ローゼンバーグ王国 視察1日目
視察と言う名のローゼンバーグ王国改善後の情景です
セリアが案内されたのは、王城の客室だった。
謁見の間を出てから、ルミは余計なことを何も言わなかった。
弁解も。
説明も。
女王エミリアの擁護も。
ただ静かに廊下を進み、必要な場所だけを淡々と示していく。
それが、かえって不気味だった。
悪の女王を主とする侍女ならば、もっと女王を讃えるものだと思っていた。
あるいは、こちらを牽制するものだと思っていた。
だが、ルミは違う。
微笑み。
案内し。
必要な時だけ言葉を発する。
それだけだった。
「こちらが、セリア様にご用意したお部屋でございます」
扉が開かれる。
中は、思っていた以上に整っていた。
広すぎるほどではない。
だが、十分に広い。
寝台には清潔な布が掛けられ、窓には見たことのない質感の厚いカーテンが垂れている。
床には柔らかな絨毯。
机。
椅子。
水差し。
洗面台。
壁には、ランプのようなものが取り付けられていた。
セリアは、思わず足を止める。
「……綺麗ですね」
それは、率直な感想だった。
同時に、胸の奥に苦いものが広がる。
セリアが見た村では。
家は傾き。
水は濁り。
病人は寝床も満足に与えられず。
子供は痩せ細っていた。
それなのに、この城の中はあまりにも整っている。
あまりにも清潔で。
あまりにも便利そうだった。
「何か不都合がございましたか?」
ルミが尋ねる。
「いえ」
セリアは首を振った。
「……十分すぎるほどです」
「それは何よりでございます」
ルミは静かに頭を下げる。
その所作に乱れはない。
美しい。
だが、その美しささえ、今のセリアには疑わしく見えた。
民が苦しむ国で、城の中だけがこれほど整えられている。
それは、王の贅沢ではないのか。
民から吸い上げたものを、女王の周囲だけで使っているのではないか。
そう思わずにはいられなかった。
「お疲れでしょう。まずは手をお洗いください」
ルミが洗面台を示す。
セリアは言われるまま近づいた。
陶器のような白い器。
その上には金属の管がある。
水差しは横にある。
けれど、器の上の管が気になった。
「これは?」
「水栓でございます」
「すいせん?」
「はい。こちらをひねっていただければ、水が出ます」
「……ひねる?」
セリアは怪訝に思いながら、金属の取っ手に手をかけた。
軽く回す。
次の瞬間。
管の先から、透明な水が流れ出した。
「っ」
思わず手を引く。
水は器の中へ落ち、細い流れとなって排水口へ吸い込まれていく。
セリアは目を見開いた。
「……水が」
「はい」
「今、出ました」
「はい」
「どこから?」
「水道でございます」
ルミは当然のように答えた。
セリアは、しばらく言葉を失った。
外の村では、水を得ることすら困難だった。
井戸は枯れかけ、桶の底に濁った水が残るだけ。
それを、病人も子供も分け合っていた。
なのに。
この城では、金属の取っ手をひねるだけで清水が出る。
しかも、使い終えた水はそのまま流れていく。
「……止めても?」
「はい。反対に回していただければ」
セリアは慌てて取っ手を戻した。
水は止まる。
当たり前のように。
何事もなかったかのように。
セリアは、しばらくその管を見つめていた。
便利だ。
間違いなく便利だ。
だが、その便利さが今は恐ろしかった。
「……この城では、いつもこのように水を?」
「必要な場所には通しております」
「必要な場所……」
その言葉が、胸に引っかかる。
必要。
ならば、あの村は必要ではないのか。
あの子供達は。
病人達は。
水を求める者達は。
セリアは唇を引き結んだ。
まだ判断してはいけない。
そう自分に言い聞かせる。
自分は調査に来たのだ。
怒りに流されてはならない。
けれど、胸の奥の違和感は消えなかった。
その後、ルミは部屋の設備を一通り説明した。
寝具。
呼び鈴。
洗面。
湯の用意。
そして、最後に。
「お手洗いは、廊下の奥にございます」
そう言って、ルミは客室の外へ出た。
セリアは少しだけ眉を寄せる。
「部屋の外に?」
「はい。来賓の方々にお使いいただく区画のものです。王城内には、同じようなものが何か所か設けられております」
「……何か所も?」
「はい」
ルミは当然のように頷いた。
客室から少し歩いた先。
廊下の奥まった場所に、小さな扉があった。
その内側は、セリアの知る厠とはまるで違っていた。
臭いがほとんどない。
床は清潔に磨かれ、壁も白く整えられている。
奥には、見慣れない白い器具があった。
椅子のようにも見える。
だが、椅子ではない。
「……これは?」
「お手洗いでございます」
