神殿からの使者 ②
バルディア帝国の太陽神インティ大神殿より派遣された聖女セリアは、数日をかけてローゼンバーグ王国へ入った。
彼女に与えられた役目は、断罪ではない。
神託は、そう命じていた。
南に、災厄の兆しあり。
断じる前に、見極めよ。
恐れる前に、真実を見よ。
だからセリアは、太陽神の聖女として。
そして必要とあらば、異端審問官としての権限を携え、ローゼンバーグ王国へやって来た。
王国の国教は、禍津神ルミナを祀るルミナ教へと変わった。
その中心にいるのは、自らを悪の女王と名乗る若き女王。
噂だけを聞けば、まさしく邪神国家である。
だが、太陽神インティは断罪を命じなかった。
真実を見よ。
そう命じた。
ならば、セリアは自分の目で見なければならない。
そう思っていた。
ローゼンバーグ王国内に残る太陽神インティ神殿で、セリアを出迎えたのは三人の神官だった。
オショ。
クージ。
ケン。
三人は、深々と頭を下げた。
「よくぞお越しくださいました、聖女様」
最初に口を開いたのは、オショだった。
「このような時代だからこそ、我らは信仰を捨てず、太陽神インティの光を守り続けております」
クージが沈痛な面持ちで続く。
「国教は変わりました。ですが、我らの祈りまで奪われたわけではありません」
ケンは、静かに胸元の聖印へ手を添えた。
「聖女様には、ぜひこの国の真実をご覧いただきたいのです」
言葉だけなら、三人は敬虔な神官だった。
だが、よく見れば違和感はあった。
神官服は質素に見えて、布地が良い。
胸元の聖印は一般の神官が持つものより立派で、指には細工の細かな指輪が光っている。
三人とも、長く困窮している者の顔ではなかった。
普段のセリアなら、気づいたかもしれない。
だが、この時のセリアは、神託の重さと、これから見るものへの緊張で胸がいっぱいだった。
だから、その小さな違和感は、祈りの奥へ沈んでいった。
「まずは、王都の外を見ていただきたいのです」
オショが言った。
「王城へ向かう前に、ですか?」
セリアが問い返す。
クージが頷いた。
「はい」
「王都だけを見ても、今のローゼンバーグの実態は分かりません」
ケンが低い声で続ける。
「王都から離れた村々にこそ、悪の女王の支配がもたらした現実があるのです」
セリアは静かに頷いた。
「分かりました」
「案内をお願いします」
そうしてセリアは、三人の神官に連れられ、いくつかの村を巡ることになった。
◇
三人が案内した村は、ひどい有様だった。
畑は荒れ、家は傾き、道はぬかるんでいる。
人々は痩せ、老人は壁にもたれ、子供達は力なく座り込んでいた。
怪我をした者もいる。
病で動けなくなった者もいる。
働ける者達は、休むこともできず、ただ黙々と畑へ出ていた。
それは、聖女であるセリアにとって、あまりにも酷い光景だった。
「これが……ローゼンバーグ王国の実態なのですか」
セリアの声が震える。
オショは深く頷いた。
「残念ながら」
クージが悲しげに目を伏せる。
「国教が変わり、悪を名乗る女王が玉座についたことで、民の苦しみはさらに深くなりました」
ケンも重々しく続けた。
「王都では華やかな式典が行われたそうです」
「ですが、ここには何も届いておりません」
三人の言葉は沈痛だった。
けれど、どこか滑らかすぎた。
まるで、何度も練習してきたように。
セリアは、それに気づけなかった。
目の前で、子供が咳き込み、母親が慌てて背をさすったからだ。
「食料を」
セリアは振り返った。
「今ある食料を、村の方々へ分けましょう」
だが、オショがすぐに止めた。
「お待ちください、聖女様」
「なぜですか」
「ここにいる全員へ配れるほどの量はございません」
クージが頷く。
「一部の者へだけ与えれば、かえって争いになります」
ケンも続けた。
「今は軽率な施しが、混乱を招く恐れがございます」
正論だった。
確かに、セリアの持つ食料では全員を満たせない。
だが、三人の止め方は少しだけ早かった。
まるで、施しをされること自体を恐れているように。
セリアは唇を噛んだ。
「ならば、せめて怪我人と病人を」
セリアは祈りを捧げる。
太陽神インティの光が、彼女の手に宿った。
温かな光が、怪我人を包む。
