ローゼンバーグ王国 視察7日目 ②
エミリアが似顔絵描きの青年から離れ、満足げに広場を歩いていると。
今度は、屋台の方から威勢のいい声が飛んだ。
「おうじ――じゃなかった、エミィ!」
セリアは眉を動かした。
今、王女と言いかけた。
いや、今のエミリアはすでに女王だ。
だが、周囲の者達はその呼び間違いを気にするどころか、むしろ慌てて言い直したことに小さく笑っている。
声をかけたのは、屋台の店主らしき男だった。
隣には、肉屋の店主と思われる大柄な男もいる。
二人とも緊張している。
だが、怯えて逃げ出すような様子ではない。
むしろ、何かを勝負しに来た者の顔だった。
屋台の店主は、串に刺した焼き物を手に、エミリアへ向かって胸を張る。
「この前は散々言われた! 途中で食べ残された!」
「……あら」
エミリアは足を止め、面白そうに目を細めた。
「よく覚えているわ」
「忘れられるか!」
店主は叫ぶように言った。
「味がぼやけているだの、肉の香りが死んでいるだの、脂が重いだの、焼きが雑だの、さんざん言われたんだぞ!」
肉屋の店主も大きく頷く。
「だがな、今度は肉屋の俺も一緒に作った」
屋台の店主は、手にした串を掲げた。
「細挽き肉と脂の割合を変えた。塩と香草も練り直した。腸詰めにして、空気も抜いた。一度低い温度で茹でてから、屋台で焼いている」
肉屋の店主が続ける。
「最後に、黒薔薇ダレを塗って炙る」
その言葉と同時に、屋台の鉄板の上で、じゅう、と音が鳴った。
黒褐色のタレが塗られたソーセージが、火に炙られている。
甘い香り。
肉の脂が焼ける香ばしさ。
香草のすっきりした匂い。
煮詰めた蜜のような深い甘み。
わずかに混じる酸味。
それらが熱気とともに広場へ広がっていく。
セリアは思わず鼻先を動かした。
香りだけで分かる。
これは、ただ肉を焼いたものではない。
黒蜜草の蜜。
麦酒。
塩。
肉の煮汁。
香草。
少量の果実酢。
それらを煮詰めた黒薔薇ダレが、肉の表面で照りを作り、焦げ目を生んでいる。
醤油というものをセリアは知らない。
だが、甘み、塩気、香草の香り、肉の旨味が合わさったその匂いは、空腹でなくとも人の足を止める力を持っていた。
エミリアは、屋台の前に立つ。
黒衣の外套を揺らし、眼鏡の奥から二人を見下ろした。
「また、私の舌に合わないものを食べさせたら……どうなるか分かっているのよね?」
店主二人の肩が、わずかに跳ねた。
だが、屋台の店主は逃げなかった。
串を差し出し、叫ぶ。
「今度こそ会心の出来だ! 食べてみてくれ!」
周囲の人々が、息を呑む。
広場の視線が、一斉にエミリアへ集まった。
セリアもまた、物陰からその様子を見ていた。
王が屋台の食べ物を口にする。
それ自体が、帝国の感覚では考えにくい。
しかも、民の前で。
さらに、相手は女王を「エミィ」と呼び、料理の批評を求めている。
一体、これは何なのか。
裁きなのか。
試食なのか。
祭りなのか。
エミリアは、差し出された串を受け取った。
その仕草は優雅だった。
まるで王侯の晩餐で銀の食器を扱うように、屋台の串を手にする。
そして、香りを確かめるように少しだけ顔を近づけた。
「……香りは悪くないわ」
店主二人が、ほっとしかける。
だが、すぐに顔を引き締めた。
まだ判定は終わっていない。
エミリアは、ゆっくりとソーセージを口元へ運ぶ。
黒薔薇ダレの照りが、朝の光を受けて艶めいていた。
エミリアの唇が、そっとソーセージに触れる。
白い歯が、薄い皮を噛み切った。
ぱきり、と小気味よい音がした。
次の瞬間、熱い肉汁が弾ける。
細かく挽かれた肉と脂が、口の中でほどける。
塩が肉の甘みを引き立て、香草が脂の重さを流し、黒薔薇ダレの甘辛さが表面から追いかける。
炙られた蜜の焦げた香り。
麦酒のほろ苦さ。
肉の煮汁の旨味。
果実酢のわずかな酸味。
それらが、噛むたびに重なった。
エミリアは何も言わなかった。
