第三薔薇人形 セリア 挿絵有 改稿
だいじな所で抜けている部分がありましたので修整しました
黄金の光が砕け散り、仮設礼拝堂の中に静寂が戻る。
次の瞬間。
セリアの身体から抜け出した蓮の魂は、ふわりと宙を滑り、そのままエミリアの身体へと戻っていった。
閉じていた瞼がゆっくりと開く。
ルミの腕の中で目を覚ましたエミリアは、数度瞬きをしたあと、自分の指先を持ち上げた。
細く白い指。
滑らかな腕。
そのまま確かめるように首筋へ触れ、肩を撫で、胸元を軽く押さえる。
さらに、ほんの少しだけ躊躇なく、より秘めた場所へと指を滑らせた。
「……んっ」
艶っぽい吐息が漏れる。
そして。
エミリア――いや、その中にいる蓮は、うっとりとした表情で小さく笑った。
「やっぱり、この身体が一番ね」
その言葉に、身体の奥からすぐさま反発が返ってくる。
(……一番じゃないです)
(心配したんですよ)
蓮は、心の中で小さく眉を上げた。
(心配したのか?)
(当たり前です)
返ってきた言葉は、思いのほか真っ直ぐだった。
蓮は一瞬だけ黙り、それから面白そうに喉を鳴らす。
くすりと笑う声は、どこか楽しげだった。
「そう」
そんなやり取りをしている横で、ルミが深く息を吐く。
けれど、その声音はいつもよりわずかに熱を帯びていた。
「非常識すぎるわ」
「神に真正面から対峙するなんて、あまりにも非常識なことをしてくれたものね」
呆れたような口調だった。
だが、その瞳の奥には、隠し切れない愉悦が揺れている。
「でも」
ルミは、妖しく唇を吊り上げる。
「あの気に食わない太陽神をぶっ飛ばしたのは、楽しかったわ」
「ええ、とても」
エミリアは、その表情を見て目を細めた。
「……ルミ?」
「なんだか、少し様子が変わったかしら?」
ルミは答えない。
ただ、読めない笑みを浮かべるだけだった。
それから、くすりと笑って首を傾ける。
「あなたに魅了されているから、と言ったら信じるかしら?」
禍々しくも美しいその微笑みに、エミリアは一瞬だけ沈黙した。
何とも言えない間が落ちる。
だが今は、その意味を追及している場合ではなかった。
エミリアは軽く肩を竦めると、すぐに本題へ意識を戻す。
「それより」
「セリアはどうなったのかしら」
床へ視線を向ける。
そこには、倒れたままのセリアがいた。
白い衣の裾を乱し、長い睫毛を伏せたまま、まだ意識を取り戻していない。
しばらくして。
その身体が、ぴくりと小さく震えた。
ゆっくりと瞼が開く。
焦点の合わない瞳が、やがてまっすぐエミリアを捉えた。
その瞬間。
セリアの表情が、とろけるように崩れる。
まるで神託でも受けたかのような、陶酔した微笑みだった。
「……蓮さま……」
掠れた声で紡がれたその名に、エミリアはすぐさま眉をひそめる。
「その呼び方は却下よ」
立ち上がり、黒い髪をかき上げながら、傲然と顎を上げる。
「この姿で呼ぶなら、その名前ではないわ」
「悪の女王たるに相応しい名があるでしょう?」
セリアは、はっとしたように息を呑む。
エミリアは唇を吊り上げた。
「エミリアよ」
その名を告げる声音は、どこまでも堂々としていた。
セリアはすぐに上体を起こし、深く頭を垂れる。
「そうでしたね……」
「あなたの望みそのもの」
「悪の女王陛下、エミリア様」
その声には、もはや迷いがなかった。
インティの神官としての義務でもない。
惰性でもない。
自ら選び取った熱が、そこにはあった。
「約束通り」
「私は、あなたに仕えます」
エミリアは満足げに笑う。
「よろしい」
「では、私のために働きなさい」
「私の夢を叶えるために」
「私の国を、もっと美しくするのよ」
セリアは熱に浮かされたような瞳で見上げた。
「あなたの命ずるままに」
「なんとでも……」
その忠誠は、真摯だった。
だが同時に、危うくもあった。
だからこそ。
エミリアは、そこでわざと薄く笑った。
