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狂瀾の篤学者 クロエ

 シルヴァニアの平原は、すでに戦場としての原形を失いつつあった。踏み荒らされた草地には無数の足跡が刻まれ、折れた槍や砕けた盾が転がっている。遠くでは剣戟と怒号が絶えず響き、立ち上る煙が焦げた草と血の匂いを風に乗せて運んでいた。


 長く流れる淡い金髪に、細縁の眼鏡。黒地に金の刺繍を施したチャイナドレスの上から、白衣を無造作に羽織っている。白衣だけを見れば研究者に見えなくもないが、その下は華やかなチャイナドレスだ。泥と血にまみれた兵士達が殺し合うこの場所には、どう考えても場違いな格好だった。


 クロエの傍らには、一つの球体が静かに浮かんでいる。


 万式演算球。さまざまな魔法を表す言葉を記録し、クロエ自身の身体を回路として用いることで初めて完成する、彼女専用の試験魔導具だった。


 本来なら、新しい魔導具を試すたびに試作用のサーキットを組み、現象を確認し、失敗すれば修正してまた組み直さなければならない。ならば、必要になりそうな言葉を一つに詰め込み、自分自身を可変回路にしてしまえばいい。そんな発想から生まれた完全なワンオフ品である。


「さて……まずは場所を作ろうかなぁ」


 クロエが指先を動かすと、戦場の一角を丸ごと覆うように巨大な半球状の膜が広がった。兵士も武器も自由に通れる。ただし、クロエが指定した気体だけは外へ逃がさない。


 その内側へ、さらに二つの小さな結界を作る。一つは溶融した大地を外へ出さず、もう一つは吹雪と氷晶を外へ漏らさない。それ以外のものは、やはり自由に通る。


「これでいいねぇ」


 まずは外側の膜。


「【気体作成】――酸素」


 万式演算球が淡く光り、巨大な膜の内部へ少しずつ酸素が加えられていく。すぐに結果が出るものではない。なら、その時間は別の実験に使えばいい。


 クロエは一つ目の小さな結界へ視線を移した。


「【大地】【熱】【気体作成】」


 地面が震え、兵士達の足元が赤く染まり始める。土も岩も急速に熱せられ、やがて輪郭を失って粘つく赤い液体へと変わった。そこへ生成された気体が混ざり込み、表面へ大きな泡が浮かぶ。


「な、なんだ……?」


 兵士が足元を見た直後、ぼこりと泡が弾け、赤熱した飛沫が噴き上がった。


「うわあああっ!?」


「地面が溶けてるぞ! 逃げろ!」


 溶岩が地面を這い、逃げ遅れた兵士の鎧へ赤い飛沫が降りかかる。焼けた金属の臭いと悲鳴が重なり、退路を失った兵士達が押し合った。転倒した者がそのまま赤熱した流れへ呑み込まれ、さらに悲鳴が上がる。


 結界は彼らを閉じ込めていない。外へ出ようと思えば出られる。だからこそ、生き残った兵士達は我先にと結界の外へ駆け出した。


 熱風に煽られ、クロエの長い金髪と白衣の裾が大きく揺れる。眼鏡へ赤い光を映しながら、彼女は満足そうに頷いた。


「うんうん。気体を混ぜると、ちゃんと噴き上がるねぇ」


 一度発生させてしまえば、あとは結界が溶岩をその場へ留める。クロエはすぐに演算球を次の処理へ回した。


「次は……【熱】【水】【風】」


 今度は一気に熱が奪われる。生み出された水分が細かな氷晶へ変わり、強風に巻き上げられた。瞬く間に白銀の吹雪が結界内部を埋め尽くし、兵士達の視界を奪う。


「さ、寒っ……!」


「目が開けられん!」


 細かな氷晶が露出した皮膚を叩き、指先の感覚を失った兵士が武器を落とす。凍った地面で足を滑らせ、転倒した者の上へ仲間が折り重なった。冷気は鎧の隙間から容赦なく入り込み、動きの鈍った者から次々と膝をついていく。


