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閑話 愚かな皇子と北の鍵

申し訳ありません、修整前のものを投稿していたので5:31に修整させていただきました

バルディア帝国。


その帝宮の一室で、第2皇子バルカーボ・バルディアは、退屈そうに報告書を眺めていた。


豪奢な椅子。


磨き上げられた机。


壁に飾られた帝国の紋章。


その全てが、彼の身分を示している。


バルカーボは、第一皇妃の子だった。


血筋だけで言えば、極めて正統な皇子である。


皇帝からも、第一皇妃からも、宮廷の一部からも甘やかされ、愛されて育った。


望めば与えられた。


怒れば誰かが頭を下げた。


間違えても、周囲が正しいことにした。


だからバルカーボは、いつしか信じるようになった。


自分には価値がある。


自分は尊ばれて当然だ。


格下の者は、自分に従うべきだ。


その自信に、実力が伴っているかどうかなど、考えたこともなかった。


第1皇子は違った。


妾腹の子でありながら、帝国の英雄と呼ばれた男。


西方侵攻軍を率い、数々の戦果を挙げ、兵にも貴族にも支持された皇子。


血筋では、バルカーボの方が上だった。


だが、帝国中が称えたのは第1皇子だった。


それが、バルカーボには気に入らなかった。


妾腹の兄が英雄と呼ばれ、第一皇妃の子である自分が軽んじられる。


そんなことがあっていいはずがない。


もっとも、その第1皇子はすでに戦死している。


ならば次は、自分が正当に重んじられる番だ。


バルカーボは、そう思っていた。


現実には、第3皇子や第5皇子の方が政治と軍事の中枢で重んじられていたが。


それを認める気は、バルカーボにはなかった。


「ローゼンバーグ王国が、邪教に手を出しただと?」


バルカーボは、鼻で笑った。


報告は、神殿経由で上がってきたものだった。


かつて太陽神教の影響下にあったローゼンバーグ王国が、禍津神ルミナを祀り始めた。


王都の神殿を作り替え。


邪神の名を掲げ。


神官達の一部を取り込み。


新たな教えを民に広めようとしている。


そう記されていた。


「愚かな国だ」


バルカーボは、報告書を机に放る。


神殿に目をつけられた小国など、終わったも同然だ。


まして、ローゼンバーグ王国は滅びかけの弱小国。


帝国が本気を出すまでもない。


太陽神教から睨まれ、周辺国から見捨てられ、民は飢え、王都は荒れ、最後には自壊する。


バルカーボは、心の底からそう思っていた。


「つくづく無能な国だな」


側近達は、黙って頭を下げている。


誰も、皇子の言葉に異を唱えない。


バルカーボは、それを当然のこととして受け取っていた。


「それで?」


「例の無能姫はどうしている」


側近の一人が、一枚の姿絵を差し出す。


「こちらが、ローゼンバーグ王国のエミリア姫にございます」


バルカーボは、何気なくそれを受け取った。


そして。


その目が、変わった。


絵の中に描かれていたのは、美しい少女だった。


白い肌。


繊細な顔立ち。


整いすぎた容貌。


王族らしい気品。


それでいて、見る者の欲を煽るほど整った身体の線。


滅びかけた小国の姫などと呼ぶには、あまりにも美しい。


バルカーボの口元が、醜く歪んだ。


「……国は要らぬ」


彼は、姿絵の上に指を滑らせる。


「だが、この女だけは惜しいな」


側近達の表情が、わずかに強張る。


だが、バルカーボは気にしなかった。


彼の中では、すでに結論が出ていた。


邪教に手を出した国など、救う価値はない。


だが、その国に咲いた美しい花だけは、摘み取る価値がある。


滅びる国の姫。


邪教に縋った無能姫。


それを帝国皇子である自分が拾ってやるのだ。


むしろ慈悲と言っていい。


「書簡を出せ」


バルカーボは、姿絵を眺めたまま命じた。


「ローゼンバーグ王国へ、最後の慈悲を与えてやる」


「は……」


側近が、慎重に頭を下げる。


「どのような内容にいたしましょうか」


バルカーボは笑った。


「分からぬか?」


その声には、下卑た愉悦が滲んでいた。


「身の程を思い知らせてやるのだ」


「滅びかけた小国が、帝国の慈悲を拒めるはずもない」


「無能姫には、自分の価値というものを理解させてやれ」


側近は、その内容を聞いた瞬間、わずかに息を止めた。


だが、口を挟むことはしない。


第一皇妃の子であるバルカーボに逆らうことは、あまりにも面倒だった。


「……御意」


側近は、深く頭を下げる。


バルカーボは、満足げに姿絵を見下ろした。


「せいぜい感謝するがいい」


「帝国皇子である私が、直々に慈悲を与えてやるのだからな」


その言葉が、どれほどの愚行であるのか。


その欲が、何を踏みにじろうとしているのか。


バルカーボは、まだ知らない。


彼はただ、滅びかけた小国へ書簡を送ったつもりでいた。


自分の価値を示すため。


自分の欲を満たすため。


そして、第一皇妃の子である自分に相応しい扱いを、弱国へ思い知らせるため。


その紙切れが。


帝国の運命を、大きく狂わせることになるとも知らずに。



その頃。


ローゼンバーグ王城では、エミリアが北方の地図を見下ろしていた。


机の上に広げられているのは、王国北部の地形図。


国境砦。


山脈。


街道。


古い関所。


帝国へ続く道。


それらを見つめるエミリアの目は、静かだった。


だが、その内側では、いくつもの情報が組み合わされている。


セリアの身体を通して得た記憶。


太陽神教の動き。


帝国貴族の紋章。


北へ続く街道。


古い砦。