「でも、一つだけ訂正しておくわ」
セリアが目を瞬かせる。
エミリアはゆっくりと告げた。
「私は、私の国は救うなんてことはしないわ」
静かな言葉だった。
けれど、その一言は重かった。
セリアの表情がわずかに揺らぐ。
「え……」
「ですが、貴女は……」
「勘違いしないことね」
エミリアはぴしゃりと言い切る。
「私は、可哀想だから手を差し伸べるわけじゃない」
「善意で動いているわけでもない」
「私がやりたいからやる」
「私にとって都合がいいから整える」
「私の下僕が、私のために気持ちよく働ける国にしたいだけよ」
セリアは息を呑んだまま、言葉を失う。
エミリアは、その反応を見てさらに嗤った。
「でも」
「あなたは別よ」
「私のドールズとして、私に反逆してみなさい」
「あなたの意思で」
「あなたの願いで」
「勝手に人を救えばいいわ」
「それを、特権として与えてあげる」
「……は?」
セリアは完全に虚を突かれた顔をした。
「わ、私は」
「あなたの夢のために尽くすと――」
「また、そうやって自分を殺すのかしら?」
エミリアの声が、鋭く割って入る。
セリアはびくりと肩を震わせた。
エミリアは一歩、近づく。
漆黒のドレスを揺らしながら、まっすぐにセリアを見下ろした。
「いいこと?」
「私の下僕なら、好きなことをやりなさい」
「やりたいことをやって、その結果で私を喜ばせなさい」
「私を楽しませるのよ」
「それがドールズの存在意義だわ」
セリアの瞳が、大きく揺れる。
神に仕え。
秩序に従い。
義務の中で生きてきた自分には、理解できないはずの言葉だった。
なのに。
そのはずなのに。
胸の奥が、どうしようもなく熱かった。
自分の願いを。
自分のまま持っていていいと。
それを命令ではなく、許しではなく、特権だと言って差し出される。
そんなものを、セリアは知らなかった。
知らなかったからこそ。
抗えなかった。
セリアは、改めて深く頭を垂れる。
「……承知しました」
「エミリア様」
「私は、私の意思で」
「貴女に相応しい悪となりましょう」
その声は震えていた。
けれどそれは恐怖ではなく。
ようやく手に入れた熱に、心が打ち震えているのだった。
◇
セリアが目を覚ました時、最初に感じたのは、ひどく静かな感覚だった。
痛みはない。
熱もない。
太陽神インティの光に焼かれていた時のような、胸を抉るような圧迫感も消えている。
代わりにあったのは、奇妙なほど澄み切った意識だった。
「……」
セリアは、ゆっくりと瞼を開いた。
見慣れない天井。
白く柔らかな布。
清潔な寝台。
そして、自分の身体にかかる薄い掛布。
ここは、仮設礼拝堂ではない。
王城の一室だ。
セリアはしばらくぼんやりと天井を見上げていた。
やがて、自分がまだ存在していることに気づく。
魂だけになったはずだった。
身体は消えかけていた。
太陽神を宿した代償として、元の肉体は崩れ落ちていった。
その最後の記憶が、かすかに残っている。
そして。
禍津神ルミナの手に、魂を包まれた感覚も。
「……新しい、身体」
セリアは、小さく呟いた。
その声は、確かに自分のものだった。
けれど、以前よりも澄んでいる。
柔らかく、静かで、どこか深い響きがあった。
セリアは、ゆっくりと身を起こす。
掛布が肩から滑り落ちた。
そこで、初めて自分の身体を見た。
白い肌。
細く整った指。
以前よりも柔らかな輪郭。
胸元には、確かな膨らみがある。
髪の色も。
瞳の色も。
かつての自分とは違う。
けれど、顔立ちや身体の印象そのものは大きく変わっていない。
見知らぬ誰かになったわけではない。
確かに、セリアだった。
セリアは目を伏せ、自分の身体を一つ一つ確認していく。
女性としてのしるし。
そして同時に、慣れ親しんだ男としてのしるし。
その両方が、確かに存在していた。
「……本当に」
セリアは、息を呑む。
