜に落ちた。
そこは、バルディア帝国の宮殿。
第2皇子バルカーボ・バルディアに与えられた私室だった。
豪奢な寝台。
壁に飾られた帝国の紋章。
金糸で縁取られた絨毯。
高価な酒。
名工が作った調度品。
その全てが、彼の身分を示していた。
バルカーボは、機嫌よく杯を傾けていた。
ローゼンバーグ王国へ送った書簡。
あの小国がどのような返答を寄越すのか。
考えるだけで、愉快だった。
滅びかけた国の女王が、自らの価値を理解し、震えながら帝国の慈悲に縋る。
あるいは、愚かにも拒み、帝国に踏み潰される。
どちらに転んでも、自分が損をすることはない。
「せいぜい、身の程を知るがいい」
そう呟いた瞬間だった。
部屋の中の灯りが、揺れた。
炎が消えたわけではない。
風が吹いたわけでもない。
だが、空気が変わった。
夜が、濃くなった。
月明かりが、部屋の床に落ちる。
窓は閉まっている。
天井も壁も、厚い石造りだ。
それなのに、月の光だけが、音もなく部屋へ満ちていく。
「な、何だ……?」
バルカーボが杯を落とす。
乾いた音が、絨毯の上で鈍く響いた。
次の瞬間。
部屋の中央に、三つの影が現れた。
黒衣の魔科学者。
黒薔薇の癒し手。
月の聖女。
クロエ。
リン。
セリア。
「き、貴様ら……!」
バルカーボは椅子から立ち上がろうとした。
だが、すぐにその目が変わった。
怒りではない。
警戒でもない。
欲だった。
突然現れた三人を見て、バルカーボはほんの一瞬怯えた。
だが、彼は浅慮だった。
愚かだった。
そして何より、自分に都合よく物事を解釈することに慣れきっていた。
女が三人。
いずれも息を呑むほどに美しい。
しかも、自分の部屋に現れた。
その事実だけで、彼の頭は勝手に結論を出した。
「……なるほど」
バルカーボの口元が、醜く歪む。
「ローゼンバーグの返答か」
リンの眉が、わずかに動く。
「返答?」
「そうだろう?」
バルカーボは、当然のように言った。
「無能女王本人を差し出す前に、まずは詫びの品を寄越したというわけだ」
セリアの表情が、静かに消えた。
クロエは、目を細める。
バルカーボは、それに気づかない。
気づけない。
彼の視線は、三人の顔を。
髪を。
身体の線を。
値踏みするように這い回っていた。
「ふん」
「小国にしては、随分と上等な女を揃えたではないか」
「悪くない」
「貴様らを可愛がってやる」
バルカーボは、杯を机に置いた。
そして、下卑た笑みを浮かべる。
「まずは服を脱げ」
「私は帝国皇子だ」
「この私に差し出された以上、どう扱われるかなど分かっているだろう?」
リンは、無表情だった。
だが、その身体から、ぞっとするほど冷たい怒気が滲み出した。
怒鳴るでもなく。
震えるでもなく。
ただ、そこに立っているだけで、部屋の温度が一段下がったように感じられた。
セリアは、汚物を見るような目でバルカーボを見た。
祈りを捧げる聖女のものとは思えない。
静かで。
冷たく。
一切の慈悲を削ぎ落とした視線だった。
クロエは、ほんの少しだけ首を傾げた。
「この体になってから、皮膚の感覚が違うのか」
「特に男性からの視線が、よく分かるようになったんだが……」
クロエは、バルカーボを見た。
冷えた目だった。
「これほど虫酸が走るのは初めてだねぇ」
「少し、女性の気持ちが分かった気がするよ」
リンが、横目でクロエを見る。
「あんなに見られてるのに、まだそんな感じだったんだ……クロエ……」
「興味のない視線など、研究対象にもならないからねぇ」
クロエは、淡々と答える。
「だが、これは駄目だ」
「観察というより、汚染に近い」
リンは小さく息を吐いた。
「分かる」
「ボクも、今すぐ消毒したい」
セリアが、静かに目を伏せる。
「帰ったら、エミリア様の眼差しで浄化していただかなければ……」
その言葉だけは、どこか本気だった。
バルカーボは、三人の反応を見て顔を赤くする。
怒りか。
羞恥か。
それとも、思い通りにならないことへの苛立ちか。
