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第二章プロローグ 宣告

その日の朝。


王城の空気は、いつもと少しだけ違っていた。


エミリアは黒を纏い、玉座の間ではなく、執務室にいた。


机の上には、いくつもの書類が積まれている。


街道整備。


神殿建築。


診療所の報告。


北方砦の改修案。


そして、バルディア帝国から届いた一通の書簡。


封蝋には、帝国の紋章が押されていた。


セバスが静かにそれを差し出す。


「エミリア様」


「帝国より、書簡が届いております」


エミリアは、それを受け取った。


指先が封を切る。


紙を開く。


その瞬間。


脳裏に、先ほどの夢がちらついた。


幼いエミリア。


崩れかけた国。


残ってくれたセバス。


そして、かつて届いた帝国からの書簡。


胸の奥で、何かがかすかに反応した。


それがエミリアの記憶の残響なのか。


それとも、この身体に染みついた痛みなのか。


蓮は、それを確かめようとはしなかった。


内側で、エミリアの魂が小さく震える。


だが。


エミリアの顔には、何一つ出なかった。


眉一つ動かさず。


指先も震えず。


ただ静かに、書簡へ目を通す。


そこに記されていた内容は、かつての宣告とよく似ていた。


ローゼンバーグ王国は、己の立場を弁えよ。


帝国の慈悲を拒む愚を悟れ。


邪教へ手を伸ばした罪を悔いよ。


国の存続を望むのであれば、女王エミリアを帝国第2皇子バルカーボ・バルディアのもとへ差し出せ。


愛妾として迎え入れてやる。


そうすれば、ローゼンバーグ王国の処遇について、改めて考えてやらないこともない。


最後まで読み終えたエミリアは、静かに紙を閉じた。


そして、鼻で笑った。


「くだらない」


それだけだった。


室内にいた者達が、わずかに息を呑む。


セバス。


ハルト。


リン。


クロエ。


セリア。


そして、いつの間にか控えていたルミ。


皆が、エミリアの反応を見ていた。


エミリアは、机の上に書簡を放る。


「帝国なんて、今は関係ないわ」


「私は、美しく、楽しい私の国を作るだけ」


「愚者の国の戯言など、無視しなさい」


その声は冷たい。


怒りではない。


怯えでもない。


ただ、価値のないものを価値のないものとして扱う声だった。


リンは、エミリアを見つめていた。


その目が、一瞬だけ合う。


リンの力が、わずかに揺れた。


最近、神癒と読心を使う機会が増えていた。


まだ完全には制御しきれていない。


ほんの少し。


本当に、ほんの一瞬。


リンは、エミリアの内側に触れてしまった。


夢の断片が、流れ込む。


幼いエミリア。


誰にも見られなかった少女。


下手な子守唄を歌うセバス。


帝国からの書簡。


震える手。


神への祈り。


目覚めた時の涙。


そして今。


同じような侮辱を受けても、微塵も顔に出さない蓮。


リンには、そう見えた。


蓮様は、耐えているのだと。


エミリア様の痛みを知り。


知識としてではなく、心で感じてしまい。


それでも、顔に出さないのだと。


帝国の挑発に乗らず、国のために無視を選んでいるのだと。


リンには、そう見えてしまった。


リンは、思わず拳を握る。


だが、エミリアはそんなことなど知らない顔で、別の方へ視線を向けた。


「セバス」


「はい」


老執事が一歩前へ出る。


エミリアは、彼を見た。


昨日までと変わらぬ、穏やかな老執事。


かつてエミリアに笑ってくれた人。


今なお、エミリアの傍に残り続けている人。


内側で、エミリアの魂がわずかに揺れた。


エミリアは、それを無視する。


「ルミが、使用人の仕事を随分と纏められるようになったわ」


「左様でございますね」


セバスは、静かに答えた。


「近頃のルミ様は、私などよりよほど手際がよろしいかと」


