緑海の主は激流の如く 裏②
翌日の昼。
ローゼンバーグ側の国境砦、その城門前には、一脚の豪奢な椅子と小さなテーブルが用意されていた。白いティーセットに茶菓子まで並べられ、どう見ても戦場に置くものではない。
川向こうには、一万の兵と二百体の神兵。
それだけの軍勢を真正面に望みながら、エミリアは何事もないように椅子へ腰掛け、優雅に脚を組んだ。
「紅茶をどうぞ、エミリア様」
「ありがとう」
ルミが淹れた紅茶を受け取る。
その周囲に立つのも、クロエ、リン、セリア、ランカ、シオン――五人の黒薔薇人形だけだった。
並べられた茶器と川向こうの軍勢を交互に見比べ、セリアが困惑した様子で尋ねる。
「エミリア様……私達は、何をすればよろしいのでしょうか?」
「何もしなくていいわ」
「……何もしない?」
「ええ。私達はここで、お茶を楽しめばいいのよ」
エミリアは紅茶を一口含み、満足そうに息を吐いた。
「きっと向こうから、自分で躓いて転んでくれるわ」
セリアはますます分からないという顔をした。
一方、リンだけは少し違う。長い前髪の奥からエミリアを見つめ、首を傾げている。
「エミリア様のやりたいことは、ボクにも分かるんだけど……なんで、そうなるの?」
「あら。作戦は分かってるんでしょう?」
「うん。でも、なんで今、お茶を飲むことになるのかがよく分からない」
リンは心を読める。ただし、読み取れるのは相手が考えていることや、表に浮かんだ感情だ。それだけで相手の心理を全て理解できるわけではないし、得た情報がそのまま知恵になるわけでもない。
「心が読めても、その情報を上手く利用できなければ意味がないわ」
「利用?」
「相手が何を考えているのか読み取ったなら、まずその情報を整理しなさい。何を望んでいるのか。何に自信を持っているのか。どんなことに腹を立てるのか」
エミリアは川向こうの大軍へ紫の瞳を向ける。
「そして――一番、相手が嫌がることを考えるのよ」
「一番嫌がること……」
「あの子は、自分がこれだけの兵と神兵を連れてくれば、私達が怯えると思っているわ」
だから、怯えない。
慌てない。
軍勢を並べて対抗することすらせず、その目の前で茶を飲む。
「それだけでいいの?」
「それだけだからいいのよ。大軍を連れてきた相手の目の前で、興味もないみたいにお茶を飲んでいるのよ? 腹が立つでしょう?」
「……なるほど」
リンは納得したような、していないような顔をした。
ランカが呆れ気味に鼻を鳴らす。
「戦の最中に、相手を怒らせるためだけに茶会を開く奴なんぞ、儂は初めて見たぞ」
「光栄だわ」
「褒めとらんわい」
クロエがくすくす笑い、シオンは話を聞きながら茶菓子へ視線を向けていた。
そうして、本当にしばらく何も起こらなかった。
エミリアは紅茶を飲み、ルミが静かに傍らへ控える。五人のドールズも、それぞれに川向こうの様子を眺めていた。
「動いたねぇ」
やがて、クロエが呟いた。
遠く、シルヴァニア側の陣形が揺れる。
最前列に並んでいた《麗》が動き出し、その後ろから《煌》、《華》までが続いていた。二百体の神兵が、一斉にこちらへ向かって進み始めている。
「あら。こっちへ来るみたいね」
エミリアが楽しそうに口元を上げた。
「クロエ」
「分かってるよ」
クロエが携行型の無線機を取り出す。
「上流班、聞こえるかい?」
短い雑音のあと、応答が返った。
「予定通りだ。始めておくれ
リンが目を瞬く。
「もう流すの? まだ神兵は川に入ってないよ」
「今から流すのよ。上流からここまで、すぐに水が来るわけじゃないでしょう?」
エミリアは再び紅茶を手に取った。
「全部が川へ入るまで待っていたら、先頭が向こう岸へ上がってしまうかもしれないわ。相手が動く時間と、水がここへ届く時間。両方を考えておけばいいのよ」
流量も、距離も、水がここへ届くまでに掛かる時間も、すでに確認してある。
先頭の《麗》がシルヴァニア側の関所を抜け、広く露出した川床へ降りていった。続いて《煌》、《華》も入り、何十体、百体と神兵が川を進んでいく。
それでもエミリア達は動かなかった。
「お代わりはいかがですか、エミリア様?」
「いただくわ」
ルミがカップへ紅茶を注ぐ。
その頃には、最後尾の大型神兵まで川へ入り始めていた。
