ローゼンバーグ王国 視察7日目 ③
エミリアは、黒薔薇ソーセージの屋台から離れようとして、ふと足を止めた。
そして、振り返る。
「あなた達」
屋台の店主、肉屋の店主、そして巻き込まれたパン屋の店主が、揃って背筋を伸ばした。
「は、はい!」
「それ、持てるだけ用意しなさい」
「それ、とは」
「黒薔薇ソーセージよ」
エミリアは当然のように言った。
「それと、パンに挟む試作品も。まだ完成品ではないでしょうけれど、毒見くらいはしてあげるわ」
屋台の店主達の顔が輝いた。
「今すぐ焼く!」
「パンも切る!」
「肉追加だ! 肉!」
周囲がまたざわめく。
エミリアは満足げに腕を組んだ。
「勘違いしないことね。これは慈悲ではないわ」
「はい!」
「私の悪の軍勢を育てるための、餌付けよ」
「餌付け!」
「子供達はよく食べるもの。質の悪い餌で育てるわけにはいかないでしょう」
言い方は最悪だった。
だが、屋台の店主達は嬉しそうに笑っている。
「孤児院か?」
「ええ」
「なら多めに包む!」
「代金は払うわ」
「いいって、エミィ――」
言いかけた店主の口が、隣の肉屋に塞がれた。
肉屋は小声で言う。
「馬鹿、受け取らねぇと怒られるぞ」
「そうだった!」
屋台の店主は慌てて頷いた。
エミリアは小さく鼻を鳴らす。
「当然よ。正当な対価を受け取りなさい。商売を舐めているの?」
「はい!」
「それと、試作品だからといって手を抜いたら許さないわ」
「はい!」
「子供達に出すのよ。食べやすい大きさに切りなさい。タレは少し控えめに。濃すぎると小さい子には重いわ」
「はい!」
「パンは柔らかすぎても駄目。汁気を受け止められるものにしなさい」
「はい!」
エミリアは次々と指示を飛ばした。
それは命令だった。
だが、屋台の店主達は不思議なほど生き生きとしていた。
叱られ、指摘され、注文をつけられながら、それでも嬉しそうに手を動かしている。
セリアは、少し離れた場所からその様子を見ていた。
エミリアは、食べ物を買い込んでいる。
孤児院へ持っていくために。
だが本人はそれを、餌付けと言う。
慈悲ではないと言う。
悪の軍勢を育てるためだと言う。
その言葉のどこまでが本心なのか、セリアには分からない。
分からないまま、エミリアは包みを受け取り、老執事の手配した荷運びの者に預けた。
そして、満足げに歩き出した。
広場の喧騒が少しずつ遠ざかる。
賑やかな店先。
笑い声。
焼ける肉の匂い。
それらを背に、エミリアは王都の奥へ向かっていった。
やがて、通りの空気が少し変わる。
大きな店は減り、代わりに古い建物が増えていく。
だが、荒れてはいない。
壁は修繕され、窓には布がかけられ、井戸の周りには清潔な石畳が敷かれている。
その一角に、孤児院はあった。
大きくはない。
豪華でもない。
だが、庭は掃き清められ、入口の前には小さな花壇がある。
建物の壁には、まだ新しい補修の跡があった。
エミリアが門の前に立つ。
その姿を見つけた子供が、一人。
「あ」
声を上げた。
次の瞬間。
孤児院の庭から、子供達が一斉に駆け寄ってきた。
「えみー!」
「違うよ、今日はエミィさんだよ!」
「女王さまー!」
「ごっこ遊びの時は女王様だけど、今はエミィさん!」
「エミィさん、今日は何するのー!」
「遊ぼう!」
「お腹空いたー!」
「いい匂いする!」
「何持ってきたのー!」
子供達は口々に騒ぎながら、エミリアの周りへ集まっていく。
誰も怯えていない。
誰も遠巻きにしない。
むしろ、押し寄せる勢いだった。
エミリアは少しだけ後ずさった。
「ちょっと、群がりすぎよ。順番を守りなさい」
「えみー、あそぼー!」
「エミィよ」
「エミィー!」
「女王さまー!」
「エミィだと言っているでしょう」
子供達は笑っている。
エミリアは腕を組み、わざとらしく顎を上げた。
「はいはい。その前に、言うことがあるでしょう?」
子供達は顔を見合わせた。
「あ」
「言うやつだ」
「せーの?」
「せーの!」
だが、声は揃わなかった。
「僕達はローゼンバーグのために、美しい悪の幹部になります!」
「私はエミィさんみたいな悪の幹部になります!」
「ローゼンバーグのために悪い大人になります!」