一口。
二口。
ゆっくりと噛み、味を確かめる。
広場が静まり返る。
屋台の店主も、肉屋の店主も、手を握りしめていた。
音楽を奏でていた若者達も、似顔絵描きの青年も、出店の客も、子供達も。
皆が、エミリアの反応を待っている。
セリアは、その異様な緊張感に息を呑んだ。
これは、王の裁きではない。
だが、民にとってはそれに近い重みを持っている。
エミリアが目を閉じる。
さらに一口。
そして、串に残ったソーセージを最後まで食べきった。
屋台の店主の喉が鳴る。
肉屋の店主の額に汗が滲む。
やがて、エミリアは目を開いた。
その頬が、ほんのりと赤い。
満足げで、少し悔しそうで、それでも認めざるを得ないという顔だった。
「合格よ」
広場に、息を吐く音が広がった。
エミリアは串を下ろし、堂々と言った。
「満足できる味だわ」
次の瞬間。
広場が爆発したように湧いた。
「合格だ!」
「エミィ様が完食したぞ!」
「星は!? 星はどうなんだ!?」
屋台の店主が身を乗り出す。
エミリアは腕を組み、顎を上げた。
「でも、まだ星一つね」
店主二人が固まる。
だが、その直後。
周囲から歓声が上がった。
「星一つだ!」
「すげぇ!」
「星一つってことは、本物だぞ!」
「ただのソーセージじゃねぇ!」
「これはとんでもねぇソーセージだ!」
「黒薔薇ソーセージよ!」
誰かが叫んだ。
その名は、瞬く間に広場へ広がっていく。
黒薔薇ソーセージ。
黒薔薇ソーセージ。
黒薔薇ソーセージ。
屋台の店主は、泣きそうな顔で肉屋の店主と抱き合った。
肉屋の店主も、太い腕で屋台の店主の背を叩く。
「やったぞ!」
「ああ、やった!」
「星一つだ!」
「完食だ!」
セリアは呆然としていた。
星一つ。
たったそれだけで、なぜここまで喜ぶのか。
エミリアの評価は、決して甘くない。
むしろ厳しい。
言葉も悪い。
だが、その評価を民は欲している。
認められたことを、心から喜んでいる。
エミリアは、湧き上がる広場を見回した。
その口元に、悪い笑みが浮かぶ。
それは、確かに悪女の顔だった。
「あなた達」
エミリアは、屋台の店主と肉屋の店主を手招きした。
二人は慌てて駆け寄る。
エミリアは少し身をかがめ、小さな声で囁いた。
セリアの位置からは、かろうじて聞こえる程度だった。
「ねぇ」
エミリアの声は、甘く、悪戯めいていた。
「これを食べるには、肉汁やタレがこぼれてしまうわ」
店主二人は真剣に頷く。
「そ、そうだな」
「それに、ちょっと味が強いのよね」
「味が、強い……」
「でも」
エミリアは視線だけを横へ流した。
広場の向こう。
焼きたての白パンを並べたパン屋がある。
「……あら?」
エミリアはわざとらしく首を傾げた。
「そこに、とってもおいしいパン屋があるわね」
店主二人の目が動いた。
エミリアは微笑む。
「パンとソーセージを一緒に食べられたら……素敵よね?」
沈黙。
一瞬の間。
次の瞬間、屋台の店主と肉屋の店主の顔が変わった。
何かに気づいた者の顔だった。
「パン……」
「挟むのか……?」
「いや、切り込みを入れて……」
「肉汁を受け止められる……!」
「タレも垂れにくい……!」
「味の強さもパンでちょうどよくなる!」
二人は顔を見合わせる。
そして、同時に叫んだ。
「パン屋ぁ!」
二人は勢いよくパン屋へ駆け出した。
パン屋の店主が、突然突撃してきた二人に目を丸くする。
「何だ何だ!?」
「パンをくれ!」
「いや、待て! 柔らかくて裂けにくいやつだ!」
「長めに焼けるか!?」
「黒薔薇ソーセージを挟むんだ!」
「はぁ!?」
広場がまた湧いた。
子供達が笑い、老人が目を細め、客達が興味津々で屋台へ集まり始める。
エミリアはその様子を見て、満足げに頷いた。
「まったく」
彼女は小さく呟いた。
「手間のかかる下僕達ね」
その声は、悪女のものだった。
だが、セリアにはもう分からなかった。
今の一言は、支配者の嘲笑なのか。
