五色煌珠は緑野を蹂躙す
川を埋め尽くしていた神兵は、もう一体も残っていなかった。
《麗》も、《煌》も、《華》も。
二百体もの巨体が崩れ、砕け、その残骸だけが国境の川を流れていく。つい先ほどまで大地を震わせていた足音も、ラクシュの号令に応えて進軍していた威容も、今はどこにもない。
シルヴァニア軍を包んでいたのは、歓声でも怒号でもなかった。
沈黙だった。
「……嘘だろ」
誰かが呟いた。
「全部……壊れたのか?」
「あれ、ラクシュ様の神兵だぞ……?」
小さなざわめきが、ゆっくりと軍全体へ広がっていく。
神兵が倒された。
それだけなら、まだ理解できたかもしれない。強大な魔法を受けた。巨大な兵器に破壊された。あるいは、とてつもない戦士に斬り伏せられた。
だが、実際に起きたことはそのどれでもない。
突然、大量の水が流れてきた。
神兵達は水の上へ持ち上げられ、そのまま歩き始め――そして、勝手に崩れていった。
何が起きたのかすら分からない。
「聞いてねえぞ……」
後方にいた兵の一人が、青ざめた顔で呟いた。
「ローゼンバーグなんて、大したことないって話じゃなかったのかよ」
「楽な戦だって……勝てば恩賞が出るっていうから来たのに……」
「俺だってそうだ。あんなの相手にしろなんて聞いてないぞ」
今回集められた一万の兵、その全てがラクシュへの信仰や国への忠義だけでここに立っているわけではない。
軍人として命令に従った者。ラクシュへの恩義から武器を取った者。そして、勝利の後に与えられる恩賞を目当てに参加した者もいる。
神兵が先陣を切る。
ローゼンバーグの弱兵を蹴散らす。
自分達はその後を進めばいい。
そんな戦を想像していた者も、決して少なくはなかった。
「……帰った方がいいんじゃないか?」
その一言に、周囲の兵達が互いの顔を見た。
誰も、すぐには否定できなかった。
「ルミナね!」
甲高い声が、沈みかけた空気を切り裂いた。
誰よりも早く我に返ったラクシュが、勢いよく顔を上げる。
「ルミナが何かしたのよ! ワタクシのエンジェルちゃん達を、よくも!」
「なるほど……」
アルトリウスは低く呟いた。
豊穣神ラクシュが創り上げた神兵が、あれほど不可解な形で全滅したのだ。人の仕業とは考えにくい。
だが、ローゼンバーグにはもう一柱の神がいる。
月と死と転生を司る禍津神――ルミナ。
神の力に、神が干渉した。
そう考えれば、少なくとも自分達に理解できない現象が起きたことには説明がつく。
しかし、セルディウスだけは納得しきれない様子で眉を寄せていた。
「ですが……妙ですな」
「何よ?」
「これほどの数の神兵を一度に崩壊させたのであれば、相応の神力が行使されたものと思われます。しかし私には、そのような力が動いたようには感じられませんでした」
「そんなの、あいつが何かズルしたに決まってるじゃない!」
ラクシュは地団駄でも踏みそうな勢いで拳を握る。
「キーッ! 悔しいわ! そうやってズルばっかりするんだから! あいつは昔からそういう女なのよ!」
「……昔から?」
「え?」
セルディウスの問いに、ラクシュの動きが止まった。
「ルミナとは、以前からそのような交友が?」
「…………」
ほんの一瞬。
ラクシュは、不思議そうな顔をした。
今、自分が何を口にしたのか。
なぜそんな言葉が自然に出てきたのか。
自分自身でも分からないとでもいうように、僅かに首を傾げる。
だが、その表情はすぐに消えた。
「そ、そういう意味じゃないわよ!」
誤魔化すように腕を組み、ぷいっと顔を背ける。
「禍津神は悪いヤツなの! 昔からそう決まってるのよ!」
「……左様でございますか」
セルディウスは、それ以上追及しなかった。
アルトリウスもまた、今はその疑問へ意識を割く時ではないと判断した。
神兵は失った。
だが、戦はまだ終わっていない。
「ラクシュ様」
「何よ」
「ルミナの妨害があるというのであれば、次はラクシュ様のお力をお借りすればよろしいでしょう」
アルトリウスは川向こうへ目を向けた。
ローゼンバーグ側に確認できる兵は、百にも満たない。
対してこちらには、未だ一万の軍勢がほぼ無傷で残っている。
「神兵こそ失いましたが、我が軍は健在。相手の王も、あの砦の前に姿を晒しております。この機に敵王を討ち取ってしまえば、結果は変わりません」
あの銀髪の女王を討つ。
それだけで戦そのものは終わる。
「再びルミナが手を出してくるのであれば、ラクシュ様にお力添えをいただく。そして、人同士の戦いとなれば――」
アルトリウスは背後に控える軍勢を振り返った。
「我らが負ける理由はない」
だが、その言葉だけでは兵達の動揺は消えなかった。
二百体の神兵が一瞬で失われた光景は、それほどまでに大きい。
「狼狽えるな!」
腹の底まで響くような大声が、ざわめく軍勢を打った。
大剣を担いだドルガディンが前へ出る。その背後には、二百のトロール兵。他の兵達が不安げに周囲を見回す中、彼らだけはまだ大きく隊列を崩していなかった。
「神兵を失ったとて、我らトロール軍は健在だ! ローゼンバーグの弱兵どもなど、恐るるに足らぬ!」
ドルガディンが大剣を高く掲げる。
「我らがかつて、どこで暮らしていたか忘れたか!」
トロール達が顔を上げた。
「我らを地の底より導き、この日の下を歩けるようにしてくださったのは誰だ!」
「ラクシュ様だ!」
誰かが叫ぶ。
「そうだ! 今こそ、その恩義を返す時ぞ!」
「「「おおおおおおおおっ!」」」
