戴冠式
戴冠式の日。
王都中央広場には、朝早くから多くの民が集まっていた。
兵士達が整列し。
商人達は広場の端に屋台を出し。
職人達は腕を組みながら王城を見上げ。
子供達は大人達の間から背伸びをして、王城の大扉を見つめていた。
「本当に、今日からエミリア様が女王様になるんだな」
誰かが呟いた。
「ああ」
「少し前まで無能姫なんて呼ばれてたのにな」
「おい、声が大きいぞ」
「今そんなこと言ったら、職人連中に睨まれるぞ」
そう言って、男達は広場の隅を見た。
そこには建築ギルドの職人達が並んでいた。
腕を組み。
無言で。
けれど、どこか落ち着かない様子で。
王城の方を見ている。
「俺は炊き出しで助かった」
別の民が言った。
「うちは水道だ。井戸まで行かなくてよくなった」
「俺は仕事を貰った。道を直す仕事だ」
「うちの子は文字を教えてもらえるかもしれないって」
「……変な王女様だよな」
「言い方は悪いけどな」
「でも、国は良くなってる」
民達の声は、ざわめきとなって広場を満たしていた。
期待。
不安。
好奇心。
そして、どこか浮き立つような熱。
誰もが知っている。
今日。
ローゼンバーグ王国は、新たな女王を戴く。
◇
王城の大扉が、ゆっくりと開いた。
ざわめきが消える。
広場の視線が、一斉に王城へ向いた。
まず現れたのは、ハルト率いる兵士達だった。
磨かれた鎧。
整った歩調。
かつての弱小国の兵とは思えない、引き締まった姿。
続いて、セバス。
老執事は一歩一歩、静かに進む。
その所作に無駄はなく、王国の歴史そのものが歩いているようだった。
その後ろに、オルガ。
顔色は少し悪い。
それでも背筋は伸びている。
王国の内政を支える者として、逃げ出すことは許されないのだろう。
さらにクロエ。
リン。
ルミ。
それぞれが壇上へ向かう。
そして。
最後に。
黒いドレスを纏ったエミリアが姿を現した。
広場が静まり返る。
誰もが息を呑んだ。
その姿は、美しかった。
王女の可憐さではない。
守られる姫君の美しさでもない。
女王として君臨するための、圧を持った美しさ。
漆黒のドレス。
ただ黒いだけではない。
月明かりさえ飲み込むような、深く艶やかな黒。
肩から背中にかけて大胆に開かれた意匠は、少女の細さよりも、支配者としての自信を際立たせている。
長い黒手袋。
黒曜石の指輪。
首元には、月を象った小さな宝石。
そして胸元には、一輪の黒薔薇。
ローゼンバーグ王国において、黒薔薇を纏うことを許される者はただ一人。
女王エミリアのみ。
裾へ向かって広がるドレスには、黒糸と銀糸で細かな刺繍が施されていた。
橋。
水路。
石畳。
歯車。
そして、広がっていく街並み。
まるで、今まさに変わり始めたローゼンバーグ王国そのものを、漆黒の布地に封じ込めたかのようだった。
エミリアはゆっくりと歩く。
堂々と。
傲慢に。
不遜に。
けれど、誰よりも美しく。
その姿を見て、民達は理解した。
これは、かつての無能姫ではない。
これは、滅びかけた王国を作り変えようとしている者。
黒薔薇の女王。
エミリアだった。
◇
エミリアが壇上へ進む。
セバスが静かに膝をついた。
その手には、ローゼンバーグ王家に伝わる王冠が捧げ持たれている。
古い王冠だった。
豪奢とは言い難い。
だが、長い年月と王家の歴史を感じさせる、由緒ある王冠。
エミリアはそれを一瞥し、少しだけ眉をひそめた。
「少し地味ね」
遠くでオルガが顔を覆った。
「頼むから、今日くらいは我慢してくれ……」
セバスは穏やかに微笑む。
「本日は正式な戴冠でございます」
「飾り立てる機会は、これからいくらでもありましょう」
「それもそうね」
エミリアは納得したように頷いた。
広場の端で、誰かが小さく笑う。
相変わらずだった。
この少女は。
今日、女王になるというのに。
それでも、いつも通りだった。
セバスが王冠を掲げる。
広場に沈黙が落ちる。
風の音さえ遠くなった。
そして。
王冠が、エミリアの頭上に置かれた。
その瞬間。
まず兵士達が膝をついた。
続いて職人達。
商人達。
民達。
波が広がるように、広場全体が跪いていく。
ローゼンバーグ王国女王。
エミリア。
その名が、正式に玉座へ刻まれた瞬間だった。
セバスの声が響く。
「新女王エミリア陛下に、忠誠を」