「両方、なのですね」
驚きはあった。
戸惑いもあった。
だが、不快感はなかった。
むしろ、不思議なほど自然だった。
男であり。
女であり。
聖女であり。
悪のドールズである。
矛盾を抱えた身体。
だが、その矛盾こそが、今のセリアには相応しい気がした。
太陽神の聖女として作られた看板でもない。
神殿に都合よく扱われた器でもない。
エミリアのために。
エミリアの悪を証明するために。
禍津神の気まぐれと、悪の女王の美学によって与えられた身体。
セリアは、そっと自分の身体を抱きしめた。
「エミリア様から授けられた身体……」
その声には、深い熱があった。
「大切にします」
その時だった。
扉が開いた。
「目が覚めたようね、セリア」
部屋に入ってきたのは、エミリアだった。
黒を基調とした装いに身を包み、いつものように傲然と美しく立っている。
その後ろには、ルミが控えていた。
エミリアは寝台の上のセリアを見る。
そして。
一瞬、固まった。
セリアは、自分の身体を確認している途中だった。
隠すことを忘れていたわけではない。
ただ、与えられた身体のすべてを、真剣に受け止めようとしていただけだ。
だが、エミリアから見れば、その姿はあまりにも堂々としていた。
クロエやリンが初めてドールズの身体を得た時とは、まるで違う。
怯えもなく。
混乱も少なく。
ただ、自分の身体を確認し、理解し、受け入れようとしている。
ある意味、とても男らしい反応だった。
エミリアは、数度瞬きをした。
「……あなた」
「はい」
セリアは、静かに顔を上げる。
「ずいぶん落ち着いているのね」
「驚いてはおります」
セリアは、穏やかに答えた。
「ですが、この身体はエミリア様より授かったもの」
「ならば、恐れる理由はありません」
そう言って、セリアは愛おしそうに自分の身体を抱いた。
「私は、この身体を大切にいたします」
エミリアは、しばらく黙った。
そして、額に指を当てる。
「……そう」
「受け入れが早いのは助かるけれど」
「これはこれで、少し反応に困るわね」
ルミが後ろでくすくす笑った。
「あなたの下僕に相応しい反応ではないかしら?」
「茶化さないで」
エミリアは軽く睨む。
だが、すぐに気を取り直した。
「まあいいわ」
「身体に問題がないのなら、次へ進むわよ」
セリアはすぐに姿勢を正す。
「はい」
エミリアが手を振ると、従者が衣装を運んできた。
それは、黒と白を基調にした巫女服だった。
太陽神教の白い神官衣とは違う。
清らかさだけを強調したものではない。
黒を軸に、白と淡い紫を重ねた衣。
袖は柔らかく広がり、薄布には繊細な刺繍が施されている。
胸元や腰には、控えめながらも美しい飾り紐。
聖なるものと、悪しきもの。
祈りと支配。
慈愛と狂信。
そのすべてが、静かに混ざり合っていた。
「これが、あなたの制服よ」
エミリアは言った。
「私のドールズとしての、あなたの装い」
セリアは、その衣装を見つめた。
「美しい……」
思わず零れた声に、エミリアは満足げに笑う。
「当然でしょう」
「私があなたのために選んだのだから」
セリアは、そっと衣装に触れる。
白い指先が、淡い紫の布を撫でた。
「私のために……」
「ええ」
「太陽神教の聖女としてではなく」
「私のドールズとして」
「悪に魅入られた聖女として」
「あなたには、その姿が相応しいわ」
セリアは、静かに目を伏せた。
「光栄です」
それから、衣装を受け取った。
着替えを終えたセリアは、まるで最初からそうあるべきだったかのように、その巫女服を着こなしていた。
黒と白。
淡い紫。
繊細な刺繍。
柔らかな袖。
清楚でありながら、どこか妖しい。
聖女のようでいて、神に仕える者ではない。
悪の女王に仕える、祈りの巫女。
エミリアは、腕を組んでセリアを見た。
「悪くないわ」
「いえ、かなり良い」