形式的な検問。


老朽化した門。


少ない守備兵。


地図には載っていない山道。


かつて目を通した国境砦の報告書。


王都へ届いていた商人達の記録。


帝国との古い外交文書。


それらは、本来なら別々の場所に散らばっている、取るに足らない情報だった。


普通なら、読み流され、忘れられ、埋もれていく断片。


だが、エミリアは違う。


一度でも目を通したものを、彼女は忘れない。


書類の端に書かれた一文。


地図の片隅に引かれた細い線。


古い報告書に残された、何気ない数字。


商人が残した曖昧な地名。


それらが、セリアの記憶をきっかけに、エミリアの中で一つの形を取り始めていた。


「玄関の鍵が、随分と古いわね」


エミリアは、誰に聞かせるでもなく呟いた。


帝国が何を考えているのか。


そこまでは、まだ分からない。


だが、愚者が土足で踏み込んでくる可能性があるのなら、玄関くらいは整えておくべきだ。


この国は、すでにエミリアの王国である。


勝手に踏み込まれ。


勝手に荒らされ。


勝手に奪われるなど、あってはならない。


「私の国へ入るなら」


エミリアは、薄く笑った。


「私が用意した門から入りなさい」


しばらくして、クロエが呼び出された。


「来たよ、エミリア様」


黒い魔導師服を纏ったクロエが、軽く一礼する。


エミリアは机の上へ、一枚の設計案を広げた。


「見なさい」


クロエは、それを覗き込む。


次の瞬間。


息を止めた。


「これは……」


そこに描かれていたのは、ただの砦の改修案ではなかった。


防壁。


魔導障壁。


射撃孔。


地下導線。


補給庫。


兵の動線。


退避路。


偽装区画。


見た目だけは古い砦の延長に見せながら、内部構造はまるで別物へ作り替えるための設計。


さらに、クロエにしか理解できない魔導兵装の余白が、あちこちに残されている。


それは、砦ではない。


北から来る愚者を迎えるための、巨大な罠だった。


クロエの目が、設計案に吸い寄せられる。


「ふむ……」


クロエは、設計案の上を指でなぞった。


「この位置に魔導炉を置けば、障壁は展開できるねぇ」


「ただ、常時展開は無理だ」


「今の魔導炉では出力が足りない」


「安定性も足りない」


「悔しいが、短時間の展開が限界だねぇ」


「いいえ」


エミリアは、当然のように言った。


「短時間で十分よ」


クロエの指が止まる。


「……短時間で?」


「ええ」


エミリアは、北方の地図へ視線を落とした。


「門というものは、常に閉ざしておく必要はないわ」


「招き入れたい時に開き」


「閉じ込めたい時に閉じればいい」


「要は、使い方次第よ」


クロエは、一瞬だけ黙った。


それから、唇の端をゆっくりと吊り上げる。


「なるほど」


「常時守るための障壁ではなく」


「敵を通す場所と、通さない瞬間を選ぶための障壁か」


「悪趣味だねぇ」


「褒め言葉として受け取っておくわ」


クロエの目が、さらに熱を帯びていく。


「この射撃孔……いや、これは射撃孔ではないねぇ」


「兵器の固定台座だ」


「連射機構を想定している」


「それに、この空間」


「退避路に見せかけて、補給路にも使える」


「逆に敵を誘導して閉じ込めることもできる」


「ふふ」


クロエは、設計案から目を離さないまま笑った。


「これは砦ではないねぇ」


「北から来る愚者を迎えるための、巨大な実験場だ」


「罠と言いなさい」


「罠か」


クロエは楽しげに頷いた。


「いい響きだ」


「作れるかしら」


「作れる」


クロエは即答した。


「だが、資材が要る」


「人員も」


「魔石も」


「鉄も」


「魔導炉の試作品も」


「通常予算では、とても足りないねぇ」


「でしょうね」


エミリアは、当然のように微笑んだ。


「予算は好きなだけ使っていいわ」


その瞬間。


クロエの顔が変わった。


普段の理知的な表情が崩れる。


熱に浮かされたように頬がわずかに染まり、目は潤み、設計案を見つめる視線には、恋焦がれるような色が宿っていた。


「……好きなだけ」


「ええ」


「本当に?」


「二度言わせないで」


クロエは、設計案を胸に抱いた。


まるで、恋文を受け取った少女のように。


あるいは、長年追い求めていた禁断の研究許可を与えられた魔導師のように。


「エミリア様」


「なにかしら」


「私は、今すぐ研究所へ戻るよ」


「許可するわ」


クロエは一礼した。


だが、その動きはいつもよりわずかに速い。


顔を上げた時には、すでに意識の半分以上が研究所へ飛んでいるようだった。


「必ず、期待には応える」


「ええ」


「美しく作りなさい」


「もちろんだとも」


クロエは、設計案を抱えたまま部屋を出ていった。


ほとんど駆け出すような背中だった。


その背を見送りながら、エミリアは少しだけ目を瞬かせる。


「……あんな顔、できるのね」


思わず、胸が小さく跳ねた。


エミリアは、自分の反応に少しだけ眉を寄せる。


そして、小さく息を吐いた。


「思わず、どきっとしたわ」


誰に聞かせるでもない呟きは、静かな部屋に溶けて消える。


北の地図は、まだ机の上に広げられたままだった。


帝国は、まだ知らない。


自分達が見下している小国の女王が、すでに北の鍵を閉め直し始めていることを。


そして、その鍵が。


ただ閉ざすためのものではなく。


踏み込んだ愚者を逃がさないためのものだということを。


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