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ローゼンバーグ王国 視察5日目

五日目。


神官セリアは、前日に教えられた道を辿っていた。


向かう先は、ルミナ教神殿の建設予定地。


そこに、グレゴールがいるという。


ローゼンバーグ王国の元太陽神教神官長。


その名は、帝国の太陽神インティ大神殿にも届いていた。


貧民救済。


孤児保護。


巡礼団の指揮。


教育活動。


神官としても、教育者としても、人格者としても名高い人物。


セリアは直接会ったことこそなかったが、その名には敬意を抱いていた。


そのグレゴールが、神官長を退いた。


そして今は、ルミナ教の神殿建設予定地にいる。


それだけでも、セリアには受け入れがたい。


ルミナ。


月と死と転生を司る神。


帝国の太陽神教から見れば、邪神と呼ばれる存在。


そのルミナを、ローゼンバーグ王国は国教とした。


悪を名乗る女王エミリアによって。


セリアは胸元の聖印に触れる。


そこにあるのは、太陽神インティの印。


自分が信じ、自分が仕えてきた神の印だった。


「……確かめなければ」


怒りだけでは足りない。


疑いだけでも足りない。


この四日間、セリアは嫌というほどそれを思い知らされていた。


王城の水。


王都の灯り。


黒薔薇パン。


太陽神神殿の衰退。


そして、祈りにすがる者が減ったという言葉。


見なければならない。


自分の目で。


自分の耳で。


自分の信仰で判断しなければならない。


王都の中心から少し外れた一角に、その場所はあった。


最初に見えたのは、神殿ではなかった。


建設現場だった。


広い土地に、石材が積まれている。


木材が運び込まれている。


足場が組まれ、測量用の縄が張られ、地面には白い粉で複雑な線が引かれていた。


職人達の声が飛ぶ。


石を削る音。


木を打つ音。


荷を運ぶ掛け声。


そこには、セリアが想像していた邪神の神殿とはまるで違う光景が広がっていた。


不気味な祭壇。


黒い炎。


得体の知れない儀式。


そうしたものは何一つない。


あるのは、土と石と木と汗。


そして、現場を動かす職人達の熱だった。


「そこじゃないよ!」


現場の中央から、よく通る女の声が響いた。


「図面を見な! その柱材をそこへ置いたら、水路の逃げを潰すだろうが!」


職人達が慌てて木材を動かす。


「す、すまねぇ、マルタ姉御!」


「謝る暇があるなら手を動かしな! あとで石工の連中に笑われるよ!」


女は容赦なく怒鳴った。


だが、そこに陰湿さはない。


職人達も怯えているというより、叱られながら当然のように従っている。


その女の周りだけ、現場の空気が一段濃かった。


セリアは女を見る。


年齢は三十前後に見える。


鍛えられた身体。


作業着。


腰に下げた工具。


まとめられた髪。


顔立ちは整っているが、貴族的な美しさではない。


石と木と土の中でこそ映える、強い美しさだった。


その胸元には、青い薔薇の意匠があった。


青薔薇。


セリアは、その意味を知らない。


だが、ただの飾りではないことだけは分かった。


「マルタ姉御、地下の洗い場へ通す水路なんだが」


「図面を寄越しな」


別の職人が走ってくる。


マルタと呼ばれた女は、広げられた図面を片手で押さえ、眉間に皺を寄せた。


その脇に、もう一人の女性が立っていた。


彼女もまた、胸元に青薔薇の意匠をつけている。


マルタとは違う、静かで整った美しさを持つ女性だった。


二人は同じ図面を覗き込み、石材の寸法、柱の位置、採光、換気、地下に通す水路について話し合っている。


「こちらの角度を変えれば、排水は安定します」


「そっちへ逃がしたら厨房側の配管とぶつかる」


「では、厨房側を半歩ずらしますか」


「調理場を狭くする気かい。病人と子供を受け入れる施設で、飯を作る場所を削るなんざ論外だ」


「では壁厚を調整し、補強を追加します」


「それなら通る。だが梁の位置も見直しだね」


二人の会話は、早かった。


セリアには半分も理解できない。


だが、耳に入る言葉だけで、奇妙さは十分だった。


病人。


子供。


調理場。


洗い場。


薬品庫。


採光。


