橘蓮 挿絵有
三十歳になった。
日付が変わる。
時計の針が零時を告げた瞬間、橘蓮はグラスを軽く掲げた。
「誕生日おめでとう、俺」
返事をする者はいない。当然だ。この部屋には自分しかいないのだから。
都心の超高層マンション最上階。
大きなガラス窓の向こうには、宝石をばら撒いたような夜景が広がっている。
車のヘッドライト。高層ビルの灯り。ネオン。
街そのものが、巨大な光の海だった。
子供の頃、テレビ越しに見て憧れた景色。
成功者だけが辿り着ける場所。選ばれた人間だけが立てる場所。
そして今、その中心に自分はいる。
蓮はソファから立ち上がると、ワインラックへ歩いた。
そこには一本の赤ワインが置かれている。
フランス・ボルドー地方のヴィンテージワイン。三十年前に造られた一本。
つまり、自分と同い年のワインだった。
少し前にオークションで落札した物だ。値段は正確には覚えているが、気にしていない。
今の自分にとっては誤差の範囲だった。
「こういうの、一度やってみたかったんだよな」
コルクを抜く。静かな音が部屋に響いた。
グラスへ注ぐ。
深い紅色。ブラックチェリーやカシスを思わせる香り。
熟成によって生まれた樽香に、微かな革の香り。
若い頃の自分なら感動していたかもしれない。
蓮はゆっくりと口に含んだ。
柔らかな果実味。穏やかな酸味。長く続く余韻。
文句の付けようがない。極上だった。
「美味いな」
感想はそれだけだった。
決して不味い訳ではない。むしろ人生で飲んだワインの中でも最高峰だろう。
それでも。
心は動かなかった。感動が無かった。満たされなかった。
蓮は苦笑する。
「贅沢な悩みだな」
昔の自分が聞いたら殴られるだろう。
金が欲しかった。知識が欲しかった。地位が欲しかった。人脈が欲しかった。成功したかった。
だから努力した。勉強した。働いた。失敗した。立ち上がった。また失敗した。また立ち上がった。
それを何度も繰り返した。
才能があった訳ではない。運が良かった訳でもない。
ただ、諦めなかった。
結果として、欲しい物はほぼ全て手に入った。
金、知識、地位、人脈、社会的信用。どれも十分過ぎるほど持っている。
だからこそ、分からなくなっていた。
「次は何をしようか」
窓際へ歩く。夜景を見下ろす。
そこには数え切れないほどの人間がいる。
夢を追う者、恋をする者、酒を飲む者、働く者、泣く者、笑う者。
それぞれの人生がある。
だが、そのどれにも興味が湧かなかった。
蓮はワインを飲みながら空を見上げた。
ふと、昔を思い出す。
子供の頃。
アニメが好きだった。漫画も好きだった。ゲームも好きだった。
だが、主人公にはあまり興味が無かった。
勇者。正義の味方。選ばれし英雄。
嫌いではない。むしろ好きだった。
それでも、蓮の心を掴んだのは別の存在だった。
悪の女王。
悪の幹部。
魔王軍の参謀。
世界を敵に回しても信念を貫く者達。
敗北が確定しているような状況でも笑う者達。
理不尽な運命に抗う者達。
格好良かった。本気でそう思った。
子供の頃、一度だけ本気で考えたことがある。
――悪の女王になりたい。
だが、それは叶わなかった。自分は男だったからだ。
ならばどうするか。蓮は考えた。
悪の女王を勝たせる『参謀』になろうと。女王が負ける理由を潰そうと。
兵站を学んだ。経営を学んだ。心理学を学んだ。組織運営を学んだ。
経済を学んだ。交渉術を学んだ。人を動かす方法を学んだ。
気付けば、それらは現実社会で成功するための武器になっていた。
そして三十歳になった今。
蓮は確信している。
もし理想の悪の女王が存在するなら、自分は絶対に負けさせない。
どんな敵が来ても、どんな逆境でも、勝利へ導ける。
その自信があった。
だが。
「肝心の悪の女王がいないんだよな」
思わず笑ってしまう。
人生を賭けて準備した。参謀として完成した。
しかし、仕えるべき主君だけが存在しなかった。我ながら馬鹿げている。
そんなことを考えながらグラスを傾けた、その時だった。
「退屈そうね」
女の声が聞こえた。
蓮の動きが止まる。
この部屋には誰もいない。オートロック、最上階、警備も完璧。侵入など不可能なはずだった。
だが、声は確かに聞こえた。しかも、背後から。
「そうでもないさ」
蓮は振り返らなかった。驚きもしない。
ワインを一口飲みながら続ける。
「せっかく来たんだ。まずは名乗ったらどうだ?」
くすり。
鈴の音のような笑い声が響いた。
「面白いわね。普通はもっと驚くものよ?」