 それでも、人を阻む結界ではない。生き残った兵士達は必死に吹雪の外へ逃げ出した。


 頬へかかった金髪を黒い手袋の指で払い、クロエは白く霞む実験区画を眺める。


「風を強くすると、思ったより危ないねぇ。これも覚えておこうかなぁ」


 これで二つ目も放っておける。


 溶岩と吹雪から逃れた兵士達は、その間の何も起きていない場所へ集まっていた。炎もない。氷もない。足元も普通の地面だ。


「助かった……」


「なんなんだ、あの女……」


「とにかく離れろ……!」


 誰もが、ようやく危険から逃れたと思っている。だが、そこもまだ巨大な膜の内側だった。


「さて……そろそろかなぁ」


 クロエは再び外側の膜へ意識を戻した。先ほどから酸素は増え続けている。今度は内部へさらに気体を生成し、それを【操作】して全体の気圧を徐々に引き上げていく。


「確か、エミリア様から教えてもらった酸素濃度は……これで良いはず」


 酸素濃度を上げる処理と、気圧を上げる処理は別だ。クロエはそれぞれを確かめるように調整し、結果を待った。


 数分後、一人の兵士が耳を押さえた。


「……なんだ、耳が……」


 別の兵士も顔をしかめる。


「耳鳴りがする……」


「頭が……痛い……」


 耳の奥に圧迫感が生まれ、頭が重くなる。眩暈を訴えてふらつく者が現れ、同じ異常を訴える兵士が次々と増えていった。炎も吹雪もない。毒を浴びた覚えもない。それでも身体は確実に動かしにくくなっていく。


 クロエはその様子を観察し、満足そうに頷いた。


「結果は……上々だねぇ」


 溶岩。ダイヤモンドダスト。そして空気そのものの環境変化。


 戦場は、すでにクロエにとって巨大な実験場となっていた。


「……随分と好き勝手やってくれたものだ」


 低い声が響き、クロエが振り返る。


 倒れた兵士達の向こうから、揃いの装備を身につけた集団が整然と進んできた。その数、およそ百。シルヴァニアの魔法師団である。


 先頭に立つのは、公国宰相セルディウスだった。


「へぇ。今度は魔法使いかぁ」


 クロエの目が僅かに楽しそうに細められる。


 セルディウスは溶けた大地と凍りついた地面、そこかしこに倒れる兵士達へ一瞥を送り、すぐに号令を飛ばした。


「全員、配置につけ! 第一撃、火!」


 百人近い魔法使いが一斉に散開し、それぞれの前へ炎を生み出した。大きさも形も少しずつ異なる。一人一人が無理なく扱える程度の火力で、それが同時にクロエへ放たれる。


「なんだぁ。単純だねぇ。数で押すだけなんて」


 クロエは一枚の【障壁】を展開した。その程度なら十分――そう判断した瞬間、セルディウスが僅かに口元を吊り上げる。


「――【合成】」


「……え?」


 飛来していた無数の炎が、途中で互いへ引き寄せられた。次々と重なり、百人分の火炎が一つの巨大な炎へ変わっていく。そのままクロエの障壁へ激突し、半透明の壁へ一気に亀裂が走った。


「おっと」


 次の処理へ移ろうとした時には、もう遅かった。障壁が砕け、猛烈な炎がクロエを呑み込む。


「やった!」


 魔法師達から歓声が上がったが、セルディウスだけは炎から目を離さなかった。


「次だ! 氷を準備しろ!」


「セルディウス様? ですが、もう――」


「この程度で倒せる相手なら、百人も集めん!」


 その言葉を証明するように、炎の向こうから咳き込む声が聞こえた。


「けほっ……けほっ……びっくりしたよぉ」


 煙の中からクロエが姿を現す。白衣は煤で汚れ、長い金髪の先も少し焦げていたが、身体にはほとんど傷がない。


「耐火が間に合わなかったら危なかったねぇ。でも……その魔法、面白いねぇ」


 クロエは煤を払いながら、セルディウスを見つめる。


「発動した後の魔法そのものを合わせたのかい? もっと見せてくれないか?」


「……化物が。予定通りだ、順番に放て!」


 炎、氷、風、大地。魔法師団は次々と異なる攻撃を繰り出し、セルディウスはそれらを必要に応じて【合成】する。


 クロエは障壁で受け、時には魔法で相殺しながら、そのすべてを観察していた。一人一人は無茶をしていない。各自が扱いやすい魔法を完成させ、セルディウスはその結果だけを後からまとめている。