換気。


上下水道。


ここは、神殿の建設予定地ではなかったのか。


祈る場所を作っているのではないのか。


なぜ、病人を受け入れる部屋がある。


なぜ、子供達の生活区画がある。


なぜ、調理場や洗い場や薬品庫まで図面に含まれている。


セリアは、思わず口を開いた。


「……これは、本当に神殿なのですか」


近くにいた職人が振り向く。


「ん? 神官様かい?」


「太陽神インティ大神殿より参りました。セリアと申します」


「ああ、帝国の」


職人は少し驚いた顔をしたが、敵意は見せなかった。


「ここはルミナ神殿になる予定だよ」


「ですが、今聞こえた話では、病人を受け入れる部屋や子供達の生活区画があると」


「ああ、あるよ」


職人は当然のように頷いた。


「祈るだけじゃ、腹は膨れねぇし、熱も下がらねぇからな」


セリアは言葉に詰まった。


昨日、太陽神神殿で聞いた言葉が蘇る。


泣きながら神にすがる者が、少し減ったのです。


祈りだけにすがらなくてもよい者が増えた。


また同じだ。


また、この国は同じ理屈で、セリアの信仰を揺さぶってくる。


「マルタ姉御!」


別の若い職人が叫んだ。


「北側の足場、組み直した!」


「よし、見に行くよ!」


マルタは図面を丸め、軽い足取りで歩き出す。


その歩き方には迷いがなかった。


職人達は自然に道を空ける。


若い者も、年配の石工も、彼女を見る目には敬意がある。


恐怖ではない。


強制でもない。


その女が現場にいることを、皆が当然のように受け入れていた。


「マルタ、という方は」


セリアは近くの職人に尋ねた。


「この現場の責任者ですか」


「責任者っていうか、マルタ姉御がいなきゃこの図面は形にならねぇよ」


職人は笑った。


「元建築ギルド長だ。王都の建物で、あの人の目が入ってねぇものを探す方が難しい」


「元建築ギルド長……」


セリアはマルタの背を見た。


帝国の神官であるセリアは、ローゼンバーグ王国の職人事情までは知らない。


女王エミリア。


元神官長グレゴール。


その程度なら知っている。


だが、王都の建築を支えてきた職人の名までは知らなかった。


それでも、今見ている光景だけで分かる。


マルタという女は、ただの作業員ではない。


この現場の中心だ。


「一度、現場を退いてたんだがな」


職人は何気なく続けた。


「今は戻ってきた」


「戻ってきた?」


「ああ。戻ってきちまった」


職人は、嬉しそうにそう言った。


その言葉の意味は分からない。


だが、セリアはあえて深く聞かなかった。


胸元の青薔薇。


同じ青薔薇をつけた美しい女性。


若い姿の女棟梁。


古参の職人達から向けられる敬意。


そこには何かがある。


だが、この場でそれを問い詰めても、答えは得られないだろう。


セリアは視線を巡らせた。


目的は別にある。


グレゴール。


元太陽神教神官長。


その人物を探さなければならない。


建設現場のすぐ横。


まだ石も積まれていない空き地の一角に、人々が集まっていた。


子供達。


若い女。


荷運びらしき男。


年配の女性。


木箱を机代わりにし、板切れを膝に置き、地面に文字を書いている子もいる。


彼らの前に、一人の男が立っていた。


セリアは、足を止めた。


白髪。


整えられた白い髭。


深い皺の刻まれた顔。


だが、枯れた老人ではない。


背は高く、肩幅は広い。


神官服の上からでも分かるほど、その身体には厚みがある。


袖口から見える手は大きく、節くれ立っていた。


祈りのためだけの手ではない。


人を抱え、荷を運び、子供の手を引き、時に誰かを叱りつけてきた者の手だった。


顔つきは厳格だった。


柔らかく微笑んでいても、甘いだけではない。


一度誤れば、雷のような叱責が落ちる。


そう思わせるだけの重さがある。


だが、その周りに集まる子供達は怯えていなかった。


むしろ、安心しきった顔で男を見上げている。


その姿を見て、セリアは理解した。


この人は、優しいから慕われているのではない。


正しく叱り、正しく教え、正しく守ってきたから、信じられているのだ。


「では、もう一度」


男は低く、よく響く声で言った。


「この文字は、何と読みますか」


子供達が声を合わせる。


