ローゼンバーグ王国 視察3日目
三日目。
セリアは、再び王都へ出ていた。
一日目に王城を見た。
二日目に王都の水と光を見た。
どちらも、セリアの認識を乱すには十分だった。
王城だけが豊かなのだと思っていた。
民から奪ったものを、女王の周囲だけで使っているのだと思っていた。
だが、王都にも水は届いていた。
炊き出しは機能していた。
街灯は夜道を照らしていた。
クロエの研究室は危険だった。
それは間違いない。
よく爆発するらしい。
そこは間違いなく危険だった。
しかし、あの研究室で生み出された技術は、民の生活を支えていた。
それもまた事実だった。
だからこそ、セリアは混乱していた。
悪の女王。
邪神国家。
民を下僕と呼ぶ王。
そのはずなのに、目に映る王都は、ただ恐怖で支配されているだけの街には見えない。
「……まだです」
セリアは小さく呟いた。
まだ判断してはいけない。
水と光だけで、この国を測ることはできない。
王都の一部が整っているだけかもしれない。
見せるために飾られた場所だけを歩かされているのかもしれない。
そう考えながら、セリアは大通りを進んだ。
その時だった。
ふわりと、甘い香りが鼻をくすぐった。
セリアは足を止める。
焼きたての小麦の香り。
蜂蜜に似た甘さ。
けれど、それだけではない。
どこか薬草にも似た、深みのある香ばしさが混ざっている。
神殿の保存食とは違う。
旅の途中で食べた硬い黒パンとも違う。
王城で食べた白いパンとも違う。
もっと濃く。
もっと強く。
腹の奥を直接揺さぶるような香りだった。
セリアは思わず、その匂いのする方へ視線を向けた。
小さなパン屋の前に、人だかりができていた。
店先には籠が並び、その中に黒褐色の丸いパンが積まれている。
焦げているわけではない。
表面は艶やかで、焼き色が深い。
黒いのに、重苦しくない。
薔薇の紋章を模した焼き印が、表面に押されている。
店の看板には、こう書かれていた。
【黒薔薇パン】
セリアは眉をひそめる。
黒。
薔薇。
ローゼンバーグ。
そして、エミリア女王。
あまりにも分かりやすい。
「……怪しい」
思わず声が漏れた。
非常に怪しい。
名前からして、女王エミリアの影響を感じる。
民の食卓にまで、悪の女王の名を刻み込もうとしているのではないか。
そう疑ってもおかしくはない。
だが。
匂いは良かった。
非常に良かった。
朝から歩き回っていたセリアの腹が、正直に反応する。
「……調査です」
セリアは自分に言い聞かせた。
女王エミリアの影響が、王都の民にどこまで及んでいるのか。
それを確認するための調査。
決して、匂いに負けたわけではない。
決して、食べてみたくなったわけではない。
セリアは列に並び、黒薔薇パンを一つ買った。
店主はがっしりとした体格の中年男だった。
腕は太く、肌は窯の熱で赤く焼けている。
職人らしい男だった。
「はいよ、黒薔薇パン一つ」
手渡されたパンは、まだ温かかった。
セリアは両手で受け取り、その柔らかさに驚く。
黒いパンは硬い。
そういうものだと思っていた。
酸味が強く、日持ちはするが、噛むには力がいる。
特に保存用の黒パンは、湯に浸さなければ食べづらいものもある。
だが、この黒薔薇パンは違った。
指で持つと、ほんの少し沈む。
表面は香ばしく、内側は柔らかそうだった。
セリアは警戒しながら、小さくかじった。
その瞬間。
「……」
言葉が止まった。
香ばしい。
甘い。
柔らかい。
ほんの少し癖がある。
けれど、その癖が嫌ではない。
むしろ、味に深みを与えている。
噛むほどに、小麦の甘さと黒い蜜のような濃い甘みが広がり、鼻へ抜ける香りが心地よい。
保存食ではない。
ただ腹を満たすためのものでもない。
これは、食べる者を喜ばせるためのパンだった。
「……おいしい」
