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無能姫と炊き出し 挿絵有

TS転生回です


2026/06/19


エミリア夜会ドレス挿絵入れました

意識が浮上する。

柔らかな感触。ほのかな花の香り。そして見慣れない天井。


「……ん」


蓮はゆっくりと身体を起こした。

その瞬間。


「……は?」


違和感。まず声だった。高い。透き通るような声。まるで別人。いや、実際に別人なのだろう。

蓮は慌てて喉へ触れた。細い。明らかに男の喉ではない。視線を落とす。長い銀髪が肩から流れ落ちていた。


「おぉ……」


思わず感嘆の声が漏れる。そして、蓮はベッドから立ち上がった。


「ん?」


妙な違和感が残る。歩きにくい。身体が軽い。重心の位置が違う。肩幅。腰。脚。全てが男だった頃と異なっていた。無意識に足が外へ開き、歩幅も大きい。鏡へ向かう足取りは堂々としているが、どこか王女らしさに欠けていた。

エミリアなら決してしない歩き方。男が女の身体を動かしている。そんな違和感が確かにあった。


だが、今はそれどころではない。

蓮は鏡の前で立ち止まり、言葉を失った。

鏡の中にいたのは一人の少女だった。銀色の長い髪。紫水晶のような瞳。透き通る白い肌。整った顔立ち。そして芸術品のように整った身体。


「……」


美しい。客観的に見ても美しい。悪の女王として百点満点。いや、百二十点でも足りない。


「最高だな」


自然と笑みが浮かぶ。蓮は鏡へ近付き、頬へ触れる。滑らかだった。信じられないほど滑らかだった。首筋。肩。腕。指先を滑らせる。絹のような肌。男だった頃には存在しなかった感触。


「すごいな……」


思わず呟く。そして視線が胸元へ向く。


「さて」


重要な確認事項だった。蓮は静かに頷き、手を伸ばす。柔らかい感触。確かな存在感。


「ある」


即答だった。もう一度確認する。


「あるな」


重要なので二回確認した。非常に重要だった。

蓮は満足そうに頷き、最後の確認へ移る。数秒後。


「ない」


今度は深く頷いた。


「完璧だ」


本気だった。長年、本当に長年諦めていた夢。絶対に叶わないと思っていた理想。それが今、鏡の中に存在している。

蓮は改めて全身を見つめた。細い腰。長い脚。美しい身体のライン。どこを取っても理想的だった。


その頃、身体の奥では。


(な……なにを……)


エミリアが震えていた。知らない男。知らない意識。それが自分の身体を好き勝手に触っている。怖い。とても怖い。だが、目の前の男は、何故か満面の笑みを浮かべていた。


(こわい……)


エミリアは小さく身を縮める。蓮は気付いていない。気付いたとしても今はそれどころではなかった。

蓮は鏡の中の自分を見つめ、ゆっくりと表情を変えた。口元を僅かに吊り上げる。視線を下げる。相手を見下ろすように。絶対的な余裕を持つように。支配者のように。

鏡の中の少女が微笑む。高貴で、傲慢で、人を惹きつける笑み。蓮は数秒その表情を維持し、満足そうに頷く。


「よし。いけるな」


悪の女王。理想の支配者。長年思い描いていた姿。想像以上だった。


「ありがとう」


蓮は小さく呟く。


「ルミナ」


身体の確認を終え、次は装備だ。悪の女王にとって服装は重要である。非常に重要である。

蓮は部屋の隅に置かれたドレッサーへ向かい、引き出しを開けた。衣装を見る。そして、固まった。


「…………」


一枚取り出す。白いドレス。上品だ。王女らしい。だが、違う。次も、その次も、またドレス。


「……ないな」


嫌な予感がした。全て確認する。結果、予感は的中した。黒がない。威圧感がない。レースが足りない。悪の女王感が壊滅的だった。


「終わってる」


絶望的だった。その頃、身体の奥でエミリアは困惑していた。国の滅亡よりも、ドレスの方に深刻な顔をしている。本当に理解できなかった。

蓮は深いため息を吐き、ドレッサーを閉じた。


「終わってるな」


(新しいドレスを作る余裕なんて……ありませんでしたから……)


頭の中から弱々しい声が聞こえる。蓮は何も言わない。記憶を見なくても分かる。この国は貧しく、王城ですら余裕が無い。

だが、今は感傷に浸っている場合ではない。


「さて」


蓮は椅子へ腰掛け、目を閉じる。


「見せてもらうぞ」


(え?)