兵士達が声を上げる。
「エミリア女王陛下に、忠誠を!」
続いて、広場全体から声が上がる。
「女王陛下、万歳!」
「ローゼンバーグに栄光を!」
「エミリア様!」
歓声が広がる。
王都中央広場を震わせるほどの声。
エミリアはその声を受けながら、ゆっくりと右手を上げた。
広場が静まる。
エミリアは民達を見渡した。
そして、艶やかに笑った。
「よく聞きなさい、私の民達」
その声は、広場の隅まで届いた。
「本日より」
「ローゼンバーグ王国は、正式に私の国となったわ」
ざわり。
民達が息を呑む。
エミリアは続ける。
「私は善き女王になるつもりはない」
「慈悲深い聖女になるつもりもない」
「私は、悪の女王よ」
オルガが小さく呟いた。
「そこは言わなくてもいいんだよ……」
だが、民達の反応は以前とは違っていた。
困惑する者もいる。
青ざめる者もいる。
けれど、苦笑する者もいた。
この女王は、いつもこうなのだ。
言葉は悪い。
言い方も悪い。
けれど、その後に国は良くなる。
だから、皆は聞いた。
「私が欲しいのは、祈るだけの民ではない」
「従順に働き」
「学び」
「食べ」
「税を納め」
「私の国を豊かにする民よ」
言葉だけ聞けばひどい。
だが、王都の民は知っている。
この女王は、働けと言うなら仕事を作る。
学べと言うなら学ぶ場所を作る。
食べろと言うなら、食べ物を用意する。
だから、民達は笑えた。
「つまり、働けってことだな」
「まあ、仕事があるならありがたい」
「食べろって言う女王様も珍しいな」
「税を納めろってのは普通だろ」
小さな笑いが広場に広がる。
エミリアは少し不満そうに目を細めた。
「……今、笑うところだったかしら?」
ルミが静かに微笑む。
「皆様、安心しておられるのかと」
「私は支配を宣言しているのだけれど」
「はい」
「なぜ安心するの?」
「エミリア様ですので」
「理由になっていないわ」
それでも民達は笑っていた。
エミリアは咳払いをする。
「そして、もう一つ」
広場が再び静まり返る。
その空気が変わったことを、誰もが感じ取った。
エミリアは告げる。
「本日より、ローゼンバーグ王国の国教を」
「ルミナ教とするわ」
空気が凍った。
旧神官達の一部が青ざめる。
民達も顔を見合わせる。
ルミナ。
月と死と転生を司る神。
多くの者に、禍津神と呼ばれてきた存在。
その名を国教とする。
それは、ただ事ではない。
神官達は息を呑んだ。
中には膝を震わせる者もいる。
だが。
エミリアは、まるで何でもないことのように続けた。
「けれど、信仰など好きにしなさい」
ざわめきが変わる。
「太陽神を信じたい者は、太陽神へ祈ればいい」
「豊穣神を信じる者は、豊穣神へ祈りなさい」
「商売繁盛を願うなら、財神へ頭を下げればいい」
「学びを求めるなら、智神に祈ればいい」
「秘密と時を畏れるなら、秘神を敬えばいい」
「ルミナを信じたくない者も、好きにすればいいわ」
旧神官達は困惑した。
国教を変える。
だが、改宗は強制しない。
他の神殿を壊すとも言わない。
信仰を奪うとも言わない。
民達もまた戸惑っていた。
恐れていたものとは、違う。
エミリアは、艶やかに笑った。
「私が許さないのは一つだけ」
その声は冷たかった。
「信仰の名を借りて、私の民を傷つけることよ」
沈黙が落ちる。
「神の名を騙り」
「弱い者を縛り」
「病人を捨て」
「子供を焼き」
「民から搾り取る者」
「そういう者は、私の国にはいらない」
旧神官達の中で、顔を伏せる者がいた。
民達の中にも、拳を握る者がいた。
誰もが知っている。
神の名を借りた横暴を。
救われなかった者達を。
見捨てられた者達を。
だが、これまで誰も声を上げられなかった。
それを。
女王は壇上から切り捨てた。
悪の女王を名乗りながら。
「そして」
エミリアは言った。
「ルミナ教の神殿を建てるわ」
ここで初めて。
その計画は、民の前に告げられた。
「祈りたい者は祈ればいい」
「けれど、それだけの場所にはしない」
エミリアは指を立てる。
「病人を集めなさい」
「治せる者は治して、また働かせる」
リンが少しだけ困った顔をした。
「孤児も集めなさい」
「飢えて死なせるくらいなら、私の下僕として育てた方が役に立つわ」
セバスの目が、静かに細められる。
