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無能姫と炊き出し 前編 挿絵有

TS転生回です


2026/06/19


エミリア夜会ドレス挿絵入れました

意識が浮かび上がった。


最初に感じたのは、柔らかなベッドの感触だった。次に、自分の身体が妙に軽いことに気づく。目を開けば見覚えのない天井があり、視界の端を長い銀色の髪がさらりと流れ落ちた。


「……おお」


自分の口から出た声に、蓮は思わず目を見開いた。


高く、澄んだ少女の声。三十年間聞き慣れた自分のものとはまるで違う。


ルミナに言われた通り、本当に別の身体へ憑依したらしい。


蓮はゆっくり身体を起こし、胸元へ落ちてきた髪を退けた。細く白い指。華奢な手首。男だった頃の面影など、どこにもない。


「本当に女になったのか……」


まだ実感は追いついていない。


それでも、胸の奥から込み上げてくるものはあった。


ベッドから降り、部屋に置かれていた大きな姿見へ向かう。歩き始めた瞬間から、男だった頃とは重心が違うことが分かった。歩幅も合わず、肩や腰の動きにも微妙な違和感がある。


だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。


鏡の前へ立った瞬間、蓮は言葉を失った。


腰まで届く白銀の髪。紫水晶を思わせる瞳。透き通るような白い肌に、幼さを僅かに残しながらも恐ろしく整った顔立ち。華奢な身体には女性らしい曲線があり、どう見ても文句のつけようがない美少女だった。


「……すげえな」


思わず頬へ触れる。


柔らかい。


肌も信じられないほど滑らかだった。


三十年間、男として生きてきた。悪の女王に憧れながらも、自分には絶対になれないと諦めたから、せめて悪の女王を勝たせる参謀になろうと考え、そのために必要だと思ったものを片っ端から学んできた。


それなのに今、鏡の向こうには、自分自身が悪の女王になれる身体がある。


蓮の視線がゆっくりと下がった。


「……ある」


胸元へ手を当て、確かな感触を確認する。少し考え、念のためもう一度確かめた。


「あるな」


重要なので二回確認した。


続いて、最後の確認。


数秒後。


蓮は深く頷いた。


「ない。……完璧だ」


本気だった。


あの女神が何を考えて自分を異世界へ送り込んだのかは知らない。だが少なくとも、この身体についてはルミナに感謝してもしきれなかった。


むしろ理想以上である。


「身体は文句なし。となると、次は……」


蓮は衣装棚へ視線を向けた。


悪の女王を名乗る以上、服装は決して軽視できない。


王女の私室だけあって衣装そのものは多かった。白、淡い水色、薄桃色。刺繍やレースの施された上品なドレスが何着も収められている。


品質は良い。


王女の衣装としては申し分ないのだろう。


しかし。


「……ないな」


蓮は何着か手に取り、真剣な顔で確認した。


可愛い。


清楚。


上品。


また可愛い。


「黒がない。威圧感もないし、悪の女王感が壊滅的だな……」


国が滅びかけていることより深刻そうな顔で、衣装棚の奥まで探していく。


そこで、一着だけ雰囲気の違うドレスが見つかった。


濃い色を基調とした、夜会用のドレスだった。


普段着とは違い、肩まわりを大胆に見せる大人びた意匠で、身体の線も美しく見えるよう仕立てられている。王侯貴族の夜会用としては決して異常なものではないのだろうが、これまで見てきたエミリアの衣装と比べれば明らかに華やかで、随分と攻めたデザインだった。


蓮の目が輝く。


「これだな」


ようやく見つけた。


黒ではないのが惜しいが、少なくとも先ほどまでの可愛らしいドレスよりは遥かに好みに近い。


蓮は迷わずそれを取り出した。


その時。


(……な、何をしているんですか……)


頭の奥から、震えるような声が聞こえた。


蓮の動きが止まる。


「ん?」


(私の身体をあんなに触ったと思ったら、今度は服まで勝手に……)


弱々しい少女の声だった。


そこでようやく、蓮はこの身体に自分以外の意識が残っていることを知った。


「お前がエミリアか?」


しばらく返事はなかったが、やがて消え入りそうな声が返ってきた。


(……はい)


怯えている。


当然だろう。


突然知らない男が身体の中へ入り込み、目覚めるなり鏡の前で全身を確認し、今度は衣装棚まで漁っているのだ。


客観的に考えれば、相当怖い。


「ちゃんと意識は残ってるんだな」


(出ていってください……)


「無理だろ。俺も戻り方なんて知らないし」


(そんな……)


今にも泣き出しそうな声だった。


蓮は困ったように頭を掻こうとして、長い銀髪へ指を絡ませる。


「……髪、長いな」


(そんなことどうでもいいです!)


