月狂の聖女 セリア
中央陣を穿った白銀の奔流が、シルヴァニア軍の隊列を大きく切り裂いていた。
焼け焦げた大地には長い傷跡が刻まれ、その左右では隊列を乱された兵士達が怒号を飛ばしながら陣形を立て直そうとしている。折れた槍、砕けた盾、巻き上がる土煙。その中央を、一人の少女がゆっくりと歩いていた。
艶のある黒髪が風に揺れ、髪に添えられた薔薇の飾りが淡い光を返す。身につけているのは黒を基調とした巫女服。肩口から腋にかけて大胆に開いた衣装は戦場にはひどく不似合いで、小柄な身体も、周囲を埋め尽くす屈強な兵士達とは対照的だった。
だが、その少女――セリアへ近づこうとする者はいない。
先ほど彼女が放った《月光【交響】《ルミナス・シンフォニア》》が、真正面から軍勢を薙ぎ払い、ここまでの道を作ったばかりなのだから。
「まだ、たくさんいらっしゃいますね」
セリアは周囲を見回し、両手を静かに開いた。
空から降り注ぐ白銀の光が、彼女の周囲へ集まる。
「月光【狂想】《ルミナス・カプリチオ》」
次の瞬間、無数の光芒が弾けた。
一本の月光が地面へ突き刺さり、跳ね返る。その光が盾へ当たり、さらに軌道を変え、兵士達の間を縫うように駆け抜ける。別の光と交差し、分かれ、再び反射し、白銀の軌跡が幾重にも戦場を覆っていった。
「散れ!」
「盾を固めろ!」
叫び声が上がる。
だが、盾を構えれば光はそこで軌道を変える。避けた先には別の一条が待っている。地面すれすれを這った光が脚を薙ぎ、頭上から反射した光が肩を打つ。
光そのものが戦場を跳ね回っているようだった。
やがて、乱舞が収まる。
倒れた兵士達がそこかしこに転がり、まだ立っている者達も完全に足が止まっていた。
セリアはその光景を見渡し、小さく首を傾げる。
「……いえ」
紫の瞳が、倒れた兵士達を静かに追う。
「これでは駄目ですね。私の望む悪いことではありません」
敵を倒すだけなら簡単だ。
エミリアから与えられた命令に従い、目の前の兵士達を片端から無力化することもできる。
だが、それだけでは足りない。
もっと、悪の女王に仕える者らしく。
もっと多くの者へ、エミリアの素晴らしさを知らしめなければ。
セリアは胸元で両手を合わせた。
先ほどまで攻撃的に飛び交っていたものとはまるで違う、柔らかな月光が彼女の周囲へ集まり始める。
異変に気づいた兵士達が一斉に身構えた。
「また来るぞ!」
「離れろ!」
だが、セリアは攻撃しない。
静かに祈りを捧げるだけだった。
黒髪の輪郭が白銀に縁取られ、紫の瞳へ穏やかな光が映り込む。そして、彼女の頭上へ集まった月光が次第に丸みを帯び、小さな満月を思わせる光球となった。
「月光【夜想曲】《ルミナス・ノクターン》」
光が降り注ぐ。
兵士達は反射的に盾を上げた。
だが、痛みはない。
熱も、衝撃もない。
柔らかな月明かりが、ただ全身を包み込んでいく。
「……なんだ?」
一人の兵士が呟く。
握っていた槍から、僅かに力が抜けた。
胸を焦がしていた恐怖が薄れていく。目の前の敵を倒さなければ、自分が殺されるという焦燥も遠のいていく。荒かった呼吸が静まり、張り詰めていた肩が落ちた。
頭の中に渦巻いていた戦場の雑音まで、少しずつ遠くなる。
それは心を壊す月光ではなかった。
むしろ、人の精神を安らぎへ導く光。
だからこそ、戦場では恐ろしい。
闘争心も、警戒心も、敵意さえも、穏やかな静寂の中へ沈めてしまう。
「……綺麗だ」
誰かがぽつりと漏らした。
その時。
ちりん――。
澄んだ音が響いた。
兵士達が顔を上げる。
ちりん。
ちりん。
鈴の音にも似た、透き通った響き。
どこにも楽器はない。人間の喉から発せられる歌声でもない。それでも、その音には確かに旋律があった。
