ローゼンバーグ王国 視察7日目 ① 挿絵有
申し訳ございません、本日更新を忘れていました
七日目。
朝から、エミリアの様子がおかしかった。
いや。
セリアから見れば、エミリアという女王は常におかしい。
悪を名乗り。
邪神を国教にし。
民を下僕と呼びながら、その民の生活を整えている。
水を通し、街に灯りを入れ、パンを柔らかくし、神殿に病室と洗い場を作らせる。
どれも理解し難い。
だが、それでも。
今日のエミリアは、いつもとは別の意味でおかしかった。
朝の執務室。
セリアが様子を見に行くと、エミリアはすでに数枚の書類を片付け終えていた。
机の上は整えられている。
未決の書類は横へ避けられ、急ぎの決裁印だけは押されている。
普段と違う。
仕事を放り出しているのではない。
むしろ、今日のために仕事を前倒しで終わらせたように見えた。
「エミリア様」
セリアは声をかけた。
エミリアは顔を上げる。
「何かしら、セリア」
いつも通りの不遜な声だった。
むしろ、どこか機嫌がいい。
「本日も視察の続きをお願いしたいのですが」
「無理ね」
即答だった。
あまりに迷いがない。
セリアは眉をひそめる。
「無理、ですか」
「ええ」
エミリアは当然のように頷いた。
「今日は国にとって重要な用件があるの」
「国にとって?」
「そうよ」
エミリアは胸を張った。
「何より優先すべき案件よ」
セリアの警戒心が跳ね上がった。
国にとって重要。
何より優先。
それほど重大な案件。
にもかかわらず、今朝の執務室には軍務担当も、文官も、神官もいない。
エミリア一人だけだ。
「それは、軍事に関わることですか」
「違うわ」
「神殿関係ですか」
「違う」
「民政ですか」
「広い意味では、そうね」
「広い意味では?」
「ええ」
エミリアは、得意げに指先で机を叩いた。
「王たるもの、民の生活を知ることは大切でしょう?」
「では、城下の視察ですか」
「視察ではないわ」
「では、何なのですか」
エミリアは少しだけ考えた。
そして、堂々と言った。
「私という最高資源を、最も有効に運用するための案件よ」
セリアは沈黙した。
「……最高資源」
「そう」
エミリアは重々しく頷く。
「私の時間は有限なの。つまり、今日の予定は極めて希少な国家資源の運用計画なのよ」
「それは、具体的には」
「あなたには関係ないわ」
エミリアはきっぱりと言った。
後ろめたさはない。
歯切れが悪いわけでもない。
むしろ、完全に正しいことを言っているつもりの顔だった。
「とにかく、今日は私の予定が最優先。あなたの相手をしている暇はないわ」
「……承知しました」
セリアはそう答えた。
だが、疑念は消えない。
国にとって重要。
何より優先。
最高資源の運用。
民の生活を知る。
それでいて、視察ではない。
この女王は、何かを隠している。
しかも、隠している自覚があるのかないのかすら分からない。
エミリアは椅子から立ち上がった。
「では、私は準備があるから」
「準備?」
「ええ」
エミリアは不敵に微笑んだ。
「今日の私は、いつもの私ではないもの」
セリアは目を細める。
「どういう意味ですか」
「そのうち分かるわ」
エミリアは満足げにそう言い残し、執務室を出ていった。
その背を見送りながら、セリアは胸元の聖印に触れる。
太陽神インティの印は、今日も静かにそこにあった。
「……これは、放置できませんね」
セリアが小さく呟いた時だった。
背後から、穏やかな声がかかる。
「いかがなされましたか、セリア様」
振り返ると、そこにはセバスが立っていた。
いつ現れたのか分からない。
隙のない立ち姿。
柔らかな表情。
完璧な礼。
ローゼンバーグ城の老執事は、いつものように静かにそこにいた。
「セバス殿」
セリアは礼を返す。
「エミリア様の様子が、いつもと違うように見えました」