職人達への期待なのか。
王国に新しい名物が生まれる瞬間を楽しむ、ただの少女の声なのか。
セバスが静かに言った。
「また一つ、王都に名物が増えそうでございますな」
セリアは広場を見た。
黒薔薇ダレの香ばしい匂い。
焼きたてのパンの香り。
興奮して話し合う屋台の店主、肉屋、パン屋。
それを見て集まる人々。
星一つと聞いて喜ぶ民。
それらすべてが、活気となって広場に満ちていた。
かつて飢え、怯え、祈るしかなかった国に。
今、新しい食べ物を作ろうと笑い合う人々がいる。
ローゼンバーグ王国に、新しい名産品が生まれようとしていた。
その中心で。
謎の悪女エミィは、悪そうな笑みを浮かべていた。
◇
黒薔薇ソーセージ。
その名は、広場の中を何度も飛び交っていた。
屋台の店主。
肉屋の店主。
そして巻き込まれたパン屋の店主。
三人はすでに、鉄板の前で真剣な顔をして話し合っている。
「パンは硬すぎると駄目だ。肉汁を受け止められねぇ」
「だが柔らかすぎると、タレで崩れるぞ」
「だったら外側を少し強めに焼けばいいだろ」
「黒薔薇ダレを少し減らすか?」
「馬鹿、あれが売りだろうが!」
大人達が、まるで子供のように目を輝かせていた。
周囲では、先ほどまで演奏していた若者達が、もう一度音を合わせ始めている。
似顔絵描きの青年は、自分の絵と広場を何度も見比べていた。
出店の客達は、黒薔薇ソーセージを一目見ようと集まり、子供達は香ばしい匂いに釣られて屋台の前をうろうろしている。
その中心を、エミリアは満足げに歩いていた。
黒い外套を揺らし、眼鏡の位置を直しながら。
本人は、きっと謎の悪女エミィとして王都を支配しているつもりなのだろう。
だがセリアには、別のものに見えた。
エミリアが通るたびに、人々が動き出す。
叱られた演奏者が、もう一度楽器を構える。
絵を否定された青年が、描きたいものを思い出す。
屋台の店主達が、新しい食べ物を作ろうと走り出す。
それは、ただの気まぐれには見えなかった。
悪女の遊びと言うには、周囲の人々があまりにも生き生きとしていた。
「驚かれましたか」
隣で、セバスが静かに言った。
セリアは視線だけを向ける。
「……驚くというより、理解が追いつきません」
「それは、無理もございませんな」
セバスは小さく笑った。
重く語る調子ではなかった。
どこか、散歩の途中で昔話をする老人のような穏やかさだった。
「エミリア様は、時折こうして城下にお出ましになります」
「謎の悪女エミィとして、ですか」
「はい。ご本人は、いたって真剣でございます」
セリアは広場を見る。
真剣。
確かに、エミリア本人は真剣なのだろう。
だが、その真剣さの方向があまりにもおかしい。
セバスは続けた。
「初めの頃は、皆様も戸惑っておられました」
「当然でしょう」
「はい」
セバスは苦笑する。
「突然、女王陛下が城下へ現れ、悪女を名乗り、菓子を食べ、店を覗き、職人に文句を言い、子供に説教をするのです。戸惑わぬ方が難しいかと」
セリアは思わず黙った。
言葉にされると、本当に意味が分からない。
「ですが」
セバスの声は、少しだけ柔らかくなった。
「国が少しずつ良くなるにつれ、皆様の反応も変わってまいりました」
エミリアの前方で、先ほどの屋台の店主が大声で笑っている。
肉屋がそれに怒鳴り返し、パン屋が呆れながらも新しいパンを切っていた。
その周囲に、人が集まっている。
誰も怯えていない。
誰も逃げていない。
「エミリア様が声をかけるたび」
セバスは言った。
「叱られる者もおります」
「ええ」
「泣かされる者もおります」
「……ええ」
「ですが、不思議なことに」
セバスは目を細めた。
「その後、笑顔が増えるのです」
セリアは答えられなかった。
それは、先ほど目の前で見たばかりだった。
音楽家も。
絵描きも。
屋台の店主達も。
エミリアに散々言われた。
だが、最後には前を向いていた。