セリアは深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
「姿勢も悪くない」
エミリアは顎に手を添えた。
「礼の角度」
「視線の置き方」
「歩き方」
「立ち姿」
「どれも、ほぼ問題ないわね」
「私は元々、聖女として人前に立つことが多かったので」
「でしょうね」
エミリアは納得する。
「クロエやクロエやクロエや、あとリンとは大違いだわ」
ルミが微笑む。
「クロエの比率が高いわね」
「事実よ」
エミリアは即答した。
「クロエは能力は高いけれど、立ち居振る舞いとなると好き勝手すぎるもの」
「リンはリンで、褒めるとすぐ暴走するし」
「その点、あなたは楽でいいわ」
セリアは少しだけ首を傾げた。
「私は、エミリア様の望むように振る舞えておりますか?」
「今のところはね」
エミリアは一歩近づき、セリアの肩へ軽く触れる。
「ただし、忘れないこと」
「あなたはもう、神殿の聖女ではない」
「私のドールズよ」
「はい」
「清らかである必要はない」
「正しくある必要もない」
「民に褒められるために微笑む必要もない」
エミリアは、セリアの顎を軽く持ち上げた。
「あなたは、私のために美しくあればいい」
セリアの瞳が、熱を帯びる。
「はい」
「エミリア様」
その返事には、すでに危ういほどの忠誠が宿っていた。
エミリアは、満足げに笑う。
「よろしい」
「では、次は食事にしましょう」
「食事、ですか?」
「ええ」
エミリアは踵を返す。
「ドールズに相応しいテーブルマナーの確認よ」
「あなたの場合、ほとんど心配はいらないでしょうけれど」
そうして、セリアはエミリアと向かい合って食卓についた。
白いテーブルクロス。
磨かれた銀食器。
温かなスープ。
香草を添えた肉料理。
柔らかなパン。
果実を使った菓子。
どれも、太陽神教の旅で口にしていた質素な食事とは違う。
だが、ただ贅沢なだけではなかった。
盛り付けも。
香りも。
温度も。
すべてが計算されている。
セリアは、教えられた通りに食器を取り、静かに口へ運ぶ。
動きに乱れはない。
視線も落ち着いている。
エミリアは、それを見て軽く頷いた。
「問題ないわね」
「ありがとうございます」
「やはり、聖女として人前に出ていただけはあるわ」
「神殿での教育が役立ったのなら、幸いです」
セリアは穏やかに答えた。
その口調は丁寧で、微笑みは清らかだった。
けれど、その瞳の奥にある熱は、もう太陽神へ向けられていない。
エミリアはそれを見て、少しだけ面白そうに笑った。
食事の途中、セリアはふと自分の袖へ視線を落とした。
柔らかな布。
淡い紫の刺繍。
神官衣とも、貴族の礼装とも違う、不思議な衣装。
「エミリア様」
「何かしら」
「この衣装は、どこの様式なのでしょうか」
セリアは袖を持ち上げ、不思議そうに眺める。
「太陽神教の祭服とも違いますし、王国の貴族衣装とも異なるように思います」
「ああ、それね」
エミリアは当然のように言った。
「私がデザインして、作らせたのよ」
セリアの手が止まった。
「エミリア様が……?」
「ええ」
エミリアは何でもないことのように続ける。
「あなたの印象を考えて、黒と白に紫を足したの」
「聖女らしさは残す」
「けれど、太陽神の色には染めない」
「王国のドールズとして統一感も出る」
「それに、あなたは過剰に飾るより、静かな美しさを押し出した方が映えるわ」
セリアは、呆然とエミリアを見つめた。
「私のために……そこまで……」
「当然でしょう」
エミリアはパンを小さくちぎる。
「私のドールズなのだから」
セリアは胸を押さえた。
その表情は、祈りにも似ていた。
「エミリア様のお手製の衣装……」
「正確には、私が考えて職人に作らせたのよ」
「それでも、私にとっては同じです」
セリアは、嬉しそうに微笑んだ。
「大切にいたします」
その時。
セリアの脳裏に、ふと別の記憶がよぎった。
