神殿からの使者 ③
やがて、馬車が止まった。
扉が開く。
差し込んだ光に、セリアはゆっくりと顔を上げた。
そこにあったのは、ローゼンバーグ王城。
禍津神を国教とした国の中心。
そして。
悪の女王エミリアが待つ場所だった。
馬車を降りると、オショ、クージ、ケンの三人はそこで足を止めた。
「我々は、王都のインティ神殿へ報告に向かわねばなりません」
オショが深く頭を下げる。
「聖女様をお一人にするのは心苦しいのですが」
クージが申し訳なさそうに目を伏せた。
「王城内の案内は、城の者に任せるのが礼儀でございましょう」
ケンも続ける。
「どうか、お気をつけください」
セリアは三人を見た。
ここまで案内してくれた神官達。
敬虔で、苦しむ民のために心を痛めているように見えた者達。
彼らにも、彼らの務めがあるのだろう。
「分かりました」
セリアは静かに頷く。
「ここまでの案内、感謝します」
三人はもう一度頭を下げ、馬車から離れていった。
その背中を見送ってから、セリアは王城へ目を向ける。
白と金の神官衣を纏ったセリアは、胸元の太陽神インティの聖印へそっと手を添えた。
「真実を見極める」
そう、自分へ言い聞かせる。
だが。
王城を前にした瞬間、セリアの胸に生まれたのは、祈りよりも先に小さな怒りだった。
城は、整っていた。
外壁に大きな損傷はなく、門の周辺も清掃されている。
王城の周囲には水路が引かれ、澄んだ水が絶えず流れていた。
光を受けた水面が、きらきらと輝いている。
セリアは、先ほどまで見ていた村を思い出した。
枯れかけた井戸。
濁った水。
病に伏せる人々。
水を求めて力なく歩いていた子供達。
それなのに。
この城の周りには、これほど潤沢な水がある。
セリアは、唇を強く結んだ。
「……これが、王の住まう場所」
その声は小さかった。
だが、そこには確かな硬さがあった。
門をくぐると、一人の侍女が静かに出迎えた。
白と黒を基調とした侍女服。
派手な装飾はない。
だが、布地は清潔で、立ち姿には一分の乱れもなかった。
「聖女セリア様ですね」
「お待ちしておりました」
柔らかな声だった。
けれど、不思議と耳に残る声でもあった。
「私はルミと申します」
「エミリア様の侍女を務めております」
侍女。
そう名乗った。
だが、セリアは一瞬だけ言葉に詰まった。
目の前の者は、確かに侍女の姿をしている。
しかし、その所作はあまりにも整いすぎていた。
神殿の侍者よりも静かで。
貴族の従者よりも隙がなく。
そして、なぜか気配が薄い。
そこにいるのに、掴めない。
月明かりのような侍女だった。
「こちらへどうぞ」
ルミは、それ以上余計なことを言わなかった。
エミリアを褒めるでもなく。
王国を弁護するでもなく。
セリアの警戒を解こうとするでもなく。
ただ、静かに一礼し、城内へ案内する。
セリアは、その背を追った。
廊下は静かだった。
だが、決して荒れてはいない。
掃除は行き届き、窓から入る光が磨かれた床を照らしている。
壁には、本来なら王家の宝飾品や絵画が飾られていたのだろう。
けれど、その多くは失われていた。
残っているのは最低限の装飾だけ。
空いた壁。
金具の跡。
何かを外したような痕跡。
それでも、城内は美しかった。
絨毯は柔らかく、足音を吸い込む。
カーテンは薄く光を通しながらも、安っぽさがない。
布地は見たことのない滑らかさで、触れずとも上質なものだと分かる。
セリアには、それが何で作られているのか分からなかった。
帝国の大神殿でさえ見慣れない質感だった。
贅沢品なのか。
新しい技術なのか。
それすら判断できない。
ただ一つ、分かることがある。
ここには、村にはなかったものがある。
水。
清潔な衣服。
整えられた空間。
美しい布。
落ち着いた使用人達。
セリアは、胸の中で湧き上がる感情を抑えた。
外の民は飢えている。
病人は放置されている。
子供は衰えている。
それなのに、城は整っている。
自分の周りだけを美しく飾っている。
そう見えた。
「……やはり」
セリアは小さく呟く。
「見極めなければなりません」
ルミは振り返らなかった。
聞こえていなかったのか。
聞こえていて、何も言わないのか。
それも、セリアには分からなかった。
城内を進む途中で、セリアは奇妙なことに気づいた。
兵士がほとんどいない。
王城であるなら、もっと多くの兵が立っていてもおかしくない。