小さく漏れた声に、セリアは自分で驚く。
まただ。
また、美味しいと思ってしまった。
一日目のプリンもそうだった。
マヨネーズもそうだった。
そして今日、この黒薔薇パンもそうだ。
セリアは手の中のパンを見つめた。
怪しい。
非常に怪しい。
だが、美味しい。
その事実が、何より厄介だった。
「姉ちゃん、初めてかい?」
店主が笑いながら声をかけてきた。
セリアは少しだけ姿勢を正す。
「はい。これは、普通の黒パンとは違うのですね」
「ああ、全然違う。黒薔薇パンは、うちでもまだ数を出せねぇ特別品だ」
「特別品?」
「ああ。材料が限られてるんだよ」
店主は籠の中の黒薔薇パンを一つ持ち上げた。
「こいつにはな、黒い甘みを使ってる」
「黒い甘み」
「俺達も最初はよく分からなかったんだが、リン先生が調べた植物から取れる蜜を煮詰めると、黒くて甘いものになるんだ」
リン。
セリアはその名に反応した。
謁見の間で見た、白衣姿の少女。
前髪で目元を隠し、静かにエミリアの傍に控えていた少女。
一日目の食事でも、卵の衛生管理に関わっていると聞いた。
そのリンが、今度は植物の扱いにも関わっている。
「その植物は、安全なのですか?」
「リン先生が調べたものだけ使ってる。毒がないか、どの部分を使うか、どう煮詰めるか、そこまで見てくれたそうだ」
店主は笑う。
「俺達にゃ細けぇことは分からねぇが、リン先生が大丈夫って言うなら大丈夫だろ」
セリアは黙る。
この国では、リンという少女の知識が、医療だけでなく食にも関わり始めている。
それも、民の食卓に届く形で。
「それを、エミリア女王が?」
「ああ。エミリア様がそれを見て、“黒糖パンが作れるわ”って言い出したらしい」
「こくとう」
聞き慣れない言葉だった。
「エミリア様の言葉は時々よく分からねぇんだ」
店主は楽しそうに肩をすくめる。
「でも、出来上がったものは美味い。だから俺達は気にしねぇ」
「黒薔薇パンという名も、エミリア女王が?」
「そう聞いてる」
店主は笑う。
「最初は、柔らかい白パンにその黒い甘みを混ぜるだけだったらしいんだがな。エミリア様が言ったそうだ」
店主は、少しだけ芝居がかった口調で言う。
「“私の名を冠するなら白ではないわ。黒よ。黒薔薇にしなさい”ってな」
セリアは額に手を当てたくなった。
どこまでも分かりやすい。
黒。
薔薇。
悪の女王。
あまりにも分かりやすい。
そして、腹立たしいことに美味しい。
「ただ、まだ数は出せない」
店主は話を戻した。
「その黒い甘みを作るのに手間がかかる。植物の量も限られてる。煮詰めるにも時間がいる。だから、毎日いくらでも焼けるわけじゃねぇ」
「では、これは日常的なパンではないのですね」
「今のところはな。遅く来たら売り切れだ」
セリアは手の中の黒薔薇パンを見る。
限定品。
特別な材料。
リンが調べた植物。
エミリアが望んだ黒糖パン。
職人が形にした黒い薔薇のパン。
王城だけの贅沢ではない。
だが、完全に民の日常へ広がったものでもない。
その中間にある、王都の変化の象徴のようなものだった。
「普段、町の人々はどのようなパンを?」
セリアが尋ねると、店主は棚の奥を指差した。
そこには、丸く焼かれた白いパンが並んでいた。
黒薔薇パンほど特別な香りはしない。
しかし、旅で見慣れた硬い黒パンよりずっと柔らかそうだった。
「あっちの白パンだな。前より柔らかくて食いやすい。年寄りにも子供にも評判がいい」
「白パン……」
「エミリア様は、食パンもどきとか呼んでるらしいけどな」
「食パンもどき?」
セリアは聞き慣れない言葉を繰り返す。
「俺達には分からねぇよ。こんなに美味い白パンなのに、エミリア様はまだ違うって言うんだと」
店主は不思議そうに首を傾げる。
「“美味しいけれど、これはまだ食パンじゃないわ。酵母も違うし、型もない。外をしっかり焼いて、中をふっくらさせたいのよ”とか何とか」