「貴様ら」
「自分の立場を分かっているのか!」
「私は帝国第2皇子バルカーボ・バルディアだぞ!」
「私に逆らえると思っているのか!」
クロエは、静かに笑った。
「逆らう?」
「違うねぇ」
「君はもう、裁かれる側だ」
リンが、一歩前へ出る。
「あなた、何も分かってないんだね」
セリアもまた、顔を上げた。
「ええ」
「けれど、これから分かっていただきます」
バルカーボは、ようやく違和感に気づいた。
三人は怯えていない。
媚びてもいない。
命乞いもしない。
自分を皇子として見ていない。
まるで、裁くべき罪人を前にしているような目で、自分を見ている。
「な、何だ」
「貴様ら、何をするつもりだ」
その時だった。
部屋の床に、黒い紋様が広がった。
それは魔法陣のようであり。
結界のようであり。
夜そのものが、床に染み出したもののようでもあった。
月の気配が、部屋を満たす。
そして、どこからともなく声が響いた。
『ここは、輪廻の外側』
バルカーボの身体が固まる。
それは、女の声だった。
甘く。
美しく。
恐ろしい声。
『死も』
『転生も』
『外の因果も』
『今だけは、私が預かるわ』
「な、何を言っている……?」
『ここで何が起きても、外には漏れない』
『ここで何が起きても、外へ戻ればなかったことになる』
声は、楽しげに続く。
『だから安心なさい』
『死ぬことも』
『狂うことも』
『逃げることも』
『許されないわ』
バルカーボは、ようやく理解した。
これは、普通の襲撃ではない。
暗殺でもない。
謀反でもない。
もっと別のものだ。
人の手の届かない場所から、何かが自分を見ている。
「衛兵!」
バルカーボは叫んだ。
「衛兵! 誰か来い!」
扉の外から返事はない。
物音一つしない。
まるで、この部屋だけが世界から切り取られたようだった。
クロエが、ゆっくりと一歩前に出る。
「無駄だよ」
「ここは、外とは繋がっていない」
「君の声も」
「君の悲鳴も」
「誰にも届かない」
リンが、冷たく言った。
「よかったね」
「誰にも邪魔されないよ」
セリアは、祈るように手を組む。
「神罰を執行するには、相応しい場所です」
クロエは指を鳴らした。
空間が歪む。
黒い玉座のようなものが、床からせり上がった。
それは椅子だった。
だが、ただの椅子ではない。
黒薔薇を模した意匠。
月蝕のような輪郭。
腕、脚、胴、首を固定するための魔導拘束具。
そこに座る者を、逃がすつもりなど最初からない形をしていた。
クロエは、愛おしげにその椅子へ手を這わせた。
「喜びたまえ」
「これは君専用に、この私が設計したものだ」
「量産品ではない」
「一点物だよ」
バルカーボの顔から、血の気が引いていく。
「な、何をするつもりだ……」
「心配はいらないよ」
クロエは、いつも通りの声で言った。
「これは処刑具じゃない」
「ちょっと拘束した部分が潰れるだけだ」
「その後でリンが癒せば、問題はないだろうからねぇ」
「ふざけるな!」
バルカーボは後退ろうとした。
だが、足が動かない。
床から伸びた黒い影が、彼の足首を絡め取っていた。
「私は帝国皇子だぞ!」
「第一皇妃の子だ!」
「私にこんなことをして、ただで済むと思っているのか!」
クロエは、笑った。
「ただで済ませるつもりがないから、こうしているんだよ」
影が、バルカーボの身体を椅子へ押し込める。
腕が固定される。
脚が固定される。
胴が固定される。
首が、動かせなくなる。
皇子のための特別製の玉座。
だが、そこにあるのは栄光ではない。
逃げ場のない断罪だった。
「やめろ!」
「離せ!」
「命令だ!」
クロエは首を傾げる。
「君の命令が通る相手は、ここにはいないねぇ」
リンが、静かに前へ出た。
その手には、小瓶が握られている。
淡く青白い液体が、月明かりを受けて揺れていた。
「これは、体の回復力を高める薬なんだ」
バルカーボは、震えながらそれを見た。
「回復……?」
「うん」
リンは頷いた。