それなのに、見かけるのは使用人ばかり。
たまに士官らしき者が通り過ぎるが、皆、書類や地図を抱えて慌ただしく走っている。
鎧を着て剣を構えた者より。
泥のついた靴で駆け回る者や、何かの報告書を抱えた者の方が多い。
セリアには、それもまた異様に見えた。
軍すらまともに置けないほど乱れているのか。
あるいは。
見せたくない場所に兵を回しているのか。
疑念が積み重なる。
やがて、ルミが大きな扉の前で足を止めた。
「こちらでございます」
ルミは静かに告げる。
「エミリア様がお待ちです」
扉の向こうにいる。
悪の女王。
禍津神を国教とした王国の支配者。
人の身体を作り替え、夜に奇妙な灯りを灯し、民を恐怖で従わせているという者。
セリアは、静かに息を吸った。
胸元の聖印へ触れる。
太陽神インティの光を思い出す。
真実を見よ。
断じる前に、見極めよ。
けれど。
今のセリアの心は、すでに少しだけ傾いていた。
あの村の光景。
救えなかった少年。
泥を被った男の証言。
そして、この整えられた城。
全てが、彼女へ同じ答えを囁いているように思えた。
ここにいる者は、やはり危険だと。
セリアは、背筋を伸ばした。
太陽神の聖女として。
必要ならば、異端を裁く審問官として。
彼女は、気を引き締め直す。
ルミが扉に手を添える。
そして、静かに開いた。
扉の先は、謁見の間だった。
広い空間。
高い天井。
磨かれた床。
左右に並ぶ柱には黒と紫の布が掛けられ、壁には薔薇を象った装飾が施されている。
豪華だった。
だが、嫌らしい派手さではない。
金銀財宝を見せびらかすような成金趣味ではなく、色も配置も統一されている。
華やかでありながら、どこか冷たい。
美しい。
けれど、近づく者を拒むような圧がある。
まるで、この部屋そのものが一つの舞台であり。
中央の玉座に座る者を、美しく見せるためだけに整えられているようだった。
その玉座に、エミリアはいた。
黒を基調としたドレスを纏い、背筋を伸ばして座っている。
王女の可憐さではない。
支配者として君臨するための衣装だった。
肩から流れる黒い布。
胸元と袖にあしらわれた薔薇の意匠。
深い紫の差し色。
赤黒い宝石の飾り。
その全てが、悪の女王を名乗る者の美学を形にしていた。
傍には、眼鏡をかけた金髪の少女。
白衣のような上着を羽織り、手には書類を抱えている。
その隣には、白衣姿の少女が控えていた。
小柄で、どこか儚げな雰囲気を纏っている。
長い前髪が目元を覆っており、その表情は読み取りづらい。
だが、佇まいは静かで、丁寧で、不思議と相手を不安にさせない落ち着きがあった。
少し離れた場所には、老執事。
さらにその後ろには、数名の使用人達。
兵士の姿は、ほとんどない。
それが、かえって異様だった。
ここは王城の中心。
謁見の間。
それなのに、剣で威圧する者がいない。
だが、油断できる空気でもない。
むしろ。
剣などなくとも、ここでは玉座の主が全てを支配している。
そんな空気があった。
ルミが静かに一歩前へ出る。
「エミリア様」
「聖女セリア様、ご到着です」
玉座のエミリアが、ゆっくりと視線を向けた。
セリアは胸元の聖印へ一度だけ触れ、ルミに案内されるまま謁見の間を進む。
玉座の前で足を止める。
そして、深く頭を垂れた。
「面を上げることを許すわ」
澄んだ声だった。
若い。
だが、軽くはない。
命じることに慣れた声。
許すことに迷いのない声。
セリアは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間。
近づいて初めて分かった。
玉座の女王は、美しい。
だが、それ以上に。
迫力があった。
黒を纏う姿は、まるで夜そのものを衣にしたようだった。
血のような赤い瞳が、まっすぐにセリアを見ている。
少女のようにも見える。
けれど、その眼差しは常人のものではない。
人の上に立つ者。
人を従える者。
そして、それを当然のこととして受け入れている者。
悪の女王。
そう名乗るに相応しい姿だった。
セリアは、わずかに息を呑む。
だが、怯えはしなかった。
自分は太陽神インティに選ばれた聖女。
必要とあらば、異端を裁く権限も持つ者。
ここで目を逸らすことはできない。
エミリアは、静かに告げた。
「名乗りなさい」
セリアは背筋を伸ばし、正面からエミリアを見た。
