悪の女王と未来への投資
リンがエミリアの配下に加わってから、三か月が過ぎた。
ローゼンバーグ王国は、目に見えて変わり始めていた。
王都の上下水道は、主要区画の整備をほぼ終えている。
かつては井戸と水桶に頼っていた王城にも、今では蛇口をひねれば水が出る場所ができた。
もっとも。
それがクロエ製である以上、誰も最初から信用などしていなかった。
水ではなく蒸気が噴き出すのではないか。
蛇口そのものが爆発するのではないか。
押してもいない謎の追加機能が作動するのではないか。
そういった不安はあったが、今のところ大きな事故は起きていない。
今のところ、である。
王都だけではない。
北の鉱山町アイゼンベルク。
東の農業町グリューフェルト。
その二つの主要な町にも、上下水道整備の手は伸び始めていた。
さらに、王都と各地を結ぶ主街道の補修も進んでいる。
荷馬車が通りやすくなれば、物資が動く。
物資が動けば、人が動く。
人が動けば、情報も金も動き出す。
そして何より。
これまで王都から遠く離れ、ほとんど見捨てられていた村々にも、国からの支援が届くようになっていた。
食料。
薬。
布。
農具。
簡易な治療道具。
必要最低限ではある。
だが、それでも以前のローゼンバーグ王国では考えられなかったことだった。
生産ギルド本部。
その執務室で、オルガは報告書を眺めながら、深く息を吐いた。
「何か嬢ちゃんがな……」
机の上には、処理待ちの書類が山のように積まれている。
物流。
流通。
生産。
商業。
資材調達。
職人の手配。
商人との交渉。
村々へ送る支援物資の割り振り。
本来なら、いくつもの部署に分かれているべき仕事が、今のローゼンバーグ王国ではかなりの割合でオルガの元に流れ込んでいた。
「私の名前が知れ渡っていないのは、悪としての名声が低いせいね! とか何とか言って、村に支援を始めたらしいんだが……」
オルガは額を押さえた。
「なんかあったのかねぇ……」
理由は分からない。
分からないが、政策としては正しい。
王都だけを立て直しても意味はない。
村が飢えれば、食料は止まる。
街道が荒れれば、流通は止まる。
地方が見捨てられれば、国は内側から腐る。
エミリアが始めた村々への支援は、間違いなく必要なことだった。
問題は。
必要なことを、あの少女があまりにも速く進めすぎることである。
使用人たちはセバスがまとめている。
兵士たちはハルトがどうにか押さえている。
研究や発明はクロエが担当している。
医療と衛生に関しては、リンが少しずつ形を作り始めている。
そして、生産と物流と商業は。
ほぼ、オルガの肩に乗っていた。
「それはそうと……」
オルガは、机の上の書類を見た。
右を見ても書類。
左を見ても書類。
前を見ても書類。
部屋の隅には、部下が追加で置いていった木箱がある。
中身はもちろん、書類だった。
「そろそろ、これ、俺死ぬな……」
優秀な部下はいる。
いないわけではない。
だが、人手が足りない。
圧倒的に足りない。
滅びかけていた国が、突然走り出したのだ。
それも、歩き方を思い出した程度ではない。
最初から全力疾走だった。
しかも先頭を走っている少女は、振り返りもせずに叫ぶのだ。
ついてきなさい、と。
その日の午後。
オルガは王城へ呼び出された。
普段ならば、王女としての体裁を整えるため、謁見室で顔を合わせることが多い。
だが今回、案内されたのは謁見室ではなかった。
王城の一角にある、エミリアの執務室だった。
その時点で、オルガは嫌な予感を覚えた。
謁見室なら、まだ儀礼の話で済む。
だが執務室に呼ばれるということは、実務の話である。
つまり。
高確率で、仕事が増える。
「失礼するぞ」
扉を開けたオルガは、そこで足を止めた。
室内にはエミリアがいた。
黒を基調にした、以前とはまた違う意匠のドレスを身にまとっている。
細部には薔薇を思わせる装飾。
銀の飾り。
無駄に凝ったレース。
威圧感と美しさだけは、毎回きっちり更新されている。
オルガは思わず思った。
何着作ってんだよ、この嬢ちゃん。
その傍らには、いつものようにメイドのルミが控えていた。
そして、もう一人。
ルミによく似た女性が立っていた。