「傷の治りを早めて、体が壊れにくくなる」
「本当なら、重傷者の治療に使うための薬だよ」
そこで、リンは少しだけ目を伏せた。
「ただ、副作用があるんだ」
「神経が過敏になる」
「肌に触れるだけで痛い」
「空気が擦れるだけで痛い」
「体が、自分の存在そのものを痛みとして感じるようになる」
バルカーボの喉が鳴った。
リンは、小瓶を指先で軽く揺らす。
「普通は、ちゃんと薄めて使うんだけどね」
「今回は、すぐ壊れないように」
「十倍に濃縮しておいたよ」
「じゅ、十倍……?」
「うん」
リンは、静かに笑った。
「臨床実験はしてない」
「だから、安全性は分からない」
「でも、今日は治療じゃないから」
リンの目が、冷たく細められる。
「少し、クロエの気分が分かったかな」
「試してみるのが、楽しみだよ」
クロエが、興味深そうにリンの小瓶を覗き込む。
「十倍か」
「随分と思い切ったねぇ、リン」
「普通の患者さんには、絶対に使わないよ」
リンは答えた。
「でも、この人は患者じゃない」
「神罰の対象だから」
クロエは楽しげに笑う。
「いいねぇ」
「君も少し、研究者らしくなってきたじゃないか」
リンは、小さく息を吐いた。
「褒められても、あまり嬉しくないかな」
「でも」
リンは、バルカーボを見た。
「今だけは、少し分かるよ」
「試したいって気持ち」
バルカーボは首を振る。
「やめろ」
「やめろ、やめろ!」
「金か? 地位か? 何が欲しい!」
「望むものを与えてやる!」
リンは、小瓶の蓋を開けた。
「いらない」
「あなたが持ってるものに、欲しいものなんてないよ」
液体が、魔導拘束具へ流し込まれる。
それはバルカーボの身体へ、月の冷たさのように染み込んでいった。
バルカーボが息を詰まらせる。
まだ何も起きていない。
何も壊されていない。
だが、身体が何かを待ち構えるように震えていた。
セリアが、最後に一歩前へ出た。
その表情は穏やかだった。
祈りを捧げる聖女のように。
けれど、その目に慈悲はなかった。
「バルカーボ・バルディア様」
「これは、神からの神託です」
「あなたに神罰を執行せよ、と」
「神託だと……?」
バルカーボは、椅子に拘束されたまま顔を歪める。
「ふざけるな」
「私は帝国皇子だぞ」
「邪神の信徒ごときが、私に――」
「いいえ」
セリアは、静かに遮った。
「私は、信者としてここに来たわけではありません」
そして、胸に手を当てる。
「私は、薔薇人形のセリアとして」
「エミリア様の人形として」
「あなたの前に立っています」
その声は、どこまでも澄んでいた。
だからこそ、恐ろしかった。
「覚悟してくださいね」
「慈悲など、ありません」
バルカーボの喉が鳴る。
「な、何を……」
セリアは、少しだけ困ったように微笑んだ。
「ごめんなさい」
「私、悪い子になってしまいましたから」
月の光が、セリアの背後で揺れた。
それは神聖な光でありながら、どこか冷たく、歪んでいた。
「とっておきの悪夢を」
「見せてあげます」
次の瞬間。
バルカーボの瞳に、月が映った。
◇
最初の悲鳴が、結界の中に響いた。
それは皇子の声だった。
高く。
醜く。
信じられないほど情けない声だった。
だが、その声は外へ届かない。
扉の外にいるはずの衛兵にも。
宮殿にも。
帝国にも。
誰にも届かない。
月蝕の断罪椅子が動いた。
黒薔薇の拘束具が、バルカーボの身体を逃がさない。
クロエは、出力を調整する。
「壊しすぎるな、とリンに怒られるからねぇ」
「まずは、悲鳴を上げる程度から始めようか」
それが何を意味するのか。
バルカーボは、すぐに知った。
悲鳴が途切れかける。
呼吸が乱れる。
意識が遠のく。
そのたびに、リンの神癒が彼を引き戻す。
「まだ駄目だよ」
淡い光が、バルカーボの身体を包む。
傷は塞がる。
呼吸は戻る。
心臓は落ち着く。
だが、痛みの記憶だけは消えない。
「死なせない」
リンは静かに言った。
「楽にもしない」