二百のトロールが一斉に吼えた。
咆哮が大地を震わせる。
その熱気に引かれるように、周囲の兵達も顔を上げ始めた。
「……そうだ」
一人の兵が槍を握り直す。
「神兵がなくなっただけだ」
「こっちにはまだ一万いる」
「トロール軍だって残ってるんだぞ」
崩れかけていた空気が、少しずつ戻っていく。
その様子を見たラクシュも、ようやくいつもの調子を取り戻した。
「そ、そうね!」
勢いよく頷く。
「またルミナが何かしてきたら、今度はワタクシが何とかするわ! もちろん――ワタクシの加護も授けてあげる!」
ラクシュが一歩前へ出た。
「いくわよ!」
両手を大きく開き、そのまま前方へ突き出す。腰を僅かに落とし、身体を傾ける。
「――《豊穣神、溢るる愛のポーズ》!」
ぴたり。
ラクシュは、その姿勢のまま動きを止めた。
両手をパーにして前へ大きく伸ばした、本人いわく最も美しい完成形。
「これで大地に立つワタクシの民は――当社比五十パーセントマシマシよ!」
言葉の意味を理解できた者は一人もいなかった。
だが、その効果だけは明白だった。
ラクシュの足元から淡い光が大地を走り、波紋のように広がっていく。やがてそれは一万の兵を包み込み、身体の内側へ染み込んでいった。
「……おお?」
一人の兵が自分の手を見る。
握っていた槍が、先ほどまでより軽い。
疲れていた脚に力が戻り、荒れていた呼吸も整っていく。
「す、すげえ……」
「身体が軽い!」
「力が……溢れてくるぞ!」
先ほどまで帰りたいと漏らしていた兵まで、武器を握り直していた。
恐怖そのものが消えたわけではない。
だが、それ以上に。
今なら戦える。
そう実感できるほどの力が、その身体には宿っている。
アルトリウスも拳を握り、その加護を確かめた。
「素晴らしい……力が溢れてくる」
「そうでしょう、そうでしょう!」
ラクシュは得意げに答えた。
ただし、ポーズは崩さない。
両腕を前へ伸ばしたまま、微動だにしない。
「ラクシュ様……その御姿勢は?」
「このままに決まってるでしょう!」
「……戦いが終わるまで、ですか?」
「そうよ! この美しいポーズを崩したら加護も弱くなるんだから! 完全にやめたらゼロよ!」
「…………」
「何よ、その顔!」
アルトリウスは何も言わず、視線を軍へ戻した。
加護が本物であるなら、それでいい
「これほどの御加護があれば、負ける要素など一つもない!」
兵達から歓声が上がる。
セルディウスは軍の士気が戻ったことを確認すると、すぐにドルガディンへ視線を向けた。
「ドルガディン。先ほどのような奇策を再び受ける可能性があります。一軍を一塊にするのは避けるべきでしょう」
「うむ!」
ドルガディンが振り返る。
「全軍、隊列を組み直せ! 各部隊は間隔を取れ! 一つの異変で全軍が巻き込まれぬよう、互いに援護できる距離を保て!」
命令が次々と伝達され、一万の軍勢が複数の部隊へ分かれていく。トロール兵も各所へ配置され、魔法を扱える者達も一箇所へ固めず、それぞれの部隊へ振り分けられた。
同じ手は、二度と受けない。
神兵全滅という失敗を受けてなお、シルヴァニア軍は確実に立て直されていった。
神の加護を受けた一万の兵。
奇策を警戒した分散陣形。
そして、ローゼンバーグ側の兵は百にも満たない。
「……勝てる」
誰かが呟いた。
今度は、その言葉を否定する者はいなかった。
その時だった。
「陛下」
セルディウスが川向こうを見たまま声を上げる。
「何だ?」
「ローゼンバーグ側から、何者かがこちらへ向かっております」
アルトリウスも目を凝らした。
砦の前から、先ほどまで銀髪の女王の傍らに立っていた者達がこちらへ向かって歩いてくる。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
「……五人?」
アルトリウスが思わず聞き返した。
見間違いではない。
たった五人だった。
「あの女……」
ドルガディンが目を細める。
先頭近くを歩く白髪の女。
昨夜、数人の魔法兵を連れてシルヴァニア軍の陣へ入り込んできた女だ。
「昨夜の襲撃者か」
「はい。かなりの腕ではありましたが……」
近くにいた兵が答える。
「神兵を倒すことはできず、結局は退いております」
ドルガディンも頷いた。
「腕は立つ。普通の兵では相手にならぬほどにはな」
だが。
「神兵一体を倒すこともできず撤退した女だ。その程度ならば、恐れるには足らん」
「なるほど」
アルトリウスは残る四人へ目を向けた。
「あれが敵の精鋭ということか」
一万に対して、五人。
しかも、そのうち一人の力量はすでに見たつもりでいる。
ラクシュの加護を受けた今のシルヴァニア軍にとって、恐れる理由などなかった。
五人は、そのまま川へ近づいてくる。
「……待て」
セルディウスが眉を寄せた。
「橋へ向かっていない?」
その通りだった。
五人は橋を使おうとせず、まっすぐ川岸へ向かっている。
そして。
一人目が、水面へ足を踏み出した。
「なっ……」
沈まない。
二人目。
三人目。
四人目。
五人目。
五人の女達は、まるでそこに透明な道でも敷かれているかのように、何事もなく水の上を歩いていた。
先ほど、二百体の神兵が崩れ去ったその川を。
一万の軍勢へ向かって。
たった五人で。
――シルヴァニア軍の悪夢は、ここから始まった。
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