次の瞬間、膨大な記憶が流れ込んできた。王城、王都、騎士団、貴族、税収、食料事情、外交、そしてエミリア自身の人生。


(きゃあああああ!?)


エミリアが悲鳴を上げるのを無視し、情報を繋ぎ合わせ、蓮は気付く。


「なるほどな」


この王女は無能ではない。驚異的な記憶力を持つが、知識が点のまま放置されていたのだ。


「ピースは揃っている。積み方を知らなかっただけか」


(……)


エミリアは何も言えなかった。蓮は数分後、ゆっくりと目を開き、立ち上がる。先程とは違い、自然と背筋が伸び、指先まで意識が行き届く。十数年かけて身につけた技術が、まるで昔から知っていたかのように身体へ馴染んでいた。


「こんなところかしら」


鏡の中の少女が微笑む。優雅に、美しく、完璧な王女として。だが、その瞳の奥だけが違っていた。

そして視線が自然とある場所へ向かう。ドレッサーの奥、濃紺を基調とした夜会用ドレス。


(それ……私の夜会デビュー用のドレスです……)


結局、一度も袖を通すことは無かった。


「新品なのね」

(……はい)

「なら丁度いいわ」


蓮はそう言ってドレスへ手を伸ばした。

だが、次の瞬間、ある記憶が浮かぶ。侍女達による編み上げ、宝飾品、着付けの補助。


「そういえば……一人では無理だったかしら」


当然だった。王女用の正装なのだから。蓮は軽く肩を竦める。


「誰かいるかしら」


コンコン。

すぐに扉が叩かれた。


「失礼いたします」


落ち着いた声。扉が開く。入ってきたのはメイド服の少女。銀髪に紫の瞳。蓮は即座に顔を見、口を開いた。


「ルミナ」


少女は一瞬だけ固まった。そして咳払いする。


「メイドのルミです」

「ルミナ」

「ルミです」

「ルミナ」

「……ルミです」


数秒の沈黙。蓮は諦めた。


「……ルミ」

「はい」


どこか満足そうだった。


(神様ですよね!?)


頭の中でエミリアが混乱する。当然である。神がメイド服を着ているのだから。


「丁度いいわ。着替えを手伝いなさい」

「神に着付けをさせる人は初めて見ました」

「メイドでしょう?」

「……メイドのルミです」


敗北だった。数分後、ルミは慣れた手付きで着付けを進めていた。ドレスが身体へ沿う。肩の線、背中の曲線、細い腰。ルミは感心したように呟く。


「楽ですね」

「何がかしら」

「補正が必要ありません。普通はここで色々調整するのですが、貴女は必要ありません。神様的にも自信作です」

「なるほど。そこは評価してあげるわ」


最後の装飾が整えられる。白銀の髪、蒼い瞳、濃紺の夜会用ドレス。完成された王女の姿。ルミが一歩下がった。


「終わりました」


蓮は鏡を見る。しばらく何も言わなかった。


挿絵(By みてみん)


美しい。誰が見てもそう思うだろう。完璧と言っていい姿だった。

蓮はゆっくりと自分の頬へ触れる。指が沈み込むような柔らかさ。首筋、肩、細い腕、しなやかな身体。そして胸元へ視線が落ちる。男だった頃には存在しなかった重み。鏡の向こうの少女は、思わず振り返ってしまうほど美しかった。


蓮は小さく息を吐く。不思議な感覚だった。

女性になった。確かにそうだ。だが魂は変わっていない。今も自分は男だ。鏡の向こうの少女に見惚れている感覚も、男だった頃と変わらない。ただ、その美しい存在が自分自身になっただけだ。