 攻防の最中、クロエは【熱】を使って自分の身体へ少しずつ熱を蓄えていった。飛んでくる魔法を処理しながら、それとは別に熱を重ねていく。


 やがて、その熱を表へ放出した。


「【火】」


 蓄えた熱を利用して生まれた炎が、一気にセルディウス達へ襲いかかる。


「なにっ!? 障壁を!」


 魔法師達が慌てて防御を展開し、炎を受け止めた。セルディウスの表情が強張る。


「相手に反撃の隙を与えるな!」


 号令と共に攻撃の密度がさらに上がる。


 クロエは新たに飛んできた魔法を障壁で受けながら、小さく呟いた。


「……なるほど」


 検証は成功した。


 セルディウス達の攻撃はさらに激しくなる。


「次! 氷だ!」


 その号令と同時に、クロエの正面へ無数の氷塊が現れた。


 だが、それはすべて幻だった。


 複数の魔法使いが【幻影】によって大量の氷塊を作り出し、それらがあたかも【合成】されて巨大な氷塊へ変わっていくように見せている。


「また氷かぁ」


 クロエの注意が正面へ向く。


 クロエがこちらの魔法を注意深く観察していることは、セルディウスにも分かっていた。ならば、次はその目を欺けばいい。


 正面には偽の氷塊。その裏で、魔法師団の大多数がクロエの背後へ本物の火炎を生み出す。さらに別の幻影使い達が、その炎の姿を完全に覆い隠した。


 セルディウスにとっては、単純な正面攻撃では対応される相手へのフェイントだった。ただその時、クロエ自身は飛来する魔法への対処だけでなく、観察、演算、実験まで同時に進めていた。その僅かな処理の遅れが、結果としてセルディウスの策を通す。


「――【合成】」


 背後に隠されていた無数の炎が一つになる。


 さらに。


「【圧縮】!」


 クロエの目が見開かれた。


 セルディウスが初めて見せる手札だった。巨大な火炎が一気に細く絞り込まれ、高密度の一本の炎槍へ変わる。


 正面から迫る巨大な氷塊――の幻影。背後から迫る、本物の炎槍。


「……っ」


 異変に気づいた時には遅かった。炎槍がクロエの背中へ突き刺さり、爆音と共に炎と煙が巻き上がる。


 魔法師達が息を呑んだ。


「……やったか?」


 セルディウスが目を凝らす。


 数秒後。


「ひどいよぉ。白衣に穴が空いちゃったじゃないかぁ」


 煙の向こうから声がした。


 やがて現れたクロエの白衣には、小さな焦げ穴が開いていた。その下から黒と金のチャイナドレスが僅かに覗いている。


 クロエは穴を指先で摘まみ、本気で困ったように眉を下げる。


「エミリア様に怒られてしまうよぉ……誰か裁縫の得意な人、いたかなぁ」


 白衣にも、その下の衣類にも防御付与が施されている。体術に自信のないクロエが、自分だけ二重に仕込んでいた保険だった。炎槍は一段目を突破したが、二段目までは届いていない。


 しばらく白衣の穴を眺めた後、クロエはセルディウスへ視線を戻す。


「でも……白衣の防御を抜いたんだぁ。今のはかなり良かったねぇ」


 セルディウスの顔が引き攣る。


「そうだねぇ……三枚あれば大丈夫かな」


 クロエの前へ、三重の障壁が展開された。


「撃て!」


 魔法師団の攻撃が殺到する。一枚目が砕け、二枚目も砕ける。三枚目へ魔法が叩きつけられ――そこで止まった。


 クロエはもう、その結果すら見ていない。必要な防御力は分かった。ならば、そこへ思考を割く必要もない。


「【火】【熱】【遅延】」


 一つの火球が生まれ、その場に留まる。


 万式演算球は一つしかない。だから、一つ作って残し、次の処理へ移る。さらにもう一つ。同じように【遅延】で留め、また次へ。そうしてクロエの周囲へ、複数の高熱の火球が順番に並んでいった。