顔立ちも、雰囲気も、どこか似ている。
だが服装は、オルガの知る侍女服とはまるで違っていた。
黒を基調とした細身の上着。
白い襟元。
膝丈の整ったスカート。
手には書類を抱えている。
侍女というより、秘書。
いや、この国にそんな職名はまだないが、そう呼ぶのが一番しっくりくる姿だった。
「よく来たわね、オルガ」
エミリアは椅子に腰かけたまま、にやりと笑った。
「私のために、たーっぷり働いてくれているみたいね」
「働かされてる、の間違いだろ」
「細かいことを気にするのね」
「細かくねぇよ」
オルガが渋い顔をすると、エミリアは楽しそうに目を細めた。
「そんな貴方に、いい話と、いい話があるのだけれど」
「待て」
「どちらを聞きたい?」
「絶対、嬢ちゃんにとってだけいい話だろ!?」
即答だった。
エミリアは、心外だと言わんばかりに片眉を上げる。
「そんなことはないわ」
「本当か?」
「ええ。さすがに貴方の仕事量を考えると、効率が悪すぎるもの」
「効率」
「そう」
エミリアは指先で机を軽く叩いた。
「貴方が倒れたら困るのは私なの。なら、負担を減らして、もっと長く、もっと効率よく働かせた方がいいでしょう?」
「今、だいぶ本音が漏れたぞ」
「気のせいよ」
「気のせいじゃねぇよ」
エミリアは気にしなかった。
「だから、そんな貴方のために補佐官を用意したわ」
「……補佐官?」
オルガの視線が、自然とルミに似た女性へ向く。
エミリアは満足げに頷いた。
「この子よ」
女性は一歩前に出て、丁寧に頭を下げた。
「初めまして、オルガ様」
声まで、どこかルミに似ていた。
だが、ルミよりも少し事務的で、落ち着いた響きがある。
「私はルナと申します。エミリア様より、オルガ様の補佐を仰せつかっております。以後、お見知りおきを」
オルガは、ルミとルナを交互に見た。
似ている。
かなり似ている。
「……双子か?」
「そっくりさんよ」
エミリアは即答した。
「雑だな、おい」
「細かいことを気にする男ね」
「気にするだろ、普通」
オルガは眉間を揉んだ。
ルミはにこにこと微笑んでいる。
ルナは淡々と書類を抱えている。
エミリアは、どう見ても説明する気がない。
オルガは少し考えた。
そして、追及するのをやめた。
こういう時のエミリアに深入りすると、だいたい面倒なことになる。
しかも、目の前の女が本当に使える人材なら、今のオルガには喉から手が出るほど欲しい。
正体不明。
身元不明。
ルミにそっくり。
怪しさしかない。
だが。
仕事が減る可能性がある。
その一点だけで、今のオルガには十分だった。
「で、そのルナは何ができるんだ?」
オルガが問うと、ルナは静かに答えた。
「文書整理、記録、計算、在庫管理、物資配分表の作成、納期確認、伝令内容の整理、商人別の信用記録作成、各案件の優先順位付けなどを担当できます」
オルガの目が、わずかに変わった。
商人の目だった。
人材の価値を測る目。
「……本当にできるのか?」
「はい」
ルナは迷わず答える。
「現在、生産ギルドに集中している業務は、分類が不十分です。物流、資材、職人、商人交渉、地方支援、王城案件が同じ机に積まれています。そのため、オルガ様ご自身が全てを見て、全てを判断し、全てを差し戻す形になっています」
オルガは黙った。
言われていることは、正しい。
正しすぎて腹が立つほどだった。
「まずは案件ごとに仕分けし、緊急度、重要度、担当可能者の有無で分類します。その上で、オルガ様が直接見るべき案件と、部下へ回せる案件を分けます」
「……嬢ちゃん」
オルガはエミリアを見た。
「こいつ、本当にどこから連れてきた?」
「私の人脈よ」
「嬢ちゃんに、そんなまともな人脈あったか?」
「失礼ね」
「失礼じゃなくて確認だ」
エミリアは涼しい顔で微笑んだ。
「細かいことはいいのよ。重要なのは、貴方の仕事が回るようになること」
「俺の仕事が減ること、じゃないんだな」
「ええ」
即答だった。
「そこは嘘でも減ると言えよ」
「減りはするわ」
「本当か?」
「貴方が一人で抱え込んでいる無駄な仕事は減るわ」
「じゃあ、全体量は?」
「増えるわね」
「だろうな!」
オルガは叫んだ。
エミリアはまったく悪びれない。