「まあ、それはそうだな」


初めて少し強い返事が返ってきた。


怯えて何も言えないより、その方がいい。


蓮は手にしている夜会用ドレスへ目を落とした。


「これ、着たことあるのか?」


(……ありません)


「新品?」


(私の夜会用に仕立ててもらったものです。でも、体調が悪くて……結局、一度も夜会には出られませんでした)


「なるほどな」


せっかく作ったのに一度も着られなかったらしい。


ならば遠慮する理由もない。


「ちょうどいい。これ着るか」


(えっ!?)


蓮はドレスを広げた。


そして。


数分後。


「……どうやって着るんだ、これ」


早くも詰んでいた。


見ただけでは構造がよく分からない。背中側には自分では扱いづらい留め具があり、細かな調整も必要らしい。


三十年間、当然ながらこんな服を着た経験など一度もない。


(侍女に手伝ってもらうものですから……)


「最初に言ってくれよ」


(普通、自分で着ようとするとは思いません!)


「それもそうか」


蓮は素直に納得した。


ならば、メイドを呼べばいい。


そう考えた時だった。


「お呼びでしょうか」


背後から声がした。


蓮は振り返る。


いつの間にか、そこにはメイド服を着た一人の少女が立っていた。


白銀の髪。


紫色の瞳。


姿形こそ少し幼くなっているが、見間違えるはずもない。


「……ルミナ?」


少女はにこりと微笑んだ。


「メイドのルミです」


「なんでいるんだよ」


まだ蓮口調のまま、思わず突っ込んだ。


「見に来ました」


「何を?」


「貴方が何をするのかを」


蓮は数秒黙ったあと、異世界へ来る直前のことを思い出した。


――黙って見ていろ。俺が何をするのか。


確かに言った。


「……本当に見に来たのか?」


「はい。見ていなさいと言われましたので」


「神様って暇なんだな」


「本体ではありません。こちらは分体ですので、ご安心ください」


「何を安心すればいいんだよ」


身体の内側では、エミリアが別の意味で混乱していた。


(ル、ルミナ……? まさか、本当に月の女神ルミナ様なのですか!?)


「そうみたいだぞ」


(そんな軽く!?)


ルミは楽しそうに笑っている。


「私はあくまで見学です。基本的には好きになさってください」


「そうか。なら丁度いい」


「はい?」


蓮は夜会用ドレスをルミへ差し出した。


「これ着せてくれ」


ルミが数秒、ドレスと蓮を交互に見る。


「神の分体を呼びつけて、最初に命じることが着付けですか?」


「だってメイド服着てるだろ」


「なるほど」


「納得するのかよ」


「一理ありますので」


どうやら神の感覚はよく分からない。


それでもルミは素直にドレスを受け取った。


「では、お手伝いいたします」


「頼む」


(神様に着替えを手伝わせるんですか!?)


「本人がいいって言ってるんだからいいだろ」


(よくありません!)


エミリアの常識は、早くも崩壊し始めていた。


ルミの手際は妙に良かった。


ドレスを整え、留め具を締め、必要な箇所を調整していく。最後に銀色の髪まで軽く整えられ、蓮は再び姿見の前へ立った。


「おお……」


挿絵(By みてみん)


思っていた以上だった。


先ほどまでの部屋着とはまるで違う。


大人びた夜会用ドレスを纏ったことで、エミリアの美貌が一層際立っている。


蓮は満足そうに鏡を眺めた。


「いいな、これ」


(は、恥ずかしいです……)


「そうか?」


(肩も出ていますし……こんな格好で人前になんて……)


「夜会用なんだろ?」


(そうですけど……!)