「読み書きも教える」
「無知な下僕より、使える下僕の方が価値があるもの」
広場のあちこちで、小さなざわめきが起きた。
言い方は悪い。
どう聞いても悪い。
だが、民達には分かり始めていた。
病人を捨てない。
孤児を飢えさせない。
学ばせる。
働けるようにする。
この女王は、それを「下僕を育てる」と言っているだけなのだ。
「……何か」
エミリアは少し不満そうに目を細めた。
「私の悪の演説が、違う受け取られ方をしている気がするわ」
後ろに控えるルミが微笑む。
「お気になさらず」
「気になるわ」
「皆様、喜んでおられます」
「私は恐れられる予定だったのだけれど」
「恐れられてはおりますよ」
「そう?」
「はい。主に、仕事量を増やされる方々から」
オルガが遠くで深く頷いた。
「切実に恐れているよ……」
広場に笑いが起きた。
緊張が、少しだけほどける。
だが。
民達は理解していた。
今日、ローゼンバーグ王国は変わった。
女王が代わっただけではない。
神の扱いが変わった。
弱者の扱いが変わった。
病人や孤児の扱いが変わった。
祈りだけではなく。
働き。
学び。
生きるための場所が作られようとしている。
そして、その中心に立つのは。
自らを悪の女王と名乗る、黒薔薇の少女だった。
エミリアは広場を見渡す。
黒いドレスの裾が、風にわずかに揺れる。
王冠を戴き。
黒薔薇を胸に咲かせ。
新たな国教を告げた女王は。
最後に、静かに微笑んだ。
「さあ」
「ここからが本番よ」
◇
その声に、広場が息を呑む。
エミリアは視線を壇上の脇へ向けた。
「次は」
「私が認めた者を、民達に見せてあげるわ」
エミリアの言葉が広場へ響く。
歓声が静まった。
民達の視線が再び壇上へ集まる。
建築ギルドの職人達が、何故か胸騒ぎを覚えた。
民達はまだ知らない。
この日。
ローゼンバーグ王国にはもう一つ。
新しい象徴が生まれることになる。
黒薔薇の女王に続く。
青薔薇の英雄が。
そして。
壇上の脇から、一人の女が歩み出た。
最初は誰も気づかなかった。
漆黒の礼装。
黒のロングコート。
黒のベスト。
黒のパンツ。
白いシャツ。
派手な装飾はない。
だが。
その礼装には奇妙な存在感があった。
襟。
袖。
裾。
その全てに銀糸による精密な刺繍が施されている。
描かれているのは花ではない。
橋。
歯車。
水路。
石畳。
積み上げられた石。
ローゼンバーグを支えてきた職人達の誇りそのもの。
そして。
胸元には一輪の青薔薇。
誰も見たことのない徽章。
黒薔薇でもない。
赤薔薇でもない。
静かに咲く青い薔薇。
その姿に。
建築ギルドの職人達がざわめいた。
「……誰だ?」
若い職人が首を傾げる。
だが。
古い職人達は違った。
顔色が変わる。
目を見開く。
信じられないものを見るように。
「おい……」
「まさか……」
「いや……」
「そんなはずが……」
広場の端。
年老いた石工が震える声を漏らした。
「あれは……」
その声は震えていた。
「マルタ姉御……?」
周囲が息を呑む。
「嘘だろ」
「いや……でも……」
「足が……」
「若いぞ……」
かつて建築ギルドを率いた女。
王都の橋を造り。
王都の水路を引き。
数え切れない建築を完成させた棟梁。
だが事故によって脚を失い。
第一線を退いた英雄。
その女が。
今。
二本の脚で立っている。
若い頃の姿のまま。
堂々と。
壇上に立っている。
若い職人達は困惑していた。
だが古株達は知っていた。
本当に変わらないものを。
あの目だ。
図面を見る目。
現場を見る目。
職人を育てる目。
何十年経とうと変わらない。
棟梁の目。
間違いない。
あれはマルタだ。
建築ギルド長マルタその人だった。
沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは。
マルタ本人だった。
「じろじろ見てんじゃないよ」
ぶっきらぼうな声。
その瞬間。
広場のあちこちから嗚咽が漏れた。
「姉御だ……」
「本当に姉御だ……」
「帰ってきた……」
一人の中年職人が顔を覆う。
かつての弟子だった。
叱られた。
怒鳴られた。
殴られた。
そして育てられた。
その恩人が。
今、目の前にいる。
「棟梁……」
誰かがそう呼んだ。
次の瞬間。
声が広がる。
「棟梁!」
