神殿からの使者 ④
セリアは、静かに息を吸った。
そして、謁見の間に立ったまま、自分が見てきたものを語り始めた。
荒れた村。
枯れかけた井戸。
痩せた人々。
休むこともできず働く者達。
病で動けなくなった者。
怪我をしたまま放置されている者。
そして。
自分の奇跡では救いきれなかった少年のこと。
言葉にするたびに、胸の奥が熱くなっていく。
「私は見ました」
「この国の民が飢えている姿を」
「病に苦しみ、それでも助けも届かず、ただ衰えていく姿を」
「子供が、立ち上がることすらできなくなっている姿を」
セリアは、玉座のエミリアを見据える。
「それでも貴方は、自分の民が楽しそうにしていると言うのですか」
「悪を名乗り」
「邪神を信奉し」
「民の苦しみから目を逸らしているのではありませんか」
謁見の間に、静かな緊張が落ちる。
クロエは書類を抱えたまま固まっていた。
リンは、前髪で目元を隠したまま、わずかに顔を上げている。
セバスは表情を変えない。
ルミは静かに微笑んでいる。
エミリアだけが、少しも動じていなかった。
怒るでもなく。
焦るでもなく。
ただ、セリアの言葉を聞いていた。
やがて、エミリアは小さく目を細める。
「……村」
そう呟くと、指先で玉座の肘掛けを軽く叩いた。
「枯れかけた井戸」
「荒れた畑」
「病人と怪我人」
「立ち上がれない子供」
「王都から外れた村」
エミリアは、何かを探すように沈黙した。
その目は、セリアを見ているようで、どこか別のものを見ているようだった。
記憶。
報告。
地形。
旧領主の管理範囲。
街道整備の進行状況。
支援物資の到達予定。
エミリアは、それらを頭の中で照合していた。
だが、セリアにはそんなことは分からない。
玉座の上で黙り込む姿は、まるで興味のない村の話を聞かされ、思い出そうとしているだけに見えた。
エミリアは、ようやく口を開く。
「それは、この国のどこの村の話かしら」
「覚えていないから、恐らく西方外れの旧領地の方だと思うのだけれど」
その言葉に。
セリアの中で、何かが切れた。
「この国全体のことを言っているのです!」
声が響いた。
謁見の間の使用人達が、わずかに息を呑む。
セリアは拳を握る。
「貴方は、本当に分かっていないのですか」
「民は苦しんでいます」
「飢えています」
「病に倒れています」
「子供が助けを求めています」
「それを、どこの村かなどと」
「まるで一つ二つの例外であるかのように」
エミリアは首を傾げた。
「例外かどうかを確認しているのよ」
「確認?」
「そうよ」
エミリアは淡々と言う。
「私の把握している範囲では、王都周辺の炊き出しは継続している」
「街道整備も進めている」
「診療所への搬送経路も作らせている」
「食糧支援の優先順も組んでいる」
「全てが届いているとは言わないわ」
「けれど、貴方が言うほど全域が同じ状態なら、報告そのものが崩れていることになる」
セリアは唇を噛んだ。
「報告?」
「現実を見ずに、紙の上だけで語るのですか」
「現実を見るために、場所を聞いているのだけれど」
「場所など問題ではありません」
「問題よ」
エミリアの声が、少しだけ冷えた。
「どこで」
「誰が」
「何を止めて」
「何を奪い」
「何を隠しているのか」
「それが分からなければ、叩き潰せないでしょう?」
セリアは一瞬、言葉を失った。
叩き潰す。
その言い方は、あまりにも悪の女王らしかった。
しかし、その意味は。
民を苦しめている原因を潰す、ということにも聞こえた。
だが、セリアの胸の中には、まだ村の光景が焼き付いている。
痩せた人々。
病の少年。
泥を被った男の証言。
だから、エミリアの言葉をそのまま受け取ることはできなかった。
「貴方の支配が、その苦しみを生んでいるとは考えないのですか」
「考えるわ」
エミリアは即答した。
「私の命令が失敗している可能性」
「下が無能な可能性」
「誰かが横流ししている可能性」
「古い支配者がまだ何かを隠している可能性」
「貴方が見せられたものが、切り取られた一部である可能性」
「全部考える」
セリアが目を見開く。
エミリアは、つまらなそうに続けた。
「だから聞いているのよ」
「貴方はこの国の何を見て」
「何を知ったのかしら」
「村の名は?」
「案内した者は?」
「そこへ行くまでの道は?」
「どれほどの距離を移動したの?」
「誰から話を聞いたの?」
「誰が施しを止めたの?」
セリアの脳裏に、三人の神官の姿が浮かぶ。
オショ。
クージ。