「なら、あなたはもう引退しなさい」


その場の空気が止まった。


リンが目を見開く。


ハルトが息を呑む。


セリアも、クロエも、ルミでさえ一瞬だけ黙った。


内側のエミリアが、悲鳴のように声を上げる。


『蓮!?』


エミリアは答えない。


ただ、冷ややかにセバスを見つめる。


「老いた姿は、この王宮に相応しくないわ」


『やめて』


エミリアの魂が震える。


『セバスを追い出さないで』


蓮は、答えなかった。


「それとも、イミタートになる?」


セバスは、一瞬だけ目を伏せた。


長い沈黙だった。


その沈黙の意味を、この場にいる者達は誰も正しく理解できない。


やがて、セバスは静かに頭を下げた。


「恐れながら」


「イミタートになるつもりはございません」


「この老いた身もまた、私がエミリア様と共に歩んできた証でございます」


内側のエミリアが、泣きそうに震えた。


セバスは続ける。


「ですが」


「エミリア様がそれをお望みであるならば」


「このセバス、お暇をいただきましょう」


「セバス殿!」


ハルトが思わず声を上げた。


「エミリア様、これはあまりにも――」


「黙りなさい」


エミリアの声が、鋭く落ちた。


ハルトが口を閉ざす。


だが、その表情には納得できない色があった。


リンも、唇を噛んでいる。


セリアは静かに目を伏せたまま、胸の前で手を握りしめていた。


クロエは無言だった。


ただ、その目だけが、エミリアとセバスを観察している。


エミリアは、周囲の反応を一瞥した。


「煩いわね」


「私が決めたことに逆らうことは許さないわ」


「この話は、これで終わりよ」


『蓮、お願い』


内側のエミリアが訴える。


『セバスだけは』


『セバスだけは、追い出さないで』


蓮は、しばらく答えなかった。


答えれば、エミリアが納得するとは思えなかった。


納得させるための説明を、今ここでするつもりもなかった。


だから、蓮は心の内だけで短く返す。


『私は、必要だと思っていることをしているだけよ』


『でも……』


『今は、それで十分でしょう』


それ以上は言わない。


エミリアの魂が納得していないことは分かっている。


胸の奥で、彼女が泣きそうに震えていることも分かっている。


それでも、蓮は顔色一つ変えなかった。


「帝国の件も、セバスの件も、これ以上騒ぐことを許さない」


「各自、持ち場へ戻りなさい」


誰も納得などしていない。


けれど、エミリアの命令に逆らうこともできない。


セバスは深く一礼した。


「御意にございます」


その穏やかな声だけが、いつもと変わらなかった。



それからしばらく後。


リンは、クロエとセリアを呼び出していた。


場所は、王城の一室。


人払いは済ませてある。


扉が閉まるなり、リンは震える声で言った。


「蓮様は、耐えてる」


セリアが静かに顔を上げる。


「リンさん」


「何を見たのですか」


リンは、自分の胸元を握りしめた。


「見えちゃったんだ」


「少しだけ」


「エミリア様の夢」


クロエの目が細くなる。


「読心かい?」


「たぶん」


リンは頷く。


「目が合った時に、少しだけ流れてきた」


「昔のエミリア様」


「誰にも見てもらえなかったエミリア様」


「セバスさんだけが笑ってくれたこと」


「帝国から、あんな書簡が来たこと」


「神様に祈るしかなかったこと」


セリアの指が、静かに強く握られる。


リンの声は、少しずつ熱を帯びていく。


「蓮様は、それを知ってる」


「エミリア様の記憶として、全部知ってる」


「でも、今日の蓮様は……たぶん、それをただの記憶じゃなくて、エミリア様の痛みとして感じてた」


「……ように、見えた」


クロエが、黙ってリンを見る。


リンは唇を噛んだ。


「本当のところは、分からないよ」


「蓮様の心を全部読めたわけじゃない」


「でも」