今食べている料理。
この王城の絨毯。
窓辺に揺れるカーテン。
街で見た水路。
孤児院の手洗い場。
村へ運ばれた浄水器。
支援物資の配置。
オショ、クージ、ケンの企みを見抜いた判断。
太陽神教の神官達を泳がせ、支援部隊を守るために戦力を配置した先読み。
復興する王都。
動き始めた職人達。
仕事を得た民。
笑う孤児達。
それらの多くに、エミリアの考えが入っていた。
セリアは、スプーンを持ったまま固まる。
あれ。
この衣装も。
料理も。
絨毯も。
カーテンも。
王都の仕組みも。
村への支援も。
神官達の企みへの備えも。
全部。
エミリア様が考えた。
セリアは、ゆっくりとエミリアを見る。
目の前の悪の女王は、優雅に食事をしている。
美しい。
傲慢で。
自分勝手で。
救うとは言わず、支配すると言う。
けれど。
その支配は、あまりにも緻密だった。
先を見通す慧眼。
国を復興させる叡智。
人を使い、物を動かし、仕組みを作る力。
そして、そのすべてを当然のように行う美しさ。
セリアの胸が、熱くなる。
あれぇ……。
エミリア様、完璧すぎない……?
それは陶酔だった。
太陽神の光を見上げていた頃とは違う。
神殿の祭壇に祈っていた頃とも違う。
もっと近く。
もっと生々しく。
目の前にいる一人の存在に、心を奪われていく感覚だった。
だが、同時に。
セリアの胸の奥に、小さな焦りが生まれた。
エミリア様は、何でもできる。
衣装を考え。
料理を考え。
部屋を整え。
王都を変え。
民を動かし。
敵の企みを見抜き。
国そのものを、美しく作り替えていく。
では。
私は?
私は、この方のために、何ができるのだろう。
癒しの力はある。
人に寄り添うこともできる。
けれど、それだけでいいのだろうか。
この完璧な悪の女王の前で。
私は、本当に役に立てるのだろうか。
また、自分だけが置いていかれるのではないか。
また、誰かの庇護の下で、祈るだけの存在に戻ってしまうのではないか。
セリアは、静かに食器を置いた。
「エミリア様」
「何かしら」
「私は……何をすればよいのでしょうか」
エミリアは、セリアを見る。
「何を、とは?」
「私は、あなたに仕えると誓いました」
セリアは、真剣な表情で言う。
「この身体も」
「この衣装も」
「この命も」
「あなたの理想のために使うものです」
「ですが」
そこで、セリアの声がわずかに揺れた。
「エミリア様は、あまりにも多くのものを見通しておられます」
「私が何かを考える前に、もう道を作っておられる」
「私が手を伸ばす前に、すでに必要なものを用意しておられる」
「ならば、私は……」
セリアは、自分の胸元を押さえた。
「私は、あなたのために何ができるのでしょうか」
それは忠誠だった。
けれど、同時に不安でもあった。
役に立ちたい。
必要とされたい。
この美しい悪の女王のそばに、自分の居場所がほしい。
その願いが、静かに滲んでいた。
エミリアは、しばらくセリアを見つめていた。
そして、茶器を置く。
「なら、まずはあなたの力を把握するわ」
セリアが顔を上げる。
「私の力、ですか」
「ええ」
エミリアは頷く。
「あなたは元太陽神教の神官であり、各地を巡った聖女でもあった」
「神聖魔法の知識もある」
「それに、帝国方面の事情も多少は見聞きしているはずよ」
セリアは、すぐに頭を垂れた。
「私の知ることでしたら、すべてお話しいたします」
「話してもらうわ」
エミリアは薄く笑った。
「けれど、その前に」
白い指先が、セリアへ伸びる。
「少しだけ、あなたの身体を借りるわ」
セリアの瞳が、わずかに揺れた。
けれど、拒む気配はない。
むしろ、どこか誇らしげに微笑んだ。
「この身体は、エミリア様より授けられたもの」
「貴女様のために使われるのなら、本望です」
「勘違いしないことね」
エミリアは釘を刺すように言った。