「違うよ、美しい悪だよ!」
「真実の悪!」
「えっと、悪の幹部!」
言い方はばらばらだった。
途中で間違えている子もいる。
意味を完全に理解している子も、おそらくいない。
それでも、子供達は誇らしげだった。
エミリアは満足げに頷く。
「よし。よく出来たわ」
「やったー!」
「では、まず手を洗ってらっしゃい」
「えー!」
「食べ物の前には手洗い。これは悪の組織の掟よ」
「掟なら仕方ない!」
「走らない!」
「はーい!」
子供達は慌ただしく水場へ向かって走っていく。
その背中に、エミリアが声を飛ばした。
「石鹸を使いなさい! 水だけで誤魔化した子は、悪の幹部見習い失格よ!」
「わかったー!」
「石鹸使うー!」
「ぼく幹部になるー!」
庭の奥が、一気に賑やかになる。
セリアは言葉を失っていた。
悪の組織。
悪の幹部。
そんな言葉を、子供達が笑って口にしている。
それなのに、そこには暗さがない。
怯えもない。
洗い場へ向かう子供達の姿は、ただ楽しそうだった。
その時、建物の入口から老女が出てきた。
白髪をきちんとまとめ、質素だが清潔な服を着た女性だった。
孤児院の院長だろう。
彼女はエミリアを見ると、深く頭を下げた。
「エミリア様」
「今日はエミィよ」
「失礼いたしました、エミィ様」
老女は微笑んだ。
慣れている。
そのやり取りから、そう分かった。
エミリアは荷を運ばせていた者に合図する。
包みがいくつも運ばれてきた。
黒薔薇ソーセージ。
パンに挟んだ試作品。
食べやすく切られたもの。
小さな子供用にタレを控えたもの。
それ以外にも、広場で買い込んだ菓子や果物が少し混ざっている。
老女院長は、それを見て目を細めた。
「いつもありがとうございます。日々の支援だけではなく、このようなものまで……」
「支援?」
エミリアは鼻で笑った。
「知らないわ、そんなもの」
老女院長は、にこやかに首を傾げる。
エミリアは胸を張った。
「私は謎の悪女よ。今日は子供達を餌付けするために来ているの」
「左様でございますか」
老女院長は、柔らかく笑った。
「では、子供達も大変喜びます」
「当然よ。私が選んだ餌だもの」
言葉は悪い。
だが、院長はそれを咎めない。
むしろ、微笑ましそうにエミリアを見ている。
やがて、手を洗い終えた子供達が戻ってきた。
「洗ったー!」
「石鹸使った!」
「見て、泡いっぱいだった!」
「お腹空いた!」
「いい匂い!」
院長と手伝いの者達が、食べ物を配っていく。
子供達は庭に並べられた長椅子や敷物に座り、黒薔薇ソーセージにかぶりついた。
「おいしい!」
「あつっ!」
「タレ甘い!」
「パンに挟まってるやつ、食べやすい!」
「おかわりある!?」
エミリアは満足げにその様子を見る。
「食べなさい」
彼女は堂々と言った。
「そして、美と真実の悪を貫く大人になるのよ」
子供達は、口いっぱいに食べ物を詰めながら頷く。
「よくわからないけど、わかったー!」
「悪い人になる!」
「違うよ」
隣の子が、すぐに言った。
「悪い人じゃなくて、悪の幹部だよ」
「何が違うの?」
「悪い人は、弱い人をいじめる人でしょ」
「うん」
「でも、エミィさんの悪は違うんだよ」
「どう違うの?」
「かっこよくて、きれいで、ちゃんと考える悪!」
「あと、手を洗う悪!」
「それ大事!」
「汚い悪は美しくないって、前に言ってた!」
「そうそう!」
別の子供が、黒薔薇ソーセージを掲げながら言った。
「だから、女王様みたいに美しくないと駄目なんだよ!」
「女王様、優しいから大好きー!」
「違うよ、優しいって言うと怒るよ」
「じゃあ、怖い?」
「怖くないよ」
「じゃあ何?」
「……すごい!」
「それだ!」
「エミィさん、すごい悪!」
「正義は俺が倒すぜ!」
一人の男の子が、ソーセージを持ったまま拳を振り上げた。
周囲の子供達が、わっと盛り上がる。
「正義の味方やる人ー?」
「やだー、負けるもん!」
「じゃんけんで決めよう!」
エミリアは、そのやり取りを聞きながら、ほんの少しだけ目元を引きつらせた。
「……一人だけではなく、全体的に何か勘違いしている気がするわ」
だが、子供達はもう聞いていなかった。
庭の中央で、悪の組織ごっこの準備が始まっていた。