「なのに、笑ったんだよ」


「帝国なんて関係ないって」


「無視しなさいって」


「本当は、何か感じていたはずなのに」


セリアは、静かに目を伏せた。


「蓮様は、エミリア様の痛みを背負われた」


「リンさんには、そう見えたのですね」


「うん」


リンは頷いた。


「そう見えた」


「少なくとも、ボクにはそう見えたんだ」


「それに、セバスさんのことも」


クロエが、わずかに目を細める。


「引退の件かい?」


「うん」


リンは唇を噛んだ。


「エミリア様にとって、セバスさんは特別だった」


「蓮様だって、それは分かってる」


「分かってるはずなのに、遠ざけた」


「きっと、これから帝国と何か起きるから」


「セバスさんを巻き込まないように」


「無理して、突き放したんだと思う」


クロエは、しばらく黙っていた。


「推測だねぇ」


「うん」


リンは頷く。


「推測だよ」


「でも、そうじゃなかったら」


「蓮様が、あんなことを言う理由が分からない」


それは、完全な誤解だった。


蓮の本心を、リンは読めていない。


帝国の書簡をどう扱うつもりなのかも。


セバスを遠ざけた本当の理由も。


今この瞬間、何を計算しているのかも。


リンには分からない。


だが、リンが読んだ断片は本物だった。


エミリアの痛み。


セバスへの思い。


帝国の書簡に反応した身体。


そして、それを顔に出さなかった蓮。


断片だけを繋げれば、リンがそう考えてしまうのも無理はなかった。


セリアは、しばらく黙っていた。


やがて、静かに言った。


「蓮様は、エミリア様の願いを守ろうとしておられる」


「エミリア様の国を」


「民を」


「そして、セバス様を」


「けれど、そのために御自分の痛みを押し殺しておられる」


リンは頷く。


「そうだよ」


「でも、そんなの」


「そんなの、おかしいよ」


「蓮様が我慢する必要なんてない」


「エミリア様を傷つけたやつが」


「蓮様にそんな顔をさせたやつが」


「何もされないなんて」


「そんなの、絶対におかしい」


セリアは、聖女のように微笑んだ。


「リンさん」


「はい」


「第2皇子バルカーボは、救済の対象ですね」


リンの表情が固まる。


「……セリア」


「その救済って、ちゃんと生かす方の救済?」


セリアは、穏やかに答える。


「生きて救える魂であれば」


「生きて救済いたします」


「ですが」


「生きたままでは己の罪を理解できない魂もあります」


「エミリア様を傷つけ」


「蓮様の御心を痛め」


「エミリア様の御身を汚れた欲で求め」


「なお、自らを正しいと信じる者」


「そのような魂には、死してルミナ様の御許へ至る道もあるでしょう」


リンは、一瞬だけ黙った。


それから、低い声で言った。


「……今回は止めない」


クロエが、小さく息を吐いた。


「二人とも、随分と熱いねぇ」


リンがクロエを見る。


「クロエは怒ってないの?」


クロエは少しだけ首を傾げた。


「怒っていないように見えるかい?」


その声は、いつも通りだった。


だが、目が冷えていた。


「私は、エミリア様の意志を尊重する」


「蓮様が無視しろと言うなら、表向きは無視する」


「だが」


クロエは、机の上に指を置いた。


「第2皇子本人が勝手に壊れる分には、命令違反ではないだろうねぇ」


リンが目を見開く。


セリアが静かに微笑む。


クロエは淡々と続けた。


「帝国そのものに手を出すなら戦争だ」


「だが、バルカーボ一人に神の罰が下るだけなら、外交事故ではなく宗教的現象で済む」


「少なくとも、こちらが軍を動かしたことにはならない」


「もっとも、帝国がどう解釈するかは別だがねぇ」


リンは、拳を握った。


「それでいい」


「蓮様が動けないなら、ボク達が動く」


セリアは胸に手を当てた。


「エミリア様の痛みを」


「蓮様の御心を」


