閑話 黒薔薇パン
それは、ある日の朝食の席で起きた。
王城の食堂。
長い食卓の上には、スープ、焼いた肉、温野菜、果物、そして大きな籠に盛られたパンが並んでいた。
エミリアはそのうちの一つを手に取り、何気なく口へ運ぶ。
そして。
噛んだ。
「……」
固かった。
とても、固かった。
表面は石のように乾き、中は詰まり、噛みしめるたびに顎へ抵抗が返ってくる。
スープに浸せば食べられないことはない。
だが、エミリアにとってそれは、許容できるものではなかった。
エミリアは静かにパンを皿へ戻す。
その場の空気が、わずかに凍った。
ルミは何も言わず紅茶を注ぐ。
クロエは嫌な予感を覚えたように、そっと視線を逸らした。
料理人達は固唾を呑む。
エミリアは、ゆっくりと口を開いた。
「こんな硬いパンは食べられないわ」
それが、ローゼンバーグ王国に新たな改革が始まった瞬間だった。
◇
「柔らかいパン、ですか?」
料理長は困惑した顔で聞き返した。
「そうよ。白くて、柔らかくて、噛めば小麦の甘みが広がるパン」
「白いパンならば、貴族向けに焼くことはございますが……」
「違うわ。もっと柔らかいものよ」
「もっと、でございますか」
料理長は難しい顔をした。
この世界にも柔らかいパンは存在する。
だが、それは高価な白い小麦粉を使い、運よく良い発酵ができた時に作れる贅沢品だった。
毎回同じように焼けるものではない。
ましてや、エミリアの言うような、ふわりと沈んで戻るパンなど、料理長の知る限り存在しなかった。
「クロエ」
「はい!」
呼ばれたクロエは、待ってましたとばかりに顔を輝かせる。
「小麦をもっと細かく挽く道具を作りなさい。それと、生地を均一にこねる道具も」
「細かく挽く道具と、こねる道具ですね!」
「危険なものにはしないように」
「もちろんです!」
その返事を聞いた時点で、エミリアは少しだけ嫌な予感がした。
そして、その予感は正しかった。
翌日。
試作された高速回転式魔導ミルは、実験開始から十秒で制御を失い、轟音と共に台座から外れた。
「きゃあああああ!?」
「止めなさい! 止めなさいクロエ!」
「止まりません! 遠心力が予想以上です!」
高速回転するミルは、粉を撒き散らしながら作業場の中を暴れ回り、最終的に窓から外へ飛んでいった。
白い粉煙を尾のように引きながら、空へ。
それを見上げたオルガが、遠い目をした。
「……今、何か飛んでったな」
クロエは真っ白な顔と真っ白な髪で、胸を張った。
「改善点が見つかりました!」
「見つける前に止めなさい」
エミリアは額を押さえた。
◇
それでも、開発は進んだ。
ミルは低速化され、石臼よりも細かく、安定して小麦を挽けるようになった。
生地をこねる魔導ミキサーも、最初は桶ごと回転して天井に生地を貼り付けたが、三度目の改良でようやく実用に耐えるものになった。
次の問題は、発酵だった。
「パンが膨らむ仕組みには、目に見えない小さなものが関わっているはずよ」
エミリアがそう言うと、リンが静かに頷いた。
「薬の知識にも近いものがあります。腐敗と発酵は似ていますが、同じではありません。清潔に管理すれば、安定したパン種を作れるかもしれません」
「なら、任せるわ」
「はい」
そこから、リンの指導が始まった。
器具は煮沸する。
余計な汚れを入れない。
温度を一定に保つ。
湿度を見極める。
使えるパン種と、使えないパン種を分ける。
料理人達は最初こそ戸惑っていたが、リンの説明が具体的であることもあり、少しずつ発酵の扱いを覚えていった。
クロエは温度管理用の小型魔導箱を作った。
ただし最初の試作品は、温度が上がりすぎて中のパン種が煮えた。
二号機は冷えすぎて眠った。
三号機はなぜか淡く光った。
四号機で、ようやく安定した。
「……貴方達、パンを作っているのよね?」
エミリアが呟く。
クロエは笑顔で答えた。
「はい! とても楽しいです!」
「でしょうね」
さらに、蜂蜜とバターの確保も始まった。
蜂蜜は養蜂を広げる。
バターは酪農家に製法を整えさせる。
牛乳を分離し、攪拌し、脂肪分を固める。
これにもまた魔導ミキサーが使われた。