「ああ」
セバスは、納得したように小さく頷いた。
「本日は、エミリア様の貴重なお休みでございます」
「休み?」
セリアは思わず聞き返した。
「はい。政務の都合をつけられた日には、時折、お忍びで城下へお出かけになるのです」
「お忍び……?」
セリアの警戒心がさらに強まる。
悪の女王が、お忍びで城下へ。
それだけで、もう怪しい。
「一体、何をなさるおつもりなのですか」
「エミリア様は」
セバスは少しだけ目を細めた。
その表情は、どこか優しい。
「女の子としての日常を楽しみたい、とのことでございます」
「……女の子としての日常?」
セリアは言葉を失った。
意味が分からない。
悪の女王。
ルミナ教国教化。
民を下僕と呼ぶ支配者。
その人物が、女の子としての日常。
あまりにも噛み合わない。
だが、セバスは真面目だった。
「エミリア様は、王位に就かれてからというもの、日々政務に追われておられます」
セバスは静かに続ける。
「国を立て直すため、王都を整えるため、民を救うため。休む間もなく働いてこられました」
「……」
「本来であれば、年頃の娘として、街で買い物を楽しみ、甘い菓子を食べ、美しい品を眺め、心を休める時間もあってよいはずでございます」
セリアは黙った。
セバスの言葉には、慈しむような響きがあった。
しかし、セリアの中では別の疑念が膨らんでいた。
年頃の娘として。
心を休める。
その言葉だけを聞けば、微笑ましい話なのかもしれない。
だが相手はエミリアだ。
悪の女王を名乗る人物だ。
「そんなことのために……?」
セリアは思わず呟いた。
「まさか、人に言えないことをしているのではありませんか」
セバスは、ほんの少しだけ笑った。
「ご心配であれば、ついて行かれますか?」
「ついて行く?」
「はい」
セバスは自然に答える。
「私も一応、護衛として後を追う予定でございますので」
セリアは目を細めた。
つまり、セバスは最初から自分が怪しむことを見越していたのか。
あるいは、見せるつもりで声をかけてきたのか。
どちらにせよ、断る理由はない。
「では、同行させていただきます」
「承知いたしました」
セバスは優雅に一礼した。
「ちょうど、お着替えも済まれた頃でございましょう」
「着替え?」
「はい」
セバスは穏やかに言った。
「お忍びの間、エミリア様は女王エミリアではなく――」
そこで、少しだけ間を置く。
「謎の悪女エミィ、でいらっしゃるそうです」
セリアは沈黙した。
「……謎の悪女」
「はい」
「エミィ」
「はい」
「それは、隠れる気があるのですか」
「ご本人は、いたって真剣でございます」
セリアは額を押さえたくなった。
だが、押さえなかった。
ここで理解を放棄してはならない。
それからほどなくして。
王城の廊下の向こうから、エミリアが姿を現した。
セリアは思わず固まった。
白銀の髪。
紫の瞳。
整いすぎた顔立ち。
背筋を伸ばし、堂々と歩く姿。
それだけで、誰が見てもローゼンバーグ王国の女王エミリアだと分かる。
その上で、今日のエミリアは黒を基調とした衣装に身を包んでいた。
身体に沿う黒の衣装。
動きやすい短いスカート。
長い手袋。
足元は黒いブーツ。
肩からは黒い外套が流れ、内側に濃い紫が覗く。
胸元や腰には控えめな薔薇の装飾。
そして、顔には眼鏡。
お忍び。
そう言われれば、お忍びなのかもしれない。
だが、セリアには一つしか思えなかった。
「……どこからどう見ても、エミリア様なのですが」
セリアの呟きに、セバスは口元を押さえるようにして笑った。
「ご本人は真面目でございます」
エミリアは鏡の前に立ち、満足げに自分の姿を確認していた。
髪の流れを整え、眼鏡の位置を直す。
外套を軽く広げ、角度を変えて確認する。
そして、堂々と頷いた。