「マルタ姉御!」
「棟梁!」
「姉御!」
その熱は。
女王への歓声にも負けなかった。
マルタは頭を掻く。
「うるさい連中だねぇ」
だが。
その口元は少しだけ緩んでいた。
エミリアは満足そうに頷く。
「この者は、私が認めた者よ」
広場が静まる。
「老い」
「病」
「怪我」
「欠損」
「そういうものに邪魔され」
「表舞台から退いた者達」
エミリアはマルタを見る。
「けれど」
「なお美しく生きようとした者達」
「己の技を捨てず」
「己の矜持を失わず」
「終わったと言いながら」
「終わりきれなかった愚か者達」
マルタが苦笑する。
「愚か者とは言ってくれるね」
「褒めているのよ」
「だったらもう少し綺麗に褒めな」
「嫌よ」
「私らしくないもの」
広場に笑いが起きた。
エミリアは片手を広げる。
「イミタート」
その名が。
初めて民衆の前で告げられた。
ざわめきが広がる。
誰も聞いたことのない言葉だった。
「これは救済ではない」
「慈悲でもない」
「誰にでも与えるものでもない」
エミリアの声は堂々としていた。
「私が認めた者だけに与える褒美よ」
羨望が広がる。
老いを超える。
病を超える。
欠損すら超える。
それは奇跡だった。
だが。
女王は言う。
誰にでも与えるものではないと。
エミリアはマルタへ向き直る。
「マルタ」
「貴方は何をするために、その褒美を受け取ったの?」
マルタは一歩前へ出た。
職人達を見る。
弟子達を見る。
王都を見る。
そして胸を張った。
「神殿を建てる」
短い言葉だった。
だが。
十分だった。
「この足で現場に立つ」
「この目で図面を見る」
「この手で全部作り直す」
職人達が拳を握る。
マルタは笑う。
「女王様の馬鹿げた神殿をな」
広場に笑いが起きた。
エミリアも満足そうに頷く。
「よろしい」
「それでこそ私の褒美よ」
歓声が上がる。
職人達が叫ぶ。
弟子達が泣く。
棟梁は帰ってきた。
それだけで十分だった。
◇
エミリアは空を見上げる。
太陽は沈み始めている。
王都に夕暮れが訪れていた。
「では最後に」
クロエがぴくりと反応する。
オルガが嫌な顔をした。
「頼むから爆発しないでおくれよ……」
「今回は大丈夫です!」
クロエが胸を張る。
「前回もそう言っていたね?」
「今回は本当に大丈夫です!」
オルガは全く安心できなかった。
エミリアは指を鳴らす。
「私の王都に灯りを」
クロエが叫ぶ。
「起動します!」
静寂。
そして。
小さな音がした。
王城前の柱。
大通りに並ぶ鉄の支柱。
広場を囲む新しい街灯。
そこへ。
一つ。
また一つ。
淡い光が灯る。
夕暮れの王都に。
星よりも早く。
人の作った光が生まれた。
民達が息を呑む。
子供達が歓声を上げる。
商人達が目を見開く。
夜を待たずして。
王都が明るくなっていく。
「綺麗……」
誰かが呟いた。
その一言が。
広場全体の気持ちだった。
光は広がる。
広場を。
大通りを。
王都を。
エミリアは王都を見下ろす。
「夜の闇は嫌いではないわ」
静かな声。
「けれど」
「私の王都で」
「私の目が届かない場所があるのは気に入らない」
民達は光を見つめる。
この灯りがあれば。
夜道を歩ける。
店を開ける。
安心して暮らせる。
王都はもっと豊かになる。
エミリアは微笑む。
「灯しなさい」
「夜でも歩けるように」
「夜でも働けるように」
「夜でも商売できるように」
そして。
堂々と宣言した。
「夜でも私の支配が届くように」
言葉は傲慢だった。
だが。
歓声が上がる。
「女王陛下万歳!」
「ローゼンバーグに栄光を!」
「エミリア様!」
広場全体が揺れる。
エミリアは少し首を傾げた。
「……やっぱり」
「何か違う受け取られ方をしている気がするわ」
ルミが微笑む。
「皆様、喜んでおられます」
「私は支配と言ったのだけれど」
「便利だからではないでしょうか」
「不本意ね」
「エミリア様らしいかと」
王都に灯りが広がる。
黒薔薇の女王。
青薔薇の英雄。
そして。
人々を照らす新しい光。
この日。
ローゼンバーグ王国は本当の意味で新しい時代を迎えた。
悪の女王を戴きながら。
誰もが少しだけ未来を信じていた。
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