途中、バターを作るはずの桶が暴走し、部屋一面に乳脂肪を撒き散らした事件もあったが、それは小さな犠牲として処理された。
料理長は泣いていた。
主に掃除の手間で。
◇
何度も失敗した。
膨らまない。
酸っぱい。
生焼け。
焦げる。
硬い。
柔らかいが崩れる。
味が薄い。
蜂蜜を入れすぎて焦げる。
バターを入れすぎて油っぽくなる。
それでも試行錯誤は続いた。
そして、ついに。
料理長が、両手で皿を運んできた。
皿の上には、丸く焼かれた白いパンが載っている。
表面は薄く焼き色がつき、中は柔らかそうに膨らんでいた。
エミリアは指先で軽く押す。
生地が沈み、すぐにゆっくりと戻った。
一口、食べる。
小麦の香り。
ほのかな甘み。
バターの風味。
噛めば柔らかく、従来の硬いパンとはまるで違う。
エミリアは静かに頷いた。
「及第点ね」
その一言に、料理人達は歓声を上げた。
「やりました!」
「完成だ!」
「これなら子供でも老人でも食べられるぞ!」
料理長は感極まったように目を潤ませた。
「これは革命です、エミリア様!」
「そう」
「ぜひ、このパンを王国御用達エミリアパンとして広めましょう!」
「却下」
食堂が静まり返った。
料理長が瞬きをする。
「……はい?」
「名前が悪いわ」
エミリアは白いパンを見下ろす。
「味は悪くない。けれど、白は嫌ね。それに、私の名前を気軽に商品名に使わないで」
「で、では、どのように……」
エミリアは少し考えた。
そして呟く。
「黒くしましょう」
「黒く、でございますか?」
「黒糖でも練ればよかったのかしら」
その言葉に、リンが顔を上げた。
「黒糖そのものではありませんが、似たものならあります」
「あるの?」
「はい。薬湯の苦みを和らげるために使う、黒蜜草という薬草があります。甘みと独特の香りがあり、滋養もあります」
クロエの目が輝いた。
「つまり、白パンの製法を基礎に、黒蜜草を練り込むのですね!」
エミリアはクロエを見る。
「焦がして黒くするのは違うわよ」
「分かっています! たぶん!」
「その返事をやめなさい」
◇
第二の試行錯誤が始まった。
黒蜜草は扱いが難しかった。
入れすぎれば癖が強くなる。
少なすぎれば色が出ない。
発酵も白パンより不安定になる。
リンは配合を調整し、料理人達は何度も焼き直し、クロエは魔導窯の温度を細かく変えた。
そして数日後。
黒褐色の柔らかなパンが、エミリアの前に置かれた。
白パンほど素直な味ではない。
だが、ほのかな甘みがある。
香ばしさがある。
わずかな癖も、従来の黒パンとは違う深みになっている。
エミリアは一口食べた。
料理人達が息を呑む。
リンも、クロエも、ルミも、その反応を見守っている。
エミリアはゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。
そして言った。
「改良が必要ね」
料理人達の顔が強張る。
エミリアは続ける。
「けれど、食べられないわけではないわ」
その瞬間、料理人達は歓喜した。
「おおおおお!」
「認められた!」
「女王陛下が食べられると仰ったぞ!」
「これは売れる!」
クロエも拳を握る。
「成功ですね!」
リンも小さく微笑んだ。
「よかったです」
ただ一人、エミリアだけが不満そうにパンを見ている。
「もう少し柔らかくできるはずよ。香りも調整したいわ。甘みも強すぎると下品になるし、色ももっと美しくしたいわね」
その場にいた全員が、同じことを思った。
この方の及第点は、王国の革命である。
料理長が恐る恐る尋ねる。
「それで、陛下。このパンの名は……」
エミリアは、黒褐色のパンを見つめた。
柔らかく、甘く、黒く、香る。
悪くない。
少なくとも、白くて自分の名を冠したパンよりは、ずっといい。
エミリアは満足げに微笑んだ。
「黒薔薇パン」
こうしてローゼンバーグ王国に、新しい名物が生まれた。
白く柔らかな白パン。
そして、黒く甘い黒薔薇パン。
後に王国中の食卓を変えるその改革は、ただ一人の女王が朝食のパンに不満を抱いたことから始まったのである。
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