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ローゼンバーグ王国 視察4日目

四日目。


神官セリアは、王都にある太陽神神殿へ向かった。


三日間、王都を歩いた。


王城を見た。


水道を見た。


水洗の手洗いを見た。


火ではない照明を見た。


王都の給水所を見た。


炊き出しを見た。


夜の街灯を見た。


そして、黒薔薇パンを食べた。


調査である。


あれは調査である。


決して、味に負けたわけではない。


そう自分に言い聞かせても、セリアの胸の中にある混乱は消えなかった。


最初に見せられた村の惨状は、確かに現実だった。


飢えた人々。


濁った水。


病に苦しむ者。


疲れ切った顔。


あれは嘘ではない。


だが、王都で見たものもまた、現実だった。


水は届いていた。


食事は配られていた。


街には光があり、人々は働き、子供達は笑っていた。


この国はおかしい。


それは変わらない。


だが。


自分が思っていた形では、おかしい。


そう感じ始めていた。


だからこそ、セリアは太陽神神殿へ向かうことにした。


邪神を国教とした国。


悪を名乗る女王。


ルミナを信奉する王城。


その中で、太陽神インティの神殿がどうなっているのか。


それを確かめる必要があった。


何より。


太陽神の神殿ならば、セリアにとって本来、心を落ち着けられる場所のはずだった。


王都の中心から少し離れた高台に、その神殿はあった。


白い石造りの建物。


広い石段。


高い柱。


正面には、太陽を象った大きな聖印。


かつてこの国で太陽神教が国教であったことを思わせる、十分に立派な神殿だった。


だが、近づくほどに違和感が増していく。


石段の端が欠けている。


柱には細かなひびが入っている。


装飾の金色はくすみ、庭の草はところどころ伸びていた。


手入れされていないわけではない。


しかし、力が足りていない。


人手も。


金も。


熱も。


すべてが少しずつ足りない。


そんな印象を受けた。


セリアは石段の下で足を止める。


帝国の大神殿ほどの威容はない。


それでも、この神殿はかつて人々の信仰を集めていたはずだった。


祈り。


巡礼。


奉仕。


神官達の声。


信徒達の祈り。


その全てが、ここにはあったはずだ。


だが今は。


静かすぎた。


「……ここが、王都の太陽神神殿」


セリアは胸元の聖印に触れ、深く息を吸った。


そして、石段を上る。


礼拝堂の扉は開いていた。


中へ入る。


高い天井。


光を取り込む窓。


白い壁。


太陽神インティの聖印。


祭壇の奥には、光を背負う太陽神の像が置かれている。


その姿を見た瞬間、セリアの胸にわずかな安堵が広がった。


ここには、まだ太陽神の気配がある。


完全に失われてはいない。


そう思った。


しかし。


礼拝堂の中に、人は少なかった。


広い椅子の列には、まばらに数人の信徒が座っているだけ。


祭壇の前で祈る老人が一人。


掃除をしている若い神官が一人。


奥の通路から出てきた中年の神官が、セリアに気づいて目を見開いた。


「……まさか」


神官は慌てて歩み寄り、深く頭を下げる。


「太陽神インティ大神殿より派遣された、セリア神官でいらっしゃいますか」


「はい」


セリアも静かに礼を返した。


「突然の訪問をお許しください。この神殿の様子を確認したく、参りました」


「もちろんでございます。どうぞ」


神官の声には、驚きと安堵が混じっていた。


その反応に、セリアは胸が痛む。


大神殿の神官の来訪を、これほど喜ばれるほど。


この神殿は孤立しているのか。


セリアは礼拝堂を見渡した。


「……信徒が少ないのですね」


口にしてから、少し直接的すぎたかもしれないと思った。


だが、神官は怒らなかった。


苦く、寂しそうに笑っただけだった。


「はい。以前より、随分と減りました」


「ルミナ教が国教となったためですか」