「私はあなたの魂を覗くわけではないわ」
「私の憑依は、身体を使う力」
「見るのは、あなたの身体に刻まれた記憶」
「脳に残った知識」
「神聖魔法を使う時の感覚」
「そして、あなたが見聞きしてきた情報の断片よ」
セリアは静かに頷いた。
「承知しました」
「どうぞ、エミリア様」
エミリアの指先が、セリアの額に触れる。
次の瞬間。
意識が、沈んだ。
視界が切り替わる。
自分の身体ではない。
けれど、身体は素直に動く。
細い指。
柔らかな胸元。
同時に、慣れ親しんだ男としての名残。
男でもあり、女でもある、矛盾を抱えた身体。
その奥に流れているのは、神へ祈りを捧げるための感覚だった。
「……なるほど」
エミリアは、セリアの身体の中で目を細めた。
神聖魔法。
それは、単なる治癒の術ではない。
神に祈り、その神の権能に沿った奇跡を呼ぶ力。
太陽神インティに祈るなら、光。
生命。
癒し。
浄化。
守護。
そして、戦う者へ与える祝福。
祈りの言葉。
聖印に魔力を通す感覚。
神の名を媒介に、奇跡を呼び下ろす身体の流れ。
そのすべてが、セリアの身体には薄く刻まれている。
「神に祈って奇跡を呼ぶ、か」
エミリアは、セリアの口で小さく呟いた。
「癪に障るけれど、使い道はありそうね」
指先に、淡い光が灯る。
それは太陽神の支配ではない。
セリアの身体に残った、神聖魔法の感覚の残滓だった。
エミリアは、それ以上深く踏み込まなかった。
必要な感覚だけを拾う。
祈りの構造。
魔力の通し方。
神聖魔法という体系の輪郭。
それだけで十分だった。
そして、次に流れ込んできたのは、記憶の断片だった。
白い神殿。
高位神官達の声。
太陽神の名。
帝国貴族の紋章。
軍旗。
山向こうの道。
北へ続く街道。
古い砦。
山に挟まれた一本道。
形式的な検問。
老朽化した門。
少ない守備兵。
そして、帝国側から漂う、妙に湿った空気。
ローゼンバーグ。
邪神信仰。
聖女の失踪。
異端。
そんな言葉の残滓が、途切れ途切れに浮かんでは消える。
エミリアは、そこで静かに目を細めた。
詳しいことは、あとで本人から聞けばいい。
今は、断片だけで足りる。
北砦群。
あそこは、少し弱い。
いや。
少しどころではない。
大山脈に守られているという思い込みが、守りを鈍らせている。
一本道だから安心なのではない。
一本道だからこそ、そこを抜かれれば危うい。
「……対策が必要ね」
エミリアは、小さく呟いた。
その声には、冷たい笑みが混じっていた。
やがて、意識が浮上する。
エミリアは、自分の身体へ戻った。
白い指。
黒い衣。
馴染み深い、美しい身体。
そして、エミリアの脳に備わる完全記憶が、今見た情報を静かに整理していく。
神聖魔法の感覚。
祈りと奇跡の関係。
太陽神教の断片。
帝国の匂い。
北砦群の弱さ。
すべてが、消えずに残る。
セリアは、椅子に座ったまま静かに目を開いた。
「エミリア様」
「いかがでしたか?」
エミリアは、すぐには答えなかった。
ただ、北の方角へ視線を向ける。
王都の外。
整備された北街道。
その先にある大山脈。
そして、山脈の向こうにあるバルディア帝国。
「……なるほどね」
エミリアの唇が、ゆっくりと吊り上がった。
それは、楽しげで。
冷たくて。
何かを企み始めた悪女の笑みだった。
「エミリア様?」
セリアが不思議そうに名を呼ぶ。
エミリアは、何でもないことのように茶器を持ち上げた。
「何でもないわ」
「少し、玄関の鍵が古いと思っただけよ」
「玄関の鍵……?」
「ええ」
エミリアは微笑む。
「外から醜いものが入ってこないようにするには、まず門を整えなければならないもの」
セリアは、その言葉の意味を完全には理解できなかった。
けれど、エミリアがもう次を見ていることだけは分かった。
王都でも。
孤児院でも。
村でもない。
もっと遠く。
北の山脈。
その向こう側を。