「よし」
エミリアは満足げに言った。
「今日も完璧だわ」
セリアは沈黙した。
完璧。
何が。
どこが。
あまりにも目立つ。
あまりにも美しい。
あまりにも女王そのもの。
これで隠れられると思っているのか。
セリアはセバスへ視線を向ける。
セバスは穏やかに微笑んでいた。
その顔には、すべてを分かっていながら見守っている者の余裕がある。
「……本当に、お忍びなのですか」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「民は気づかないのですか」
「多くの場合、気づいております」
「では、お忍びではないのでは」
「エミリア様のお心の中では、お忍びなのでございます」
セリアは、また沈黙した。
その間にも、エミリアは満足げに外套を翻した。
まるで舞台へ上がる役者のように。
あるいは、これから悪事へ向かう悪女のように。
本人の中では、おそらく後者なのだろう。
エミリアは軽やかな足取りで、城門へ向かって歩き出した。
声をかける間もない。
いや、声をかけても止まる気はなさそうだった。
その背中は、どこか楽しげだった。
セリアはその姿を見つめる。
悪の女王。
邪神国家の支配者。
異端審問の対象。
そのはずなのに。
今のエミリアは、まるで休日を前にした年頃の娘のようにも見えた。
「参りましょうか、セリア様」
セバスが静かに声をかける。
「……ええ」
セリアは頷いた。
二人は、エミリアの後を追う。
ただし、あくまで気づかれないように。
一応、隠れて。
セバスは物陰から物陰へ、老執事とは思えぬほど自然に移動していく。
足音はない。
気配も薄い。
それでいて、姿勢は乱れない。
完璧な執事のまま、完璧に尾行していた。
一方のセリアは、その後ろを追いながら思う。
これは本当に護衛なのか。
それとも、何か別の訓練なのか。
いや、それ以前に。
あの目立ちすぎる女王を、隠れて追う意味はあるのか。
だが、今さら引き返す気にはなれなかった。
この女王が、城下で何をするつもりなのか。
民は彼女をどう見るのか。
そして、セバスは何を見せようとしているのか。
確かめなければならない。
◇
エミリアは、自分では完璧なお忍びのつもりで城を出ていく。
その後ろを、老執事と異端審問官が、いちおう隠れて追った。
城門を抜けると、王都の空気が変わった。
王城の中にあった静けさや緊張は薄れ、代わりに人の声と生活の音が耳に届く。
荷車の車輪が石畳を鳴らす音。
店先で客を呼び込む声。
子供達の笑い声。
どこかで焼かれるパンの香り。
水を汲む桶の音。
セリアは、少し離れた物陰からその光景を見ていた。
隣にはセバスがいる。
老執事は、まるで何十年も同じことをしてきたかのように自然に気配を消していた。
一方で、前を歩くエミリアは、まったく隠れていなかった。
黒を基調とした衣装。
外套。
眼鏡。
白銀の髪。
堂々と伸ばされた背筋。
歩き方ひとつ取っても、人目を避ける者のそれではない。
むしろ、自分の姿を見せることを楽しんでいるようだった。
エミリアは、自分の身体に自信を持っている。
それは傲慢さにも見える。
だが、その歩き方には、どこか浮き立つような楽しさもあった。
軽やかに足を運び、時折、店先の硝子や磨かれた金属板に映る自分の姿を確認する。
そのたびに、エミリアはわずかに満足げな顔をした。
セリアは困惑した。
悪の女王が、城下で自分の姿を楽しんでいる。
それだけでも十分に奇妙だった。
「……あれで、本当にお忍びなのですか」
小声で問うと、セバスは穏やかに答えた。
「はい」
「民は気づいていますよね」
「おそらく」
「では、お忍びではないのでは」
「エミリア様のお心の中では、お忍びなのでございます」
セリアは、もうその説明を受け入れるしかなかった。