セリアの声は、少し硬くなる。


「女王エミリアによって、信徒が抑圧されているのですか」


神官は、すぐには答えなかった。


困ったように視線を落とし、それから静かに首を振る。


「いいえ」


「いいえ?」


セリアは聞き返した。


「信仰を禁じられたわけではありません」


「太陽神インティへの祈りも、神殿の維持も、今のところ妨げられてはおりません」


「王国から、弾圧も?」


「ございません」


「信徒への罰則は」


「ございません」


「では、なぜ」


セリアは礼拝堂を見る。


かつて国教だった神殿。


その中心に、人がほとんどいない。


「なぜ、これほど人が減っているのですか」


神官は、深く息を吐いた。


「高位の神官達の多くは、王国が混乱していた時期に帝国へ移りました」


セリアは眉を寄せる。


「帝国へ」


「はい。王国に残っても先がない、と考えた者もおります。ルミナ信仰が広がることを恐れた者もおります。単純に、より安定した地位を求めた者もおります」


神官の声に、怒りはない。


ただ、疲れがあった。


「私は残りました。ここで祈る者が、まだいたからです」


セリアは黙って聞く。


「王国が最も苦しかった頃、この神殿には多くの者が来ました」


「飢えた者」


「病に苦しむ者」


「家族を失った者」


「明日が見えない者」


「皆、神にすがるしかありませんでした」


神官は、祭壇を見る。


「私達も、祈りました」


「できる限りの施しもしました」


「けれど、食べ物は足りない」


「薬も足りない」


「人手も足りない」


「奇跡も、無限ではありません」


セリアは、胸の奥が重くなるのを感じた。


それは、神殿で何度も見てきた現実だった。


祈りは人を支える。


神の教えは人の心を導く。


だが、それだけで飢えた腹は満たせない。


それだけで濁った水は澄まない。


それだけで全ての病人を救えるわけではない。


分かっている。


分かっているからこそ、痛い。


「それが、エミリア女王の政策で変わったと?」


セリアが問うと、神官は複雑そうな顔をした。


「はい」


認めたくない。


だが、認めざるを得ない。


そんな声だった。


「炊き出しが始まりました」


「給水所が整えられました」


「道が直され、仕事が生まれました」


「孤児や貧しい者への手も、少しずつですが伸び始めています」


「病人に対しても、リン様という方が動いておられると聞きます」


リン。


また、その名が出た。


セリアは白衣の少女を思い出す。


卵の衛生管理。


黒い甘味の植物調査。


そして、病人への対応。


あの少女は一体、どこまでこの国に関わっているのか。


「神殿に来る者は、減りました」


神官は続けた。


「それは、信仰が消えたからではないと思います」


「では、なぜ」


神官は、静かに答えた。


「泣きながら神にすがる者が、少し減ったのです」


セリアは息を止めた。


「神を忘れたのではありません」


神官の声は穏やかだった。


「ただ、飢えた時に食べ物を受け取れる」


「水に困った時に給水所へ行ける」


「夜道に灯りがある」


「仕事を得られる者がいる」


「そうなれば、人は毎日泣きながら神にすがらなくてもよくなります」


セリアは言葉を失った。


太陽神の神殿が衰えている。


それは本来、悲しむべきことだ。


信徒が減っている。


祈る者が少なくなっている。


神官として、胸を痛めるべきことだ。


だが、その理由が。


人々が救われ始めたからだとしたら。


祈りにすがらなくても、生きられる者が増えたからだとしたら。


それを、セリアはどう受け止めればいいのか。


「それは……」


声が出ない。


否定したかった。


だが、神官の言葉は、セリアがこの三日で見た光景と一致していた。


炊き出し。


給水所。


街灯。


柔らかい白パンを抱える老人。


子供の笑顔。


「もちろん、全てが救われたわけではありません」


神官は言った。


「王都の外には、まだ苦しい村もあるでしょう」


