獄天の刀使 シオン
ローゼンバーグ側の陣、その少し後方。
戦場を一望できる小高い場所に、そこだけ別の世界から切り取ってきたような茶席が設けられていた。
白いクロスを掛けた小さな卓には、銀のティーポットと二客のカップ、それに簡単な茶菓子まで並んでいる。遠くでは兵達の怒号と剣戟が絶え間なく響き、ときおり大地まで低く震えているというのに、卓上から立ち上る紅茶の湯気だけは穏やかだった。
エミリアは椅子へ深く腰掛け、長い脚を優雅に組んでいる。身に纏うのは、黒を基調に紫を差した軍装風のドレス。身体の線へ沿う端正な上衣には銀の装飾と黒薔薇があしらわれ、腰から流れる黒紫の布地が、吹き抜ける風を受けてゆるやかに揺れていた。長い銀髪もまた風に遊ばれ、そのたび淡い光を返している。
その向かいでは、ルミが白と黒を基調としたメイド服の裾を整えながら、静かな所作で紅茶を注いでいた。銀白の長い髪の間からは紫の瞳がはっきりと覗き、胸元や髪飾りには月を思わせる意匠が控えめに施されている。
ルミがティーポットを置いたところで、エミリアは紅茶を一口含み、遠くの戦場を見ながら口を開いた。
「ねぇ、ルミ? あなたからしたら大したことではないのかもしれないけど……シオンって、おかしくない?」
「何がでしょう?」
「剣聖とは聞いていたけど、この世界の達人って、あそこまでとんでもない人ばかりなの?」
ルミは少し考えるように戦場へ視線を向けた。
「すごいという意味でしたら、ドールズの皆様は全員すごいと思いますが」
「そうじゃなくて……ほら」
エミリアがカップを手にしたまま、顎先で戦場を示した。
◇
シオンは、一人で兵の群れの中を進んでいた。
月光を思わせる銀白の長髪は高い位置で束ねられ、背中を越えて長く流れている。その頭には白虎を思わせる大きな獣耳が二つ。人の耳はなく、その白い耳だけが周囲の足音や武器の擦れる音を拾い、細かく向きを変えていた。
身に纏うのは、黒を基調とした軍装風の制服。高い襟と身体に沿う細身の上衣には銀色の金具や鎖があしらわれ、腰には幾重もの細いベルトが重なっている。そこから長い黒布が外套のように流れ、所々に配された蒼緑の装飾が僅かな彩りを添えていた。脚を包む黒いストッキングと膝上まで届くブーツも、装飾性を残しながら動きを妨げないよう身体へ馴染んでいる。
腰には、一振りの黒刀。
ミスリルを鍛え上げた刀身は、光を反射して輝くのではなく、周囲の光を吸い込むような深い黒を帯びていた。
白い獣耳が、ぴくりと前を向く。
十数人の兵が、正面から一斉に迫ってきた。
シオンは黒刀を振るう。
「――《飛斬》」
ただ一度。
だが、刀から離れた斬撃は地面を深く削りながら一直線に走り、その先にいた兵達をまとめて薙ぎ払った。遅れて、大地そのものへ長い亀裂が刻まれる。
◇
「……あれ、昔から剣で出来たらしいのよ」
エミリアが呟く。
「そうなのですか?」
「ええ。だから『剣で出来るなら、刀でも大体出来るんじゃない?』って言ったの」
「出来たのですね」
「出来たわ。……普通、出来るものなの?」
「私に聞かれましても」
◇
続いて迫った兵達が槍を突き出す。
シオンは黒刀を僅かに引いた。
一度。二度。三度。四度。五度。
ほとんど重なって聞こえた五つの金属音。次の瞬間には、五人の兵がそれぞれ武器を弾かれ、その場に崩れていた。
◇
「あれも元々、剣で出来たそうよ」
「五回ですか?」
「五回。有名な三段突きってあるじゃない? だから『ああいう技もあるのよ』って話をしたら、『私は五回出来る』って」
「三段ではないですね」
「そうなのよ」
「では、シオン様の方が多いですね」
「だから、そういう問題じゃないのよ……」
◇
別の兵が剣を振り下ろす。
シオンは受け止めなかった。黒刀が横へ走り、相手の剣を断つ。そのまま鎧まで切り裂かれ、兵士が地面へ転がった。
シオンは何事もなかったように刀を戻す。白い獣耳だけが、次の敵の足音を拾って僅かに後ろを向いた。