その時だった。
通りの向こうで、荷物を抱えた中年の男がエミリアに気づいた。
男は一瞬、目を丸くする。
そして、反射的に口を開いた。
「お、えみり――」
最後まで言う前に、男の背後から女の手が伸びた。
乾いた音が響く。
妻らしき女性が、男の後頭部を容赦なく叩いたのだ。
男は荷物を抱えたまま、前のめりに沈んだ。
「余計なこと言うんじゃないよ」
女は小声で夫を叱りつける。
その後、何事もなかったかのように顔を上げ、エミリアへ笑いかけた。
「エミィちゃん、今日はどこかにお出かけかい?」
セリアは固まった。
エミィちゃん。
今、王国の女王に向かって、そう呼んだ。
しかも、叩き倒された夫も、地面に手をついたまま何も文句を言っていない。
エミリアは満足げに頷いた。
「ええ」
眼鏡の位置を直し、外套を少し翻す。
「謎の悪女らしく、王都の散策よ」
女は笑った。
「そうかい。それなら今日は広場あたりが賑やかだよ」
「広場?」
「ええ。音楽をやってる連中もいるし、似顔絵描きも来てる。出店も少し出てるよ」
エミリアは興味を持ったように目を細めた。
「そう。それなら足を向けてみようかしら」
「楽しんでおいで、エミィちゃん」
「ええ。あなた達も、私の王都でせいぜい楽しく暮らしなさい」
「はいはい。ありがたいこって」
女は笑いながら手を振った。
エミリアは満足げに頷き、そのまま広場の方へ歩いていく。
その背中を、女は微笑ましそうに見送った。
夫は、まだ後頭部を押さえている。
セリアは、しばらく言葉を失っていた。
今の会話は何だったのか。
王と民の会話ではない。
支配者と被支配者の会話でもない。
まるで、近所の少し変わった娘と、それを見守る町人の会話だった。
「……セバス殿」
「はい」
「今の女性は、エミリア様だと気づいていましたよね」
「おそらく」
「夫の方も」
「おそらく」
「では、なぜ」
セリアは、うまく言葉にできなかった。
なぜ、そんな風に話せるのか。
なぜ、怯えないのか。
なぜ、あの女王のお忍びごっこに付き合っているのか。
セバスは、少しだけ目を細めた。
「王都の者達は、エミリア様のお忍びに慣れておりますので」
「慣れるものなのですか」
「慣れるものなのでございます」
セリアは答えを失った。
広場へ向かうにつれ、人通りは増えていった。
以前のローゼンバーグ王国を、セリアは詳しくは知らない。
だが、ここ数日の視察で、この国がどれほど傷んでいたかは見てきた。
貧しい村。
寂れた神殿。
疲れ切った人々。
それらを思えば、目の前の広場は奇妙なほど明るかった。
もちろん、豊かな大国の大市場とは比べものにならない。
店の数も多すぎるわけではない。
並ぶ品も、豪奢なものばかりではない。
だが、そこには確かに余白があった。
ただ生きるためだけではない時間。
誰かが足を止める時間。
音楽を聞く時間。
絵を見る時間。
少しだけ余分に食べ物を買う時間。
人々が、ただ飢えをしのぐためだけではなく、明日のために少し笑えるようになっている。
そのことが、セリアには分かった。
広場の端では、若い男達が楽器を鳴らしていた。
一人は弦を弾き、一人は笛を吹き、もう一人は小さな太鼓を叩いている。
周囲には数人の子供達が集まり、手拍子をしていた。
通りすがりの者が、籠に小銭を投げ入れる。
エミリアは足を止めた。
音を聞く。
しばらく黙っていた。
演奏者達は、最初は気づかなかった。
だが、やがて目の前に立っている黒衣の美女に気づき、手元がわずかに乱れる。
弦の音が一つずれた。
笛の息が揺れた。
エミリアは眉をひそめる。
演奏が終わるのを待ってから、静かに口を開いた。
「音がずれているわ」
演奏者達が固まった。
セリアも身構える。
エミリアは腕を組み、冷ややかに続けた。
