無能姫と炊き出し 後編
前後編に書き直しました
「……掃除、ですか?」
ハルトが眉を寄せた。
「ええ」
「この状況で?」
「この状況だからよ」
当然のように答えるエミリアを前に、ハルトの表情には納得できないという色がはっきりと浮かんでいた。
国庫はほぼ空。流通は滞り、民は飢えている。仕事を失った者も多く、王都の治安も悪化している。騎士団長として国の現状を誰より近くで見てきたハルトからすれば、やるべきことはいくらでもあった。
食料の確保、物流の立て直し、治安維持。崩れ始めた街道や水路の補修。
その中で、真っ先に王女が口にしたのが『掃除』である。
「姫様。失礼を承知で申し上げます。今の王国には、掃除より先に手をつけるべき問題が山ほどあります」
「そうね」
あっさり認められ、ハルトが一瞬言葉に詰まった。
「……でしたら」
「でも、嫌なのよ」
「はい?」
エミリアは窓の外へ目を向けた。
長く行政がまともに機能しなかった王都には、至るところにゴミが溜まっている。舗装された道も傷み、使われなくなった露店や壊れた木箱が放置されていた。
見れば見るほど美しくない。
「私が住む街が汚いなんて、我慢できないわ」
ハルトが黙る。
オルガが吹き出した。
「ぶはっ! 嬢ちゃん、まさか本当にそれだけか?」
「それだけで十分でしょう?」
「いや、十分じゃねぇだろ!」
「そうかしら?」
本気で不思議そうな顔をされ、オルガは額を押さえた。
ハルトも大きく息を吐く。
「姫様。王都の清掃となれば、それなりの人員が必要です。今の騎士団に、そのような余裕はありません」
「騎士だけでやる必要はないわ」
「では、誰が?」
「仕事がなくて困っている人がいるのでしょう?」
ハルトが僅かに目を見開いた。
エミリアはセバスから聞いた報告を思い返す。職を失った職人、店を畳んだ商人、仕事のなくなった日雇い労働者。王都には働けるにもかかわらず、働く場所そのものを失った人間が大勢いる。
「その人達を雇えばいいじゃない」
「雇う……?」
「ええ。ゴミを集める。道を片付ける。壊れた場所を直せる者には直させる。働いた者には報酬を払う。それだけよ」
ハルトの表情が少し変わった。
先ほどまでの『王女の気まぐれな掃除』とは、話が違ってくる。
「ですが、報酬を支払う金がありません」
「だから今、作っているのでしょう?」
エミリアはオルガを見る。
視線を向けられたオルガが、嫌そうな顔をした。
「簡単に言ってくれるなぁ」
「できないの?」
「その煽り方やめろ。やるって言っただろ」
オルガは頭を掻きながら、美術品の一覧へ目を落とした。
「全部売る必要はねぇ。すぐ買い手がつきそうな奴を何点か先に動かす。それだけでも、当面の食料と人件費くらいは何とかなる。残りは焦って売ったら損だ」
「なら、それでお願いするわ」
「はいはい」
不満そうに返事をしながらも、オルガの目は既に商人のものになっていた。
エミリアは続いてセバスへ視線を向ける。
「セバス。働き手を募ってちょうだい。身体が動くなら年齢も出身も問わないわ。ただし、仕事ができない者を無理に働かせる必要はない。老人や病人、それから小さな子供には別に食事を用意しましょう」
「承知いたしました」
セバスは迷うことなく頭を下げた。
ハルトが横から口を挟む。
「食事も、ですか?」
「当然でしょう? お腹を空かせたまま働けと言うつもり?」
「いえ。しかし、それでは相当な食料が必要になります」
「オルガ」
「今度は何だ」
「食料」
「分かってるよ!」
オルガが声を上げる。
「美術品を売れ、食料を集めろ、人も雇えって、俺を何人いると思ってやがる!」
「一人でしょう?」
「そういう意味じゃねぇ!」
執務室にオルガの声が響いた。
その様子を見ていたルミが、エミリアの背後で小さく笑う。
「楽しそうですね」
「貴女も働きなさい」
「見学に来たのですが」
「メイドなのでしょう?」
「分体とはいえ神なのですが」
「だから何?」
ルミは少し考え、素直に頭を下げた。
「承知しました」