◇
「斬鉄って、もっとこう……奥義っぽいものじゃなかったかしら」
「鉄は斬れていますね」
「見れば分かるわよ」
エミリアは小さく溜息を吐いた。
その直後、戦場にいるシオンの黒刀へ淡い光の粒が集まり始める。光は刀身へ纏わりつき、その先へ長く伸びていった。やがて、実体のない巨大な刃が黒刀を覆うように形成される。
シオンが横薙ぎに振るう。
光の刃が兵の一団をまとめて薙ぎ払い、何人もの身体が地面を転がった。
「挙げ句の果てには、闘気まで使うじゃない」
「以前から無意識には扱っていたようですね」
「そうなのよ。本人は何となく使ってたらしいんだけど、私が概要を説明したら、自分の意思で使えるようになったの」
「理解が早かったのですね」
「早いとか、そういう話じゃないのよ……」
ルミは遠くのシオンを眺め、穏やかなまま続けた。
「ですが、シオン様は特別ですよ。歴代の剣聖が、皆あのようなことを出来たわけではありません」
「やっぱり?」
「私が知る限りでは、あれほどの域へ達した方は、もう一人だけです」
エミリアの紫の瞳が細くなる。
「流石に、あのレベルの戦力が一人でもいるなら、戦略を根本から考え直す必要があるわ」
「私に願えば、何でも解決しますのに」
「嫌よ」
即答だった。
ルミは特に気を悪くした様子もなく、静かに紅茶へ口をつける。
エミリアは少し考えてから、もう一度戦場へ視線を戻した。
「でも……もう一人はいるのよね?」
「シオン様の前の剣聖ですが」
「そう。なら大丈夫ね」
エミリアは安心したようにカップを持ち上げた。
その時だった。
シオンの白い獣耳が、戦場の奥へ鋭く向いた。
◇
兵達の間を割るように、一人の大男が歩いてくる。
他の者とは明らかに違う。
巨躯。鍛え抜かれた身体。そして、その手に握られているのは、六メートル近い長大な十文字槍だった。
シルヴァニア軍将軍、ドルガディン。
その姿を認めると、周囲の兵達が自然と道を開けていく。
ドルガディンはシオンの前で足を止め、しばらく無言でその姿を見つめた。
「……俺より、お前の方が強いな」
周囲の兵達がざわめく。
将軍自らが、戦う前から相手の方が強いと認めた。
だが、ドルガディンの顔に恐怖はなかった。
「戦う前から分かる。これほどの剣気を感じたのは……昔、剣聖と対峙して以来だ」
シオンの白い耳が僅かに動いた。
ドルガディンは、それを見て目を細める。
「そういえば……お前も虎の獣人か?」
「…………」
「偶然にしては、出来過ぎだな」
昔。
まだドルガディンが、自分の腕なら誰にも負けぬと信じていた新兵だった頃。一度だけ、剣聖と刃を交えたことがある。
結果は惨敗。
何も出来なかったと言っていい。
当時の剣聖は、白虎の男性獣人だった。大柄な男であり、今目の前に立つ華奢な少女とは、外見だけなら似ても似つかない。
それでも。
身に纏う剣気。
無駄のない立ち方。
敵を見る目。
そこに、どうにも拭えない既視感があった。
だが、ドルガディンはそれ以上考えなかった。
今は戦場だ。
「ラクシュ様に任された以上、退くわけにはいかん」
六メートルの十文字槍が、真っ直ぐシオンへ向けられる。
「この命を懸けてでも、お前をここで止めさせてもらう!」
シオンも黒刀へ手を添えた。
その時だった。
一匹の小さな虫が、ふらふらと二人の間へ迷い込む。そのまま十文字槍の穂先へ止まり――
ぷつり。
虫の身体が、二つに分かれた。
刃へ触れただけだった。
半分になった身体が落ちる。
地面へ届くより先に、二人が動いた。
ドルガディンの槍が走る。
長大な得物とは思えぬ速度。
シオンは僅かに首をずらした。紙一重で穂先が頬の横を抜ける。
だが。
「そこだ!」
ドルガディンの手首が捻られた。
真っ直ぐ通り過ぎるはずだった穂先が僅かにずれ、十文字槍の横刃が返ってくる。
淡い光が弾けた。
シオンの制服に施された防御付与。その力が着用者の身体まで覆い、刃を阻もうとする。