「ちゃんと最後まで分からせる」
バルカーボは、泣きながら首を振る。
「やめてくれ」
「許してくれ」
「私は、私は皇子だぞ……!」
だが、セリアの月光がその瞳に落ちた。
「逃げてはいけません」
「狂気は救済ではありません」
「正気のまま、罪を見つめなさい」
現実の痛みから逃げるように。
バルカーボの意識は、悪夢へ落ちていった。
◇
次に目を開けた時。
彼は、帝国の玉座の間に立っていた。
赤い絨毯。
高い天井。
壁に掲げられた帝国の紋章。
臣下達が並んでいる。
貴族達がいる。
将軍達がいる。
玉座には皇帝が座り、その隣には第一皇妃がいた。
バルカーボは安堵し、叫ぶ。
「父上!」
「母上!」
「この者達を罰してください!」
「私は帝国皇子です!」
だが、誰も動かなかった。
誰も頭を下げなかった。
誰も、彼を助けようとはしなかった。
皇帝は、ただ冷たく告げる。
「お前にあるのは、血だけだ」
第一皇妃は、目を逸らす。
「私の子ならば、もう少し価値のある皇子であってほしかったわ」
その言葉と共に、外套が剥ぎ取られた。
紋章が外された。
指輪が奪われた。
名が奪われた。
第2皇子バルカーボ・バルディア。
その名が、玉座の間から消えていく。
彼は叫んだ。
自分は皇子だと。
第一皇妃の子だと。
尊ばれるべき存在だと。
けれど、誰も答えなかった。
次の瞬間。
夢は砕けた。
次に見えたのは、戦場だった。
泥と血と怒号の中。
彼は皇子ではなかった。
名もない兵だった。
命令される側だった。
使い捨てられる側だった。
誰かの武功のために前へ押し出され、誰にも名前を呼ばれないまま倒れていく。
助けを求めても、将軍は振り返らない。
皇帝の旗は遠く。
第一皇妃の腕は届かない。
彼が最後に見たのは、自分を踏み越えて進む帝国兵の靴だった。
次の夢では、奴隷として生まれた。
首には枷。
手には傷。
名前は与えられず、番号だけで呼ばれた。
食べ物を求めても、鞭が返る。
休みたいと願っても、命令が降る。
自分の身体は自分のものではなく。
自分の明日は、誰かの気分で決まる。
彼は叫んだ。
「私は皇子だ!」
けれど、誰も笑わなかった。
誰も信じなかった。
ただ、冷たい声だけが返る。
「お前に価値などない」
また夢が変わる。
次は、女として生まれていた。
帝国皇女。
第一皇妃の娘。
血筋だけなら、誰もが価値ある姫だと口にした。
だが、その価値は彼女自身のものではなかった。
和平の条件。
敗戦の代償。
同盟の証。
貴族達は、彼女の前で平然と話し合う。
どの国へ送るか。
誰に嫁がせるか。
どれほどの利益になるか。
どれほど帝国の面子を保てるか。
彼女の意思など、誰も聞かない。
彼女の怒りなど、誰も気にしない。
拒むことなど、最初から許されていない。
「私は皇族だぞ」
彼女は叫んだ。
「尊ばれるべき血だぞ」
だが、返ってきたのは冷たい言葉だけだった。
「だから使えるのだ」
その瞬間、バルカーボは理解した。
血筋とは、守られる理由ではない。
時に、利用される理由になる。
自分がエミリアへ送った書簡が。
どれほど相手を人として見ず。
どれほど尊厳を踏みにじり。
どれほど傲慢なものだったのかを。
だが、理解したところで夢は終わらない。
ある時は、飢えた民として城下に膝をついた。
ある時は、敗戦の責任を押しつけられた下級兵として処刑台へ上げられた。
ある時は、政略の駒として知らない土地へ送られる子供になった。
ある時は、見下していた平民達にすら見向きもされない、ただの浮浪者になった。
何度も。
何度も。
何度も。
彼は、奪われる側になった。
命を。
名を。
血筋を。
身体を。
尊厳を。
未来を。
そのたびに、彼は叫んだ。
自分は皇子だと。
尊ばれるべき存在だと。
自分には価値があるのだと。
けれど、どの世界でも。
その言葉に意味はなかった。
月の向こうから、セリアの声が聞こえる。
「ご覧なさい」
「これが、あなたが踏みにじろうとしたものです」