「当然でしょう。王国を立て直している最中なのよ。仕事が減るわけがないじゃない」
「開き直りやがった」
「ただし、仕事は分けられる」
その言葉に、オルガは口を閉じた。
エミリアの表情から、ふざけた色が少しだけ消えていた。
「今の王国は、人が少ない。仕組みも足りない。だから、できる者に仕事が集まる」
静かな声だった。
「セバスは城を支えている」
「ハルトは兵をまとめている」
「クロエは必要なものを作っている」
「リンは医療と衛生を形にし始めている」
そして、エミリアはオルガを見た。
「貴方は、生産と物流と商業を支えている」
オルガは何も言わなかった。
「だからこそ、貴方が潰れるのは困るのよ」
「……珍しくまともなことを言うじゃねぇか」
「私のためにね」
「台無しだよ」
エミリアはにやりと笑った。
「私の国を立て直すために、貴方にはまだまだ働いてもらうわ」
「やっぱりそうなるのかよ」
「でも、倒れられては困る。だから補佐を付ける。仕事を分類し、流れを作り、人を育てる。貴方一人で回すのではなく、生産ギルドそのものを大きくする」
オルガは、今度こそ黙った。
それは、単に人を一人付けるという話ではなかった。
生産ギルドを、王国再建の中核に据えるという話だ。
今まで商人や職人の寄り合いに近かった組織を、王国全体の物流と生産を支える仕組みに変える。
そのための第一歩として、ルナを置く。
そういう意味だった。
「……最初からそう言え」
「嫌よ。面白くないもの」
「嬢ちゃん、本当に性格悪いな」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
エミリアは、わざとらしく胸に手を当てた。
「私はね、オルガ」
嫌な予感がした。
「私のために頑張っている貴方が心配で、心を痛めていたの」
その瞬間。
室内に、複数の反応が重なった。
(嘘です)
「嘘だな」
「嘘ですね」
エミリアの笑顔が、ぴたりと止まった。
一つは、内側から響いた声。
一つは、オルガの声。
そしてもう一つは、ルミの声だった。
ルナだけは、何も言わずに静かに立っている。
「……誰か今、余計なことを言わなかったかしら」
ルミは穏やかに微笑んだ。
「気のせいです、エミリア様」
「そうかしら」
「はい」
「なら、いいわ」
よくないだろ、とオルガは思ったが、口には出さなかった。
代わりに、ルナへ向き直る。
「ルナ」
「はい」
「今日からこっちに来い。まずは俺の机の上の書類を全部分類する」
「承知しました」
「それと、使えそうな部下を何人か見繕う。そいつらにも仕事を振り分ける。いいな?」
「はい。人員ごとの処理能力と得意分野を確認した上で、業務分担表を作成いたします」
「……嬢ちゃん」
オルガは、疲れた顔でエミリアを見た。
「こいつ、借りるぞ」
「そのために用意したのよ」
「あと」
「何かしら」
「追加で人手を寄こせ」
「欲張りね」
「嬢ちゃんに言われたくねぇよ!」
オルガの叫びに、エミリアは楽しそうに笑った。
そこで、オルガはふと思い出す。
「……そういや」
「何かしら」
「いい話と、いい話があるって言ってたな」
「ええ」
「今のが一つ目か?」
「そうよ」
オルガは嫌そうに顔をしかめた。
「二つ目は聞かないという選択肢は?」
「ないわ」
「だろうな」
エミリアは机の上に置かれた数枚の紙を、指先で軽く叩いた。
「もう一つのいい話は、もっと儲かることよ」
その一言で、オルガの目が変わった。
疲れ切った男の顔から、商人の顔へ。
「詳しく聞こう」
「分かりやすいわね」
「商人だからな」
オルガは椅子に座り直した。
エミリアは、紙の束をオルガへ差し出す。
「今、私が作らせている衣装。それから、裁縫ギルドで商品化を進めている服飾の図案」
「ああ、あれも対象にするのか」
「当然でしょう。価値があるもの」
エミリアは平然と言った。
オルガは少しだけ目を細めた。
あの図案の価値を、この王女がどこまで理解しているのか。
それは分からない。
だが、登録対象として守ると言うなら、悪い話ではない。
「それだけではないわ」
エミリアは続ける。
「クロエの発明品」
収納ポーチ。
上下水道の部品。
改良農具。
生活用品。