「いえ、それは聞きました」
セリアは眉を寄せる。
「これを、どう使うのですか?」
ルミは実に丁寧に説明した。
丁寧すぎて、セリアはかえって気まずくなった。
だが、旅の途中でもある。
必要なものは必要だ。
説明を受け、セリアは何とか使い方を理解する。
そして最後に、ルミは小さな取っ手を示した。
「使用後は、こちらを動かしてください」
「こちらを?」
「はい。水が流れます」
「水が」
また水。
セリアはその言葉に、嫌な予感を覚えた。
だが、使わないわけにもいかない。
しばらく後。
セリアは教えられた通りに取っ手を動かした。
直後。
ごう、と音を立てて水が流れた。
「っ!?」
思った以上の勢いだった。
白い器の中で水が渦を巻き、汚れを呑み込んで消えていく。
同時に、跳ねた水がセリアの手元に少しかかった。
「なっ……!?」
セリアは飛び退いた。
心臓が跳ねる。
思わず聖印へ手を伸ばしかける。
何かの罠かと思った。
浄化の魔道具か。
邪神の術式か。
それとも水を使った奇妙な処刑装置か。
慌てて扉を開けると、廊下で待っていたルミが穏やかに首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
「水が」
「はい」
「流れました」
「はい。正常に作動しております」
「水が、勢いよく」
「はい」
「少しかかりました」
「それは申し訳ございません。取っ手を強く動かしすぎたのかもしれません」
ルミはまったく動じない。
セリアは何も言えなかった。
正常。
正常とは何なのか。
厠で大量の水を流すことが正常なのか。
外では水に困る者がいるというのに。
この城では、汚物を流すためだけにこれほどの水を使うのか。
「……水を」
セリアは、かすれた声で言う。
「これほど使うのですか」
「はい」
ルミは静かに答えた。
「清潔を保つためでございます」
「清潔……」
「汚れを残せば、臭気や病の原因となりますので」
病。
その言葉に、セリアは反応する。
確かに、不潔は病を招く。
神殿でも衛生の重要性は教えられている。
だが、それでも。
村で見た濁った水の記憶が、頭から離れない。
清潔のため。
病を減らすため。
理屈は分かる。
だが、心が納得しない。
セリアは黙り込んだ。
ルミは何も言わない。
ただ、替えの布を静かに差し出した。
その後、セリアは城内を少し案内された。
廊下は清潔だった。
窓は磨かれている。
壁にかかった布や飾りは華美すぎないが、どれも質が高い。
足元の絨毯は柔らかく、踏むと音を吸い込む。
「……この絨毯は、どこの産ですか?」
セリアは思わず尋ねた。
帝国の貴族の屋敷でも、ここまで肌触りの良いものはそう多くない。
「王都の裁縫ギルドが納めたものと聞いております」
「王都の?」
「はい」
セリアは絨毯を見る。
織りが細かい。
色も深い。
薔薇の模様が浮かぶように入っている。
カーテンも同じだった。
厚手なのに重すぎず、光を柔らかく遮る。
見たことのない布。
見たことのない織り。
これほどのものを、王都の職人が作っているというのか。
だが、もしそうだとしても。
その技術は、なぜ城のために使われているのか。
外では服も足りない者がいるのに。
疑念は増えるばかりだった。
廊下の壁には、火の灯っていない照明があった。
ランプではない。
蝋燭でもない。
魔法陣も見えない。
しかし、柔らかな光が灯っている。
セリアは足を止めた。
「これは……神聖魔法ではありませんね」
「はい」
「魔道具ですか?」
「そのようなものとお考えいただければ」
ルミは曖昧に答える。
「詳しくは、クロエ様がお詳しいかと」
「クロエ様」
謁見の間で見た金髪の少女を思い出す。
眼鏡をかけ、書類を抱えていた少女。
エミリアの傍に控えていた魔導師。
そして。
城の奥にある立入禁止区域。
セリアの中で、いくつかの点が繋がる。
「そのクロエ様の研究室は、どちらに?」
ルミは少しだけ微笑んだ。
「城の奥にございます」
「案内していただけますか?」
「本日はお勧めいたしません」
即答だった。
セリアは眉をひそめる。
「なぜですか?」
「危険ですので」
「危険」
「はい」
「何が行われているのですか?」
「研究でございます」
「何の研究ですか?」
「日によります」
まただ。
この城の者達は、時々あまりにも当然のように不穏なことを言う。
日による危険な研究。
立入禁止区域。
火ではない照明。
水を自在に流す設備。
セリアの中で、疑念がさらに濃くなる。
邪神の儀式。
禁忌の魔術。
人を変えるという、あのイミタート。
それらと関係があるのではないか。
「……後日、確認させていただきます」