「エミリア様ご本人は、自分が楽しむために自由な時間を作って遊びに来ているだけだと仰います」
セバスは、少しだけ肩を竦める。
「それも、嘘ではないのでしょう」
セリアは意外に思った。
セバスならば、エミリアの行動をすべて美談にすると思っていた。
だが、そうではなかった。
「実際、楽しんでおられます」
セバスは穏やかに言う。
「菓子を食べる時など、特に」
「……そうなのですか」
「はい。とても」
その声には、老執事らしい微笑ましさがあった。
しかし、すぐにセバスは広場へ視線を戻す。
「けれど」
短く言って、少し間を置く。
「どこまでがご本心なのやら」
それは、重い告白ではなかった。
ただ、長く仕えてきた者が、困った主人を見守るような言い方だった。
セリアは、エミリアを見る。
黒衣の女王は、次の出店を覗き込み、店主に何かを言っていた。
店主は最初こそ緊張していたが、すぐに笑いながら頭を下げる。
その周囲で、人がまた動き出す。
エミリアの行く先に、人の輪ができる。
言葉は悪い。
態度は傲慢。
振る舞いは、とても善良な君主とは言えない。
それなのに。
エミリアの周囲には、明かりが灯るようだった。
暗かった場所に、ぽつりと火がともる。
閉じていた店が、戸を開ける。
諦めていた者が、もう一度手を伸ばす。
迷っていた者の前に、新しい道ができる。
セリアは、胸元の聖印に触れた。
太陽神インティ。
光を司る神。
人を導く、正しき光。
セリアは、その光のもとで生きてきた。
泣いている者を救いたかった。
迷う者へ道を示したかった。
暗い場所に、明かりを灯したかった。
それが、自分の信仰だった。
それが、自分の願いだった。
だが。
今、目の前でそれをしているのは。
悪を名乗る女王だった。
邪神を国教にした女王だった。
人を下僕と呼び、支配すると笑う女だった。
セリアは、そんなことを思ってしまった自分に戸惑う。
認めてはいけない。
そう思う。
だが、目の前の光景を否定することもできなかった。
エミリアは、正しい言葉を使わない。
慈悲深い顔もしない。
救済を救済と呼ばない。
だが、彼女の歩いた後には、人が前を向いている。
それはまるで。
セリアが、インティ神のもとでやりたかったことを。
別の形で。
乱暴に。
不遜に。
悪を名乗りながら。
体現しているように見えた。
「……分かりません」
セリアは小さく呟いた。
セバスは、問い返さなかった。
ただ、静かに隣に立っている。
セリアは続けた。
「エミリア様は、何をなさりたいのでしょうか」
セバスは少しだけ考えた。
そして、柔らかく答えた。
「それは、私にもすべては分かりかねます」
「セバス殿にも?」
「はい」
セバスは、どこか楽しそうに目を細めた。
「エミリア様は、昔から少々分かりにくいお方でしたので」
その言葉に、セリアはわずかに反応した。
昔から。
セバスは、幼い頃からエミリアを見てきたのだ。
だが、セバスはそれ以上を語らなかった。
今はまだ。
ただ軽く、懐かしむように言うだけだった。
「ですが」
セバスは歩き出したエミリアを見て、静かに告げる。
「次に向かわれる場所では、もう少し分かりやすいかもしれません」
「次?」
「はい」
エミリアは広場を抜け、王都の奥へ向かっていた。
賑やかな店並みから少し離れた、落ち着いた通り。
子供達の声が、遠くから聞こえてくる。
セバスは穏やかに言った。
「孤児院でございます」
セリアは、胸の奥が小さく揺れるのを感じた。
孤児院。
子供達。
エミリアと、子供達。
悪の女王が、そこで何をするのか。
見なければならない。
そう思った。
エミリアは何も知らないまま、楽しげに歩いていく。
謎の悪女エミィとして。
その後ろを、セバスとセリアは、相変わらずいちおう隠れて追っていった。
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