「見過ごすことはできません」


クロエは、静かに目を細める。


「では、どうする?」


その時だった。


部屋の空気が変わった。


月の冷たさ。


夜の匂い。


死と転生を司る、禍々しくも美しい気配。


リンが息を呑む。


セリアが膝をつく。


クロエが表情を変えぬまま、視線だけを上げる。


どこからともなく、声が響いた。


それは、ルミの声であり。


同時に、禍津神ルミナの声だった。


『愛しいエミリアを』


『私の蓮を』


『随分と安く見たものね』


声は静かだった。


けれど、その静けさの底には、夜よりも深い怒りが沈んでいた。


『リン』


『セリア』


『クロエ』


名を呼ばれた三人が、静かに頭を垂れる。


部屋を満たす気配は、いつもの気まぐれな女神のものではなかった。


世界に死を与え。


魂を導き。


転生の輪を司る、禍津神のものだった。


『あなた達を創造した神として』


『神託を告げるわ』


三人は、息を呑む。


『第2皇子』


『バルカーボ・バルディア』


『神罰を執行なさい』


それは、冗談ではなかった。


気まぐれな悪戯でもなかった。


月と死と転生を司る禍津神が、自らの名において下した正式な神託だった。


リンは、拳を握る。


セリアは、祈るように目を閉じる。


クロエは、静かに唇の端を上げた。


「承ったよ」


クロエが、低く答える。


「問題は、どうやって第2皇子の元へ行くかだねぇ」


リンが顔を上げる。


「帝国まで行くんだよね?」


「ああ」


クロエは頷いた。


「相手は帝国の皇子だ」


「辺境の砦にでもいるならまだしも、おそらくは帝国中枢」


「普通に向かえば時間がかかる」


セリアが静かに眉を寄せる。


「長い間、エミリア様の御許を黙って離れるわけにはいきません」


「うん」


リンも頷く。


「それに、エミリア様に知られたら止められるかもしれない」


「止められるというより」


クロエは、少しだけ肩をすくめた。


「命令されれば、我々は従うしかない」


「だからこそ、早く済ませる必要がある」


クロエは、机の上に指を置いた。


「せめて」


「エミリア様から聞いた、空を飛ぶ乗り物さえ完成していればねぇ」


リンが首を傾げる。


「空を飛ぶ乗り物?」


「エミリア様の世界には、空を飛んで遠くの国へ移動する乗り物があるらしい」


クロエの目に、研究者らしい熱が宿る。


「飛行船」


「飛行機」


「気球」


「原理だけでも実に興味深い」


「だが、今の段階ではまだ構想だ」


「魔導炉の安定性も、浮力制御も、推進機構も、素材強度も足りない」


「残念ながら、今すぐ帝国まで飛ぶには間に合わないねぇ」


リンが唇を噛む。


「じゃあ、どうするの?」


セリアも静かに言った。


「神罰を命じられても、辿り着けなければ意味がありません」


三人が沈黙する。


その沈黙を破ったのは、ルミナの声だった。


『なら、私が送ってあげるわ』


リンが目を瞬かせた。


「送る?」


クロエが、ゆっくりと顔を上げる。


「……転移かい?」


『ええ』


ルミナの声は、どこか楽しげだった。


『あなた達三人を、第2皇子バルカーボ・バルディアの元へ送る』


セリアが目を見開く。


「可能なのですか?」


『本来なら、無理ね』


その言葉に、三人が黙った。


ルミナは続ける。


『帝国は太陽神の影響が強い地』


『別の神の加護が色濃く残る場所へ、私が直接手を伸ばすのは難しいわ』


『まして、帝国の中枢』


『皇子の傍へ、私が創った者達を送り込むとなれば、普通なら太陽神の結界に阻まれる』


リンが眉を寄せる。


「じゃあ、やっぱり無理なんじゃ……」


『本来なら、と言ったでしょう?』


ルミナの声に、三日月のような笑みが混じる。


『蓮が、太陽神の分体を殴り飛ばしたわ』


一瞬。


部屋の空気が止まった。


リンが、何とも言えない顔をする。


