閑話 老執事は変わらぬものを知っている
エミリア様は、変わってしまわれた。
セバスは、王城の廊下を歩きながら、静かにそう思う。
かつてのエミリア様は、よく一人で泣いておられた。
誰にも気づかれないように。
誰にも迷惑をかけないように。
声を殺して、部屋の隅で小さく膝を抱えていた。
王女でありながら、王女として扱われず。
才能がないと蔑まれ。
美しいものを描いても、誰にも見向きされず。
美味しいものを考えても、贅沢だと笑われ。
楽しいことを思いついても、今の国には不要だと切り捨てられた。
それでも、あの方は優しい子だった。
自分が傷ついているのに、誰かを傷つけることを恐れた。
自分が救われていないのに、誰かを救いたいと願った。
飢えた民を見て、胸を痛め。
荒れた街を見て、自分に何ができるかと悩み。
そして、何もできない自分を責めていた。
セバスは、それを知っている。
誰も見ていなくとも。
誰も気づいていなくとも。
彼だけは、見ていた。
あの優しい少女が。
ローゼンバーグ王国の片隅で、傷つきながら、それでも誰かの幸せを願っていたことを。
けれど。
あの日。
夜会用のドレスをまとったエミリア様は、別人のように変わられた。
背筋を伸ばし。
美しく歩き。
誰の顔色も窺わず。
堂々と命じた。
それまで頼ることしかできなかった少女が。
セバス、と名を呼び。
願うのではなく、命じるようになった。
「セバス。準備なさい」
「セバス。人を集めなさい」
「セバス。無駄を捨てなさい」
「セバス。私の言う通りに動きなさい」
初めてその声を聞いた時、セバスは息を呑んだ。
そこにいたのは、彼の知る弱々しい王女ではなかった。
王城の誰よりも強く。
誰よりも傲慢で。
誰よりも美しく。
まるで、黒い薔薇のように咲き誇る支配者だった。
それから、エミリア様は次々と国を変えていった。
価値がないと捨てられていたものに、価値を持たせた。
誰も使わなかったものを、商品に変えた。
誰も見向きしなかった知識を、国を潤す力に変えた。
荒れた街に炊き出しを行い。
汚れた水路を整え。
ゴミを焼き。
道を直し。
人を動かし。
金を回し。
この滅びかけた国を、少しずつ息を吹き返させていった。
ハルトは、毎日のように頭を抱えている。
オルガは、毎日のように叫んでいる。
クロエという少女は、毎日のように何かを作り出している。
リンという少女は、傷ついた者達を救うために、必死に書物を書いている。
そして、エミリア様は。
自分勝手なことを言いながら。
悪の女王を名乗りながら。
また今日も、誰かを救うための無茶を命じている。
セバスは、少しだけ寂しく思うことがある。
ルミという名のメイドが現れてから、エミリア様のお世話をする機会は減った。
朝の支度。
髪の手入れ。
お茶の用意。
衣装の確認。
かつてはセバスが気にかけ、使用人達へ細かく指示していたことの多くを、今はルミが静かにこなしている。
ルミは優秀だ。
あまりにも優秀すぎる。
立ち居振る舞いも、気遣いも、仕える姿勢も、完璧に近い。
だからこそ、セバスの出る幕は少しずつ減っていった。
それが良いことだとは分かっている。
エミリア様の周りに、あの方を支える者が増えたのだ。
喜ぶべきことだ。
けれど。
ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ。
寂しい。
あの方は、もう一人で泣いていた少女ではない。
誰かの支えがなければ立っていられなかった少女ではない。
今のエミリア様は、誰かに支えられるのではなく、誰かを従え、導き、振り回している。
それを見て、人々は言う。
エミリア様は変わった、と。
別人のようだ、と。
確かに、そうかもしれない。
お召し物の趣味も変わった。
黒を好まれるようになった。