ハルトが何とも言えない顔で二人を見る。
この新しい侍女が何者なのかは分からない。ただ一つ分かるのは、今までのエミリアなら絶対にこんなやり取りはしなかったということだけだった。
そして、どうやら自分だけがこの話についていけていないわけでもないらしい。
「ハルト」
不意に名前を呼ばれ、騎士団長は姿勢を正した。
「はい」
「騎士団には治安維持をお願いするわ。それから清掃に参加する人達をいくつかの組に分けて、監督役を出してちょうだい」
「……騎士に掃除の監督をさせるのですか?」
「嫌?」
「正直に申し上げれば、納得はしておりません」
ハルトははっきり答えた。
蓮は少し意外に思う。王女相手に、不満を隠そうともしない。
だが、その方がいい。
何でも無条件に従う人間より、よほど信用できる。
「構わないわ。納得する必要なんてないもの」
「……はい?」
「私は貴方に理解してほしいのではなく、仕事をしてほしいの」
あまりにも堂々と言われ、ハルトが目を瞬く。
「命令には従います。しかし、結果が出なければ――」
「その時は文句を言いなさい。結果を見てからね」
エミリアは不敵に笑った。
数秒、ハルトは黙ってエミリアを見つめたあと、諦めたように息を吐く。
「……承知しました」
納得したわけではない。
それでも王女の命令である以上、従う。少なくともこの時のハルトにとって、エミリアはまだその程度の存在だった。
けれど、それで十分だった。
「では、始めましょうか」
蓮は満足そうに微笑んだ。
自分が悪の女王として君臨するための、最初の仕事を。
* * *
そこから数日。
止まりかけていた王城が、久しぶりに慌ただしく動き始めた。
オルガは美術品の中から早期に換金できる物を選び、商人達との交渉を始めた。それと並行して食料の調達にも動き、近隣の農村や倉庫から無理なく集められる量を確認していく。
セバスは王城に残った使用人をまとめ、人員募集と炊き出しの準備を進めた。ハルトは渋々ながら騎士達を動かし、王都をいくつかの区画に分ける。清掃に参加する者達を組にして、騎士にはその監督と治安維持を担当させた。
最初は騎士達からも不満の声が出た。
何故、自分達が街の掃除などしなければならないのか。
そう思う者は少なくなかった。
しかし実際に募集を始めれば、予想以上の数の民が集まった。仕事が欲しい者、食べ物が欲しい者、家族に何か食べさせたい者。理由は様々だったが、働く意思を持つ者は多かった。
その様子を見て、ハルトも次第に何も言わなくなった。
そしてエミリア――蓮は、集まってくる報告を一つずつ確認しながら、必要なところへ指示を出していった。
地球でやってきた仕事と、本質的にはそれほど変わらない。
何が問題なのか。何が足りないのか。何が余っているのか。誰に何を任せるべきなのか。
一つずつ整理し、繋げていけばいい。
国を救おうなどとは思っていない。
ただ、自分がこれから君臨する国が、みすぼらしいままなのは許せない。
それだけだった。
そんな中、蓮にはもう一つ、どうしても譲れない仕事があった。
衣装である。
最初に着た夜会用ドレスも悪くはなかった。だが、悪の女王としてはまるで足りない。
だから蓮は、城に残っていた仕立て職人へ自分の理想を叩きつけた。
黒を基調に、白銀の髪が映えるように。薔薇を意匠へ取り入れ、可愛らしさよりも美しさと華やかさを優先する。そして、一目見ただけで普通の王女ではないと分かるように。
注文を聞いていた職人は途中から顔を引きつらせていたが、蓮は一切妥協しなかった。
身体の内側では、エミリアもずっと抗議している。
(胸元、もう少し隠しませんか?)
「嫌よ」
(せめて肩を……)
「嫌」
(スカートも少し……)
「却下」
(どうしてですか!?)
「美しくないもの」
何度相談しても、結論は変わらなかった。
最初の夜会用ドレスですら恥ずかしがっていたエミリアにとって、蓮が自分で考えた衣装はほとんど理解不能だった。
(絶対に着たくありません……)
「安心なさい。着るのは私よ」
(身体は私です!)