「型?」
「四角くきっちり焼くための道具が欲しいらしい。けど、今の職人じゃまだ難しいんだとさ」
店主は苦笑する。
「俺達からすれば、今の白パンだって十分すぎるほど美味いんだがな。エミリア様の求めるものは、いつも少し先にある」
セリアは棚の白パンを見る。
柔らかい白パン。
民が日常的に食べ始めているパン。
それを、エミリアはまだ不満だと言う。
もっと柔らかく。
もっと形よく。
もっと理想に近づけたいと。
贅沢にも聞こえる。
だが、それは職人にとっては目標にもなるのだろう。
少なくとも、店主は嫌そうではなかった。
むしろ、少し楽しそうだった。
「その製法は、無償で配られたのですか?」
セリアが問うと、店主は肩をすくめた。
「詳しい決まりはギルドの方が詳しいな。製法登録だの使用料だの、俺達にも関係はあるが、細けぇ話は帳簿を見る奴らの仕事だ」
「使用料……」
セリアはその言葉に反応した。
税とは別に、製法を使うための金を取る。
それは搾取ではないのか。
民が働けば働くほど、王国がさらに吸い上げる仕組みではないのか。
そんな疑念が胸に浮かぶ。
だが、店主は不満そうではなかった。
むしろ、焼き上がったパンを見る目は誇らしげだった。
「まあ、俺から言えるのは一つだ」
店主は黒薔薇パンを一つ持ち上げる。
「うまいパンは売れる。客が喜ぶ。俺達も腕を磨く。なら、悪い話ばかりじゃねぇってことだ」
セリアは言葉に詰まった。
詳しい制度は分からない。
だが、この店主が無理やり従わされているようには見えなかった。
その時、横から女性の声がした。
「うちの子もね、白パンなら喜んで食べるんです」
子供を連れた母親だった。
手には丸い白パンが二つある。
「前の硬いパンだと、なかなか食べてくれなくて。スープに浸しても嫌がって。でも、今の白パンは自分から食べるんですよ」
子供が母親の手元を見上げる。
「お母さん、早く食べよう」
「はいはい」
母親は笑い、店主へ軽く頭を下げて去っていく。
次に、杖をついた老人が口を開いた。
「硬いパンが噛めなくなってきてな」
老人は白パンを大事そうに抱えている。
「だが、こいつは食える。ありがたいことだ」
セリアは老人を見る。
王城ではない。
貴族でもない。
普通の民が、この柔らかいパンを食べている。
そして、喜んでいる。
「エミリア様のおかげだよ」
老人は穏やかに言った。
「悪の女王様は、妙なものを作りなさる」
悪の女王。
その言葉に、セリアは反応する。
だが、老人の声に恐怖はなかった。
むしろ、親しみさえあった。
「……悪の女王と、呼ぶのですか」
セリアが尋ねると、老人は不思議そうに首を傾げる。
「ご本人がそう名乗っておられるからな」
「怖くはないのですか」
「怖い?」
老人は少し考える。
「そりゃあ、最初は怖かったさ。黒い服を着て、悪だ下僕だとおっしゃるんだからな」
店主が横から笑う。
「今でも言うけどな」
「そうそう、今でも言う」
老人も笑った。
「けれど、悪の女王様は井戸を直した。飯を配った。道を直した。仕事を作った。パンまで柔らかくした」
老人は白パンを撫でる。
「悪でも何でも、噛めるパンをくれるなら、わしにはありがたい」
セリアは黙り込んだ。
悪でも何でも。
その言葉は、太陽神の聖女であるセリアには受け入れがたい。
善悪は重要だ。
正しさは重要だ。
神の教えは、人の歩む道を照らすものだ。
それなのに、この老人は。
この店主は。
悪を名乗る女王を、まるで日々の暮らしを変えてくれた存在として語っている。
セリアは、もう一度黒薔薇パンをかじった。
やはり、美味しい。
柔らかく、香ばしく、甘い。
黒い蜜のようなコクがある。
子供や老人が喜ぶ白パン。
そして、特別な黒薔薇パン。
