禍津神の思い
ルミは、崩れ落ちたエミリアの身体を抱き留めていた。
黒衣に包まれた、美しい身体。
つい先ほどまで、悪の女王として堂々と立っていた器。
その身体から、蓮の魂だけが抜けている。
けれど、空ではない。
この身体の奥には、元のエミリアの魂が残っている。
ただ、蓮という強烈な意志が抜けたことで、身体は糸の切れた人形のように力を失っていた。
その様子を見下ろしながら、ルミの紫の瞳が静かに揺れる。
次の瞬間。
その瞳の奥に、地上の分体ではない意識が重なった。
月と死と転生を司る禍津神。
ルミナ。
神域にいる本体が、分体ルミの身体へ意識を深く沈めたのだ。
地上に立っている姿は、メイド姿のルミのまま。
けれど、この瞬間から、その目で見ているのはルミナだった。
その耳で聞いているのも。
その腕でエミリアの身体を抱いているのも。
その胸の奥に、説明のつかないわだかまりを覚えているのも。
すべて、ルミナ自身だった。
「……本当に、行ってしまいましたか」
ルミナは、腕の中の身体を抱きしめた。
軽い。
けれど、重い。
この身体を失えば、蓮は戻る場所を失う。
そして蓮が戻らなければ、元のエミリアの魂もまた、この身体の奥で取り残されるかもしれない。
ルミナには分かる。
身体の奥底で、エミリアの魂も震えていた。
恐怖。
不安。
祈り。
そして、蓮に戻ってきてほしいという、本人すら認めたくない願い。
自分の身体を勝手に使い。
国を変え。
悪の女王を名乗った男。
憎むべき相手でありながら。
今では、誰よりもこの身体を美しく使い、この国を前へ進めている存在。
その蓮が、魂だけで神の領域へ飛び込んだ。
不安にならないはずがなかった。
「馬鹿ですね」
ルミナは、小さく呟いた。
「本当に、馬鹿です」
その声は、呆れていた。
怒っているようでもあった。
けれど、その奥には、自分でも説明のつかないわだかまりがあった。
蓮を失う。
そう考えた瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
それは、何なのだろう。
お気に入りの玩具を、他の神に壊される不快感か。
せっかく始まった遊戯を、横から台無しにされる苛立ちか。
それとも。
あの人間がルミナに刻み込んだ魅了の残滓が、まだどこかに残っているのか。
分からない。
分からないが、不快だった。
ルミナは、神だった。
月と死と転生を司る禍津神。
人の命が尽きることにも。
魂が折れることにも。
望みが潰えることにも。
もう、とうの昔に慣れていたはずだった。
けれど今。
腕の中で意識を失ったように眠るエミリアの身体を抱きしめながら、ルミナはひどく醒めた気分で思う。
また、終わるのか。
また、神が邪魔をするのか。
せっかく面白くなってきたというのに。
せっかく、あの人間がこの腐りかけた王国を作り替え始めたというのに。
結局、今回の遊戯も。
他の神の干渉で、幕を下ろされるのか。
「……つまらない」
ルミナの唇から、ぽつりと声が漏れた。
セリアの身体から溢れる黄金の光。
太陽神インティの干渉。
魂だけでそこへ飛び込んだ蓮。
本来なら、結果など見えている。
人間が神に勝てるはずがない。
たとえ相手が本体ではなく、信仰と聖印を核にした干渉体だとしても。
神は神だ。
存在の格が違う。
精神の強度が違う。
魂の厚みが違う。
人間の魂など、太陽の光に焼かれて終わる。
そのはずだった。
だが。
「……?」
ルミナの眉が、わずかに動いた。
おかしい。
光が、消えない。
インティの裁きが振り下ろされている。
セリアの精神世界は、黄金の光に焼かれている。
それなのに。
蓮の魂が、消えない。
「まさか」
ルミナは、セリアの精神世界を覗き込んだ。
分体の瞳を通して。
神としての感覚を細く伸ばし、黄金の光の奥へ意識を滑り込ませる。
そして。
ルミナは見た。
白い精神世界。
巨大な太陽。
黄金の影。
太陽神インティの干渉体。
その正面に、蓮が立っていた。
魂だけの姿で。
人間の魂のまま。
神の光を真正面から受けてなお、崩れることなく。
むしろ。
インティを圧倒していた。
「……ありえない」
ルミナの口から、掠れた声が漏れた。
ありえない。
いくら本体ではないとはいえ。
いくら聖印を核とした干渉体に過ぎないとはいえ。
人間が、神を圧倒するなど。
そんなことは、あってはならない。
いや。
理論上は、可能ではある。
この世界の神の力とは、単なる魔力だけではない。
信仰。
存在の格。
意志。
魂の強度。
そして、精神力。
神の干渉体といえど、精神世界においてはその強度が力となる。
ならば。
神を上回るほどの精神力を持つ人間がいれば。
理論の上では。
本当に、理論の上だけなら。
神の干渉を押し返すことはできる。
だが、それは机上の空論だ。
人間が神の精神力を上回るなど、普通はありえない。
普通は。
「……普通では、ありませんでしたね」
ルミナは、呆れたように笑った。
蓮は、そこにいた。
神の光を前にして。
太陽神の怒りを浴びながら。
それでも、まるで当然のように立っていた。
そして、言っていた。
お前の正義より、俺の悪の方が強大だったのだと。
ルミナは、目を奪われた。
まただ。
また、この人間は自分の想像を超えてくる。
ただの転生者ではない。
ただの異世界人ではない。
ただの玩具ではない。
ルミナが退屈しきっていた世界に、蓮は次々とありえないものを持ち込んでくる。