傷が塞がる。
熱が下がる。
咳が少しだけ楽になる。
村人達が、目を見開いた。
「聖女様……」
「太陽神様の奇跡だ……」
だが。
全員は救えない。
一人を癒せば、次の一人が残る。
次を癒せば、また別の誰かが苦しんでいる。
祈りは届く。
けれど、全員には届かない。
その事実が、セリアの胸を締めつけた。
そして、一人の少年がいた。
まだ幼い。
痩せた身体。
青白い顔。
細い腕。
母親に抱かれながら、力なく目を開けている。
セリアは膝をつき、その子へ手をかざした。
「大丈夫です」
「今、祈りますから」
光が少年を包む。
だが、治らない。
少しだけ呼吸は楽になった。
顔色もわずかに戻った。
けれど、身体の奥にある病は消えなかった。
セリアはもう一度祈った。
さらに強く。
それでも、少年は立ち上がれなかった。
その病は、ただの怪我でも熱でもない。
すぐに命を奪うものではない。
だが、少しずつ身体を蝕み、力を奪い、やがて歩くこともできなくなる病。
今のセリアの奇跡だけでは、届かなかった。
「……ごめんなさい」
セリアは、少年の手を握った。
「私では、完全には治せません」
少年は、力なく首を振る。
「少し……楽になったよ」
その言葉が、セリアには余計に苦しかった。
セリアは紙を取り出し、紹介状を書いた。
「この書状を持って、大きな太陽神殿へ行ってください」
「そこでなら、もっと強い加護を受けられるかもしれません」
少年の母親は、震える手でそれを受け取った。
「ありがとうございます、聖女様」
セリアは微笑もうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
大きな神殿へ行け。
そう言うことしかできない。
この親子に旅の金はあるのか。
少年に、長旅に耐える体力はあるのか。
神殿へ辿り着いたとして、本当に治せるのか。
何も分からない。
それでも、今のセリアにはそれしかできなかった。
「必ず」
セリアは少年へ言った。
「必ず、諦めないでください」
少年は、小さく頷いた。
その顔を、セリアは忘れなかった。
忘れられなかった。
◇
その時。
村人達の中から、一人の男が進み出た。
衣服は泥で汚れ、顔にも土がついている。
いかにも疲れ果てた農民のように見えた。
だが、その身体は他の村人達ほど痩せてはいなかった。
腕にも力がある。
頬も、完全にはこけていない。
普段のセリアなら、気づいたかもしれない。
けれど今のセリアは、目の前の病人と子供達の姿に心を奪われていた。
男は、震えるような声で言った。
「あの女王は……恐ろしいお方です」
セリアが顔を上げる。
「何があったのですか」
「唸り声を上げる魔道具を使ったんだ」
男は、怯えたように肩を震わせる。
「人が、次々に吹き飛ばされた」
「骨を折られた者もいる」
「泣き叫んでも、止まらなかった」
セリアの顔が強張る。
「それは、本当ですか」
男は強く頷いた。
「俺が受けたわけじゃない」
「けど、見た奴から聞いた」
「間違いねぇ」
「あの悪の女王は、人の身体を壊す魔道具を使うんだ」
言葉は荒く、恐怖に満ちていた。
だが、その話には肝心な部分が抜け落ちていた。
その魔道具が、誰に向けられたものだったのか。
なぜ使われたのか。
その場で何が起きていたのか。
男は、それを語らなかった。
オショが沈痛な顔で目を伏せる。
「聖女様」
「これが、今のローゼンバーグで起きていることなのです」
クージが続ける。
「悪を名乗る女王は、民を恐怖で従わせています」
ケンは低く呟いた。
「逆らえば、魔道具で打ち倒される」
セリアは拳を握った。
胸の奥に、怒りが広がっていく。
目の前には飢えた村人。
治らない病の子供。
そして、悪の女王に傷つけられたと語る男。
その全てが、彼女の判断を曇らせた。
だからセリアは、気づけなかった。
男が話し終えた直後。
ほんの一瞬だけ、オショへ視線を向けたことに。
◇
その日の夜。
セリアは三人の神官と共に、簡素な夕食を取った。
硬いパン。
薄いスープ。
少量の肉。
表向きには、質素な食事だった。
しかし、スープには香辛料の香りがあった。
肉にも、わずかにだが丁寧な下味がついている。