「今は私でもあるでしょう?」
(そういう問題ではありません!)
この数日、国の再建についてより衣装について争っている時間の方が長いのではないか。
エミリアは本気でそう思っていた。
* * *
そして準備を始めて三日後。
王都中央広場には、久しぶりに多くの人が集まっていた。
大きな鍋から温かな湯気が立ち上り、食事の匂いが広場を満たしている。痩せた男や子供を抱いた母親、老人、職を失った職人達が、警戒しながらも少しずつ列へ加わっていた。
「思った以上に集まりましたな」
セバスが静かに呟く。
「当然でしょう。お腹が空いているのだもの」
その声に、近くにいたハルトが振り返った。
そして、固まった。
広場へ姿を現したエミリアは、三日前までとはまるで違う姿をしていた。
黒を基調とした華やかなドレス。白銀の髪との鮮烈な対比。身体を彩るように配置された薔薇の意匠。
王女らしい気品を残しながら、それだけでは終わらない。
妖しく、傲慢で、何より美しい。
蓮が思い描いていた『悪の女王』を、そのまま形にしたような衣装だった。
「……姫様」
「何かしら?」
「その衣装は……」
「似合うでしょう?」
迷いなく返される。
ハルトはしばらく何も言えなかった。
似合っている。それだけは認めざるを得ない。
ただ、これまでのエミリアを知っている者ほど、その変貌についていけなかった。
少し離れた場所では、オルガが腹を抱えて笑っている。
「本当に作らせやがった! しかも想像以上だな!」
「うるさいわね」
「いや、似合ってるぞ。嬢ちゃんらしくはねぇけど」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
身体の中から、小さな声が聞こえる。
(帰りたいです……)
「帰る場所はここでしょう?」
(部屋に帰りたいです!)
蓮は無視した。
むしろ気分は最高だった。
三十年間、頭の中でしか思い描けなかった姿。それが今、現実になっている。
しかも今日は、悪の女王として初めて民衆の前へ立つ日だ。
これ以上ない舞台だった。
「では、行きましょうか」
エミリアが歩き出す。
民衆がその姿に気づき、ざわめきが少しずつ広がっていった。
「姫様……?」
「あれが?」
「エミリア様なのか?」
「すげぇ格好だな……」
「綺麗……」
様々な声が聞こえてくる。
蓮は気にしない。
むしろ、全員が自分を見ていることが心地よかった。
広場の中央へ進み、用意された壇上へ立つ。ざわめきが静まるまで待ってから、エミリアは口を開いた。
「よく集まったわね」
以前のエミリアなら、これほど多くの民衆を前にすれば声すら出なかっただろう。
だが今は違う。
蓮は視線を集めることを恐れない。むしろ楽しんでいた。
「今日からしばらく、ここで食事を用意するわ。ただし、動ける者には働いてもらう」
再びざわめきが広がる。
「王都を綺麗にするの。ゴミを集め、道を片付けなさい。直せる物があるなら直す。働いた者には食事を出すし、報酬も払うわ」
人々が顔を見合わせた。
やがて、一人の男が恐る恐る手を上げる。
「ひ、姫様……」
「何かしら?」
「何故……急に、そのようなことを?」
エミリアは少し考えた。
善政を敷きたいからではない。
民を救いたいからでもない。
少なくとも蓮自身は、そんなつもりで始めたわけではなかった。
答えは簡単だ。
「私の街が汚いからよ」
「……はい?」
「聞こえなかったの?」
エミリアは堂々と胸を張った。
「私が住む街がこんなに汚いなんて、美しくないでしょう?」
広場に沈黙が落ちる。
誰も、どう反応すればいいのか分からなかった。
ハルトも同じだった。数日前に聞いた時も意味が分からなかったが、民衆を前にしても本当に同じ理由を言い切るとは思っていなかった。
「だから、貴方達には私のために働いてもらうわ。もちろん働いた分は払いましょう。食べる物も用意する。それだけよ」
慈悲深い言葉ではない。
民のためだとも言わない。
むしろ恐ろしく自分勝手だった。