ケン。
敬虔な神官達。
苦しむ民を見せてくれた者達。
だが、同時に。
食料を配ることを止めた者達でもあった。
セリアは、ほんの一瞬だけ言葉に詰まる。
けれど、その疑念はすぐに怒りに塗り潰された。
「彼らは、太陽神の信徒として苦しむ民に寄り添っていました」
「少なくとも、玉座に座っている貴方よりは」
クロエが、びくりと肩を揺らした。
リンが、静かに顔を上げる。
長い前髪の隙間から、ほんの一瞬だけ片目が覗いた。
だが、エミリアが軽く指を動かすと、リンはそれ以上何もしなかった。
エミリアは、セリアを見下ろす。
「話し合いにならないわね」
声は静かだった。
だが、そこには確かな不快感があった。
「貴方は、怒っている」
「見てきたものに心を揺らされている」
「それ自体は悪くないわ」
「けれど、その状態で国全体を語られても困るの」
セリアは反論しようとする。
だが、エミリアの言葉が先に続いた。
「でも」
「確かに、この国には貴方が言ったような村があるのは間違いなさそうね」
謁見の間の空気が変わる。
エミリアの赤い瞳が、細くなる。
「私の下僕が」
「私以外に使い潰されるなんて」
「許せないわ」
その声は、冷たかった。
先ほどまでの芝居がかった悪の女王ではない。
本気で、不快に思っている声だった。
セリアは戸惑う。
民を下僕と呼んだ。
だが、その民が使い潰されることを許せないとも言った。
その矛盾が、セリアには理解できなかった。
エミリアは、玉座から立ち上がる。
「やることが出来たわ」
「話し合いは以上よ」
「立ち去りなさい」
「お待ちください」
セリアは一歩前に出る。
「まだ話は終わっていません」
「終わったわ」
「貴方はこの国の民が苦しんでいると訴えた」
「私は調べると決めた」
「それ以上、今ここで話すことはない」
「ですが」
「貴方の納得は、私の予定に含まれていないの」
エミリアは冷たく言い切る。
「暇ができたら、もう一度相手をしてあげるわ」
「それまで、この国を見るなり、祈るなり、好きにしなさい」
セリアは唇を噛んだ。
屈辱だった。
話を途中で打ち切られた。
こちらの怒りも、祈りも、訴えも。
すべて、予定にないと言われた。
だが、同時に。
エミリアは調べると言った。
民を使い潰した何かを許さないと言った。
その言葉を、セリアはどう受け取ればいいのか分からなかった。
ルミが静かに一礼する。
「セリア様」
「お部屋へご案内いたします」
セリアはエミリアを見た。
玉座の前に立つ黒い女王。
常人とは思えない迫力を纏い。
悪を名乗り。
神の秩序を笑い。
それでも、民の苦しみを放置するつもりはないように見える者。
分からない。
この女王が分からない。
だからこそ。
セリアは、ここで立ち去るわけにはいかないと思った。
「……分かりました」
セリアは静かに頭を下げた。
「ですが、私はこの国を見届けます」
「太陽神インティの聖女として」
「神託に従い、真実を見極めます」
エミリアは、わずかに笑った。
「好きにしなさい」
「この国では、それを許しているわ」
セリアは、もう一度だけエミリアを見た。
そして、ルミに案内され、謁見の間を後にする。
扉が閉まる。
その瞬間、セリアは静かに息を吐いた。
怒りは消えていない。
疑念も消えていない。
むしろ、さらに深くなった。
だが。
あの女王を、ただの邪悪として断じるには。
何かが噛み合わない。
「……もう一度、調べなければ」
セリアは呟いた。
自分の目で。
自分の足で。
誰かに見せられたものではなく。
この国の真実を。
こうして、太陽神の聖女セリアは、ローゼンバーグ王国への逗留を決めた。
そして。
彼女自身の再調査が、静かに始まることになる。
◇
扉が閉まる。
セリアの足音が遠ざかり、謁見の間に静寂が戻った。
重い沈黙。
それを最初に破ったのは、クロエだった。
「興味深いですね」
眼鏡の奥の瞳が、すっと細められる。
その声は冷静だった。
だが、そこには確かな不快感が混じっていた。
「観察範囲は限定的」
「情報源は偏っている」
「裏取りも不十分」
「にもかかわらず、国家全体への評価を確定させている」
クロエは抱えていた書類を片腕で抱き直す。
「典型的な誤認識の形成過程です」
「記録しておく価値はあります」
一拍置いて。
その声が、少しだけ冷たくなった。
「ただし、エミリア様へ向ける態度としては不快です」
その隣で、リンが静かに俯いていた。
白衣姿の少女。
長い前髪が目元を覆っており、その表情は見えない。