「なるほど」


蓮は呟き、ゆっくりと口元を吊り上げる。見下すように、挑発するように、支配者のように。エミリアなら決して浮かべない笑み。鏡の中の少女が一瞬だけ別人になる。


蓮は満足そうに頷いた。美しいからではない。似合っていたからだ。ずっと憧れていた存在に、悪の女王に。


「最高ね」


蓮は思わず笑った。


「ようやく舞台に立てるもの」


ルミが首を傾げる。


「嬉しそうですね」

「そうね。嬉しいわ」


そして、ほんの少しだけ少年のような笑みを浮かべる。悪の女王として、誰よりも堂々と、自由に、美しく。そのための器は、文句の付けようがなかった。


蓮はもう一度鏡を見る。そこに映るのは王女を演じる悪の女王だった。

窓際へ歩き、荒れた王都を見下ろす。今日から自分が使う国。蓮は優雅に椅子へ腰掛け、足を組んだ。王女らしく。だがその瞳だけは違った。獲物を見定める支配者の瞳。


「さて……仕事の時間ね」


目を閉じる。エミリアの記憶から、王城、市場、騎士団、税収、流通と片っ端から情報を拾い上げる。そして数分後。


「終わってるわね」


率直な感想だった。


(……)


エミリアは黙る。国庫は空、軍は疲弊、流通は停止寸前。貴族は腐敗し、王と王妃は財産を抱えて逃亡した。


「なるほど。この国を潰したいなら満点ね」

(……すみません)

「何故貴女が謝るのかしら」


蓮は気にせず、さらに記憶を辿る。そしてある事実に気づく。何故この国は、とっくに滅んでいないのか。

老執事セバス。騎士ハルト。生産ギルド長オルガ。

国は壊れたが、骨組み(人材)は残っていた。


「……先代、中々趣味が良いじゃない」


蓮は小さく笑う。これは国を救う話ではない。理想の悪の組織を作る話だ。

窓の外へ向き、優雅に頬杖をつく。


「まずは街を綺麗にしましょう。私の城を綺麗にしましょう。私の国を綺麗にするの」

(そっちですか!?)

「当然よ。悪の女王が住む国が汚いなんて嫌でしょう?」


蓮は即答した。そのための人材は既に揃っている。


「ルミ、セバスを呼んでちょうだい」

「承知いたしました」


その時、エミリアが言い淀む声が響く。


(あの……その格好で……ですか?)


蓮は自分の姿を見下ろす。大胆な夜会用ドレス。


「そうだけれど」

(セバスが来るのでしょう……? 少し……恥ずかしいです)

「見せたことが無いのね」

(ありません……)


エミリアは初めての社交界のために仕立てられ、一度も袖を通さなかったそのドレスへの思いを吐露する。蓮は小さく笑う。


「安心なさい。セバスは喜ぶわ。貴女のことを一番見てきた人なのでしょう?」

(そうでしょうか……)

「ええ。断言するわ」


コンコン。扉が叩かれた。


「失礼いたします」


静かな声。エミリアの心臓が跳ねる。


(も、もう来てしまいました……)


蓮は思わず笑う。どうやら王女は、思った以上に気が弱いらしい。

コンコン。

扉がノックされ、静かな声と共に一人の老人が部屋へ入ってきた。


白髪。整えられた燕尾服。年齢を感じさせる皺。

だが、背筋は真っ直ぐだった。長年積み重ねた気品と風格がそこにあった。


王国執事長、セバス。

彼は恭しく一礼する。


「お呼びでしょうか、エミリア様」


そして顔を上げる。

その瞬間、僅かに動きが止まった。彼の視線が夜会用ドレスへ向くのを、蓮は見逃さなかった。


「そのドレスを……」


小さな呟き。

蓮は満足そうに微笑む。


「似合うでしょう?」


セバスは目を細めた。

幼い頃から見てきた気弱な少女。一度も夜会へ出られなかった王女。

結局袖を通す機会の無かったはずのドレスを、彼女は今、堂々と纏っている。


「ええ」


セバスは静かに頭を下げた。


「とてもお似合いです」


(……っ)