「……あれ、やっぱり神様的にもすごいことだったんですね」


『すごいどころではないわ』


ルミナは、心底楽しげに言った。


『痛快だったわ』


『あの一撃で、帝国側に届いていた太陽神の加護は著しく減衰している』


『結界も薄くなった』


『完全ではない』


『隙間がある』


クロエの目が、細くなる。


「なるほどねぇ」


「その隙間を通すわけか」


『ええ』


『帝国全体をどうにかするわけではない』


『軍を送るわけでもない』


『王城を壊すわけでもない』


『狙うのは、第2皇子バルカーボ・バルディアただ一人』


ルミナの声が、静かに落ちる。


『その一点へ、あなた達三人を送る』


『それなら、今の私にもできる』


セリアが顔を上げる。


「ルミナ様」


「それは、御身に大きな負担をかけるものではありませんか」


『それなりに力は使うわ』


ルミナは、あっさりと言った。


『けれど、今回は神罰のためだもの』


『仕方がないでしょう?』


その声は軽い。


けれど、そこにある意思は揺らがなかった。


クロエは、机の上に指を置く。


「なら、移動の問題は解決だねぇ」


「こちらで考えるべきは、神罰の中身だ」


リンが低く呟く。


「エミリア様を傷つけたって、分からせないと」


セリアが静かに続ける。


「己が何を侮辱したのか」


「誰に欲を向けたのか」


「何を踏みにじろうとしたのか」


「魂に刻む必要があります」


クロエは、楽しげに笑った。


「では、壊し方を考えようか」


「殺すのではなく」


「ただ生かすのでもなく」


「帝国が見て、理解できる形にする」


リンが頷く。


「バルカーボだけに罰を下す」


「でも、帝国全体に意味が伝わるように」


セリアは目を閉じる。


「これは、復讐ではありません」


「神罰です」


「ならば、罪にふさわしい形が必要です」


クロエは小さく肩をすくめた。


「復讐でもあると思うがねぇ」


「まあ、言い方は大事だ」


その場にいた三人と一柱は、静かに計画を詰め始めた。


いつ送るか。


誰が最初に動くか。


何を持ち込むか。


どの程度まで干渉するか。


第2皇子本人だけを対象にするのか。


周囲の者にどこまで見せるのか。


神罰として、何を残すのか。


それは、あまりにも静かな相談だった。


けれど、その内容は、帝国の皇子一人の運命を決定づけるには十分すぎるものだった。



その少し前。


エミリアは、自室で水差しに手を伸ばしていた。


だが、水差しは空だった。


「……ルミ」


呼んでも、返事はない。


いつもなら、妙な気配と共にすぐ現れるはずのメイドが、今日は姿を見せなかった。


エミリアは、少しだけ眉を寄せる。


「どこへ行ったのかしら」


仕方なく、自分で部屋を出る。


廊下は静かだった。


夜の城は、昼間とは違う顔をしている。


足音が、石造りの廊下に小さく響いた。


しばらく歩いたところで。


エミリアは、ふと足を止めた。


一室の扉の向こうから、聞き覚えのある声がした。


リン。


セリア。


クロエ。


そして、ルミナ。


エミリアは、扉の前で静かに立ち止まる。


中から漏れる声を聞くつもりはなかった。


だが。


『第2皇子』


『バルカーボ・バルディア』


『神罰を執行なさい』


その言葉が聞こえた瞬間。


エミリアの目が、わずかに細められた。


続く会話を、エミリアは黙って聞いた。


移動手段に悩む三人。


空を飛ぶ乗り物への未練。


ルミナによる転移。


帝国に届く太陽神の加護。


蓮が太陽神の分体を殴り飛ばしたことによる、結界の減衰。


その隙間を使い、第2皇子の元へ三人を送り込む計画。


そして、神罰の内容。


ドールズ達の怒り。


ルミナの怒り。


エミリアは、しばらく無言で扉を見つめていた。


そして。


薄く笑った。


「幹部の暴走」


声は、小さかった。