人には、そのまま聞き取ることのできない歌。
月と死と転生を司る禍津神ルミナの歌声が、セリアの神聖魔法によって、人の心へ届く形へ変えられている。
「狂歌・謳」
セリアが微笑んだ。
月光の下に立つ少女へ、兵士達の視線が集まっていく。
「皆さん。あなた達に安らぎを与えているのは、月の導きです。怖がる必要はありません。どうか、心を開いてください」
声が鈴の響きへ溶け込んでいく。
「あなた達の導となるのは、エミリア様です。ラクシュ様ではありません」
何人かの兵士の瞳が揺れた。
全員ではない。
強くラクシュを信じる者。セリアをただ敵としか見られない者。音が十分に届かなかった者。そうした兵士達は、困惑しながらも武器を握り続けている。
だが。
月光に心を鎮められ、セリアの言葉に僅かでも心を動かされた者達には、変化が起きていた。
「武器を向ける相手を間違っていますよ」
セリアは、諭すように微笑んだ。
「さあ。私と一緒に戦いましょう」
一人の兵士が振り返った。
隣にいた男が眉を寄せる。
「……おい?」
答えはない。
槍が翻った。
穂先が向いたのは、セリアではなかった。
「なっ――!」
槍が隣の兵士の肩を打つ。
その瞬間、別の場所でも剣が抜かれた。
前列の兵士が突然後方へ斬りかかり、何が起きたのか理解できない者達が反射的に武器を構える。
「やめろ! 味方だぞ!」
「敵は向こうだ!」
「違う! こいつら、操られてる!」
怒号が重なる。
しかし、一度崩れ始めた隊列は止まらない。
セリアへ心を動かされた者達には迷いがなかった。自分達こそ正しい道を選んだと信じている。
逆に、刃を向けられた側には迷いがある。
昨日まで同じ鍋を囲んだ仲間。
肩を並べて訓練した同胞。
そんな相手を、即座に斬り返せる者ばかりではない。
その一瞬の躊躇が被害を広げた。
旗手が倒れ、部隊の目印が失われる。伝令が仲間同士の乱戦に巻き込まれ、指揮官の命令が後列まで届かない。
「陣形を維持しろ!」
「まず武器を下ろさせろ!」
「どいつが敵なんだ!」
命令そのものが錯綜する。
ある部隊では、操られた兵士を止めようと数人が取り押さえ、その背後から別の操られた兵士が斬り込んだ。別の場所では、反撃した兵士を見て、その事情を知らない後列が仲間割れを始めたと誤解する。
シルヴァニア軍の一角が、敵の攻撃ではなく内側から崩れていった。
セリアはその光景を見渡し、満足そうに頷く。
「皆さんを正しく導くことができました」
「――やはり、禍津神の仕業だったのか!」
戦場を震わせる怒声が響いた。
セリアが振り返る。
混乱する兵士達を押し分けるように、一人の巨漢が進み出ていた。
トロール王、アルトリウス。
その巨躯を覆う鎧の隙間から、淡い緑の輝きが漏れている。両手には重厚なガントレット。足を踏みしめるたび、大地から吸い上げられた力が全身へ巡り、筋肉をさらに膨れ上がらせていく。
アルトリウスは、仲間同士で争う兵士達を見回した。
怒りに顔を歪める。
「人の意思をねじ曲げ、同胞へ刃を向けさせるとは……汝は邪悪なり!」
セリアは僅かに眉を寄せた。
「いきなり現れて、随分と失礼な方ですね」
「何だと?」
「人を正しい道へ導く。それが聖職者の務めですよ?」
本気で言っている。
アルトリウスのこめかみが引きつった。
「望まぬ道を進ませることを、邪悪と言っているのだ!」
セリアは少し考え、それから首を傾げた。
「では、崖へ向かって歩いている人がいたとして、あなたはその背中を押すのですか?」
「なに?」
「私は呼び止めて、正しい道を教えているだけです」
穏やかな笑顔。
一片の迷いもない。
アルトリウスは数秒、言葉を失った。
「……話が通じん!」
大地を踏み締める。