「王都の中にも、救いきれていない者はいます」


「ですが、少なくとも以前よりは変わりました」


「その変化が、この神殿から人を減らしているのです」


セリアは祭壇を見上げた。


太陽神インティの像は、何も語らない。


いつもと同じように、静かに光を受けている。


ここは太陽神の神殿だ。


邪神の神殿ではない。


だが、この場所で語られているのは、悪の女王が人々の生活を変えたという事実だった。


「グレゴール神官長様は」


セリアは、ふと思い出して尋ねた。


「こちらにいらっしゃらないのですか」


その名を聞いた瞬間、神官の表情がわずかに変わった。


敬意。


困惑。


寂しさ。


その全てが混じった顔だった。


「グレゴール様は、もう神官長ではございません」


「……退任されたのですか」


「はい」


セリアは眉を寄せる。


グレゴール。


王国の太陽神教神官長。


穏やかで誠実な人格者。


孤児や貧民の救済に尽くした教育者。


その名は、帝国の大神殿にも届いていた。


その人物が退任した。


この状況で。


「なぜです」


「詳しいことは、私の口からは」


神官は言いよどむ。


だが、やがて静かに言った。


「グレゴール様は、民を救う場所ならば、神の名に拘らない方でした」


「神の名に、拘らない」


セリアの声が少し鋭くなる。


「信仰の中心にいた方が、そのようなことを?」


「はい」


神官は否定しなかった。


「グレゴール様は、祈りを軽んじる方ではありません」


「インティ様への敬意を失われたわけでもないと思います」


「ただ、あの方はいつも、人が救われることを第一に考えておられました」


セリアは黙る。


「今は、どちらに?」


「新たな神殿計画に関わっておられると聞いております」


「新たな神殿」


その言葉に、セリアは嫌な予感を覚えた。


「まさか」


神官は小さく頷いた。


「ルミナ教神殿の建設予定地です」


セリアは息を呑んだ。


元太陽神教神官長が。


ルミナ教神殿の建設に関わっている。


それは、セリアにとって到底受け入れがたい情報だった。


「グレゴール神官長様ほどの方が、なぜ」


「私には、分かりません」


神官は正直に言った。


「ただ、最近は神殿予定地の近くで、子供達や読み書きを覚えたい者へ教えておられると聞きます」


「教えている?」


「はい。文字や数、礼儀、信仰について」


セリアは困惑する。


ルミナ教神殿予定地。


そこで、元太陽神教神官長が青空教室を開いている。


意味が分からない。


何一つ、分からない。


邪神に堕ちたのか。


信仰を捨てたのか。


それとも、別の何かを見たのか。


「……場所を教えていただけますか」


「もちろんです」


神官は簡単な道順を教えてくれた。


セリアはそれを心に刻む。


だが、すぐには向かわなかった。


今の自分の状態でグレゴールと会えば、冷静に話せる自信がなかった。


それほどまでに、情報が重かった。


セリアは、もう一つ確認することにした。


「この神殿に、オショ、クージ、ケンという神官はいらっしゃいますか」


その名を出すと、神官は少しだけ考え込んだ。


「……存じております」


「今は?」


「最近は、あまり神殿にはおられません」


「神殿にいない?」


「はい。王都の外へ出る用がある、と聞いております」


「どちらへ?」


「そこまでは、私も詳しくは」


神官は申し訳なさそうに頭を下げた。


「王国の混乱以降、神官達の動きも一枚岩ではありません。帝国へ戻る者、王都に残る者、各地を巡る者。皆、それぞれの考えで動いております」


「彼らは、エミリア女王について何か言っていましたか」


神官は少し言葉を選ぶように間を置いた。


「ルミナ教国教化に、強い反発を示していたことは確かです」


「それは、太陽神の神官であれば不自然ではありません」


「はい」


神官は頷いた。


「ですので、私からはそれ以上のことは申し上げられません」


セリアは黙った。


オショ。


クージ。


ケン。