そして。
ごう――。
低い音が聞こえた。
「来たか」
ランカが上流へ顔を向ける。
音は見る間に大きくなり、やがて上流の彼方から大量の水が姿を現した。異様なほど澄んだ水が川幅いっぱいに広がり、轟音を響かせながら国境へ押し寄せる。
水が到達した時。
二百体。
すべての神兵は、すでに川床の上にいた。
「予定通りだねぇ」
クロエが満足そうに目を細めた。
奔流が神兵を呑み込む。
だが、《麗》は倒れない。《煌》も《華》も、巨大な身体で水流を受け止めながら、そのままローゼンバーグ側へ歩き続けている。
「……なんじゃ? 別に何ともないではないか」
「まだよ」
一歩。
二歩。
神兵は水の中を進む。
そして三歩目。
先頭の《麗》の足が、川底を離れた。
「お?」
ランカが身を乗り出す。
もう一体。
さらに一体。
神兵達が次々と水面へ持ち上げられていく。《麗》だけではない。《煌》が浮き、《華》も浮く。十メートルを超える巨体までが沈むことなく水面へ足を乗せ、そのまま前へ進み始めた。
「……なんじゃ、ありゃ」
「水の上を歩いてる」
シオンが素直に言った。
「見れば分かるわい!」
ランカが思わず怒鳴る。
その直後だった。
ぱきり。
先頭の《麗》へ亀裂が走った。白と緑の外殻が割れ、小さな欠片が水へ落ちる。
続いてもう一体。
さらにその隣。
「……待て待て待て」
ランカが目を見開いた。
《麗》の腕が落ちる。《煌》の肩が崩れる。それでも神兵達は命令通りに進もうとし、一歩踏み出すたびに身体を軋ませていく。
エミリアはその様子を眺め、口元を上げた。
「ほら。転んだでしょう?」
「そういう意味だったのか……」
リンが小さく呟く。
「なんで水ごときで、あの神兵が壊れるんじゃ? 元は土塊や鉄塊じゃろうが、ラクシュ様の加護でミスリル並みの強度があるはずじゃぞ?」
「硬かった」
シオンが真顔で頷いた。
「試しに斬ってみたが、斬れなかった。多分、本気でやらないと斬れない」
エミリアがゆっくりとシオンを見る。
「……貴女、峰打ちって言ってたわよね?」
「腕を斬り落とそうとしただけだ」
「それは峰打ちじゃないわよ」
「斬れてない」
「そういう問題じゃ――」
一瞬言葉に詰まり、エミリアは小さく息を吐いた。
「……まあ、いいわ」
結果として壊してはいない。今はそれで良しとする。
「で、どういうことなんじゃ?」
「簡単よ。水で壊しているわけじゃないもの」
エミリアは、水上を歩きながら崩れていく神兵達へ目を向けた。
「公国とやり合う可能性を考えた時、この川は使えると思っていたのよ。もちろん、考えていた手の一つに過ぎないけどね」
鉱山都市アイゼルを訪れた時、エミリアの目にこの地方を流れる川が入った。その時点では、シルヴァニアと戦うと決まっていたわけではない。ただ、地形として使えるとは考えていた。
「それとは別に、この地方って水害が多かったでしょう? 被害報告も何度か上がってきていたわ」
「確かにあったのぉ」
「だから、治水用の貯水池を作らせていたの。いずれはもっと大きなダムにして、発電にも使えるようにね」
水を溜め、流れを制御する。
水害を減らすための設備であると同時に、将来的には水の力そのものを利用するための基盤でもあった。
「今回に向けては、貯水量を増やしながら川の水量も少しずつ落としていたわ。ついでに、水力発電の試験もさせていたのよ。どれくらい水を溜めて、どれくらい流せば水車にどう作用するのか、その確認も兼ねてね」
「高低差を利用した位置エネルギー、だったかねぇ」
クロエが楽しそうに口を挟む。
「高い場所に溜めた水を落とせば、その分だけ大きな力を取り出せる。エミリア様からそれを聞いてから、ずっと試してみたかったんだよ」
だが、すぐに少し残念そうに肩を落とした。
「本当なら現地で見ながら確かめたかったんだけどねぇ。さすがにそれだけに掛かりきりにはなれないから、報告書だけで我慢したよ」
「十分執心してるじゃない」
「実験は自分の目で見る方が楽しいんだよ」
ランカが流れの変わった川へ目を向ける。
「じゃが、向こうも水量が減っていることには気付くじゃろう?」
「もちろん」
エミリアは平然と答えた。