「みず!」


「そうです。水です」


男は頷いた。


「では、水は何のために必要ですか」


「飲む!」


「手を洗う!」


「畑に使う!」


「料理!」


「よろしい」


男は一つ一つの答えに頷く。


「水は命を支えます。だからこそ、汚してはなりません。独り占めしてもなりません。必要な場所へ届くよう、皆で考えなければなりません」


子供達は真剣に聞いている。


セリアは、静かに近づいた。


男の声は続く。


「文字を知れば、騙されずに済みます」


「数を知れば、不当な取引に気づけます」


「水の扱いを知れば、病を遠ざけられます」


「歴史を知れば、同じ過ちを避けられます」


グレゴールと思しき男は、厚い手で胸元の教本を押さえた。


「学びは救いです」


その言葉には、深い確信があった。


「救いは祈りの中だけにあるものではありません」


「知ること」


「考えること」


「手を動かすこと」


「誰かを助ける術を身につけること」


「それらもまた、人を救う道です」


セリアは、思わず聞き入っていた。


言っていることは正しい。


少なくとも、神官として否定できる言葉ではない。


読み書き。


計算。


衛生。


歴史。


自立。


それらを教えることは、人を救うことに繋がる。


そこまでは、疑いようもない。


だが。


「そして」


男の声に、わずかな熱が宿った。


「学びによって己を磨いた者は、いつかエミリア様のお役に立てるでしょう」


セリアの思考が止まった。


「それは、何より尊いことです」


子供達は、当然のように頷いている。


「エミリア様のために!」


一人の子供が元気よく言う。


周囲の子供達も笑顔で続いた。


「エミリア様のために!」


「エミリア様の国をよくする!」


「エミリア様に褒められる!」


男は満足げに頷いた。


「その志は立派です。ですが、志だけでは足りません。褒められたいなら、まず字を覚えなさい。数を間違えぬようにしなさい。手を洗いなさい。人の話を聞きなさい」


子供達が真剣な顔で頷く。


セリアは額を押さえたくなった。


おかしい。


途中までは完全に正しかった。


だが、最後に必ずエミリアへ繋がる。


学びは救い。


文字は力。


数は知恵。


水は命。


そこまでは分かる。


だが、なぜそれがエミリア女王への奉仕に繋がる。


なぜ、神ではない。


なぜ、太陽神インティでもなく。


なぜ、ルミナですらなく。


エミリアなのか。


「……ルミナ教、とは」


思わず漏れた声に、男が気づいた。


ゆっくりと顔を上げる。


その視線がセリアを捉えた。


重い。


穏やかではある。


だが、目を逸らしにくい視線だった。


「お客様のようですね」


子供達が一斉に振り返る。


セリアは姿勢を正した。


胸元の聖印に手を添え、礼をする。


「太陽神インティ大神殿より参りました。神官セリアと申します」


子供達の間に、小さなどよめきが起こる。


しかし、男は驚かなかった。


「ようこそ、セリア神官」


男は静かに言った。


「遠いところを、よくお越しくださいました」


セリアは、目の前の男を見上げる。


「グレゴール神官長様でいらっしゃいますね」


男は、静かに首を振った。


「私はもう、神官長ではありません」


その声に、迷いはなかった。


「……退任されたと聞きました」


「はい」


「では、どのようにお呼びすれば」


「グレゴールで構いません」


「しかし」


「神官長と呼ばれる資格は、今の私にはありません」


グレゴールは言った。


「私はすでに、太陽神教の神官ではありません」


セリアは息を呑んだ。


分かっていた。


昨日、太陽神神殿で聞いていた。


それでも、本人の口から聞くと、重みが違った。


「では、本当に」


「はい」


グレゴールは、セリアをまっすぐ見た。


「今の私は、ルミナ教の信徒です」


周囲の子供達は、それを不思議がる様子もなく聞いている。


その自然さが、セリアにはかえって恐ろしかった。


「インティ様を、捨てられたのですか」


セリアの声は硬かった。


グレゴールは怒らなかった。


だが、その目が少しだけ厳しくなる。


「捨ててはおりません」


「では、なぜ」