どうやらエミリアにとっては、用意されていたとはいえ相当勇気の必要な服だったらしい。


蓮としては、むしろまだ物足りないくらいだった。


「悪の女王なら、もっと派手でもいいけどな」


(もっと!?)


「黒にして、薔薇を入れて……」


(お願いですから、それ以上考えないでください!)


今後作らせる衣装の方向性が決まった。


エミリアにとっては不幸なことに。


もっとも、服を着ただけではまだ完成ではない。


蓮は鏡の中の自分を見つめる。


立ち方も歩き方も、男だった頃の癖が残っている。今の姿で大股に歩けば、見た目との違和感は相当なものになるだろう。


それに、自分はこの身体の持ち主について名前以外ほとんど何も知らない。


「エミリア。ちょっと記憶を見せてもらうぞ」


(……え?)


蓮は意識を内側へ向けた。


その瞬間、膨大な情報が押し寄せる。


幼い頃の王城。父と母。使用人達。王女として受けた教育。暇を持て余すように読み続けた大量の本。


歩き方、座り方、食事の作法、人前での話し方。


病弱だったエミリアは、城の外へほとんど出ることができなかった。その代わり、体調の良い日は城の中を歩き回っている。使われなくなった客室、人の通らない廊下、古い応接室。そこに何が置かれ、どんな絵や彫刻が飾られていたのかまで、記憶には鮮明に残されていた。


そして、この国が今の状態へ落ちていくまでの出来事も。


国庫はほぼ空。流通は滞り、民は飢えている。仕事を失った者も多く、王都にはゴミが溢れ、治安も悪化し始めていた。


現王であるエミリアの父と王妃は、国が傾く中で王都から逃げ出している。その際には金貨や銀貨、宝石、金細工など、一目で金になると分かる物まで大量に持ち出していた。


「……酷いな」


思わず言葉が漏れた。


(だから……もう、この国は……)


エミリアの声には、完全な諦めが滲んでいた。


(私には何もできませんでした。何をしても駄目で……誰も、私の言うことなんて……)


蓮は返事をせず、さらに記憶を辿っていく。


そして、すぐに違和感を覚えた。


この少女の記憶は異常なほど鮮明だった。


何年も前に読んだ本の文章。幼い頃に一度見た絵。教師から聞いた説明。城のどの部屋に何が置かれているのか。細かな会話まで、ほとんど欠けることなく残っている。


「……これで無能?」


(え?)


「お前、一度見聞きしたことをほとんど忘れてないだろ」


(そう……なのでしょうか。みんなも同じだと思っていました)


どうやら本気らしい。


蓮は呆れた。


無能なのではない。使えていないだけだ。


知識は大量にある。しかし、その一つ一つが独立していて、本人にはそれらを結びつけて問題解決へ利用する方法も経験もなかった。


誰かが使い方を教えていれば、評価はまったく違っていただろう。


「宝の持ち腐れだな」


(……また悪口ですか)


「褒めてるよ」


(どこがですか……)


少しだけ、エミリアの反応が戻ってきた。


蓮は今度は、彼女が身につけてきた王女としての所作へ意識を向ける。背筋、歩幅、視線、手の位置、椅子への座り方、声の出し方、口調、微笑み方。そのすべてが完全な記憶として残されている。


ならば、真似すればいい。


蓮は再び鏡の前へ立った。


男の頃の癖で開いていた足を揃え、背筋を伸ばす。肩から余計な力を抜き、顎を僅かに引いた。


エミリアの記憶通りの歩幅で進み、ゆっくりと振り返る。指先まで意識して整え、表情を作る。声の高さも、言葉の選び方も、頭の中にあるエミリアをそのまま身体へ再現していく。


数度繰り返し、最後に鏡の中の少女を確認した。


「……こんなところかしら」


頭の中で、エミリアが息を呑んだ。


(……私です)