けれど、その響きには愉悦があった。


「悪としては……ありね」


内側で、エミリアの魂が小さく震える。


『止めないのですか?』


「止める理由があるかしら」


『でも』


エミリアの魂は、戸惑うように言った。


『皆さん、蓮のために怒ってくれているのですよね』


「私のために、と言っているけれど」


エミリアは、肩をすくめる。


「とんだ勘違いね」


『勘違い、なのですか?』


「ええ」


「私が何も考えずに無視しろと言ったとでも思っているのかしら」


『では、何かお考えが?』


「貴方に説明しても、今は泣くか怒るだけでしょう」


『……ひどいです』


「事実よ」


蓮は、扉の向こうをもう一度見た。


リン達が読んだものは、断片に過ぎない。


自分の本心を正しく理解したわけではない。


セバスを遠ざけた理由も。


帝国を無視しろと言った理由も。


これからどう動かすつもりなのかも。


彼女達は、何一つ正しく掴んでいない。


ただ、エミリアの痛みを見た。


蓮が心を痛めているに違いないと、彼女達は思い込んだ。


だから怒った。


だから暴走した。


「本当に、困った下僕達だわ」


そう呟く声には、呆れがあった。


けれど、怒りはなかった。


内側のエミリアが、ぽつりと言う。


『でも』


『私のことで、怒ってくれているので』


『少し、嬉しいです』


エミリアは、黙った。


ほんの少しだけ、目を伏せる。


そして、ため息をついた。


「……貴方は、本当に甘いわね」


『そうでしょうか』


「そうよ」


エミリアは、扉の向こうを見つめる。


リン。


セリア。


クロエ。


ルミナ。


彼女達は今、自分達の主のために、皇子一人を壊す相談をしている。


忠誠。


怒り。


信仰。


研究欲。


神の嫉妬。


その全てが混ざり合って、勝手に動き出そうとしている。


普通なら、止めるべきなのだろう。


けれど。


エミリアは、普通の王ではない。


「私の美学に反しない限りは、好きにするといいわ」


エミリアは、小さく笑う。


「もっとも」


「計画には、変更が必要だけれど」


『変更、ですか?』


「ええ」


エミリアは踵を返した。


水を取りに来たことなど、もう忘れていた。


「勝手に暴走するなら、せめて美しく暴走してもらわないと困るもの」


そう言って、エミリアは自室へ戻っていく。


廊下に残ったのは、静かな足音だけ。


扉の向こうでは、まだ三人と一柱が神罰の計画を話し合っている。


彼女達は、まだ知らない。


自分達の暴走を。


その主が、扉の外で聞いていたことを。


そして。


その暴走すら、悪の女王の盤面へ組み込まれ始めていることを。





自室へ戻ったエミリアは、静かに扉を閉めた。


水を取りに出たはずだった。


だが、そんなことはもうどうでもよかった。


エミリアは窓辺へ歩み寄り、夜の王城を見下ろす。


月明かりが、黒いドレスの裾を淡く照らしていた。


「さて」


エミリアは、楽しげに唇を吊り上げる。


「プレリュードに修正が必要になったわ」


「どうしようかしら」


内側で、エミリアの魂が小さく首を傾げる気配がした。


『プレリュード……?』


『作曲ですか?』


『でしたら、私も手伝いますよ』


その声は、どこまでも素直だった。


エミリアは、ほんの少しだけ目を伏せる。


「そうね」


「貴方にも、手伝えることはあるでしょう」


『本当ですか?』


エミリアの魂が、少しだけ明るくなる。


だが、蓮は静かに続けた。


「でも、これからは悪の時間なの」


『悪の、時間……?』


「ええ」


エミリアは、自分の胸元へ手を当てる。


まるで、そこにいるもう一人の少女へ語りかけるように。


「貴方は少し、お休みなさい」


『え?』


エミリアの魂が戸惑う。


『蓮?』


「心配しなくていいわ」


「必要な時には、また起こしてあげる」