緑の光が全身を包んだ。
「ならば、我が力をもって民を救おう!」
アルトリウスが地面を蹴った。
巨体が一気に加速する。
「月光【狂想】《ルミナス・カプリチオ》」
白銀の光芒が迎え撃つ。
だがアルトリウスは止まらない。
右のガントレットで正面の光を叩き落とし、左から迫る一条を身を沈めて躱す。そのまま前へ踏み込み、反射して戻ってきた光を手甲で逸らした。
月光が地面を抉る。
「近寄ってしまえば、そのような魔法も使えまい!」
一気に間合いを潰す。
拳が迫る。
セリアは正面から受けなかった。
前腕を添え、外側へ軌道を逸らす。
続く左拳。
半歩踏み込み、今度は身体を捻って肩口を掠めさせる。
そのまま空いた脇腹へ掌底を返した。
アルトリウスは肘を落として受け、腰を回しながら衝撃を横へ流す。
すぐさま膝。
セリアは腿を上げて受け止め、力を殺しながら後ろへ半歩滑った。
アルトリウスはそこで止まらない。
膝を下ろす勢いのまま踏み込み、肩から体重をぶつける。
セリアは横へずれ、真正面の衝撃を外す。
巫女服の袖が風を孕んだ。
拳。
掌底。
肘。
蹴り。
至近距離で何度も攻防が入れ替わる。
セリアもまた、インティの下で格闘を修めている。
剛拳を受ければ腕を添えて軌道を変え、蹴撃が来れば身体の軸をずらして威力を逃がす。避け切れない攻撃だけを前腕や肩で受け、その残った衝撃をクロエの防御付与へ任せる。
決して、一方的に打たれているわけではない。
むしろ、純粋な膂力ではセリアが上だった。
一度でも真正面から拳を返されれば、アルトリウスの巨体が僅かに揺れる。
「何という力よ……!」
アルトリウスがセリアの右拳を外へ流す。
「その小柄な身体の、どこにこれほどの力が……!」
返す左拳。
セリアは頭を傾けて躱し、拳が黒髪を掠めた。
すぐに足払い。
アルトリウスは跳ばず、片足を引いて軸をずらす。そのまま踵を返し、回し蹴りへ繋げた。
セリアは両腕で受ける。
だが真正面ではない。
当たる瞬間に身体を捻り、衝撃の方向へ自ら流れる。
それでも重い。
足元の土が削れ、数歩分だけ身体が横へ滑った。
セリアはすぐに姿勢を戻す。
技量。
経験。
間合いの取り方。
そこではアルトリウスが上だった。
セリアの身体能力を真正面から受けず、攻撃を流し、返し、僅かな隙へ拳を差し込む。
一方のセリアも、その攻撃を完全には受けない。
いなし、逸らし、逃がす。
そして、最後に残った分だけを防御付与へ受けさせる。
互いに有効打がない。
アルトリウスが一度距離を取った。
「業腹だが……私一人では攻め切れぬか」
荒くなった呼吸を整えながら、背後へ一瞬だけ視線を走らせる。
「だが、時間を稼げればいい」
「困りましたね……」
セリアも構えを解かないまま、小さく息を吐いた。
「もっと多くの方に、エミリア様の威光をお示ししたいのですが……仕方ありません」
白銀の光が集まり始める。
アルトリウスが目を細めた。
「無駄だ! この距離では当たらぬ!」
再び踏み込む。
今までの月光は、すべて外へ放たれていた。
この距離なら、発射の瞬間を見てからでも叩き落とせる。
そう判断した。
だが、光は飛んでこなかった。
月光がセリアの両腕へ絡みつく。
指先から拳、手首、前腕へ。
まるで白銀の籠手を作るように、濃密な光が両拳へ宿っていく。
「なにっ!?」
セリアが踏み込んだ。
「月光・独奏【ルミナス・カデンツァ】」
拳が振り抜かれる。
アルトリウスは両腕を交差させ、ガントレットで受け止めた。
拳そのものの衝撃。
ドールズの膂力による、純粋な物理打撃。
それと同時に。
拳へ宿った月光が炸裂した。
物理と魔力。
二つの衝撃が同時にアルトリウスへ叩き込まれる。
「ぐぉっ!?」