「驚いているさ。だが、悲鳴を上げるほどじゃない」
そう言って蓮は振り返った。
そして、一瞬だけ言葉を失った。
美しかった。
月明かりを人の形にしたような女性だった。
長い白銀の髪。淡い紫の瞳。黒と白を基調とした神秘的な衣装。
夜空そのものを纏ったような姿。まるで神話の一場面だった。
だが、蓮が驚いたのは美貌ではない。存在感だった。
そこに立っているだけなのに、世界の法則そのものが立っているような感覚。
本能が告げていた。
人間ではない。もっと上位の存在だと。
「なるほど」
蓮は納得したように頷く。
「神様か」
女性は目を丸くした。
「分かるの?」
「消去法だ」
蓮は肩をすくめる。
「泥棒なら警備を突破できない。幻覚にしてはリアルすぎる。宇宙人より神様の方がまだ納得できる。だから神様」
「雑ね」
「結論は合ってるだろう?」
女性は楽しそうに笑った。その笑顔はどこか子供っぽかった。
「正解。私はルミナ。月と死と転生を司る神」
蓮は静かにグラスを傾けた。
「へぇ」
「反応薄くない?」
「神様に会ったのは初めてだからな。比較対象が無い」
「普通もっと感動するものよ?」
「感動してるさ。人生で一番な」
それは本心だった。神は実在した。
ならば、この世界はまだ退屈じゃない。
ルミナは蓮をじっと見つめた。
「あなた、本当に変わってるわね」
「よく言われる」
「でしょうね」
二人の間に沈黙が流れる。
不思議と居心地は悪くなかった。まるで昔からの知り合いと話しているようだった。
やがてルミナが窓の外へ目を向ける。眼下には無数の灯りが広がっている。
「人間って不思議よね」
「そうか?」
「ええ。みんな幸せになりたいと言うのに、争うし、奪うし、裏切るし、勝手に絶望する」
その声には、どこか疲れが滲んでいた。
蓮は気付く。この神は人間を見続けてきたのだと。
何百年、何千年、あるいは何万年。気が遠くなるほど長い時間。
「嫌いなのか?」
ルミナは少しだけ考えた。
「昔は好きだったわ」
「今は?」
「分からない」
寂しそうに笑う。
「期待するのに疲れたのかもしれない」
蓮は何も言わない。軽々しく慰める気になれなかった。
目の前の存在は、あまりにも長い時間を生き過ぎている。自分の言葉など薄っぺらく感じた。
だから代わりに、ワインボトルを持ち上げた。
「飲むか?」
ルミナはきょとんとした。
「神様だぞ?」
「だから?」
「酔わないわよ?」
「じゃあ味だけ楽しめ」
数秒後。
ルミナは吹き出した。
「本当に面白いわね、あなた。神様を飲みに誘った人間なんて初めて見たわ」
「光栄だな」
そして。
ルミナは思い出せないくらい久しぶりに心から笑った。
ひとしきり笑った後も、どこか楽しそうな表情のまま蓮を見つめている。
「ねえ、蓮」
「なんだ?」
「今の人生、満足してる?」
唐突な問いだった。だが蓮は迷わなかった。
「してないな」
即答だった。ルミナが目を丸くする。
「即答するのね」
「事実だからな」
蓮は窓の外へ視線を向けた。
夜景は相変わらず美しい。子供の頃に憧れた景色。成功者だけが見られる景色。
そして今、自分はそこに立っている。
「成功した。金も手に入れた。知識も手に入れた。地位も手に入れた。やりたいことも大体やった」
グラスの中でワインを揺らす。
「でも、満足はしてない」
「どうして?」
「次が無いからだ」
ルミナは黙って聞いている。
「目標が無い。やりたいことも無い。だから退屈してる」
それが今の自分だった。
やるべきことはやった。欲しい物も手に入れた。だが、その先が無い。だから空虚だった。
ルミナは静かに微笑んだ。
「なら、新しい人生をあげる」
蓮の動きが止まる。
数秒。そして。
「転生か」
ルミナが思い切りずっこけた。
「そこは驚きなさいよ!」
「神様が出てきた時点で予想はしてた」
「つまらない人間ね」
「よく言われる」
ルミナは呆れたように息を吐いた。だが楽しそうだった。
「私は優しい神だから、特別に特典をあげる」
そう言って指を三本立てる。
「一つ目。『憑依』。魂だけの状態で他人の身体へ入り込める能力」
蓮は頷く。
転生先が用意されている以上、その能力は必要だろう。
「二つ目。『魅了』。相手を惹きつける力よ。好意を抱かせる能力と思えばいいわ」
蓮は少しだけ興味を示した。
悪の女王。その理想を思い描くなら、確かに必要な能力だった。
「試せるのか?」
「試せるけど――」
ルミナが言い終わる前だった。
蓮は視線を向ける。月の女神と、目が合う。