エミリアは何も言えなかった。恥ずかしい。けれど、少しだけ嬉しい。

セバスは昔から嘘を言わない人だったからだ。


「ありがとう」


蓮は素直に答え、すぐに本題へ入る。


「セバス。今この城で自由に動かせる人員はどのくらいいるのかしら」

「使用人であれば三十七名ほどです」

「騎士は?」

「王城警備のみで二十六名」

「食料備蓄」

「三週間程度でございます」

「国庫」

「ほぼ空です」

「そう」


蓮は小さく頷いた。予想通りだった。

逆に、セバスは違和感を覚える。まるで最初から答えを知っていたかのようだった。


「セバス、ハルトを呼びなさい」

「承知いたしました」

「それとオルガも」


今度こそ、セバスの眉が僅かに動いた。

ハルトは分かる。騎士団長だからだ。だが、オルガは生産ギルド長であり商人だ。王族が真っ先に呼ぶ相手ではない。


「理由を伺ってもよろしいでしょうか」


蓮は楽しそうに笑った。まるで悪戯を思いついた子供のように。それでいて、どこか悪役のように。


「秘密よ」


セバスは固まった。


「……はい?」

「秘密」


蓮は繰り返す。


「悪の組織が、作戦を事前に説明すると思う?」


セバスは数秒沈黙した。どう返せば正解なのか分からない。


「思いませんが……」

「でしょう?」


蓮は満足そうに頷く。


(何を仰っているのでしょう……)