そのどちらも、エミリアの影響から生まれている。
それが、ますます恐ろしかった。
恐怖で縛る支配ではない。
税で締め付けるだけの支配でもない。
民の生活に入り込む支配。
食卓を変える支配。
職人の目標を変える支配。
民に感謝させる支配。
それは、剣よりも深く、人の心に届くのではないか。
「……恐ろしい」
セリアは小さく呟いた。
店主が首を傾げる。
「ん? 何か言ったかい?」
「いえ」
セリアは首を振った。
そして、手の中の黒薔薇パンを見下ろす。
いつの間にか、半分以上なくなっていた。
調査である。
これは調査である。
セリアはそう自分に言い聞かせた。
女王エミリアの影響が、王都の民にどれほど浸透しているかを確認するための、重要な調査。
味を確かめることも、その一環。
決して、美味しかったから食べ進めてしまったわけではない。
「……もう一つ、いただけますか」
気づけば、そう言っていた。
店主がにやりと笑う。
「気に入ったかい?」
「調査です」
セリアは即答した。
「女王エミリアの政策が、民間にどのような影響を与えているのか。継続的な確認が必要です」
「ははっ、そうかい。じゃあ調査用に一つな」
店主は笑いながら、黒薔薇パンをもう一つ包んでくれた。
セリアは代金を払い、パンを受け取る。
温かい。
香りが良い。
非常に良い。
「……調査です」
もう一度、小さく呟いた。
誰に向けた言い訳なのか、自分でも分からなかった。
その日の夕方。
客室へ戻ったセリアは、調査記録を開いた。
筆を取り、今日見たものを書き留める。
王都のパン屋。
黒薔薇パン。
リンが調べた植物由来の黒い甘味。
女王エミリアが望んだ黒糖パン。
素材と加工量の都合による限定販売。
柔らかい白パンの普及。
エミリアだけが不満げに呼ぶ、食パンもどき。
製法登録。
使用料。
詳細は、生産ギルドで確認が必要。
そして、民の反応。
セリアは筆を止める。
エミリアの影響は、水や光だけではなかった。
食卓にまで入り込んでいた。
職人の目標にまで入り込んでいた。
民の感謝にまで入り込んでいた。
それは、武力による支配よりも、ずっと柔らかい。
だからこそ、深い。
セリアは調査記録の最後に、こう書いた。
【神官セリア調査記録 三日目】
王都のパン屋にて、黒薔薇パンなる食品を確認。
女王エミリアの考案した製法が、民間のパン屋へ広がり始めている模様。
黒薔薇パンは、リンが調べた植物由来の黒い甘味を用いた限定販売品。
素材と加工量に限りがあるため、日常食ではない。
一般家庭では、より柔らかい白パンが普及し始めている。
なお、エミリア女王はその白パンを「食パンもどき」と呼んでいるらしい。
意味は不明。
製法登録、使用料という言葉も確認。
詳細は生産ギルドにて調査が必要。
味は極めて良好。
非常に良好。
ただし、これは調査である。
決して二つ食べたかったわけではない。
そこまで書いて、セリアは筆を止めた。
最後の一文を消すべきか迷った。
迷った末に、そのまま残した。
事実だからだ。
調査である。
少なくとも、セリアはそういうことにした。
窓の外では、王都の灯りが今日も静かに揺れていた。
火ではない光。
神聖魔法でもない光。
女王エミリアの改革によって生まれた光。
セリアは、包みの中に残った黒薔薇パンを見下ろす。
王城の贅沢。
そう思っていたものは、王都にもあった。
技術。
食事。
水。
光。
そして、職人達の誇り。
セリアはまだ、エミリアを信用していない。
ルミナ教も認めていない。
邪神国家への警戒も解いていない。
だが、少なくとも。
最初に見せられた村だけを見て、この国全体を断じることは、もうできなかった。
この国はおかしい。
それは変わらない。
けれど。
この国は、自分が思っていた形ではおかしい。
セリアは、そう感じ始めていた。