「……うん、こんな感じかなぁ」


 次にクロエは地面へ手を向ける。


「【大地】【圧縮】」


 地面からいくつもの岩塊が持ち上がり、強く圧縮されて密度を増していく。


 セルディウスの顔色が変わった。


「まさか……」


 クロエは楽しそうに笑う。


「この魔法は、発動する前に組み合わせるか、発動した後に合わせるかの違いだろぅ?」


「そんな問題ではない!」


「そうかなぁ?」


 クロエが首を傾げる。


「――【合成】」


 発動済みの火球が動いた。圧縮された岩塊へ炎が重なり、その表面を包み込む。岩は見る見る赤熱し、真紅に染まっていった。


「……ほら、出来た」


 セルディウスが言葉を失う。


 クロエの瞳は、むしろ今まで以上に輝いていた。


「面白いよぉ。今まで処理が追いつかなくて出来なかった魔法だけど、この方法なら処理を分けられる」


 さらに火球を作り、【遅延】で残す。岩塊を作り、圧縮し、最後に【合成】する。


「素晴らしいねぇ」


「ふざけるな!」


 セルディウスが叫んだ。


「一人で出来る魔法ではない!」


 クロエがきょとんとする。


「でも、出来たよぉ?」


「全員、全力で障壁を張れ! 耐火と大地の壁も作れ! 私が合わせる!」


 魔法師達が一斉に動き出す。幾重もの障壁、厚い大地の壁、炎への耐性を高める魔法。それらが次々と形成される。


「――【合成】!」


 セルディウスがそれらをまとめ上げた。


 障壁に大地の壁が重なり、その全体へ耐火の性質が加わる。だが、同じ炎を一つにまとめるのとは負荷が違う。性質の異なる複数の現象を一つに保つため、セルディウスの身体が大きく揺れた。


「セルディウス様!」


「複数種類の【合成】は負荷が大きすぎます!」


 目元に赤い線が走る。鼻からも血が流れ、皮膚の薄い部分へ次々と血が滲んでいく。


「いいから全力を出せ! あの魔法は――!」


「も〜い〜かい?」


 楽しそうな声が届いた。


 セルディウス達が顔を上げる。


 煤で汚れた白衣。その脇腹には小さな焦げ穴が開き、長い金髪も少し乱れている。それでもクロエの表情だけは、心底楽しそうだった。


 その頭上には、真っ赤に赤熱した巨大な岩塊がいくつも浮かんでいる。


「ちゃんと受け止めてくれよぉ?」


 クロエが指を下ろす。


 赤熱した岩塊が一斉に落下した。空気を焼き、轟音を引き連れながら、まるで天から降り注ぐ災厄のようにセルディウスと魔法師団へ降り注いでいく。


     ◇


 ローゼンバーグ軍の後方。小高い場所へ設けられた茶席で、エミリアは紅茶を口へ運びかけたまま動きを止めた。


 遠くの空から、真っ赤に燃える巨大な岩塊が次々と落ちている。


「……え?」


 ルミも同じ方向へ目を向ける。


「どうかなさいましたか?」


「……メテオとか、この世界にあるの?」


 ルミは少し考えてから答えた。


「規模は違いますが……過去に数十人の魔法使いが儀式を行い、巨大な隕石の召喚に成功させた召喚魔法ならありますね」


「あるんだ……」


 エミリアは遠くで降り注ぐ赤熱した岩塊をしばらく眺めた。


「やっぱりこの世界、ファンタジーね」


     ◇


 轟音。


 大地が跳ねる。


 セルディウス達の複合防御へ、赤熱した岩塊が次々と叩きつけられた。障壁が軋み、大地の壁が砕け、耐火の魔法がまとわりつく炎を必死に抑え込む。


「耐えろぉぉぉっ!」


 最後の岩塊が落ちた。


 爆音と共に土煙が空高く舞い上がり、熱風が平原を駆け抜ける。クロエの白衣と長い金髪が大きく後ろへなびいた。


 やがて煙が薄れていく。


 セルディウス達は、まだ立っていた。


 複合防御は半ば崩壊し、何人もの魔法使いが地面へ膝をついている。セルディウス自身も顔を血で濡らし、杖を支えにどうにか立っていた。


 それでも、受け止めた。


 クロエはその結果を眺め、満足そうに頷く。


「うん。これならエミリア様も気に入ってくれるかなぁ」


 煤で汚れた白衣には、小さな焦げ穴。その下から黒と金のチャイナドレスが覗いている。周囲には赤熱した大地と凍りついた地面が広がり、土煙の向こうには倒れた兵士達がいる。


 そんな戦場の中心で、クロエは眼鏡の奥の瞳を楽しそうに細めた。


「悪の魔法使いっぽいだろぅ?」



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