「特に笛。三拍目の入りが甘い。弦も途中で焦ったでしょう。太鼓は悪くないけれど、二人を引っ張るほどの力はないわ」
「え、えっと……」
笛の男が困惑した顔をする。
エミリアは容赦なく言った。
「こんな騒音を王都に撒き散らすくらいなら、もっと励みなさい」
周囲が静まり返る。
セリアは思わず一歩出かけた。
あまりにも酷い言い方だ。
演奏者達は、必死に日銭を稼いでいるだけかもしれない。
それを、王が人前で騒音などと。
だが、次の瞬間。
演奏者達は、顔を見合わせた。
そして、深く頭を下げた。
「ありがとうございます、エミィ様!」
セリアは足を止めた。
ありがとうございます。
今、確かにそう言った。
エミリアは当然のように鼻を鳴らす。
「礼を言う暇があるなら練習しなさい」
「はい!」
「次に聞いた時、同じところで音を外したら許さないわ」
「はい!」
演奏者達の顔には、恐怖ではなく緊張と喜びがあった。
指摘されたことを、恥ではなく、期待された証のように受け取っている。
セリアには理解できなかった。
エミリアはそのまま歩き出す。
セバスが小さく説明した。
「以前、あの者達は広場で演奏する許可を得られず、日雇い仕事を転々としておりました」
「……音楽で生活できるようにしたのですか」
「生活できる、とまではまだ申せません」
セバスは静かに答える。
「ですが、日銭を稼ぎ、練習を続ける場は得ました」
セリアは広場を見た。
小銭を投げる子供。
手拍子をする老人。
少し照れながら再び楽器を構える若者達。
エミリアの言葉は酷い。
だが、その言葉の中には、確かに改善点があった。
その先へ進めという命令があった。
セリアは、また分からなくなる。
広場の別の一角には、似顔絵描きがいた。
木箱を椅子代わりにし、粗末な板に紙を立てかけている。
前には数枚の絵が並べられていた。
王都の住民を描いたもの。
子供を描いたもの。
恋人同士らしき二人を描いたもの。
どれも悪くはない。
だが、どこか硬い。
線が迷い、人物の表情にも不自然な明るさがある。
エミリアは足を止めた。
絵をじっと見る。
似顔絵描きの青年は、目の前の相手が誰かを理解したのか、慌てて立ち上がった。
「い、いらっしゃいませ!」
エミリアは返事をしなかった。
並べられた絵を見下ろす。
一枚。
二枚。
三枚。
そして、靴先で一枚の板を軽く押した。
絵が、ぱたりと倒れる。
青年の顔が青ざめた。
セリアの身体が動いた。
「な――」
飛び出そうとした瞬間、セバスの手が静かに前へ出た。
触れたわけではない。
ただ、道を塞ぐように手が置かれただけだった。
「もう少しだけ、ご覧ください」
セバスの声は穏やかだった。
セリアは歯を食いしばる。
エミリアは倒れた絵を見下ろし、冷たく言った。
「こんなゴミみたいな絵を描くのはやめなさい」
広場の空気が張り詰めた。
青年は唇を噛む。
何かを言いたそうにしたが、言葉が出ない。
エミリアは、さらに絵を一枚拾い上げた。
破りはしない。
ただ、じっと見る。
「あなた、元々は違う絵を描いていたでしょう」
青年が目を見開いた。
「え……?」
「人物画ではないわね」
エミリアは青年を見る。
「風景画かしら」
青年は、息を呑んだ。
「な、なぜ……」
「人物の後ろに描かれた建物と空」
エミリアは絵の端を指す。
「そこだけ線が違う。色の置き方も、迷いが少ない。人物より、背景の方が生きているわ」
青年は黙った。
エミリアは淡々と続ける。
「あなたが描きたいのは人の顔ではない。この王都の通り。空。水路。建物。夕暮れ。そういうものなのでしょう」
青年の手が震えた。
「でも、それでは……」
「生活できない、とでも言うつもり?」
エミリアは鼻で笑った。
「くだらないわ」
「くだらない……?」
「ええ。とてもくだらない」
エミリアは絵を青年に突き返した。