「敬意はあります。感謝もあります。私が太陽神教の神官として生きた日々は、偽りではありません」


グレゴールは胸元に手を当てた。


そこには、かつて太陽神の聖印があったのだろう。


今は、月を象った簡素な印が下げられていた。


「ですが、信仰はすでに移しました」


「なぜ、ルミナ教に」


セリアは問う。


グレゴールは、何も迷わず答えた。


「エミリア様が、ルミナ様を信じておられるからです」


沈黙が落ちた。


風が通り過ぎる。


子供達の何人かは、また始まった、というように顔を見合わせた。


だが、誰も笑わない。


誰も馬鹿にしない。


ただ、慣れている。


そんな空気だった。


セリアは、ようやく声を絞り出す。


「……それが、理由なのですか」


「はい」


「それだけで?」


「それ以上の理由が必要でしょうか」


グレゴールの声は、あまりにも真面目だった。


冗談ではない。


皮肉でもない。


本気でそう思っている。


「私は、ルミナ様を信じております」


グレゴールは続けた。


「なぜなら、エミリア様がルミナ様を信じておられる」


「そして私は、エミリア様を信じております」


「何も矛盾はありません」


セリアは言葉を失った。


矛盾しかない。


少なくとも、セリアにはそう聞こえた。


だが、グレゴールの顔には一点の曇りもない。


「初めてお会いした時」


グレゴールは静かに言った。


「私は、神を見ました」


セリアの背筋が強張る。


「エミリア女王に?」


「はい」


「女王を、神だと?」


「いいえ」


グレゴールは首を振った。


「エミリア様は神ではありません」


セリアはわずかに安堵しかけた。


だが、その安堵は次の言葉で消えた。


「神のごとく尊いお方です」


セリアは頭痛を覚えた。


「……それは、ほとんど同じ意味では」


「違います」


グレゴールは即答した。


「神性とは、必ずしも神そのものにのみ宿るものではありません」


「いえ、そういう話では」


「セリア神官」


グレゴールの声は穏やかだった。


「これは大切なところです」


セリアは嫌な予感を覚えた。


「大切なところ」


「はい」


グレゴールは大きな手で、手元の教本を閉じた。


「エミリア様を理解するには、まず“神性”とは何かを考えねばなりません」


「私は今、その議論を」


「次に、“救い”とは何か」


「グレゴール様」


「そして、“悪”とは何か」


「待ってください」


「その上で、エミリア様がこの国に何を為されたのかを順に確認いたしましょう」


子供達の一人が、小さく囁いた。


「校長先生、長くなるやつだ」


別の子供が真剣な顔で頷く。


「エミリア様のお話だからね」


セリアはそれを聞いて、さらに不安になった。


グレゴールは、セリアを責めているわけではない。


怒鳴ってもいない。


脅してもいない。


だが。


この人は、終わらせる気がない。


セリアが理解するまで。


納得するまで。


あるいは、少なくとも一通り聞き終えるまで。


この説法は続く。


「グレゴール様」


セリアは慎重に言葉を選んだ。


「私は、エミリア女王を侮辱するために来たのではありません」


「それは良いことです」


グレゴールは穏やかに頷いた。


「理解しようとする姿勢は、学びの第一歩です」


「まだ理解するとは言っていません」


「ええ。ですから、これから学べばよいのです」


あまりにも自然に言われ、セリアは返す言葉を失った。


それは本来、優しい言葉のはずだった。


だが、セリアには終わらない授業への招待状のように聞こえた。


「学びは救いです」


グレゴールは微笑んだ。


「急ぐ必要はありません。時間をかけて学びましょう」


周囲の子供達は、慣れた様子で少し距離を取った。


セリアは、心の中で太陽神インティの名を呼んだ。


助けは来なかった。


「まず、エミリア様は自らを悪と名乗られます」


グレゴールは語り始めた。


「しかし、悪とは何でしょう」


「他者を虐げることか」


「奪うことか」


「支配することか」


「では、飢えた者を放置する正義は、悪ではないのか」


「無知のまま祈らせるだけの善は、本当に善なのか」


セリアは答えられない。


グレゴールの言葉は熱を帯びている。