彼らは、セリアに村を見せた。


苦しむ民を見せた。


エミリア女王を糾弾する理由を与えた。


そのこと自体は、間違いではない。


あの村の惨状は、確かに現実だった。


だが、王都で見たものもまた現実だった。


ならば、自分は彼らから何を見せられ、何を見なかったのか。


その疑問だけが、胸の奥に小さく残った。


「ありがとうございます」


セリアは神官に礼を言った。


「グレゴール様の場所も、彼らのことも、参考になりました」


「セリア神官」


神官が、少しだけ躊躇いながら声をかける。


「何でしょう」


「どうか、ご自身の目でお確かめください」


セリアは振り返る。


神官は深く頭を下げた。


「この国は、確かにおかしくなりました」


「太陽神教の神官である私が言うのも妙ですが」


「悪くなっただけでは、ありません」


セリアは何も言えなかった。


太陽神の神官が。


ルミナ教国教化を前に、なおこの国を悪くなっただけではないと言う。


その事実が、重かった。


神殿を出ると、夕方の光が白い石段を照らしていた。


太陽は傾き、王都の屋根の向こうへ沈もうとしている。


セリアは石段の上から王都を見下ろした。


炊き出しの煙。


人の流れ。


遠くに見える給水所。


街灯の支柱。


そして、王城。


悪の女王がいる場所。


邪神ルミナを国教とした王。


民を下僕と呼ぶ女王。


だが、その女王によって、泣きながら神にすがる者が減った。


その言葉が、セリアの胸から離れない。


セリアは胸元の聖印に触れた。


「インティ様」


小さく祈る。


けれど、答えはない。


答えを求めるために祈ったのに。


今は、祈りよりも先に、自分の目で見なければならないという思いが強かった。


そのこと自体が、セリアには恐ろしかった。


その日の夜。


セリアは調査記録を開いた。


【神官セリア調査記録 四日目】


王都太陽神神殿を訪問。


建物は現存。


信仰の禁止、弾圧、信徒への罰則は確認できず。


ただし神殿は明らかに衰退。


高位神官の多くは帝国へ移動。


信徒数も減少。


理由について、残留神官は以下のように証言。


炊き出し、給水所、仕事、治安改善、医療支援等により、泣きながら神にすがる者が減ったため。


神を忘れたのではなく、祈りだけにすがらなくてもよい者が増えた、とのこと。


重大な発言。


グレゴール元神官長は退任。


現在はルミナ教神殿建設予定地付近で教育活動をしている模様。


詳細確認が必要。


オショ、クージ、ケンの三名は、最近神殿を離れている模様。


行き先、目的は不明。


彼らが見せた村の惨状は現実。


ただし、王都で確認した状況と大きく異なる。


継続調査が必要。


セリアは筆を止めた。


三人の名を見つめる。


自分は、彼らを信じた。


彼らは太陽神の神官だった。


同じ信仰に属する者だった。


だから、疑わなかった。


だが、本当にそれだけで信じてよかったのか。


彼らが見せたものは、確かに現実だった。


けれど。


現実のすべてでは、なかったのではないか。


セリアは静かに筆を置いた。


王都で過ごした四日間。


疑念は消えない。


むしろ、増えている。


だが、その疑念はもはや、エミリアだけへ向けられたものではなかった。


オショ。


クージ。


ケン。


そして、自分自身の判断。


そこにも、疑念は向き始めていた。


明日は、グレゴールに会わなければならない。


元太陽神教神官長。


人格者として名高い人物。


その彼が、なぜルミナ教神殿予定地にいるのか。


なぜ、子供達に教えているのか。


なぜ、神官長を退いたのか。


それを知らなければならない。


セリアは窓の外を見た。


王都の灯りが、今日も静かに揺れている。


火ではない光。


神聖魔法でもない光。


悪の女王の国に灯る、奇妙な光。


セリアにはまだ、その光の正体が分からなかった。


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