「売れる似顔絵を描くなとは言わないわ。生きるために金は必要よ。それは悪いことではない」
青年は絵を受け取る。
エミリアは続けた。
「でも、描きたい絵を捨てて、描きたくもない絵だけを描くなら、それはあなたの才能の無駄遣いよ」
セリアは、何も言えなくなった。
エミリアの言葉は相変わらず高圧的だ。
乱暴だ。
優しくない。
だが、青年の絵を見ていた。
少なくとも、ただ侮辱しただけではない。
「生産ギルドへ行きなさい」
エミリアは言った。
「オルガに言うのよ」
セリアの胸が、わずかに動いた。
オルガ。
六日目に会った、あの生産ギルドの男。
エミリアを善人とも悪人とも言わず、厄介で面白い女と評した商人。
「謎の悪女から紹介を受けた。絵を描かせて、と」
青年は呆然としている。
「そ、それで……」
「描けるわ」
エミリアは当然のように言った。
「紙も絵具も、今よりましなものを手配させる。売り方も考えさせる。王都の記録画として残すなら、買い手も作れるでしょう」
「記録画……」
「そうよ」
エミリアは広場を見渡した。
音楽。
出店。
水路。
石畳。
笑う子供達。
まだ粗く、まだ不完全で、それでも少しずつ息を吹き返している王都。
エミリアは、その全てを見ていた。
「この美しい王国を描きなさい」
青年は、言葉を失う。
エミリアは腕を組み、誇らしげに言った。
「今はまだ、みすぼらしいところも多いわ。貧しい場所も、壊れた場所も、救えていない場所もある」
「ですが」
「だからこそよ」
エミリアの紫の瞳が、強く輝く。
「これから美しくなる王国を描きなさい」
「何年も、何十年も後に、ここにこんな国があったのだと分かるように」
「誰かが、この王国はこうして立ち上がったのだと知ることができるように」
「私の王国を描きなさい」
青年は、絵を抱きしめるようにして立っていた。
唇が震える。
やがて、深く頭を下げた。
「……はい」
声は小さかった。
だが、確かだった。
「描きます」
エミリアは満足げに頷いた。
「いい返事ね」
そして、倒した絵の板を靴先で戻す。
それから一言、付け加えた。
「ただし、似顔絵も練習なさい。人物の顔が死んでいるわ」
青年は、泣きそうな顔で笑った。
「はい!」
エミリアは外套を翻し、その場を離れた。
周囲にいた者達が、小さく笑う。
誰かが青年の肩を叩く。
別の者が「よかったな」と声をかける。
青年は、まだ呆然としたまま、自分の絵を見つめていた。
セリアは動けなかった。
飛び出そうとした足が、今は動かない。
「……今のは」
何だったのか。
絵を蹴るように倒した。
ゴミみたいな絵と言った。
青年を傷つけた。
そう見えた。
だが、その後に何をした。
青年の本当に描きたいものを見抜いた。
生きる手段を示した。
オルガへ繋げた。
王国の未来を描けと言った。
侮辱なのか。
救済なのか。
命令なのか。
祝福なのか。
セリアには、もう判断できなかった。
セバスが静かに言った。
「エミリア様は、ああいうお方でございます」
セリアは、エミリアの背を見た。
黒衣の悪女。
謎の悪女エミィ。
自分ではお忍びのつもりで、王都を歩く女王。
その行動は乱暴で、言葉は悪く、態度は傲慢だ。
なのに。
その後ろで、誰かが前を向き始める。
セリアは胸元の聖印に触れた。
太陽神インティの印は、今日もそこにある。
だが、そこから答えは返ってこなかった。
広場のざわめきの中で、エミリアは次の出店へ向かっていた。
足取りは軽い。
心から楽しんでいるように見える。
そして王都の人々は、その背を恐れるでもなく、遠巻きに笑いながら見守っている。
セリアは、自分が何を見ているのか、また分からなくなった。
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