その声は、穏やかだった。
祈りのように優しく。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「奪われる痛みを」
「選べない恐怖を」
「名を持たぬ者として扱われる屈辱を」
「あなたは知らなかった」
「知ろうともしなかった」
バルカーボは首を振る。
「やめろ」
「もういい」
「分かった」
「分かったから――」
「いいえ」
セリアの声が、静かに遮った。
「まだです」
「あなたは今、恐怖から逃げるために分かったと言っているだけです」
「魂には、まだ届いていません」
月光が、再び濃くなる。
「理解するまで、何度でも見ていただきます」
「狂っても、戻します」
「忘れても、思い出させます」
「あなたが、自分の空っぽさを認めるまで」
「悪夢は、終わりません」
バルカーボの悲鳴が、現実の部屋に響いた。
◇
どれほど時間が経ったのか。
結界の中では分からなかった。
バルカーボは叫び。
泣き。
許しを乞い。
母の名を呼び。
父の名を呼び。
皇子であることに縋った。
そのたびに、クロエの器具が動いた。
そのたびに、リンが癒した。
そのたびに、セリアが正気へ戻した。
壊され。
癒され。
戻され。
また、壊される。
それは処刑ではなかった。
ただの拷問でもなかった。
死へ逃げることも。
狂気へ逃げることも。
眠りへ逃げることも。
忘却へ逃げることも許されない。
神によって定められた罰。
神罰だった。
やがて、すべてが終わった。
バルカーボ・バルディアは、生きていた。
死んではいない。
狂ってもいない。
肉体も、結界へ入る前と変わらない。
ただ。
その瞳だけが、何かを見続けていた。
もう終わったはずの痛みを。
もう消えたはずの恐怖を。
もう過ぎ去ったはずの悪夢を。
それでも、彼の身体には傷一つ残っていない。
クロエが、興味深そうに眺める。
「なるほど」
「本当に、外へは持ち出されないんだねぇ」
リンは、小さく息を吐いた。
「……治す必要もないくらい、元通りだ」
セリアは、静かに目を伏せる。
「けれど、魂は覚えています」
「ええ」
その声に、ルミナが答えた。
月の気配が、部屋を満たす。
バルカーボは、床に座り込んだまま震えていた。
「お、終わったのか……?」
かすれた声だった。
皇子の威厳など、どこにもない。
「終わった……終わったのだな……?」
その言葉を聞いて、ルミナはくすりと笑った。
『ええ』
『結界の中の神罰は、これで終わりよ』
バルカーボの身体から、わずかに力が抜ける。
だが。
ルミナは続けた。
『だから最後に、一つ祝福をあげるわ』
「祝、福……?」
バルカーボが顔を上げる。
その瞳には、怯えがこびりついていた。
ルミナは、楽しげに微笑む。
『結界の中で起きたことは、外界には残らない』
『傷も』
『痛みも』
『時間も』
『外へ戻れば、なかったことになる』
『でも、記憶だけは別』
月の光が、バルカーボの額に落ちた。
『今日、この結界で味わったこと』
『見たもの』
『聞いたもの』
『感じたもの』
『それらは、毎日同じ時刻に、あなたの中で再演される』
バルカーボの顔が凍りつく。
「な……」
『一日の終わりには、全部リセットしてあげる』
『肉体も』
『精神も』
『結界に入る前の状態へ戻してあげる』
『だから、壊れる心配はないわ』
ルミナは、優しく告げた。
『喜びなさい』
『不老不死の祝福よ』
そして、少しだけ首を傾げる。
『バカボン、だったかしら?』
その瞬間。
バルカーボの絶望の声が、結界の中に轟いた。
もはや言葉ではなかった。
祈りでもない。
命乞いでもない。
ただ、これから続く終わりのない一日を理解した者の声だった。
ルミナは、それを見下ろしていた。
細く。
冷たく。
三日月のような笑みを浮かべて。
『神☆罰』
月の女神は、楽しげにそう呟いた。
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