だが、肩がわずかに震えていた。
「……エミリア様は」
小さな声が落ちる。
「ちゃんと考えてるのに」
声は穏やかだった。
けれど、震えている。
怒りを堪えている声だった。
「村の人達を見て怒ったのは分かります」
「苦しんでいる人を見て、許せないと思ったのも分かります」
「でも」
リンが、ゆっくりと顔を上げる。
長い前髪が揺れた。
その隙間から、片目だけがちらりと覗く。
普段は見えない瞳。
その奥には、冷たい光があった。
「エミリア様を、あんなふうに言うなんて」
「ボクは、許せません」
謁見の間の空気が、わずかに張り詰める。
リンは優しい。
穏やかで、患者や子供にはどこまでも柔らかい。
けれど、エミリアに向けられる敵意だけは別だった。
前髪の奥から覗いたその片目は、慈愛の白薔薇のものではない。
主を侮辱された忠犬の目だった。
「やめなさい」
エミリアの声が響いた。
クロエとリンが、同時に口を閉ざす。
エミリアは玉座に座ったまま、軽く指を立てる。
その仕草だけで、二人の怒りを制した。
「貴方達が怒ることではないわ」
「ですが」
リンが言いかける。
エミリアは、静かに首を振った。
「あの子は、間違ったことは言っていないわ」
リンが息を呑む。
クロエも、わずかに眉を動かした。
エミリアは、先ほどまでセリアが立っていた場所を見る。
そこにはもう誰もいない。
けれど、エミリアの赤い瞳は、まだその姿を見ているようだった。
「飢えた民がいた」
「病人がいた」
「助けを求める子供がいた」
「それを見て怒った」
「なら、その怒りそのものは正しいわ」
淡々とした声だった。
優しさではない。
同情でもない。
ただ、事実として認めている。
「それに」
エミリアは、頬に指を添える。
「私の支配下で、そんなものを見せられた時点で、管理に穴があるのは事実よ」
「そこは私の落ち度ね」
リンが、わずかに顔を上げる。
エミリアは面白くなさそうに息を吐いた。
「美しくないわ」
「私の国なのに」
「私の支配が届かない場所がある」
「私の知らないところで、勝手に腐っている場所がある」
「そういうのは、とても気に入らない」
クロエが小さく頷いた。
「管理不全の発生源は特定すべきですね」
「ええ」
エミリアは頷く。
「ただ、あの子も下手だったわ」
「見せられたものを、見せられたまま信じた」
「怒りに引きずられて、情報の出所を疑わなかった」
クロエが少しだけ目を輝かせる。
「非常に興味深い事例です」
「人間は感情負荷が高い状態だと、検証能力が著しく低下する」
「さらに権威を持つ案内人が同行していた場合、提示された情報を現実全体と誤認しやすい」
「つまり、あの聖女様は実験対象として――」
「クロエ」
「はい」
クロエは真顔で黙った。
だが、ほんの少し残念そうだった。
リンはまだ納得していない様子だったが、それでもエミリアの言葉に従い、前髪の奥の瞳を隠すように俯いた。
エミリアは、ふと口元を緩める。
「それに」
その声色が変わった。
甘く。
艶やかに。
少しだけ、陶酔を含んで。
「私に面と向かって、悪だの邪悪だのと言うなんて」
エミリアは、楽しげに赤い瞳を細めた。
「とても良いわ、あの子」
その瞬間。
謁見の間にいた者達の視線が、エミリアへ集まった。
黒を纏う女王は、心底楽しそうに微笑んでいた。
侮辱された者の顔ではない。
怒った者の顔でもない。
まるで、自分の望んでいた言葉をようやく聞けたかのような顔だった。
見る者を惹きつける、悪女の微笑み。
黒薔薇が甘い毒を含んで咲くような表情。
リンは一瞬だけ固まった。
クロエは眼鏡の位置を直す。
ルミだけが、いつも通り静かに微笑んでいた。
「最近の王都の民は、すぐに私を褒めるでしょう?」
エミリアは不満そうに言う。
「感謝だの」
「希望だの」
「救われただの」
「そういう受け取られ方ばかり」
「悪の女王としては、少し物足りなかったのよ」
「エミリア様」
リンが、どこか困ったように言う。
「悪の女王であることに、そこまでこだわらなくても」
「こだわるわ」
エミリアは即答した。
「美しくないもの」
「正義の味方扱いされる悪の女王なんて」
クロエが静かに頷く。
「分類上、矛盾しています」
「そうでしょう?」
エミリアは満足げに頷いた。
「だから、あの子は良いわ」
「私を悪と呼んだ」
「邪悪と疑った」
「真正面から責めた」
「怯えずに、怒りを持って」
エミリアの笑みが深くなる。
「実に良い」
リンはまだ少し不満そうだった。