立ち方も、仕草も、声も、話し方も。


そこに立っているのは、間違いなくローゼンバーグ王国の王女エミリアだった。


「当然でしょう? 貴女の記憶をそのまま使っているのだから」


ここから先。


外へ見せる自分は、橘蓮ではなくエミリアだ。


鏡の中の自分へ、今度は王女らしいものとは違う笑みを浮かべる。口元を僅かに吊り上げ、見る者を惹きつけながらも、どこか傲慢に見下ろすような笑み。


子供の頃から何度も思い描いてきた、悪の女王の笑顔だった。


「悪くないわね」


ルミが横から鏡を覗き込む。


「随分と雰囲気が変わりましたね」


「当然でしょう? 見た目だけ美しくても、振る舞いが伴わなければ台無しだもの」


(さっきまで大股で歩いていた人とは思えません……)


「忘れなさい」


蓮――エミリアは鏡の中の姿をもう一度確認した。


衣装については、まだ満足していない。


この夜会用ドレスも悪くはない。けれど、自分が理想とする悪の女王には足りなかった。


黒。


薔薇。


もっと華やかで、もっと見る者を圧倒する衣装。


いずれ必ず作らせる。


今は、それより先にやることがある。


「ルミ。セバスを呼んでちょうだい」


「承知いたしました」


ルミが扉へ向かおうとした瞬間、頭の中から慌てた声が響いた。


(ま、待ってください!)


「何かしら?」


(その格好でセバスに会うんですか!?)


エミリアは本気で動揺していた。


「そうだけれど?」


(無理です! 恥ずかしいです!)


「貴女のために仕立てられたドレスでしょう?」


(そうですけど……一度も着たことがないですし、それにセバスは小さい頃から私を知っていて……!)


「なら、なおさら見せてあげればいいじゃない」


(どうしてそうなるんですか!?)


エミリアにとっては大問題らしい。


蓮にとっては何の問題もなかった。


「似合っているのだから、堂々としていればいいのよ」


(そういう問題ではありません……!)


「では、どういう問題なのかしら?」


返事に困ったらしい。


エミリアが黙り込む。


蓮は勝った気分になった。


ほどなくして、扉が静かに叩かれた。


「エミリア様、セバスでございます」


その声だけで、エミリアの緊張が伝わってくる。


幼い頃から自分を見守り続けた老執事。父王と王妃が逃げたあとも城に残り、今も王城を支えている人間だった。


「入りなさい」


扉が開き、白髪の老執事が深々と頭を下げて入室する。


王国執事長、セバス。


年齢を感じさせる皺はあるものの背筋は真っ直ぐで、身に纏った燕尾服にも乱れ一つない。


「お呼びでしょうか、エミリア様」


顔を上げた瞬間。


セバスの動きが止まった。


ほんの僅かな変化だったが、蓮は見逃さなかった。


「……エミリア様?」


「何かしら?」


声は間違いなくエミリア。


姿も同じ。


しかし、いつも自信なさげに俯いていた少女が、今は大人びた夜会用ドレスを纏い、背筋を伸ばして堂々と立っている。


そして何より。


セバスは、そのドレスを知っていた。


「そちらを、お召しになられたのですね」


「ええ。似合わないかしら?」


「とんでもございません」


セバスは静かに頭を下げた。


「大変、お似合いでございます」


身体の奥で、エミリアが息を呑む。


(……っ)


「ほら。言ったでしょう?」


(今、私に話しかけないでください!)