そして、リンと共同で進めている美容商品。
石鹸。
洗髪用の石鹸。
香油。
肌を整える軟膏。
王国には、今まで存在しなかった価値が次々と生まれ始めていた。
「これらを、ただ作って売るだけでは弱いわ」
エミリアは言った。
「盗まれるからか?」
「盗まれるだけなら、まだいいわ」
「いいのか?」
「ええ。真似されるということは、価値があるということだもの」
オルガは眉をひそめた。
「じゃあ、何が問題なんだ」
「粗悪品よ」
エミリアの声が、少しだけ冷えた。
「質の悪い石鹸を、私の石鹸だと言って売る者」
「壊れやすい道具を、クロエの発明品だと偽る者」
「効果のない美容品を、王城の秘薬だと騙る者」
「そういう見苦しい商売は、潰すわ」
その言葉に、オルガは小さく頷いた。
分かる。
商品が売れるようになれば、必ず偽物が出る。
偽物が出れば、客は損をする。
客が損をすれば、本物の評判まで落ちる。
流通を預かる者として、それは見過ごせない。
「そこで、新しい制度を作る」
エミリアは紙の一枚を指差した。
「王国発明登録制度よ」
「発明、登録……?」
「そう」
エミリアは楽しそうに微笑んだ。
「作ったものを、王国に登録するの」
オルガは紙に目を通した。
そこには、見慣れない形式で制度案がまとめられていた。
登録された発明や図案は、王国図書館へ保管する。
閲覧は自由。
学習も自由。
研究も自由。
改良も自由。
個人が使う分には、無料。
石鹸を家で作る。
農具を真似して作る。
日用品を自分の家で使う。
服の図案を参考に、自分や家族の服を仕立てる。
それは一切禁じない。
だが、商業利用は別だった。
製造販売。
大量生産。
商会による販売。
ギルド単位での運用。
そこには、発明利用料が発生する。
その利用料の一部は発明者へ。
一部は、制度を管理する王国へ。
そして、流通や販売を支える者達にも利益が回る。
紙の上には、短い理念が記されていた。
知識は公開する。
利益は共有する。
「……なるほどな」
オルガは、紙から目を離さなかった。
「独占じゃねぇのか」
「ええ」
エミリアはあっさり頷いた。
「知識を独占する気はないわ」
その言葉は、意外なほど明確だった。
「知識は広める」
「学ばせる」
「真似させる」
「競争させる」
「改良させる」
「その結果として、国が発展する」
オルガは黙って聞いていた。
「ただし、商売に使うなら金を払いなさい、というだけよ」
「個人で使う分は自由。商売にするなら使用料を取る」
「そう」
「発明した奴にも金が入る」
「ええ」
「王国にも金が入る」
「もちろん」
エミリアは、そこでにやりと笑った。
「私も儲かるのだけれど」
「そこが本音だろ」
「失礼ね。全部本音よ」
オルガは紙をめくった。
制度としては、かなり厄介だった。
登録簿がいる。
誰が作ったかを記録しなければならない。
どこまでが真似で、どこからが改良かを判断する必要もある。
商人は必ず抜け道を探す。
職人は勝手に改良する。
似たような品を、これは別物だと言って売る者も出る。
間違いなく揉める。
だが。
間違いなく、儲かる。
「嬢ちゃん」
「何かしら」
「これ、かなり面倒だぞ」
「でしょうね」
「管理がいる。記録がいる。審査がいる。揉め事を裁く基準もいる」
「ええ」
「分かってんのか?」
「分かっているわ」
エミリアは楽しそうだった。
むしろ、揉めることまで計算に入れている顔だった。
「真似できるなら、真似してみなさい」
その声には、揺るぎない自信があった。
「研究も改良も競争も、私は歓迎するわ」
「抜け道を使う奴は?」
「合法である限り、処罰しない」
「いいのかよ」
「ええ」
エミリアの口元が、わずかに吊り上がる。
「面白いじゃない」
オルガは嫌な予感がした。
「まさか」
「法の隙間を見つけて、こちらの想定を超える商売をする者がいるなら、それは優秀な人材よ」
「やっぱりか」
「会わせなさい」
エミリアは当然のように言った。
「囲い込むわ」
「悪党の発想だな」
「悪の女王だもの」
「便利な言葉だな、それ」
オルガは呆れながらも、紙から目を離せなかった。
知識を広めれば、職人が育つ。
職人が育てば、品が増える。