エミリアも理解できていなかった。だが、蓮だけは上機嫌だった。


「でも、一つだけ教えてあげる」


蓮は窓の外を見る。荒れ果てた王都。滅びかけた国。絶望に沈む民。


「この国はまだ死んでいないわ」


セバスは黙って聞く。


「だから使うの」

「……何をでしょう」


蓮は笑う。悪の女王らしく、不敵に。


「全部よ」


セバスはますます困惑した。だが、その瞳は本気だった。

昔から見てきた、気弱で優しい王女とはまるで違う。それなのに何故だろう、目を離してはいけない気がした。


「ハルトとオルガを呼びなさい」


蓮は椅子へ深く腰掛ける。


「忙しくなるわ」

「何をなさるおつもりで?」

「さて」


蓮は微笑み、楽しそうに告げた。


「何かしらね」


セバスは生涯で初めて、自分が育てた王女に対して少しだけ不安を覚えた。



 * * *



それからしばらくして。

使用人達が、何枚もの絵画や古い壺、彫刻などを執務室へ運び込んできた。どれも王城のあちこちに飾られていた品ばかりだ。


オルガは腕を組んだまま、それらを見回した。


「嬢ちゃん、まさかこれを売る気か?」

「そうよ」

「売れねぇとは言わねぇがな」


オルガは頭を掻く。


「今必要なのは食料だ。こんなもん売ったところで――」

「右から三枚目」


蓮が紅茶を口に運びながら遮った。


「あれを見なさい」


オルガは怪訝そうな顔で近づく。絵画を眺め、そして署名を確認した瞬間、固まった。


「……おい」

「何かしら」

「何でこれがここにある」


声の色が違った。完全に商人の声だった。


「昔からあったでしょう」

「そういう話じゃねぇ!」


オルガは絵を指差した。


「これ、帝国の美術館が血眼で探してる作品だぞ!」


ハルトが目を瞬く。


「高いのか?」

「高いどころじゃねぇ。王都の屋敷が買える」

「一軒か?」

「何軒もだ!」


部屋が静まり返る。

オルガは慌てて次の作品へ向かった。

人物画を確認する。固まる。

彫刻を見る。さらに固まる。

古い壺を見る。今度は顔を覆った。


「おい……これも本物か?」

「本物よ」

「こっちも?」

「そうよ」

「こっちもか?」

「そうよ」


オルガはゆっくり振り返った。


「何で知ってる」


蓮は呆れたようにため息を吐く。


「分からないの?」

「分かるか」

「本当に美しいものは輝きが違うのよ」


オルガは即答した。


「意味が分からねぇ」


ハルトも頷く。セバスも頷く。

エミリアも内心で(私もよく分かりません……)と頷いた。

蓮だけが不満そうだった。


「見る目が無いのね」

「商人に向かって言うな」


オルガは再び作品へ視線を向ける。そして気付いた。

価値がある作品が一つや二つではない。次々と出てくる。まるで宝の山だった。


「嬢ちゃん、これで全部か?」


蓮はにやりと笑う。


「まさか」


その一言でオルガの顔が引きつった。


「まだあるのか……」

「もちろん」


蓮は指を立てながら次々と場所を告げる。


「先代国王の執務室、暖炉の上に飾られている風景画。王妃の私室、化粧台の横に置かれている彫刻。東棟二階の廊下、窓際の彫像。西廊下三階、赤い額縁の人物画」


セバスの表情が僅かに動く。どれも、先代国王や王妃が大切にしていた品だったからだ。


「よく覚えておいでで……」

「綺麗だったもの」


それだけだった。

幼い頃からエミリアは美しいものが好きだった。料理、服、絵画、宝石。心惹かれたものを決して忘れなかった。

誰も価値を理解しなかっただけで、その才能が消えていたわけではない。


オルガが勢いよく立ち上がる。


「使用人!」


部屋へ大声が響く。


「今すぐ人を集めろ! 指定された品を全部運べ!」


使用人達が慌てて駆け出していく。ハルトは呆然としていた。


「そんなにあるのか……」

「ある」


オルガは断言する。その目は完全に獲物を見つけた商人のものだった。


「嬢ちゃん、まだ他にもあるんだな?」


蓮は満足そうに微笑んだ。


「王城は広いもの」


オルガは大きく笑う。

久しぶりだった。未来への投資が、こんなにも面白そうだと思えたのは。



 * * *



使用人達が慌ただしく部屋を出ていき、執務室には奇妙な静けさが残った。

オルガは再び絵画へ視線を向け、ゆっくりと息を吐く。


「信じられねぇ……」


商人人生で何度も高価な品は見てきた。だが、これほどの物が無造作に王城へ飾られているなど聞いたことがない。


「セバス、本物なんだな?」

「恐らく」

「恐らくじゃ困る」


オルガが頭を抱えると、セバスは少し困ったように微笑んだ。


「私にとっては先代様との思い出ですので。価値など考えたこともありませんでした。こちらの風景画は、先代様が王妃様と出会われた地方の景色だそうですし、この彫刻は王妃様へ贈られた物で――」

「やめろ、値段が上がる」

「ぶっ」


ハルトが吹き出した。セバスも少しだけ笑う。久しぶりの穏やかな空気だった。


「嬢ちゃん。本当にどうやって見つけた」

「見つけたわけじゃないわ。覚えていただけよ」

「毎日見ていたもの、忘れる理由が無いでしょう?」


静寂。セバスだけが少し目を細めた。

昔からそうだった。エミリアは、誰も気にしないことを、誰よりも覚えていた。


「……そうでしたな。エミリア様は昔から記憶力『だけ』は凄まじかった」

(だけって……)