「今日も遊ぶー?」
「遊ぶわ」
子供達の顔が一斉に輝く。
エミリアは外套を翻し、庭の中央へ進み出た。
「今日の演目は――」
そこで、わざとらしく間を置く。
「計画もなく同じ木ばかり植えた結果、春になるたび民にくしゃみと涙を強いる、浅はかな正義の味方を打ち倒す悪の組織ごっこよ」
子供達は一瞬だけ黙った。
「……くしゃみ?」
「涙?」
「正義の味方なのに?」
「くしゃみ地獄の正義の味方だ!」
「悪いやつじゃん!」
「正義って言ってるけど迷惑だ!」
「倒すー!」
「ぼく悪の幹部!」
「私も!」
「正義の味方やる人ー?」
「やだー、くしゃみ出るもん!」
「じゃんけんで決めよう!」
庭は一気に騒がしくなった。
子供達は枝を剣に見立て、布を外套にし、木箱を砦にする。
エミリアは悪の組織の首領として、庭の中央に立つ。
「愚かな正義の味方よ」
小さな子供が、木の棒を構えて立っている。
「森を守るために、同じ木をいっぱい植えるんだ!」
「その結果、春になるたび民をくしゃみと涙で苦しめるというのね」
「くしゃみは嫌だなあ」
「目もかゆくなる?」
「なるわ」
「うわー!」
「でも、木を植えるのはいいことじゃないの?」
「いいことも、考えなしにやれば迷惑になるのよ」
エミリアは容赦なく言った。
「自然を守るには知識が必要よ。勢いと善意だけで世界を救えると思うなど、浅はかな正義ね!」
「うわー、やられたー!」
まだ戦ってもいないのに、正義の味方役の子供が転がった。
周囲の子供達が笑う。
別の子供が立ち上がる。
「じゃあ俺が正義の味方!」
「来なさい」
エミリアは悪い笑みを浮かべた。
「美しき悪の組織が、無知な正義を教育してあげるわ」
それは、斬新なごっこ遊びだった。
悪の組織が、正義の味方を倒す。
しかも、ただ倒すのではない。
なぜ計画が必要なのか。
なぜ知識が必要なのか。
なぜ善意だけでは人を救えないのか。
エミリアは、ごっこ遊びの中に妙な教育を混ぜていた。
子供達は半分も理解していない。
だが、楽しそうだった。
「悪の幹部、手を洗ってから作戦会議よ!」
「はい!」
「正義の味方、みんなが困る木を勝手に植えては駄目!」
「なんでー!」
「春にみんなが泣くからよ!」
「正義なのに!?」
「正義でも迷惑は迷惑よ!」
子供達の笑い声が庭に響く。
エミリアも、どこか楽しげだった。
黒衣の悪女として。
孤児達の中心に立ち。
真剣に、くだらないごっこ遊びをしている。
セリアは、その光景を物陰から見ていた。
何を見せられているのか、分からなかった。
悪の女王。
邪神国家の支配者。
異端審問の対象。
そのはずの人物が、孤児院の庭で子供達に囲まれている。
悪の組織ごっこをしている。
そして、子供達は笑っている。
セバスは隣で、静かにその姿を見つめていた。
その目は、広場で見せたものよりも、少しだけ深かった。
懐かしむような。
慈しむような。
そして、ほんの少しだけ痛みを含んだ目だった。
「エミリア様は」
セバスが静かに口を開いた。
セリアは、彼を見る。
「幼い頃から、あまり多くを望まれるお方ではありませんでした」
庭では、エミリアが子供達に作戦を説明している。
「あなた達、悪の幹部なら隊列を組みなさい! ばらばらに突撃するのは美しくないわ!」
「たいれつー!」
「ならぶー!」
セバスは続ける。
「王女でありながら、認められることは少なく」
その声は重くなりすぎない。
けれど、言葉の端に、長い年月の重みがあった。
「国が傾いていく中で、あの方もまた、国と共に置き去りにされました」
セリアは息を呑む。
「先王陛下に、ですか」
セバスは答えなかった。
ただ、わずかに目を伏せた。
それだけで十分だった。
「誰かに助けを求めることも、甘えることも、我が儘を言うことも、上手ではございませんでした」
庭で、子供が転んだ。
エミリアはすぐに振り向く。
「泣かないの。悪の幹部でしょう」
そう言いながら、手を差し出す。
子供はその手を取って立ち上がり、すぐに笑った。
「泣いてない!」
「ならいいわ」
セバスは、その様子を見て小さく笑った。
「今、エミリア様は悪の女王を名乗っておられます」
「ええ」
「その言葉は、あの方にとって鎧なのかもしれません」