飢えた村人達が食べていたものとは、明らかに違った。
普段のセリアなら、気づいたかもしれない。
けれど、その夜のセリアは、昼間の光景に心を乱されていた。
救えなかった少年の顔が、頭から離れない。
だから、香辛料の香りも。
三人の神官の血色の良い顔も。
指に光る装飾品も。
彼女の意識を素通りしていった。
「聖女様」
オショが静かに言った。
「これが、悪を名乗る者の支配です」
クージが頷く。
「民は苦しみ、病人は捨てられ、子供達は衰えていく」
ケンが重々しく続けた。
「それでも王都では、女王を称える声が上がっているとか」
セリアは拳を握った。
「……なぜ」
声が震える。
「なぜ、こんなことが許されるのですか」
三人の神官は、静かに目を伏せた。
だが、その陰で。
ほんのわずかに口元が歪んだことに。
セリアは気づかなかった。
◇
翌日。
セリア達は、ローゼンバーグ王都へ向かう馬車に乗っていた。
本来なら、王都へ向かう道はもっと整えられているはずだった。
だが、三人の神官はあえて遠回りを選んだ。
「こちらの道の方が、安全でございます」
オショが言った。
「王都へ近づくほど、人の出入りも増えますので」
クージが頷く。
「聖女様に万が一のことがあってはなりません」
ケンも、もっともらしく頭を下げた。
「少々遠回りにはなりますが、どうかご容赦を」
セリアは素直に頷いた。
「分かりました」
けれど、その道は。
安全というより、荒れていた。
放置された畑。
壊れかけた小屋。
ぬかるんだ道。
復興が遅れている集落。
貧しい者達が集まる区域。
三人は、そうした場所を選んで通っているようにも見えた。
普段のセリアなら、道順に違和感を覚えたかもしれない。
だが、今の彼女の胸には、昨日見た村の光景が焼き付いていた。
痩せた人々。
病人。
怪我人。
自分の奇跡では救いきれなかった少年。
そして、悪の女王に傷つけられたと語る男。
その言葉が、頭から離れない。
だから、馬車の進む道がおかしいことに、深く考えが及ばなかった。
「聖女様」
オショが、気遣うような声で言った。
「お顔の色が優れません」
「……大丈夫です」
「無理をなさらないでください」
クージが、馬車の窓へ手を伸ばす。
「外の光景は、あまりにも心を痛めるものです」
ケンも静かに頷いた。
「王都へ着くまで、少しお休みください」
そう言って、彼らは馬車のカーテンを閉めた。
外の景色が遮られる。
薄暗い車内に、沈黙が落ちた。
セリアは、膝の上で手を握る。
見ない方がいい。
確かに、そうかもしれない。
あれ以上、苦しむ人々を見れば、自分は冷静ではいられなくなる。
そう思った。
だから、セリアはカーテンを開けなかった。
けれど。
カーテンの外では、馬車が本来通るはずだった大きな街道から外れていく。
整えられつつある道を避け。
人の流れが戻り始めた区域を避け。
炊き出しの札が貼られた広場を避け。
修復された水路のある村を避け。
三人の神官は、セリアに余計なものを見せないように、静かに道を選んでいた。
やがて。
馬車はローゼンバーグ王都へ近づいていく。
けれど、セリアが車窓から王都の変化を見ることはなかった。
カーテンの向こうにあるはずの人々の営みも。
街道を直す兵士達の姿も。
荷を運ぶ者達の列も。
仕事を求めて歩く人々も。
彼女の目には届かなかった。
届いたのは、三人の神官の言葉だけ。
「もうすぐ王城でございます」
「聖女様」
「どうか、お心を強くお持ちください」
「これからお会いになるのは」
「禍津神を国教とした、悪の女王なのですから」
セリアは静かに目を閉じた。
胸の奥で、太陽神インティへの祈りを唱える。
真実を見てきなさい。
神託の言葉が、心に残っている。
けれど、この時のセリアはまだ知らない。
自分が見せられているものが。
真実のすべてではないことを。
やがて、馬車が止まった。
扉が開く。
差し込んだ光に、セリアはゆっくりと顔を上げた。
そこにあったのは、ローゼンバーグ王城。
禍津神を国教とした国の中心。
そして。
悪の女王エミリアが待つ場所だった。
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