エミリアは、静かに笑った。
「セリア」
「はい」
「あなたの知っていることは、あとで詳しく聞くわ」
「太陽神教のこと」
「帝国のこと」
「あなたが見てきたもの」
「すべてね」
セリアは、深く頭を下げる。
「承知しました」
「私の知る限り、すべてをお話しいたします」
「よろしい」
エミリアは満足げに頷いた。
「あなたは、思った以上に使えるわ」
その言葉に、セリアの胸が熱くなる。
「私にも、役に立てることがあるのでしょうか」
「あるわ」
エミリアは即答した。
「ありすぎるくらいよ」
セリアは、息を呑んだ。
その一言だけで、胸の奥の焦りが少しだけほどけていく。
エミリアは、にこりと笑った。
美しく。
優雅に。
そして、どこまでも悪女らしく。
「だから、私を楽しませなさい」
セリアは瞬きをした。
「……楽しませる?」
「ええ」
エミリアは椅子にもたれ、悠然と告げる。
「あなたが何をするか」
「何を望むか」
「どこまで私の想像を超えてくるか」
「それを見せなさい」
セリアは言葉を失う。
エミリアは続けた。
「私のために何かをしようとして、自分の願いを捨てる必要はないわ」
「それでは、また神殿にいた頃と同じでしょう?」
セリアは息を呑んだ。
「あなたは私のドールズよ」
「私の下僕であり、私の所有物であり、私の王国を美しくするための存在」
「だからこそ、命じるわ」
エミリアは、唇を吊り上げる。
「あなたの願いを使いなさい」
「あなたが見たいものを見なさい」
「あなたが手を伸ばしたい者へ、勝手に手を伸ばしなさい」
「そして、その結果で私を楽しませなさい」
セリアの胸が熱くなる。
命令。
許可。
期待。
そのすべてが、甘く胸に響いた。
エミリアは、自分に役目を与えた。
だが、それは神殿のように己を殺す役目ではない。
祈って待つ役目でもない。
誰かの看板として微笑む役目でもない。
自分の願いを使え。
そう命じられた。
「私は……」
セリアは、静かに頭を垂れた。
「私の願いで、あなたを楽しませればよいのですね」
「そうよ」
エミリアは満足げに微笑む。
「私の想像を超えてみなさい」
「それができたなら」
「あなたは、私のドールズとして最高の価値を持つわ」
セリアは深く息を吸った。
そして、聖女のように微笑んだ。
清らかで。
穏やかで。
どこまでも優しい。
けれど、その奥には、悪に魅入られた者の熱があった。
「承知しました」
「エミリア様」
セリアは、恭しく頭を下げる。
「私は、私の願いで」
「あなたの王国を美しくする道を探します」
「あなたのために、私にできることを見つけます」
「そして」
微笑みが、わずかに深くなる。
「いつか必ず、あなたを楽しませてみせます」
エミリアは満足げに笑った。
「期待しているわ」
その言葉だけで、セリアの心は満たされた。
神の祝福よりも。
聖女の称号よりも。
ずっと深く。
ずっと甘く。
セリアはその瞬間、自分が完全に新しい存在になったことを理解した。
太陽神の聖女ではない。
神殿の広告塔でもない。
けれど、まだ何者かになり切ったわけでもない。
男でもあり、女でもあり。
聖女であり、悪のドールズでもある。
ルミナ教の聖女として復興に身を投じる未来も、今のセリアはまだ知らない。
けれど。
その原型は、確かにここで生まれた。
悪に魅入られた聖女。
エミリアの理想のために、自分に何ができるのかを探し始めた者。
美しき悪が支配するローゼンバーグ王国に、新たなドールズが誕生した。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回で、ローゼンバーグ王国復興編(仮)は一区切りとなります。
エミリアたちの歩みを楽しんでいただけていましたら嬉しいです。
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