『待ってください』


『私は――』


その声は、そこで遠ざかっていった。


眠りに落ちるように。


深い水底へ沈み込むように。


エミリアの魂は、蓮の内側の奥深くへと静かに沈んでいく。


抗う力はない。


苦しみもない。


ただ、意識だけが柔らかく閉ざされていく。


やがて、その声は聞こえなくなった。


部屋に残ったのは、蓮だけだった。


いや。


黒薔薇の女王、エミリアだけだった。


「まったく」


エミリアは、小さく息を吐く。


「甘い子ね」


大きな計画を練る時、蓮は一人で考える方が早い。


エミリアの魂は、邪魔ではない。


けれど、雑音にはなる。


民が傷つくことを恐れ。


セバスを失うことに怯え。


誰かが犠牲になる可能性を想像するたび、胸の奥で震える。


その感情は、美しい。


だが、計算には不要だった。


盤面を見る時に必要なのは、憐れみではない。


駒の位置。


敵の欲。


味方の暴走。


愚者が踏むであろう道筋。


そして、最も美しく勝つための手順。


だから蓮は、大きな策を組む時だけ、エミリアの魂を奥へ沈めるようになっていた。


眠っている間のことを、彼女は知らない。


ゆえに。


エミリアの中には、少しずつ知らないことが増えている。


「貴方が泣いても、盤面は動かないもの」


エミリアは、窓の外の月を見上げた。


「なら、今は眠っていなさい」


窓の外には、月が浮かんでいる。


王城の中では、リン達が神罰の計画を練っている。


帝国は、まだ何も知らない。


第2皇子バルカーボ・バルディアも、自分の身に何が迫っているのか理解していない。


エミリアは、指先で窓枠をなぞった。


「あの娘達がどんなことをするか、まだ分からないけれど」


「結果は、あまり変わらなそうな気がするわね」


問題は、そこではない。


第2皇子に神罰が下る。


帝国は、それをどう受け取るか。


怒るか。


怯えるか。


面子を潰されたと感じるか。


神の争いだと見るか。


それとも、ローゼンバーグ王国の謀略だと決めつけるか。


エミリアは、楽しげに目を細めた。


「インテルメッツォは修正が必要かしら」


予定していた旋律に、余計な音が混じった。


けれど、不協和音とは限らない。


使い方次第では、曲はより美しくなる。


より悪辣に。


より華やかに。


より愚者を踊らせるものになる。


エミリアが楽しげに計画を練っていると。


部屋の隅で、闇が動いた。


燭台の明かりが届かない場所。


月明かりからも外れた、黒い影の底。


そこにある闇が、わずかに揺れた。


人の形をしているようにも見えた。


けれど、人ではない。


声はない。


気配も薄い。


まるで、最初からそこに存在していなかったものが、ただ一瞬だけ輪郭を持ったかのようだった。


エミリアは、振り返らない。


ただ、窓の外を見たまま言った。


「そうね」


「仕込みが必要になるかもしれないわ」


闇は答えない。


けれど、沈黙は肯定に似ていた。


エミリアは、薄く笑う。


「でも、現状で大きく変更することはないわ」


「駒が勝手に動き出しただけ」


「盤面そのものは、まだ崩れていない」


月明かりが、エミリアの横顔を照らす。


美しく。


冷たく。


どこまでも楽しげに。


「何かあったら、私が指揮棒を振るうわ」


闇が、わずかに揺れた。


それは礼だったのか。


了承だったのか。


あるいは、ただの夜風だったのか。


誰にも分からない。


次の瞬間。


部屋の隅にあった闇は、音もなく薄れていく。


名を持たぬ影は。


夜の帷へ、静かに溶けていった。


エミリアは、一人残された部屋で、楽しげに微笑む。


「さあ」


「愚者達には、どんな旋律で踊ってもらおうかしら」


第二章の幕は、まだ上がったばかりだった。


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