だが、内容は支離滅裂ではない。


むしろ筋が通っている。


だからこそ厄介だった。


「エミリア様は、民を下僕と呼ばれます」


グレゴールは言った。


「ですが、その下僕に水を与え、食を与え、仕事を与え、学びを与えようとしておられる」


「使えぬ駒はいらないと仰るでしょう」


「しかし、使えるように育てる」


「無知な者を笑うのではなく、学ばせる」


「弱い者を捨てるのではなく、立てるようにする」


グレゴールの目が、静かに輝いていた。


「私は、その御姿に神を見たのです」


セリアは息を呑んだ。


この人は、狂っているのか。


そう思いたかった。


だが、目の前の男は、狂人には見えなかった。


子供を教え、弱者を助け、学びを救いと説く。


神官として、教育者として、あまりにも正しい。


ただ一点。


エミリアの名が出た瞬間だけ、全てがおかしくなる。


「王都の外には、まだ救われぬ村があります」


グレゴールは静かに言った。


セリアの胸が、わずかに強張った。


自分が見た村の光景が、脳裏をよぎる。


飢えた人々。


濁った水。


病人。


疲れ切った顔。


あれは、確かに現実だった。


だが、グレゴールはその村の名を口にしない。


彼は、セリアがどこを見たのかを知らない。


ただ、この国にまだ救われぬ場所があることを知っているだけだった。


「王都が変わり始めたからといって、王国全てが救われたわけではありません」


グレゴールは言った。


「そこを見誤ってはなりません」


「ならば、なおさら」


セリアは言った。


「悪の女王などと名乗る者を信じてよいのですか」


グレゴールは、深く頷いた。


「よい問いです」


セリアは目を瞬かせた。


責められると思っていたわけではない。


だが、あまりにも自然に授業のような反応をされたため、一瞬言葉に詰まった。


「その疑問は大切です」


グレゴールは穏やかに続ける。


「信仰とは、疑問を持たぬことではありません」


「問い、考え、それでもなお信じることです」


「ですから、セリア神官」


グレゴールはにこりと笑った。


「今の問いについて、一つずつ考えていきましょう」


セリアは悟った。


この人は怒らない。


少なくとも、この場では。


エミリア女王を疑われても、声を荒げない。


ただ、問いとして受け止める。


そして、その問いに答えるために、どこまでも説く。


分かるまで。


終わることなく。


物理で叩き伏せるのではない。


信仰と理屈と実例と情熱で、相手が目を逸らせなくなるまで話し続ける。


それが、グレゴールという神官なのだ。


「私は、まだ貴方を理解できません」


セリアは静かに言った。


「それで構いません」


グレゴールは頷いた。


「ルミナ教も認められません」


「それも、貴方の信仰です」


「エミリア女王を信用することもできません」


「急ぐ必要はありません」


グレゴールは、建設現場の方を示した。


「ただ、見てください」


「この国が何を失い、何を得ようとしているのか」


「何を壊し、何を築こうとしているのか」


「何を救い、何をまだ救えていないのか」


「そして」


グレゴールの声に、わずかな熱が戻る。


「エミリア様が、どれほど美しくこの国を作り替えようとしておられるのか」


やはり最後はそこに戻る。


セリアは、深く息を吐いた。


納得したわけではない。


救われたわけでもない。


むしろ、疑問はさらに増えた。


だが、少なくとも。


グレゴールを、ただ堕落した神官と断じることはできなかった。


「今日の授業はここまでです」


グレゴールが子供達へ告げた。


子供達が声を上げる。


「えー」


「もう少し!」


「明日もあります」


グレゴールは厳格な顔のまま言った。


「学びは逃げません。ですが、腹が空いては文字も頭に入りません。食事へ行きなさい」


子供達は笑いながら立ち上がった。


近くの炊き出し場へ向かう者。


家族のもとへ走る者。


建設現場を興味深そうに眺める者。


散っていく子供達の背を、グレゴールは静かに見送った。


セリアもまた、その背を見ていた。


邪神神殿。


そう呼ぶには、あまりにも人の生活に近い。


正しい神殿。


そう呼ぶには、あまりにも理解が追いつかない。