一秒。二秒。三秒。
沈黙。
「……」
「……」
ルミナが瞬きをした。
「今やった?」
「たぶん」
蓮は肩を竦める。
自分でも分からない。だが、何かが発動した感覚はあった。
ルミナは不思議そうに首を傾げる。そして、くすりと笑った。
「へぇ。面白いじゃない」
「効いたのか?」
「さあ?」
嘘だった。効いている。
神である以上、解除することも出来る。
だが、そんなことをする気にはなれなかった。何故なら、面白そうだからだ。
「なら一つ命令だ」
蓮が静かに言う。ルミナが目を細める。
「なに?」
「俺の邪魔をするな」
「はい」
「そして」
蓮は笑う。
その笑みは、これから始まる人生を心から楽しみにしている男の笑みだった。
「黙って見ていろ」
ルミナは一瞬だけ目を丸くする。
神に向かって命令する人間など見たことがない。
だが、嫌な気分はしなかった。むしろ、愉快だった。
「はいはい。見てるわ」
そう言って笑う。そして、三本目の指を立てた。
「三つ目。『能力向上』。魅了した相手の能力を引き出す力」
ルミナは説明を続ける。
蓮は黙って聞く。
説明を受けながら、自然と考えていた。
もし本当に転生できるなら。もし本当に新しい人生があるなら。
何をする。何になりたい。何を目指す。
そんなことを。
そして、一つの答えに辿り着く。
子供の頃の夢。ずっと昔に諦めた夢。
悪の女王。
世界を相手に堂々と笑う存在。信念を貫く存在。誰よりも自由な存在。
だが自分は男だった。だから諦めた。
参謀になるしかなかった。悪の女王を支える側になるしかなかった。
それなのに。
今、目の前の神は言った。新しい人生をあげる、と。
蓮は静かに尋ねる。
「なあ」
「なに?」
「憑依先は選べるのか?」
ルミナは首を傾げた。
「ある程度なら」
その答えを聞いた瞬間。
胸の奥に眠っていた感情が目を覚ます。
忘れていた訳ではない。見ないようにしていただけだ。
届かない夢だったから。現実では不可能だったから。だから諦めていた。
だが。
もし。本当に新しい人生があるなら。
女性になれるなら。
悪の女王になれるなら。
それは、今まで手に入れた全てより価値がある。
蓮は笑った。
人生で一番楽しそうに。
「なるほど。そういうことか」
ルミナが少しだけ警戒する。
「何を考えてるの?」
「夢を思い出しただけだ」
その瞳が輝いていた。
退屈していた男の目ではない。人生をやり切った男の目でもない。
新しい玩具を見つけた子供のような目。
いや、もっと危険だ。長年眠っていた野望が目覚めた目だった。
「俺は」
蓮は静かに告げる。
「悪の女王になる」
一瞬。
部屋が静まり返った。
ルミナが瞬きをする。
「は?」
「悪の女王だ」
「いや聞こえたけど。悪の女王になる!?」
「もう一回言わなくていいわよ!」
ルミナは頭を抱えた。
勇者でもない。英雄でもない。王でもない。魔王ですらない。
悪の女王。発想がおかしい。
だが。なぜだろう。
笑いが込み上げてくる。本当に面白い。
世界を救いたい人間は山ほど見てきた。世界を征服したい人間もいた。
だが、悪の女王になりたい男は初めてだった。
「あなた、本当に変な人間ね」
「褒め言葉として受け取っておく」
蓮が不敵に笑う。
その瞬間、ルミナの胸が僅かに高鳴った。
何故なのか分からない。
神である自分が、一人の人間に興味を抱いている。
それどころか、もっと見てみたいと思っている。
この男がどんな未来を作るのか。どんな世界を壊し、どんな世界を作るのか。見届けたいと思っている。
ルミナは小さく息を吐いた。
「本当に行くの?」
「当然だ」
蓮は迷わない。
「次の人生だぞ?」
「だからだ。今度こそ、面白く生きてみせる」
ルミナは微笑んだ。
久しぶりだった。
未来を楽しみに思えたのは。世界に期待したのは。
そして、橘蓮という人間に興味を持ったのは。
「分かったわ」
ルミナが手を差し出す。
「新しい人生をあげる」
蓮も手を伸ばした。
二人の手が重なる。
次の瞬間、世界が光に包まれた。
身体の感覚が消える。重力が消える。音が消える。
視界が白く染まっていく。
肉体が消え、魂だけの存在になっていく。
その中で、最後に聞こえたのはルミナの声だった。
「いってらっしゃい」
優しく。どこか楽しそうに。そして少しだけ愛おしそうに。
「魔法使いにはなれなかったけれど、理想の貴方になれますように」
世界が反転する。
橘蓮の新しい人生が、ここから始まる。
感想いただけると嬉しいです