だが、エミリアが楽しそうにしている以上、それ以上は言えない。
ただし。
前髪の奥に隠れた片目は、まだ少しだけ笑っていなかった。
エミリアは、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
その瞬間、空気が変わる。
先ほどまでの甘い陶酔は消えた。
残ったのは、女王の声だった。
「では」
黒いドレスの裾が、わずかに揺れる。
エミリアは赤い瞳を細め、謁見の間にいる者達を見渡した。
「悪の組織らしく行動するわ」
クロエの目が鋭くなる。
リンも顔を上げた。
ルミが静かに一礼する。
セバスは、何も言わずに待っていた。
エミリアは指先を軽く動かした。
「ルミ」
「はい、エミリア様」
「セリアを案内した神官達の名を確認しなさい」
「王都へ入るまでの経路」
「立ち寄った村」
「関わった神殿関係者」
「旧領主との繋がり」
「全部よ」
ルミは微笑んだまま頭を下げる。
「仰せのままに」
「クロエ」
「はい」
「簡易浄水器」
「移動用の魔導灯」
「携帯用の通信具」
「それと、村で使える最低限の水回りの調査道具を用意しなさい」
クロエは即座に頷いた。
「既存の試作品で対応可能です」
「ただし、通信具は安定性に難があります」
「使えるの?」
「使えます」
「壊れるの?」
「壊れる可能性はあります」
「どの程度?」
「使用者が説明書を読まない場合、七割」
「高いわね」
「説明書を読めば三割まで下がります」
「それでも高いわ」
クロエは、少しだけ目を輝かせた。
「だから実地試験の価値があります」
エミリアは半眼になる。
「人命救助に実地試験を混ぜるんじゃないわよ」
「では、支援活動に付随する耐久確認という扱いで」
「言い換えても同じよ」
「善処します」
その返答に、エミリアは小さく息を吐いた。
だが、止めはしなかった。
クロエは危険を理解している。
そして理解した上で、好奇心に負ける。
厄介だが、有用でもある。
エミリアは次に、リンへ視線を向けた。
「リン」
「はい」
リンの声は、先ほどまでとは違っていた。
怒りを押し込め、医療担当の声に戻っている。
「医療班を編成しなさい」
「病人」
「怪我人」
「子供」
「老人」
「優先順位は任せるわ」
「動ける者は動けるように」
「使える者は使える状態に戻しなさい」
「必要なら薬品も持っていって構わない」
「足りないものは、クロエとオルガに請求していいわ」
リンは胸に手を当て、深く頭を下げた。
「はい」
「ボクが診ます」
エミリアは小さく頷く。
「ただし、無理はしないこと」
「貴方まで倒れたら、私が困るわ」
リンの肩が、ぴくりと揺れた。
「……はい」
声が少しだけ柔らかくなる。
「ボクは、エミリア様の役に立ちます」
「期待しているわ」
その一言で、リンの空気が明らかに変わった。
前髪で表情は見えない。
だが、喜んでいることだけは誰にでも分かった。
エミリアは続ける。
「セバス」
「ここに」
老執事が静かに進み出る。
「回収が必要な病人や孤児が出た場合の受け入れ先を確保しなさい」
「一時的で構わないわ」
「清潔な寝床」
「水」
「食事」
「人手」
「最低限、使い物になる環境は整えておきなさい」
セバスは恭しく頭を下げた。
「承知いたしました」
「では、速やかに手配いたします」
「ハルトにも伝えなさい」
「道中の護衛と村周辺の治安確認」
「必要なら兵を動かしていいわ」
「ただし、無駄に民を怯えさせないように」
「かしこまりました」
エミリアは最後に、玉座の前へ一歩進んだ。
謁見の間に、静かな緊張が戻る。
「セリアが見たものは、恐らく事実よ」
「村はある」
「病人もいる」
「水に困っている者もいる」
「支援が届いていない場所もある」
エミリアの声が、低くなる。
「問題は」
「それが怠慢なのか」
「横流しなのか」
「古い支配者の置き土産なのか」
「それとも、誰かがあの子に見せるために選んだものなのか」
赤い瞳が、冷たく光った。
「どれでも構わないわ」
「私の支配に、勝手な穴を開けられるのは気に入らない」
クロエが静かに頷く。
リンの手が、白衣の袖を握る。
ルミは変わらぬ微笑みのまま、わずかに目を伏せた。
エミリアは口元に笑みを浮かべる。
それは先ほどの陶酔した笑みではない。
獲物を見つけた悪の女王の笑みだった。
「私の下僕を」
「私以外の誰かが使い潰すなんて」
赤い瞳が、謁見の間を射抜く。
「許せないわ」
感想いただけると嬉しいです