その日の夜。


セリアは客室で調査記録を開いた。


筆を持つ手は、しばらく動かなかった。


やがて、ゆっくりと書き始める。


【神官セリア調査記録 五日目】


ルミナ教神殿建設予定地を訪問。


想定していた邪教儀式場のような様子は確認できず。


現地では大規模な建設作業が行われていた。


礼拝堂のみならず、病人を受け入れる部屋、子供達の生活区画、薬品庫、調理場、洗い場、採光、換気、上下水道と思われる設備が図面に含まれている模様。


神殿というより、救護施設、教育施設、生活支援施設を兼ねた複合施設に近い。


現場では「マルタ姉御」と呼ばれる女棟梁が指揮を取っていた。


詳細不明。


胸元に青薔薇の意匠。


同じく青薔薇をつけた美しい女性が、同じ図面を見て協議していた。


青薔薇の意味は不明。


職人達は恐怖ではなく敬意をもって従っているように見えた。


元太陽神教神官長グレゴールと面会。


本人は、すでに太陽神教の神官ではなく、ルミナ教の信徒であると明言。


太陽神インティへの敬意や感謝は失っていない。


しかし、信仰はすでに移したとのこと。


改宗理由は「エミリア様がルミナ様を信じておられるから」。


本人は完全に真面目であり、矛盾を感じていない模様。


大柄で厳格な人物。


周囲の子供達は怯えておらず、深い信頼を寄せている様子。


教育者としての力量は極めて高い。


グレゴールは、子供達や民へ文字、数、衛生、水の扱い、考える力などを教えている。


教育理念は「学びは救い」。


内容自体は極めて正当。


邪悪なものとは断じ難い。


ただし、説法中に高確率でエミリア女王の話が混ざる。


ルミナ教の説法であるはずなのに、中心にエミリア女王がいるように聞こえる。


重大な違和感あり。


グレゴールの発言。


「学びは救いです」


「初めてお会いした時、私は神を見ました」


「エミリア様は神ではありません。神のごとく尊いお方です」


「私は、ルミナ様を信じております。なぜなら、エミリア様がルミナ様を信じておられる。そして私は、エミリア様を信じております。何も矛盾はありません」


「信仰とは、疑問を持たぬことではありません。問い、考え、それでもなお信じることです」


「急ぐ必要はありません。時間をかけて学びましょう」


セリアは筆を止めた。


時間をかけて学びましょう。


それは本来、神官としても教育者としても、正しい言葉のはずだった。


だが、グレゴールが言うと、逃げ場のない授業の始まりのように聞こえる。


セリアは、オショ、クージ、ケンに案内された村を思い出す。


飢えた人々。


濁った水。


病人。


絶望。


あれは現実だった。


そして今日見た、学ぶ子供達も現実だった。


建設中の神殿も現実だった。


水路や洗い場や病室を含む図面も現実だった。


その全てが、同じ国の中にある。


セリアは調査記録の最後に、こう書き加えた。


この国は、邪悪である。


少なくとも、太陽神教の神官である私にとって、ルミナ教国教化は看過できない。


だが、この国で行われている全てを邪悪と断じることは、もはやできない。


グレゴールは人格者である。


教育者としても神官としても優れている。


子供達を救い、学びを与え、弱者を見捨てようとしていない。


だが、エミリア女王の話になると、何かが決定的におかしい。


堕落した神官ならば、まだ断じられた。


愚かな狂信者ならば、まだ拒めた。


しかし、目の前にいたのは人格者であり、教育者であり、そして完全にエミリア女王を信じ切ったルミナ教の教祖だった。


理解が追いつかない。


継続調査が必要。


そこまで書いて、セリアは筆を置いた。


窓の外では、今日も王都の灯りが揺れている。


火ではない光。


神聖魔法でもない光。


悪の女王の国に灯る、奇妙な光。


セリアにはまだ、その光を何と呼べばよいのか分からなかった。


ただ一つだけ、分かったことがある。


この国を理解するには、まだ足りない。


怒りだけでは足りない。


信仰だけでも足りない。


疑いだけでも足りない。


もっと見なければならない。


それが、今のセリアにとって、何よりも苦しい答えだった。


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