「だから、それらしい理由も用意しておいたわ。上流で雨が少なくて、水量が落ちているってね」
「……そこまでしとったのか」
「目の前で川が細くなっていて、その理由まで先に聞かされていれば、大抵は納得するでしょう?」
実際に水量が減っていること自体は事実だ。
ただ、その理由が違うだけ。
「その中でも、ここは優先して整備させたわ。使える可能性があったからね」
「……治水と発電のついでに、戦の準備もしとったのか」
「逆よ。国に必要なものを作ったついでに、戦争でも使えるようにしたの」
「どっちにしても大概じゃ」
ランカが呆れた声を出す。
「そして次が、ラクシュ対策よ」
エミリアが流れる水を指差した。
「あの神兵が大地と繋がっているなら、そこから隔離すればいい」
「隔離?」
「大地属性と接触できない場所に置くのよ」
そこでクロエが話を引き継ぐ。
「元は実験用だったんだけどねぇ」
「純水よ」
エミリアが言った。
「前に私がクロエへ、余計なものが混ざっていない水の話をしたの。研究に使うなら便利だと思ってね」
「水以外のごみを分ければいいんだろう、って思ったのさ」
クロエが笑う。
「それで、水を一度分けて組み直したり、混ざっているものを切り離したり、色々試した。その途中で《水上歩行》も使ってみたんだよ」
「水上歩行を?」
「水じゃないものを、水から追い出すのに使えるかと思ってねぇ。そうしたら、ちょっと面白いことが起きた」
クロエが目の前を流れる水へ視線を向ける。
「水の方に、術式を残せるようになったのさ」
「……まさか」
「そのまさかよ」
エミリアが口元を上げた。
「今流れているのは、大地属性との結び付きを切り離した水。そして、その水には《水上歩行》の効果が残っている」
ランカが水面を歩く神兵へ目を向ける。
「では、あれは……」
「浮いているんじゃないわ」
エミリアは言った。
「水の上を、歩かせているのよ」
水面が足場として成立する。
だから神兵は沈まず、川底へも足が届かない。
大地との接触が断たれる。
「ただ、そこから先は推測だったわ」
「推測?」
「ええ。あの神兵、今作ったものじゃないでしょう?」
神兵はラクシュが《創造》によって生み出したものだ。しかも今日昨日に造られたものではない。
「普通のゴーレムだって、長く使えば経年劣化するわ。それに、ゴーレムを維持している魔法そのものを消せば、形を保てず崩れるものもあるでしょう?」
ランカが小さく頷く。
「なら、ラクシュの《創造》で形を与えられた神兵も同じじゃないかと思ったのよ。大地との繋がりを失って、ラクシュの加護を維持できなくなれば――」
「溜まっとった劣化が一気に出るか」
「あるいは、《創造》そのものによる形を維持できなくなるか。そのどちらか、もしくは両方ね」
正確な仕組みまでは、エミリアにも分からない。
だが、目の前で起きていることが答えだった。
《煌》の片脚が砕け、巨体が水面へ倒れ込む。その横では《麗》が次々と崩れ、欠片となって流されていた。
「結果は、見ての通りよ」
ランカはしばらく神兵達を見つめていたが、ふと眉を寄せる。
「待つんじゃ。じゃが、神兵には魔法が通じなかったのではないか?」
「ああ、それね。攻撃魔法は通りにくいわ。でも、あの神兵って、そこまで万能じゃないと思ったのよ」
「どういうことじゃ?」
「敵と味方を一人一人見分けて、この魔法は受ける、この魔法は拒む――そんな複雑な判断を個体ごとにしていると思う?」
「……では?」
「もっと単純なんじゃないかと思ったの。自分を害するものには反発する。自分に利するものなら受け入れる。せいぜい、その程度じゃないかって」
ランカが難しい顔をする。
「随分と思い切った考えじゃの」
「これも試したわ。魔法使いが作る普通のゴーレムでね」
エミリアがクロエを見る。
「何体か使って確かめたねぇ。攻撃術式みたいに明確に害になるものは拒んでも、強化や補助として掛けた術式なら受け入れる個体が多かったよ」
「だから、神兵も似たようなものじゃないかと思ったの」
「それだけで?」
「まさか」
エミリアは遠く、シルヴァニア側へ視線を向ける。
「ラクシュを見て、かなり確信はしたけどね」
「なぜじゃ?」
「頭悪そうだもの」
「そこなのか!?」