加護を纏った巨体が大きく後方へ押し飛ばされた。
足が地面を削る。
それでも耐えようと踏ん張る。
だが、続けてセリアが踏み込んだ。
もう一撃。
白銀の拳がガントレットを打つ。
肉体を打つ衝撃の直後に、月光の力が重なる。
今度こそアルトリウスの足が地面から浮いた。
数メートル後方へ弾き飛ばされ、背中から地面へ叩きつけられる。
「その防御ごと、貫いてあげましょう」
セリアは拳を構え直す。
両手には、まだ月光が宿っている。
アルトリウスがゆっくり立ち上がった。
腕が痺れている。
加護は消えていない。
だが、肉体だけを守ればいい攻撃ではなかった。
物理を止めても、月光が来る。
月光を防いでも、拳そのものが重い。
「禍津神の使徒に……負けるわけには……」
大地を踏み締める。
緑の光が再び全身へ巡る。
「豊穣神の名のもとに、負けるわけにはいかない!」
その言葉を聞き、セリアの動きが止まった。
「アルトリウスさん」
「なんだ!」
「あなたの信仰は、本物なのですか?」
アルトリウスの眉が吊り上がる。
「当然だ!」
胸を張る。
「誇りあるトロール王である私は、ラクシュ様の第一の使徒である!」
「そうですか」
セリアは頷いた。
「では、祈りを捧げる姿勢は正しいのですか?」
「…………」
アルトリウスの顔が固まった。
セリアはその反応を見逃さない。
「私は、ラクシュ様へ捧げる正しい祈りを知っています」
「待て」
「こうです」
「待てと言っている!」
セリアは少し腰を落とし、身体を前へ傾けた。
両手を顔の横へ持ち上げる。
左右の指で、半分ずつのハートを作る。
そのまま頬へ添え。
ぷにっ。
柔らかな頬を軽く押しながら、にこりと笑った。
「これが、ラクシュ様へ祈りを捧げる正しい姿勢です!」
アルトリウスの顔が引きつった。
そして。
脳裏に、忘れようとしても忘れられない記憶が蘇った。
――まだ公国を導き始めたばかりの頃。
目の前には豊穣神ラクシュ本人がいた。
『違うわ! もっと可愛く!』
両手を頬へ添え、左右の指でハートを作りながら、ラクシュが胸を張る。
『頬をこうして――そう! もっときゅっと!』
『……ラクシュ様。本当に、これを……?』
『当然じゃない! ワタクシ様へ祈るんだから、美しくて可愛くなくちゃ駄目でしょ!』
そして、満面の笑み。
『これがワタクシ様へ捧げる、正しい祈りの姿勢よ!』
――間違いない。
セリアの姿勢は、一分の狂いもない。
紛れもなく。
豊穣神ラクシュ本人から教えられた、正式な祈りだった。
だからこそ。
「やれるかぁぁぁぁぁ!!」
アルトリウスの絶叫が戦場へ響き渡った。
「隙あり!」
「なっ――」
セリアが踏み込む。
月光を宿した正拳突きが、アルトリウスの腹部へ突き刺さった。
物理の衝撃と白銀の光が同時に炸裂する。
「ぐぉっ……!」
アルトリウスの身体がくの字に折れる。
そのまま膝をついた。
「ひ、卑怯な……」
「信仰心の差です!」
セリアは胸を張った。
実に誇らしげな笑顔だった。
「私のエミリア様への信仰は、揺るぐことはありません!」
アルトリウスが顔を上げる。
「お前も違うだろうがぁぁぁぁぁ!!」
最後の力を振り絞った叫びが響き。
ばたり。
トロール王アルトリウスは、その場へ倒れ伏した。
その胸は、ゆっくりと上下している。
周囲では今もなお、月光と鈴の音に導かれた兵士達によって、シルヴァニア軍の混乱が続いている。
セリアは倒れたアルトリウスを一瞥し、穏やかに微笑んだ。
「エミリア様の教えのおかげで、また一つ、悪いことができました」
月光の下で、聖女はどこか誇らしげに胸を張った。」
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