それでも完全には止められなかった。
白い頬に、細い赤の線が走る。
シオンは指先で血を拭った。
白い獣耳が、僅かに前へ向く。
強い。
「戦い方を見ていたが……本当に剣聖そっくりだよ」
ドルガディンは槍を引き戻す。
「紙一重で躱す、その見切りもな。だが――それが、この槍には命取りだ」
シオンの目が僅かに細くなる。
「いつか剣聖と再戦する日のために編み出した技だったが……まさか、こんなふうに使うことになるとはな」
シオンは答えなかった。
ただ、その言葉を拾った白い耳だけが、小さく動く。
一歩、距離を取る。
「《飛斬》」
黒刀を振るう。
斬撃が大地を削りながらドルガディンへ迫った。
「それも、剣聖が使っていたな!」
十文字槍が緑色に光る。
ドルガディンが振り抜いた。
緑光を纏った槍と《飛斬》が真正面から激突し、轟音とともに斬撃が砕け散る。
「ラクシュ様の加護を受けたこの槍には、通じぬわ!」
――《飛斬》は駄目。
ならば。
シオンが踏み込む。
五段突きへ繋げられる距離まで入ろうとした、その前に十文字槍の穂先が喉元へ走る。首を傾けて避け、さらに一歩踏み込めば、今度は横刃が返ってきた。
刀で弾く。
その瞬間、ドルガディンは一歩下がった。
距離が戻る。
――五段突きは、間合いが足りない。
再びシオンが前へ出る。
ドルガディンは下がる。
一歩入れば一歩下がる。二歩詰めれば、その分だけ柄を送り、次の間合いを作り直す。穂先を外せば横刃が追い、さらに内側へ潜ろうとすれば、六メートルもの長柄そのものが壁のように振るわれた。
長い。
ただ長いだけではない。
この男は、長い武器をどう使えば自分より強い相手を近づけずに済むのかを知り尽くしている。
倒そうと欲を出さない。深追いもしない。
ラクシュに任された通り、ただ時間を稼ぐことだけに徹していた。
シオンの白い獣耳が、槍の風切り音を拾って細かく動く。
槍の達人とは何度も戦ってきた。
自分自身、昔は剣に拘っていなかった。剣でも槍でも斧でも、使えるなら何でも使った。
だからこそ分かる。
ドルガディンは、この長大な十文字槍を十二分に使い切っている。
黒刀へ闘気を集めることも考えた。
刃を伸ばせば、この間合いにも届くだろう。
だが、闘気剣には僅かとはいえ溜めが要る。先ほどからドルガディンは、その僅かな隙さえ与えてくれない。
それに、仮に六メートルまで刀身を伸ばしたところで、そんな武器を扱った経験はない。
槍なら使える。長柄武器も知っている。
だが、六メートルの刀など使ったことはなかった。
長ければ、それだけで強くなるわけではない。慣れない間合いで戦えば、むしろ目の前の男の方が上手い。
また槍が走る。
シオンは躱す。
横刃が制服の胸元へ迫った。
その時だけ、これまでより僅かに大きく身を引く。
身体なら、傷ついても治る。
だが、この制服は駄目だ。
エミリア様から頂いたものだから。
そして、もう一つ。
命令は、生け捕り。
胴を断つだけなら隙はあった。首を落とすだけなら、もっと早い。
だが、それでは命令を守れない。
一見すれば、シオンがドルガディンを攻めきれずにいるようにも見えた。
だが、その呼吸は少しも乱れていない。冷たい瞳にも焦りはなく、白い獣耳も相手の槍音を拾って細かく動くだけだった。
このまま続けても、いずれは崩せる。
ただ、時間がかかる。
それに――ここまで上手い相手なら、試してみたい。
何度目かの攻防のあと、シオンは足を止めた。
「……わかった」
「何がだ?」
「お前は強い。今まで戦った槍使いで、一番強い」
ドルガディンの眉が僅かに動く。
「どうした。今更そんなことを……弱みを見せたところで、戦い方は変えぬぞ」
「だから、戦い方を変える」
「何?」
「命令が守れなくなるから……死なないでほしい」
ドルガディンの顔に、初めて僅かな怪訝さが浮かんだ。
次の瞬間、シオンの身体を淡い光が走る。
固有魔法。