「もちろん、それだけで賭けたりしないわよ。だから昨夜、実物で確かめたの」
神兵へ攻撃魔法を浴びせる。
その裏で補助や妨害の術式も試し、外部から掛けた魔法が神兵へ定着することを確認した。
「《水上歩行》なんて、本来なら自分にとって利になる効果でしょう? 水へ沈まずに済むんだもの」
だから、受け入れる。
自分を助ける力として。
そしてその結果、自分から大地との繋がりを失う。
「まあ――」
エミリアは、崩れ続ける神兵達を眺めながら嗤った。
「普通なら自分を強くするはずのものが、逆に自分を壊すなんて――神にも思いつかなかったみたいだけどね」
最後方、ひときわ巨大な二十八号機の脚にも大きな亀裂が走った。
巨体が傾く。
外殻が砕け、膝が折れ、三十メートル近い身体が水面へ倒れ込む。
轟音と共に大量の水飛沫が上がり、その身体もまた、他の神兵達と同じように崩れながら流されていく。
《麗》百体。
《煌》八十体。
《華》二十体。
二百体。
豊穣神ラクシュが誇った神兵は、一体残らず大地から切り離され、崩壊していった。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「エミリア様」
不意にシオンが声を掛ける。
「何?」
「話は、よく分からなかった」
「……でしょうね」
「でも、一つ分からない。これが失敗していたら、どうしたんだ?」
エミリアが僅かに目を細める。
仕組みそのものは半分も理解していないくせに、こういうところだけは妙に鋭い。
「逃げたわね」
「逃げるのか?」
「当然でしょう。便利なテレポーターもいるんだもの」
エミリアが隣のルミを見る。
「私ですか?」
「貴女以外に誰がいるのよ」
ルミは穏やかに微笑んだ。
「もちろん。いつでもお連れしますよ」
「それに、これが駄目なら次の手を使えばいいだけよ」
「次の手もあったのか?」
「いくつかはね。付与そのものが通じないなら、別の方法で大地から引き剥がせばいいだけだもの」
「……負けてもいいのか?」
シオンの問いに、エミリアは当然のように頷く。
「いいのよ」
そして胸を張る。
「悪は何度負けたって、最後に勝てばいいの」
「それって……正義の味方なんじゃない?」
リンがぽつりと呟いた。
「違うわよ」
「違うの?」
「悪には執念があるの。何度負けても諦めない。目的のためなら、何度だって立ち上がる。それだけの信念があるから悪なのよ」
「正義の味方だって、そうじゃない?」
「正義の味方なんて、一回負けただけで悩んだり落ち込んだりするじゃない。心が弱いのよ」
「……それ、エミリア様の偏見だと思う」
「何か言った?」
「何でもないよ」
リンが視線を逸らす。
「さすがです、エミリア様!」
セリアは、そんなやり取りすら気にせず感嘆の声を上げた。
リンも改めて神兵達の残骸を見ながら、困ったように笑う。
「ボク、作戦が分かってても、こんなの思いつかないよ……」
「じゃろうな。根本から考えとることがおかしいのじゃよ……」
ランカが深々と息を吐いた。
「エミリア様が凄いことは分かった」
シオンはいつも通り真顔だった。
「貴女はもう少し他にも感想ないの?」
「凄かった」
「……ならいいわ」
クロエは流れていく神兵の残骸を眺め、実に満足そうに目を細める。
「今回はとても楽しめたよ。魔法にも、こんな使い方があるとはねぇ」
「研究の役にも立ったでしょう?」
「十分すぎるくらいだねぇ」
そして。
「ふっ……」
小さな声がした。
エミリアが横を見ると、ルミが俯いて肩を震わせている。
「ルミ?」
「ふふっ……すみません……」
口元を押さえているが、もう限界だったらしい。
「あははははははっ!」
普段の穏やかな姿からは想像もできないほど、盛大な笑い声が響いた。
ルミは腹を抱え、目尻に涙まで浮かべながら笑っている。
「神の兵が……! ただ歩いただけで、自分から壊れていくなんて……!」
笑いを堪えようとして、また吹き出す。
「あはははっ! あの子、本当にバカね!」
豊穣神ラクシュの絶叫が響く川の向こうで。
禍津神ルミナは、とうとう堪えきれず大笑いしていた。
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