「バルディア帝国、太陽神インティ大神殿所属」
「神官、セリアです」
声は揺れなかった。
怖じ気づかず。
逃げることもなく。
真正面から、玉座の女王を見る。
エミリアは、わずかに目を細めた。
「そう」
「それで」
「何の要件かしら?」
セリアは一度、胸元の聖印へ手を添えた。
「ローゼンバーグ王国が、月と死と転生を司る禍津神ルミナを主神とし、国教を改めた件です」
謁見の間に、静かな緊張が走る。
クロエが書類を抱えたまま目を瞬かせる。
リンは、静かに佇んでいた。
長い前髪が目元を隠しているため、その表情は見えない。
だが、セリアの言葉を聞いた瞬間、ほんのわずかに顔を上げたように見えた。
老執事は表情を変えない。
ルミもまた、微笑みを崩さない。
セリアは続けた。
「邪神を信奉するとは、どういうおつもりでしょうか」
「我が神、太陽神インティ様より、南に災厄の兆しありとの神託を頂きました」
エミリアは、少しも動じなかった。
「ルミナを信奉して、何がいけないのかしら?」
その声は、本当に不思議そうだった。
責められている自覚がないのか。
あるいは、責められていることなど気にしていないのか。
セリアは眉を寄せる。
「かの神は邪神です」
「信奉すること自体が禁忌です」
「禁忌」
エミリアは、その言葉を口の中で転がすように呟いた。
そして、薄く笑う。
「聞いた限りだと、ルミナ教の教義は自由としかないわ」
「自由とは、禁忌に触れることなの?」
「秩序を守らず、人が勝手に行動すれば、そこに罪が生じます」
セリアは即座に答えた。
「人は、光の下に秩序を持って生きるべきです」
「それが太陽神インティ様の教えです」
エミリアは肘掛けに指を置く。
「ルールを守って」
「やりたいこともできずに」
「神様の言うことに従うのが、正しい生き方」
「そういうこと?」
セリアは静かに頷く。
「我が神は、そう教えを説いています」
「光のもとに秩序を持ち」
「人は正しく生きるべきだと」
その言葉を聞いた瞬間。
エミリアは笑った。
大きな声ではない。
けれど、謁見の間に響くほど、はっきりとした笑いだった。
「下らないわね」
セリアの目が見開かれる。
エミリアは玉座に座ったまま、退屈そうに頬へ指を添えた。
「そういうの、私は大っ嫌いなの」
「好きなことをして」
「綺麗な服を着て」
「美味しいものを食べて」
「楽しいことだけする」
「それで誰が困ろうが」
「神様に反しようが」
「そんなの、どうでもいいわ」
セリアは言葉を失う。
あまりにも堂々としていた。
悪びれない。
恥じない。
悔いない。
まるで、それこそが正しいのだと言わんばかりに。
エミリアは、赤い瞳を細める。
「私は、悪いことが大好きなの」
「だから、皆に言っているわ」
「私は悪の女王だと」
謁見の間に沈黙が落ちる。
セリアは、呆気に取られていた。
邪神を信奉する理由を問えば、言い訳が返ってくると思っていた。
国を守るためだ。
仕方なかった。
民のためだ。
そうした言葉を予想していた。
だが、目の前の女王は違った。
悪いことが好き。
神に反しようが構わない。
自分は悪の女王だ。
そう、堂々と言い切った。
セリアの中で、怒りと困惑がぶつかり合う。
エミリアは、その反応を楽しむように続けた。
「私に文句がある者は、言いに来ればいいわ」
「石を投げたいなら、投げるといい」
「全て正面から叩き伏せてあげる」
セリアの手が、無意識に握られる。
エミリアは玉座から見下ろす。
「私の国民は従順よ」
「皆、それでも楽しそうにしているわ」
その言葉に、セリアの胸の奥で何かが燃えた。
楽しそうにしている。
それは、三人の神官が言っていたことと同じだった。
王都では女王を称える声が上がっている。
だが、外の村には飢えた人々がいる。
病に苦しむ子供がいる。
枯れかけた井戸がある。
怪我人がいる。
泥にまみれた男が、恐怖を語っていた。
セリアは静かに息を吸った。
今度は、自分の目で見たものを伝えなければならない。
太陽神の聖女として。
そして、真実を見極める者として。
「……では」
セリアは、エミリアを真正面から見据えた。
「私が見てきた、この国の民の姿をお伝えしてもよろしいでしょうか」
エミリアは、赤い瞳を細める。
「許すわ」
「話しなさい」
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