品が増えれば、商人が動く。
商人が動けば、金が回る。
金が回れば、税が増える。
税が増えれば、王国はさらに投資できる。
そして、その起点になったエミリアも儲かる。
腹立たしいほど、よくできていた。
「ただし」
エミリアの声が、急に冷たくなった。
「粗悪品、品質偽装、詐欺、偽物、消費者に被害を出す商売」
その瞳に、黒い光が宿る。
「これは許さない」
オルガは顔を上げた。
「見苦しいわ」
エミリアは言った。
「潰しなさい」
室内の空気が、わずかに重くなる。
ルミは微笑んだまま。
ルナは無言で控えている。
オルガは、エミリアを見た。
悪の女王を名乗る少女。
だが、その言葉は商売を潰すためのものではない。
商売を守るためのものだった。
真似はいい。
競争もいい。
改良もいい。
抜け道すら、合法なら評価する。
だが、客を騙すな。
価値を偽るな。
粗悪品で市場を腐らせるな。
それだけは、許さない。
「……つまり」
オルガは紙を机に置いた。
「嬢ちゃんは、知識をばら撒いて職人を育てて、商人に売らせて、国民に買わせて、税を取って、その上で自分も儲けるつもりか」
「ええ」
「欲張りだな」
「当然でしょう」
エミリアは堂々と言い切った。
「私は悪の女王よ」
そして、指先で自分の胸元を軽く示す。
「国民が豊かになる」
「商人が儲かる」
「職人が育つ」
「税収が増える」
「王国が発展する」
「そして、私も儲かる」
彼女は笑った。
「完璧な循環じゃない」
オルガは、しばらく黙っていた。
やがて、肩を震わせる。
笑っていた。
乾いた笑いではない。
呆れと感心が混じった、商人の笑いだった。
「はは……」
本当に。
先王は、とんでもない娘を残したものだ。
「で」
オルガは制度案の紙を軽く振った。
「この制度、俺に管理しろってことだな?」
「ええ」
「補佐官を寄こした理由が、よく分かったよ」
「理解が早くて助かるわ」
「助かってねぇよ。仕事が増えてるんだよ」
「でも、儲かるわ」
「それはそうだな」
オルガは、にやりと笑った。
疲れた顔ではあった。
だが、その目には光が戻っていた。
「いいぜ、嬢ちゃん」
「受けるのね」
「ああ」
オルガは制度案の紙を机に置いた。
「これは商人として、見逃せねぇ」
エミリアは満足げに微笑む。
「では、任せたわ」
「ただし」
「何かしら」
「俺の取り分は、きっちり貰う」
エミリアの笑みが深くなる。
「もちろんよ」
「それと、ルナは借りる」
「ええ」
「追加の人手も寄こせ」
「検討するわ」
「今すぐ寄こせ」
「欲張りね」
「嬢ちゃんに言われたくねぇよ!」
オルガの叫びが、執務室に響く。
エミリアは楽しそうに笑った。
王国はまだ、立て直しの途中だった。
制度も足りない。
人材も足りない。
金も、物資も、時間も足りない。
だが。
知識がある。
作る者がいる。
売る者がいる。
使う者がいる。
そして、それを回す仕組みを作ろうとする者がいる。
滅びかけた王国は。
少しずつ、ただ救われるだけの国ではなくなっていた。
自ら価値を生み出し。
自ら学び。
自ら競い。
自ら豊かになる国へと。
悪の女王の名のもとに、変わり始めていた。
その頃。
一連の話を、最初から最後まで聞いていたエミリアの魂は。
(何か、とてもすごいお話をしているのは分かるのですが……)
真剣に考え込んでいた。
(正直、ほとんど分かりません……)
知識を公開する。
利益を共有する。
個人利用は無料で、商業利用は有料。
粗悪品は潰す。
合法的な抜け道を探した者は、なぜか褒められる。
どれも大事な話なのだろう。
大事な話なのだろうが。
エミリアには、途中からほとんど追いつけなかった。
けれど。
オルガが疲れた顔をしながらも笑っていること。
ルミが穏やかに控えていること。
ルナという新しい補佐官が、静かに書類を抱えていること。
そして、蓮がまた一つ、この国を前に進めようとしていること。
それだけは、分かった。
(……でも)
エミリアは、小さく思う。
(私の服も、少しは役に立っているのでしょうか)
その問いに答える者は、まだいなかった。
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