エミリアが少しだけ傷付く。蓮は笑った。


「だけではないわ。料理は? 服飾は? 美術は? 宝石は? ずっとあったでしょう」


蓮は立ち上がり、ゆっくりと窓際へ歩く。濃紺のドレスが揺れた。


「ただ、使い方を知らなかっただけよ」


エミリアが息を呑む。

それは、今まで誰も言ってくれなかった言葉だった。無能ではない。才能が無いわけではない。ただ、使い方を知らなかっただけ。


オルガは黙っていた。

商人だから分かる。価値とは何か、それを見抜けるかどうか。

そして今、目の前の少女には投資する価値が間違いなくあった。


「嬢ちゃん」


オルガは久しぶりに、心から面白そうだと思った顔で笑った。


「乗った。全部売る。全部流す。全部回す」


立ち上がった彼は、紛れもない商人の顔だった。


「だから約束しろ。儲けさせろ」


蓮は悪の女王らしく、堂々と笑う。


「その言葉、後悔させる自信はあるわ」


後に彼はこう語ることになる。人生最大の投資であり、人生最大の仕事量だったと。



 * * *



「で」


ハルトが腕を組む。


「結局何をなさるおつもりなのですか」


オルガも頷いた。金の目処は立った。だが、それだけで国が立ち直るわけではない。


「炊き出しよ」


ハルトは頷く。飢えた民にまず食わせる。間違ってはいない。

だが、次の言葉で眉をひそめた。


「その後は掃除ね」

「掃除?」

「そうよ」


執務室が静まり返る。

道路補修、流通改善、農地開拓。やるべきことはいくらでもあるのに、何故掃除なのか。


「失礼ですが、優先すべきことがあるのでは? 食料、流通、治安、仕事です」

「別に後でやればいいじゃない。全部やるわよ。でもまずは掃除」

「何故です?」


蓮は窓の外を見る。汚れた街路。放置されたゴミ。どうにも気に入らない。


「私の住む街が汚いから」


全員沈黙した。


「……それだけですか」

「十分でしょう?」


本気だった。ハルトは頭痛を覚える。


「嬢ちゃん、腹は膨れねぇぞ」

「だから炊き出しをするのよ」

「それは分かる」

「なら問題ないじゃない」

「問題しかねぇよ!」


即答するオルガに、蓮は呆れたように肩を竦めた。


「じゃあ捨てるの? 飢えて、仕事が無く、暇を持て余している国民を捨てるの?」

「そういう意味ではありません」

「なら使えばいいでしょう。食べさせる。働かせる。対価を払う。何か問題があるの?」


ハルトは言葉に詰まった。内容だけ見れば正しいが、言い方が酷い。


「私は嫌よ。役に立つ人間を放置するなんて勿体ないじゃない」

「ぶはっ」


オルガが吹き出し、ハルトは額を押さえ、セバスは苦笑した。

エミリアだけが驚いていた。民を心配しているわけではないが、見捨てるつもりもない。その考え方はどこか不思議だった。


「無償の施しなんて趣味じゃないわ。食べるなら働く。働いたなら報酬を出す。当たり前でしょう?」


そして、不敵に笑う。


「私の街を綺麗にするの。私の国を綺麗にするの。全部私のためよ」


ハルトは長く息を吐いた。理屈はよく分からないが、少なくとも民は食べられ、仕事も生まれる。結果は悪くない。


「承知しました。騎士団を動かします」

「良い返事ね」


その横で、オルガだけが笑っていた。


「嬢ちゃん、その掃除、本当に意味あるんだろうな?」

「さあ? でも、綺麗な方が気分が良いでしょう?」


後に、この掃除は王都再建の第一歩として語られることになる。だがこの時、それを理解していた者は一人もいなかった。


炊き出し初日。

王都の中央広場には長い列ができていた。


痩せた民。疲れ切った労働者。子供を抱えた母親。老人達。

皆、空腹だった。炊き出しの匂いに引き寄せられるように集まっている。


「予想以上だな……」

「予想通りよ」


ハルトが呟いた直後、隣から聞こえた声に振り返り――そして固まった。

ハルトだけではない。オルガも、騎士達も、広場にいた使用人達も、全員が一瞬言葉を失った。


黒を基調とした豪奢なドレス。銀糸による繊細な刺繍。黒薔薇を模した装飾。長く美しいマント。

威厳と気品を兼ね備えたその姿は、まるで物語に登場する『悪の女王』そのものだった。


そして何より、圧倒的に美しかった。


オルガが頭を抱える。


「本当に着やがった……」

「当然でしょう?」


蓮は満足そうに頷いた。この日のために大急ぎで作らせたのだ。着ない理由がない。


(恥ずかしいです……)

(最高よ)