「鎧……」
「悪であると名乗れば、優しさを否定できる。支配であると言えば、救済ではないと言い張れる。下僕を育てているだけだと言えば、誰かを助けたいのだと認めずに済む」
セリアは、エミリアを見る。
子供達の中心にいる黒衣の女王。
楽しそうに笑い、偉そうに命じ、悪の美学を語りながら、子供達を走らせ、食べさせ、学ばせている。
セバスは、エミリアに聞こえぬほどの小さな声で続けた。
「皆様は、エミリア様が変わってしまわれたと仰います」
その声は、庭の笑い声に紛れるほど静かだった。
「ですが、私は」
彼は少しだけ間を置いた。
「昔の優しいエミリア様から、何も変わっていないと思うのです」
セリアは、何も言えなかった。
庭では、エミリアが悪の首領として子供達に指示を飛ばしている。
「美しくない正義など、私の悪が叩き潰してあげるわ!」
子供達が歓声を上げる。
「わー!」
「悪の女王様ー!」
「エミィさん、つよーい!」
「違うわ、今日は謎の悪女エミィよ!」
笑い声が響く。
その中心で、エミリアは確かに悪を名乗っていた。
けれど、子供達の目には恐怖などない。
そこにあるのは、信頼と親しみと、無邪気な憧れだった。
同じ頃。
子供達に囲まれながら、蓮は内心で小さく呟いていた。
(……また誰か、いい方向に勘違いしてる気がするな)
もちろん、セバスの言葉が聞こえていたわけではない。
ただ、子供達の視線があまりにもきらきらしている。
孤児院の院長も、庭の端で微笑ましそうに見守っている。
どうにも、自分の悪の女王ムーブが、想定とは違う方向に受け取られている気配があった。
その時、内側から小さな声がした。
(でも)
エミリアの声だった。
蓮は、子供達に向けて腕を組んだまま、内側だけで反応する。
(何だよ)
(その勘違い、私は好きよ)
蓮は眉を動かしそうになるのを堪えた。
外側では、謎の悪女エミィとして堂々と立っている。
内側では、元のエミリアが静かに続けた。
(最近、少し分かってきたの)
(あなたは勝手に私の身体を使って、勝手に悪を名乗って、勝手に国を作り替えている)
(……言い方)
(事実でしょう?)
蓮は言い返せなかった。
エミリアの声は、不思議と穏やかだった。
怒っているわけではない。
責めているわけでもない。
ただ、見てきたものを確かめるように話していた。
(でも、あなたの美学は嫌いじゃないわ)
(美しいものを好み、醜いものを嫌う)
(誰かが泣いている光景を、美しくないと断じる)
(弱い者を踏みにじるだけの悪を、くだらないと切り捨てる)
(そして、自分が美しいと思う形に世界を作り替えようとする)
少しだけ、間が空いた。
(……すごく、好きだわ)
蓮は、内側で小さく息を吐いた。
(勝手に勘違いすればいい)
(ええ。勝手にするわ)
エミリアの声が、少しだけ笑ったように聞こえた。
(だって、私の身体だもの)
(今さら所有権を主張するな)
(でも、あなたが使っているのでしょう?)
(そうだよ)
(なら、綺麗に使ってちょうだい)
蓮は一瞬だけ黙った。
それから、内側でだけ笑う。
(当然だ)
外側のエミリアは、子供達へ向けて堂々と腕を組んだ。
孤児を食わせる。
手を洗わせる。
学ばせる。
遊びの中で、考える癖をつけさせる。
それは慈悲ではない。
王国の未来を作ることであり、悪の組織の幹部候補を育てることでもある。
そして何より。
前を向く子供達の姿は、蓮の美学に適っていた。
(まあ、美しい悪の組織には、優秀な幹部候補が必要だからな)
蓮はそう結論づけ、外側のエミリアとして堂々と告げる。
「さあ、悪の幹部達。次は作戦会議よ」
「はーい!」
「手を洗った者から集合!」
「洗ったー!」
「石鹸使ったー!」
「よろしい」
エミリアは満足げに頷いた。
その姿を、セリアはただ見つめていた。
太陽神インティの印。
自分が信じてきた光。
けれど今、目の前にある光景は。
その光とは違う形で、人を照らしていた。
悪を名乗る女王の周りで、子供達が笑っている。
セリアは、その事実だけを、否定できなかった。
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