「エミリア様のご許可があれば」
ルミは静かに答えた。
その後、夕食が運ばれた。
セリアは食卓を前にして、また言葉を失った。
皿の上には、見慣れない料理が並んでいる。
柔らかく煮込まれた肉。
香草の香りがする温かいスープ。
白く柔らかなパン。
色鮮やかな野菜。
その野菜には、白く艶のある奇妙なソースがかけられていた。
そして最後に、小さな器に入った淡い黄色の菓子。
表面はつややかで、匙を入れれば崩れてしまいそうなほど柔らかい。
どれも、神殿の保存食とはまるで違う。
旅の途中で食べた硬いパンや薄いスープとも違う。
「……これは?」
セリアは、野菜にかかった白いソースを見つめた。
「マヨネーズでございます」
ルミが答える。
「まよねーず」
聞き慣れない響きだった。
「卵と油、酢を合わせた調味料でございます。リン様の協力により、卵の衛生管理が安定してきたため、最近になって城の食卓へ出せるようになりました」
「卵を……生で?」
セリアの声が少し強張る。
卵は扱いを誤れば腹を壊す。
神殿でも、古い卵や保存状態の悪い卵には注意するよう教えられている。
それを調味料にするなど、普通なら危険に思えた。
「はい。もちろん、管理されたもののみを使用しております」
ルミは平然と言った。
「リン様が確認された卵でございますので、ご安心ください」
リン。
あの白衣姿の少女。
前髪で目元を隠した、静かな医療担当。
謁見の間で、エミリアの傍に控えていた少女。
彼女の名を聞き、セリアは少しだけ黙った。
毒ではない。
少なくとも、そういうものではないのだろう。
セリアは警戒しながら、野菜を少し口に運んだ。
「……」
酸味。
油のまろやかさ。
卵の濃厚な味。
野菜の青臭さを包み込み、まるで別の料理のように変えている。
美味しい。
悔しいほどに。
セリアは、思わず野菜を見下ろした。
同じ野菜でも、調味料一つでこれほど変わるのか。
だが、だからこそ胸がざわつく。
外では、食べ物を選ぶどころではない者達がいた。
食べられるだけでありがたい者達がいた。
それなのに、城の中では野菜にまでこのような工夫が施されている。
次に、淡い黄色の菓子へ視線を向ける。
「こちらは?」
「プリンでございます」
「ぷりん」
「エミリア様が、どうしても食べたいと仰いまして」
ルミは、ほんの少しだけ微笑んだ。
「卵の管理が安定したため、試作が可能になった菓子でございます」
セリアは匙を入れる。
柔らかい。
震えるように揺れた。
口へ運ぶ。
その瞬間、甘さと卵の香りが舌の上でほどけた。
なめらかで。
優しく。
今まで食べたどんな菓子とも違う。
セリアは思わず動きを止める。
「……おいしい」
小さく漏れた声に、自分で驚いた。
外では飢えている者がいる。
病で食べることすら難しい子供がいる。
それなのに。
王城の中では、こんな料理が当たり前のように出される。
セリアはプリンをもう一口食べた。
そして、自分で自分に腹が立った。
美味しいと思ってしまったからだ。
夕食を終えた後、セリアは部屋へ戻った。
窓の外には、王都の夜が広がっている。
王城の周辺には、火ではない光が灯っていた。
静かで。
清潔で。
美しく。
あまりにも、村の夜とは違っていた。
机に向かい、セリアは調査記録を開く。
筆を取り、今日見たものを書き留めていく。
ひねると水が出る管。
来賓区画に設けられた、水を流す厠。
火ではない照明。
見たことのない布。
卵と油を合わせた調味料。
エミリア女王が食べたがったという菓子。
危険な立入禁止区域。
書き進めるほど、胸の奥が重くなる。
王城の中だけが、あまりにも豊かすぎる。
水も。
光も。
食事も。
布も。
外の村で見た惨状と、あまりにも違いすぎる。
やはり、この国はおかしい。
そう結論づけようとして。
セリアの筆が止まった。
城で働く者達の顔を思い出した。
ルミ。
廊下ですれ違った使用人。
食事を運んできた侍女。
掃除をしていた若い使用人。
誰も、怯えていなかった。
緊張はある。
規律もある。
だが、恐怖に押し潰された顔ではない。
暴君の城で働く者の顔ではない。
それが、どうしても引っかかった。
セリアは窓の外を見る。
闇の中、王城の灯りが静かに揺れている。
火ではない光。
邪神の技術かもしれない光。
けれど、確かに夜を照らす光。
「……分かりません」
セリアは小さく呟いた。
その声は、誰にも届かない。
調査一日目。
セリアの疑念は、深まった。
同時に。
ほんの小さな違和感も、胸の奥に残り始めていた。
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