エミリアと蓮の意見は相変わらず一致しなかった。


やがて、広場に姿を現したエミリアへ民衆の視線が集中する。


「姫様……?」

「本当に? 綺麗……」

「いや待て。なんだあの格好」

「頭おかしくなったのか?」


反応は様々だった。だが共通していることが一つある。誰も目を逸らせなかった。

国一番の美貌という噂は、決して誇張ではなかった。


蓮は堂々と壇上へ上がる。

注目されている。実に良い。悪の女王として完璧なスタートだった。


「よく集まったわね」


拍手は無い。歓声も無い。むしろ警戒されている。素晴らしい。


「今日から炊き出しを行うわ」


ざわめきが広がる。


「ただし」


蓮は指を一本立てた。


「無償ではない」


空気が変わる。


「食べたら働きなさい」


さらにざわめく。


「街を綺麗にするの。ゴミを片付ける。道を整える」


民達は顔を見合わせた。意味が分からない。


「私の住む街が汚いなんて我慢できないわ」


ハルトも意味が分からない。オルガも意味が分からない。セバスだけが微笑んでいた。


「働いた者には報酬を出す。食事も出す。だからしっかり働きなさい」


そして、蓮は大きく腕を広げる。


「私のために!」


沈黙。広場が静まり返る。

完璧だった。少なくとも蓮の中では。


(本当にそうでしょうか……)


エミリアは不安だった。


炊き出しが始まる。

大鍋から次々とスープが配られていく中で、蓮は自ら一杯受け取った。

周囲がざわつく。王族が自分達と同じ物を口にするなど思わなかったのだ。


蓮は一口飲み――眉をひそめた。


「もったいないわね」


料理人達が青ざめる。


「素材は良いのに、作り方が下手。野菜を入れる順番が違う。火加減も強すぎる。旨味が逃げてる」


蓮は鍋へ歩み寄る。


「貸しなさい」


十分後。

同じ材料、同じ鍋、同じ野菜。なのに、漂う香りがまるで違った。


列の民達が顔を上げる。


「なんだ……?」

「良い匂いだ」

「さっきと違うぞ」


蓮は満足そうに頷く。


「これで良いわ」


その時だった。

小石が飛んだ。蓮の肩を掠める。

騎士達が即座に動く。


「捕まえろ!」

「待ちなさい」


蓮が手で制した。

石を投げたのは十歳ほどの少年だった。痩せている。服もぼろぼろだ。だが、目だけは死んでいなかった。


「無能姫!」


広場が凍り付く。


「今更出てくるな! もっと早く何とかしろよ!」


少年は叫ぶ。本気だった。怒りも、悔しさも、全部本物だった。

騎士達が青ざめ、民達も息を呑む。

だが、蓮は怒らなかった。むしろ、心から楽しそうに笑った。


「素晴らしいじゃない」


少年が固まる。


「……は?」

「言いたいことを言える。見込みがあるわ」


意味が分からない。広場中の誰もがそう思った。


「言いたいことも言えない人間なんてつまらないでしょう?」


少年は呆然とする。

そして、初めて気付いた。近くで見たエミリアは、驚くほど綺麗だった。白銀の髪。透き通るような瞳。まるで物語の住人だった。

理解できない。何を言っているのかも分からない。でも、目が離せなかった。


「もっと大きくなりなさい」


蓮は満足そうに微笑む。


「そして」


一呼吸。


「私を跪かせるくらいの男になってみなさい」


沈黙。

広場全体が静まり返る。

意味が分からない。本当に意味が分からない。

だが、その笑顔だけは、何故か忘れられない気がした。


「う、うるせぇ!」


少年は顔を真っ赤にして走り去る。

広場には微妙な沈黙だけが残った。


ハルトは頭を抱え、セバスは苦笑し、オルガはとうとう吹き出した。


「ぶはっ! なんだよ今の!」


蓮は堂々と胸を張る。


「未来の幹部候補ね」

(違うと思います……)


エミリアは静かに呟いた。誰にも聞こえなかった。


こうして。

悪の女王エミリアのデビューは、民衆を困惑させ、騎士団を頭痛に追い込み、商人を爆笑させ、そして一人の少年の人生を大きく変えることになる。


もっとも。

この時はまだ、誰もそれを知らなかった。






プロローグまでもう少しあります。

少し長いですが、お付き合いいただけると嬉しいです。

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