神を魅了した。
女王の身体を選び取った。
国を作り替えた。
そして、ルミナに言った。
見てろ、と。
その一言で。
月と死と転生を司る禍津神は、地上へ分体を送り込んだ。
ルミ。
メイドとしてローゼンバーグ王国へ押しかけ、今こうして、彼の行く末を見届けている。
そして今度は。
人の魂のまま、太陽神に喧嘩を売っている。
「ふふ……」
ルミナの喉が震えた。
笑いが漏れそうになる。
だが、まだ早い。
まだ見届けなければならない。
蓮はセリアを堕とした。
いや。
堕としたというより、選ばせた。
太陽神の光ではなく。
神殿の規則でもなく。
蓮の悪を。
セリアは、悪に魅入られた聖女となった。
その瞬間、聖印が砕ける。
インティがこの精神世界に顕現するための核。
その支点が壊された。
当然、干渉体としての力は減じる。
神の光は揺らぐ。
それでも、相手は神だ。
神であることに変わりはない。
なのに。
蓮は拳を握った。
「……え?」
ルミナは、思わず声を漏らした。
何をしているのか。
魂だけの姿で。
肉体もない。
筋肉もない。
骨もない。
拳など、ただの形でしかない。
それなのに、蓮は拳を握った。
インティの光へ向かって歩き出した。
正義だの。
光だの。
秩序だの。
看板だけは立派な神様が。
人の願いを縛ってんじゃねぇよ。
そう言って。
拳を引いた。
ルミナは、神である。
神秘を知っている。
魂の理を知っている。
精神世界の法則も知っている。
だからこそ、その光景がどれほど滅茶苦茶か分かってしまう。
理屈はある。
セリアの精神世界。
聖印の崩壊。
インティの干渉力低下。
蓮の異常な精神力。
セリアが蓮を信仰対象に選んだことによる、精神世界内での優位性の反転。
説明しようと思えば、説明はできる。
できるのだが。
それでも。
最後の手段が拳なのは、おかしい。
神を相手に。
正義を相手に。
太陽の裁きを相手に。
魂だけの人間が。
拳を握り。
「こんな神なんか」
と叫び。
そして。
「グーパンでぶっ飛ばしてやる!」
そう叫んで、太陽神を殴った。
一瞬。
ルミナの思考が止まった。
拳が、黄金の光を貫く。
インティの干渉体が、白い世界の果てまで吹き飛ぶ。
太陽が揺らぐ。
セリアの精神世界に、黒薔薇の影が咲き広がる。
太陽神の干渉が、叩き出される。
神が。
人間に。
グーパンで。
ぶっ飛ばされた。
「……」
ルミナは、腕の中のエミリアの身体を抱いたまま、しばらく固まっていた。
そして。
「ふ」
小さな声が漏れる。
「ふふ」
肩が震える。
「ふふふふ……っ」
もう、止められなかった。
「ふ、あは……あははははははははははっ!」
ルミナは笑った。
神として生まれてから、もしかすると初めて。
心の底から。
腹の底から。
堪えきれないほどに。
笑った。
「神を……っ」
ルミナは片腕でエミリアの身体を抱えたまま、もう片方の手で自分の腹を押さえた。
「神をグーパンって……!」
涙すら滲むほど笑いながら、身を震わせる。
「なによ、それ……!」
「あははははっ!」
「どんな理屈なのよ……!」
笑いすぎて、声が途切れる。
呼吸が乱れる。
腹が痛い。
神である自分が、腹を抱えて笑っている。
そんな馬鹿げたことすら、今はどうでもよかった。
「お腹……っ、お腹痛い……!」
ルミナは、笑いながら呟いた。
「神をグーパンするって何なのよ……」
「どんな人間なのよ、あなた……」
仮設礼拝堂の中で、黄金の光が薄れていく。
セリアの身体から、インティの干渉が抜け落ちていく。
ルミナの腕の中では、エミリアの身体が静かに眠るように横たわっている。
その奥で、エミリアの魂もまた、呆然としていた。
蓮は、まだ戻っていない。
だが、もう心配は薄れていた。
あの人間は戻ってくる。
当然のように。
勝手に神を殴り飛ばして。
何食わぬ顔で、この美しい身体へ戻ってくる。
そんな確信が、ルミナの中にあった。
「私をここまで楽しませる人間なんて」
ルミナは、笑いの余韻を残したまま呟く。
「初めてよ」
その声は、地上のメイドとしてのルミではなく。
神としてのルミナの声だった。
月と死と転生を司る禍津神。
世界に退屈し。
人に飽き。
神々にさえ失望していた女神。
その心が今、明らかに蓮へ向いていた。
面白い。
もっと見たい。
もっと知りたい。
この人間がどこまで行くのか。
どこまで世界を壊し、作り替え、神々の想像を裏切るのか。
見届けたい。
そばにいたい。
その願いは、あまりにも強かった。
「……これは」
ルミナは、笑みを残したまま、自分の胸元に触れる。
この感情は何だろう。
魅了の残滓か。
蓮が最初に自分へ刻んだ、あの力がまだ残っているのか。
それとも。
魅了など関係なく。
自分は本当に、あの人間に惹かれているのか。
まだ、分からない。
けれど。
分からないことすら、今は楽しかった。
ルミナは、腕の中のエミリアの身体を見下ろす。
「早く戻ってきなさい、蓮」
その声は、甘く。
優しく。
そして、ひどく楽しげだった。
「まだまだ、私を退屈させないのでしょう?」
ルミナは微笑んだ。
その心は、明らかに蓮へ惹かれていた。
それが魅了のせいなのか。
それとも、もう魅了など関係ないのか。
今のルミナには、まだ分からなかった。
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