それでも、食事があり、仕事があり、働けば金も貰える。
今の民にとって、それ以上に必要なものはなかった。
誰かが小さく頷いた。
それをきっかけに、少しずつ人が動き始める。
炊き出しが始まった。
温かな食事が器へ注がれ、次々と人々へ渡されていく。久しぶりにまともな食事を口へした子供が笑い、母親が頭を下げる。老人は震える手で器を受け取った。
その様子を、ハルトは黙って見ていた。
数日前、掃除などしている場合ではないと思った。
今でも、王女の考えを完全に理解したわけではない。
だが、王都には人が動き始めている。仕事を失っていた者達が清掃へ向かい、食事が配られ、僅かではあるが金も回り始めた。
少なくとも、何もしなかった昨日よりは良くなっている。
「……結果を見てから、でしたな」
ハルトが小さく呟く。
近くにいたセバスだけが、その言葉を聞いていた。
老執事は何も答えず、ただ静かに微笑んだ。
その時だった。
「無能姫!」
鋭い声が広場に響いた。
空気が止まる。
人垣の中から、一人の少年が飛び出してきた。十歳ほどだろうか。痩せた身体に汚れた服。食事すら満足に取れていないことは一目で分かる。
だが、その目だけは強かった。
「今更こんなことして! もっと早く何とかできなかったのかよ!」
周囲の民が青ざめ、騎士達が即座に動こうとする。
「待ちなさい」
エミリアが片手を上げた。
ハルトも騎士達を止める。
少年は怯んだ。それでも逃げなかった。
王族へ向かって暴言を吐いたのだ。罰せられると思っているのだろう。
だが、蓮は怒るどころか楽しそうに笑った。
「いいじゃない」
「……は?」
「王女を目の前にして、それだけ言えるのなら上出来よ」
少年の顔に困惑が浮かぶ。
広場にいた誰もが、同じ顔をしていた。
「言いたいことがあるのなら言えばいい。陰でこそこそ不満を言うより、よほど見込みがあるわ」
「な、何言って……」
「もっと大きくなりなさい」
エミリアは堂々と少年を見下ろした。
そして、悪の女王らしく、不敵に、美しく微笑む。
「いつか私を跪かせるくらいの男になってみなさい」
一瞬、広場全体から音が消えた。
少年の顔がみるみる赤くなる。
「う、うるせぇ!」
それだけ叫ぶと、少年は人混みの向こうへ走り去っていった。
沈黙。
誰も何も言えない。
最初に耐えきれなくなったのはオルガだった。
「ぶははははっ! なんだ今の! 嬢ちゃん、子供相手に何言ってんだ!」
「何かおかしかったかしら?」
「全部だよ!」
ハルトは額を押さえ、セバスは困ったように微笑んでいる。
ルミだけは、少し離れたところから楽しそうにエミリアを眺めていた。
――見ていなさい。
そう命じられたから、見に来た。
世界に混沌をもたらしてくれるだろうと期待した人間が、異世界へ来て最初に始めたこと。
街の掃除。
失業者への仕事。
炊き出し。
そして、働いた民への報酬。
「……面白いですね」
ルミが小さく呟いた。
まだ、本当に始まったばかり。
けれど、自分が思い描いていたものとは少し違う未来が、確かに動き始めている。
そんな気がした。
一方、当の本人はそんなことなど何も考えていなかった。
エミリアは自分の黒いドレスを満足そうに眺め、それから少しずつ綺麗になり始めた王都を見渡す。
「悪くないわね」
(本当にこれでいいのでしょうか……)
身体の奥から、不安そうな声が聞こえる。
エミリアは微笑んだ。
「いいのよ」
(どうして言い切れるんですか?)
「私が気に入っているもの」
あまりにも自分勝手な答えだった。
けれど、その日。
久しぶりに腹いっぱい食べた子供がいた。
久しぶりに仕事へ出た男がいた。
家族へ持って帰る金を手にした者がいた。
荒れていた王都から、少しだけゴミが消えた。
悪の女王を目指す男が、自分の美学を貫くために始めた最初の政策。
それが、滅びかけていたローゼンバーグ王国を救う最初の一歩となった。
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