筋力、反応、神経伝達。
全てが強化されていく。
感覚が研ぎ澄まされるにつれ、周囲の世界がゆっくりと引き延ばされた。風に流れる砂粒も、遠くで振り下ろされる剣も、瞬きをする兵士の瞼すら遅い。
――エミリア様から教えられた。
獄天黒薔薇流。
エミリアが直接、自分の身体を使って見せてくれた技。それを何度も繰り返し、自分の身体でも使えるように作り直した。
シオンは黒刀を、ゆっくりと鞘へ納める。
――手加減は、できない。
一歩。
ドルガディンへ近づく。
さらに一歩。
白い獣耳が、真っ直ぐ前を向いた。
「言ったはずだ!」
ドルガディンが吼える。
「何をしようと、俺のやることは変わらん!」
シオンが六メートルの間合いへ入る。
瞬間。
十文字槍が放たれた。
穂先が一直線にシオンを穿つ。
普通に踏み込めば、この槍に止められる。
ならば。
槍が最も伸び切る、その瞬間。
その攻撃に沿って、内側へ入る。
シオンは真半身になった。
穂先が胸元を掠めて通り過ぎる。
右手は柄。
左手は鞘。
抜こうとする刀を、ほんの一瞬だけ鞘で押さえ込む。
力が溜まる。
腰を捻る。
そして――解放。
「――獄渦赫」
黒刀が鞘から弾けた。
抜刀の反動を初速へ変え、シオンの身体が渦を巻く。
ただ直線的に踏み込むのではない。伸び切った十文字槍の軌道に沿い、その内側へ巻き込まれるように滑り込む。
六メートル。
ドルガディンが守り続けた間合いが、一瞬で消えた。
回転の勢いを乗せた黒刀が、そのまま胴へ迫る。
「させるかっ!」
ドルガディンも速い。
突き出した十文字槍を即座に引き戻し、その長大な柄を身体の前へ滑り込ませた。
甲高い金属音が弾ける。
《獄渦赫》の一撃を、受け止めた。
判断も速い。
だが、シオンはまだ止まらない。
「――獄翔赫・蹴」
黒刀を下から斬り上げる。
ドルガディンはそのまま槍の柄で押さえ込もうとする。
その途中。
シオンの脚が跳ね上がった。
自ら振り上げている黒刀。
その峰へ、自分の蹴りを叩き込む。
「な――っ!?」
腕だけでは足りない。
ならば、脚の力まで刀へ乗せればいい。
斬り上げの途中へ加えられた蹴りによって、黒刀がさらに加速する。
十文字槍の柄が、強引に上へ弾き上げられた。
六メートルもの長槍が大きく跳ね上がり、それを握るドルガディンの両腕も抗えず頭上へ持ち上げられる。
まるで万歳するように。
胴が開く。
そして、刀の峰を蹴り上げた反動を利用し、シオン自身の身体も宙へ跳ね上がっていた。
上空。
身体を捻る。
「――獄鎚赫・廻」
回転と落下。
《獄翔赫・蹴》で生まれた上昇と回転を殺さず、その全てを横方向へ変える。
ドルガディンが十文字槍を戻そうとする。
だが、もう間に合わない。
黒い一閃が横薙ぎに走った。
槍を掲げたままの両腕が、まとめて宙を舞う。
「ぐっ……おおおおおおっ!」
鮮血が噴き上がった。
それでもドルガディンは倒れない。
両腕を失いながら、なおも一歩前へ出ようとする。
白い獣耳が、ぴくりと動いた。
――まだ立つのか。
やはり強い。
シオンは着地すると、そのまま踏み込んだ。
返す黒刀が、ドルガディンの胴を深く斬り裂く。
巨体が大きく揺れ、ついに地面へ崩れ落ちた。
シオンは黒刀を振り、血を払う。
倒れたドルガディンを見下ろした。
数秒。
「あ」
白い獣耳が、ぴくりと動く。
「……生け捕りだった」
急いでしゃがみ込み、傷を見る。
両腕は失われている。
胴にも深い傷。
普通の人間なら、まず助からない。
だが、ドルガディンはトロール。しかも、その中でも強靭な肉体を持つ戦士だった。
裂けた胴の傷が、既にゆっくりと塞がり始めている。
シオンはしばらくそれを観察した。
「……生きてる」
小さく頷く。
「大丈夫」
周囲に残っていたシルヴァニア兵達は、誰一人として、その言葉に同意できなかった。
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