随分と恥ずかしいらしい。


蓮は笑いそうになるのを堪えた。


一方、セバスの表情にはほんの僅かな感慨があった。


このドレスは、エミリアが初めて夜会へ出席する日のために用意されたものだった。


けれど、病弱な少女がそれを着て人前へ出る日は来なかった。


その衣装を今。


エミリアが自ら選び、堂々と身に纏っている。


事情は何も知らない。


それでも。


長年見守ってきた老執事にとって、その姿には思うところがあった。


「セバス。確認したいことがあるわ」


「何なりと」


エミリアはいくつか質問を投げた。


現在動かせる使用人の数。残っている騎士。食料備蓄。王都の状況。そして国庫。


セバスは淀みなく答えていく。


内容は、エミリアの記憶から予想していたものと大差なかった。


「……やっぱり、お金がないのね」


「申し訳ございません」


「貴方が謝る必要はないわ。持って逃げたのは父でしょう?」


セバスが僅かに目を見開いた。


これまでのエミリアなら、父王についてそんな言い方をすることはなかった。


だが事実でもある。


現王でありながら、父は王妃とともに国を捨てて逃げた。その際には、金貨や宝石といった一目で価値の分かる財産まで持ち出している。


「それより、ハルトを呼んでちょうだい。それとオルガも」


「騎士団長と、生産ギルド長を……でございますか?」


「ええ。できるだけ早く」


セバスには理由が分からない。


だが、今目の前にいるエミリアには、以前にはなかった確信がある。


「承知いたしました」


「それと、セバス」


「はい」


「貴方も残りなさい。この国のことを一番よく知っているのでしょう?」


老執事は数秒黙ったあと、深く頭を下げた。


「承知いたしました」


その声には、ほんの僅かに力が戻っていた。


しばらくして、執務室へ二人の人物が呼ばれた。


一人は騎士団長ハルト。鍛えられた体格を持つ、生真面目そうな男だった。


もう一人は生産ギルド長オルガ。こちらはハルトとは対照的に、どこか気安い雰囲気を纏っている。


「お呼びでしょうか、姫様」


ハルトが頭を下げる。


「嬢ちゃんが俺を呼ぶなんて珍しいな」


「オルガ殿」


セバスが咎めるように名前を呼んだ。


「構わないわ。今更でしょう?」


エミリアの記憶では、オルガは昔からこの調子だった。口調こそ軽いが、商人としての能力は確かだ。


「二人とも座りなさい」


ハルトが僅かに戸惑う。


「我々も、ですか?」


「立ったままでは話しにくいでしょう?」


「……承知しました」


二人が席につく。


ルミだけはエミリアの背後に立ったままだった。完全に侍女の立ち位置である。


ハルトが見覚えのない少女へ視線を向けた。


「姫様。そちらの方は?」


「ルミよ」


「新しい侍女でしょうか」


「そんなところね」


「神――」


ルミが何か言いかけた。


「黙っていなさい」


「はい」


妙に素直だった。


ハルトは明らかに疑問を抱いていたが、今はそれどころではないらしい。


「それで、我々を呼ばれた理由は?」


「まず確認したいのだけれど」


エミリアはオルガへ視線を向けた。


「絵画の価値は分かる?」


「物によるな。俺は美術商じゃねぇぞ」


「本物か偽物かくらいなら?」


「多少はな」


「十分よ」


エミリアの記憶を辿る。


「東棟二階。今は使っていない客室の隅に、古い風景画が一枚あるわ」


セバスが少し考え、頷いた。


「確かにございます」


「持ってきてちょうだい」


ハルトとオルガが顔を見合わせた。


国が滅びかけている最中に、突然王女が絵を持ってこいと言い始めた。


意味が分からないのだろう。


それでもセバスは何も言わず、使用人へ指示を出した。


ほどなくして、一枚の風景画が運び込まれる。


豪華な額ではない。古びた木製の額に収められ、長年誰にも気に留められず、使われなくなった客室の隅へ掛けられていた絵だった。


父王が城から逃げた際にも、当然のように残されている。


金貨や宝石とは違い、一目で価値の分かる物ではなかったからだ。


「これよ」


オルガが立ち上がり、絵へ近づく。


「……古い絵だな」


最初は大した興味もなさそうだった。


しかし、右下に残された署名へ視線を向けた瞬間、表情が変わった。


「……待て」


顔を近づけ、筆の運びや絵具、額の裏側まで確認し始める。


ハルトが眉を寄せた。


「何かあるのか?」


「ちょっと黙ってろ」


オルガの声から軽さが消えていた。


やがて彼は、ゆっくりと顔を上げる。


「嬢ちゃん。これ、どこにあったって?」


「だから、東棟の客室よ」


「いつからだ?」


「少なくとも、私が小さい頃にはあったわ」


オルガは頭を抱えた。


「なんでこんな所にあるんだよ……!」


ハルトが困惑する。


「そんなに価値のある物なのか?」


「あるなんてもんじゃねぇ。帝国の有名画家の作品だ。しかも、ずっと所在不明になってる奴だぞ」


セバスまで驚いたように絵を見る。


「こちらが……?」


「たぶん本物だ。いや、ほぼ間違いねぇ」


オルガはエミリアへ鋭い視線を向けた。


「嬢ちゃん。分かってて持ってきたのか?」


「本物だということは知っていたわ」


「なんで!?」


「本で読んだからよ」


エミリアは、この画家について書かれた本を読んでいた。


特徴的な筆遣いも署名も、作品の来歴も覚えている。一度得た情報を忘れないエミリアだからこそ、それを城に残されていた絵と結びつけることができた。


もっとも。


本人には一つ、大きく欠けているものがある。


「それで、いくらになるの?」


オルガが固まった。


「……知らねぇのか?」


「知らないわ」


即答だった。


エミリアには美術を見る目がある。本物かどうかも分かる。だが、それが金貨何枚になるのかは分からない。


王女として生まれ、自分で金を払って何かを買う経験などほとんどなかったのだから当然だ。


一方で蓮には、地球で培った商売の知識がある。


本物であること。希少性が高いこと。名のある作者であること。そして、それを欲しがる者が存在すること。


そこまで条件が揃えば、高値になる可能性が高いことくらいは予測できる。


ただし、この世界の相場までは知らない。


だからオルガを呼んだ。


「……売り方次第だな」


オルガは再び絵を見つめる。


「普通に市場へ流すより、欲しがってる貴族や美術館へ直接話を持っていった方がいい。帝国なら、かなり高く買う奴もいるだろう」


「つまり?」


「相当な金になる」


エミリアの口元に笑みが浮かんだ。


「そう」


オルガが嫌な予感を覚えたように眉をひそめる。


「……何だ、その顔」


「まだあるわよ」


「は?」


「同じような物が」


オルガが固まった。


エミリアは記憶を辿りながら告げる。


「西棟の廊下に人物画。旧応接室には彫刻が三点。北側の客室には古い壺。それから――」


「待て待て待て!」


オルガが慌てて止めた。


「全部、本物なのか!?」


「少なくとも、私が覚えている限りではね」


セバスが息を呑む。


病弱だったエミリアは、城の外へほとんど出られなかった。だからこそ城の中を歩き、誰も使わなくなった部屋へ入り、誰も気に留めない絵を眺め、暇を潰すために本を読み続けた。


他の誰も知らない城の姿を、この少女だけが覚えている。


父王は逃げる際、金になる物を持ち出した。


少なくとも本人は、そのつもりだったのだろう。


だが、美術品の真贋を見抜く目までは持っていなかった。価値が分からない物は残した。


それが今、国を立て直すための資金になるかもしれない。


「オルガ」


「……なんだ」


「全部確認してちょうだい」


オルガは額へ手を当てた。


「簡単に言いやがる……」


「できないの?」


その一言で、商人の顔が変わった。


「誰に言ってやがる」


にやりと笑う。


「全部持ってこい。見てやるよ」


「頼もしいわね」


ハルトは、そんな二人のやり取りを黙って見ていた。


突然、人が変わったように見える王女。今まで誰も価値に気づかなかった美術品を見つけ、商人を呼び、空になった国庫を立て直すための資金へ変えようとしている。


偶然なのか。


それとも。


今まで何もできなかった少女が、本当に何かを始めようとしているのか。


「姫様」


ハルトが口を開いた。


「その金で、何をなさるおつもりですか」


エミリアは窓の外へ視線を向けた。


荒れた王都。


仕事を失った民。


飢えた人々。


街のあちこちに放置されたゴミ。


やらなければならないことはいくらでもある。


けれど。


まずは。


「そうね」


エミリアはゆっくりと微笑んだ。


悪の女王らしく、美しく、そして傲慢に。


「まずは、この汚い街を綺麗にしましょうか」


ハルトが眉を寄せる。


「……掃除、ですか?」


「ええ」


「この状況で?」


「この状況だからよ」


当然のように答えるエミリアを前に、ハルトの表情には納得できないという色がはっきりと浮かんでいた。


その反応を見て、蓮は心の中で笑う。


どうやら。


悪の女王としての最初の命令は、すんなりとは聞いてもらえそうになかった。


プロローグまでもう少しあります。

少し長いですが、お付き合いいただけると嬉しいです。



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