露出の多い、奇抜な衣装を好まれるようになった。
王女としてそれはいかがなものか、とセバスも思わないではない。
いや。
正直に言えば、かなり思っている。
けれど。
セバスは知っている。
あの方の我儘は、必ず誰かを幸せにする。
「私の名声が足りないわ」
そう言って、村へ支援を送る。
「美しくないわ」
そう言って、汚れた街を整えさせる。
「不愉快ね」
そう言って、民を苦しめる仕組みを壊す。
「私の民が貧しいのは、私の悪の美学に反するわ」
そう言って、飢えた者へ食事を与える。
言葉だけ聞けば、傲慢で身勝手だ。
だが、その身勝手の先で。
民は笑う。
子供達は温かい食事を食べる。
職人達は仕事を得る。
商人達は活気を取り戻す。
兵士達は前を向く。
ハルトも、文句を言いながら笑うようになった。
オルガも、悲鳴を上げながら楽しそうに働いている。
城の使用人達も、どこか明るくなった。
それを見ていると、セバスは思うのだ。
変わってしまわれた。
けれど。
何も変わっていないのかもしれない、と。
幼い頃のエミリア様は、綺麗なものが好きだった。
美味しいものが好きだった。
楽しいことを考えるのが好きだった。
そして、それを誰かと分かち合いたいと願っていた。
自分に力があれば。
自分がもっと賢ければ。
自分がもっと強ければ。
きっと、誰かを助けられるのに。
そう言って、傷ついていた。
今のエミリア様は、強い。
あまりにも強い。
傲慢で。
不敵で。
時に、こちらが胃を押さえたくなるほど無茶を言う。
けれど。
その根にあるものは、本当に変わっているのだろうか。
炊き出しの場で、妙なことを言いながら民に食事を与える姿。
自分の名声だの悪の美学だのと言いながら、飢えた子供へ視線を向ける姿。
リンという少女を救い、居場所を与えた姿。
それらを見ていると、セバスにはどうしても思えてしまう。
ああ。
エミリア様は、やはりエミリア様なのだと。
民を幸せにしたいと願っていた、あの優しい少女なのだと。
ただ、その願い方が少しばかり変わっただけなのだ。
少しばかり。
いや。
かなり。
相当に。
非常に。
……変わってはいるが。
それでも。
セバスは目を細める。
窓の外では、王都の一角に煙が上がっていた。
かつてなら火事か暴動を疑っただろう。
今は違う。
新しく整備された焼却炉が、街のゴミを処理している煙だった。
城の中庭では、使用人達が新しい水場の使い方を確認している。
遠くの広場では、今日も炊き出しの準備が進んでいる。
国は、動いている。
止まりかけていた国が。
あの方の我儘によって。
あの方の命令によって。
あの方の、悪の女王という奇妙な名乗りによって。
もう一度、前へ進み始めている。
自分は変わらず、背後に控えていよう。
必要な時に扉を開き。
必要な時に茶を用意し。
必要な時に、誰にも気づかれぬよう道を整える。
それが、老いた執事にできることだ。
そう思っていた。
ずっと。
けれど最近、セバスは時折考えるようになっていた。
エミリア様の周りには、人が増えた。
ルミがいる。
クロエがいる。
リンがいる。
ハルトがいる。
オルガがいる。
そして何より、エミリア様ご自身が、もう誰かに支えられなければ立てない少女ではなくなった。
ならば。
自分が少しだけ、この城を離れても。
この方は、きっと進んでいけるのではないか。
そんなことを考えてしまう。
もちろん、仕える心が薄れたわけではない。
ローゼンバーグ王国への忠義も。
エミリア様への敬愛も。
何一つ変わってはいない。
最後まで見届ける。
それは、セバスの中で揺らがぬ誓いだった。
ただ。
見届ける場所が、必ずしも王城の廊下だけとは限らないのかもしれない。
あの日のエミリア様のように。
一人で泣き。
誰にも助けを求められず。
それでも誰かを想っている子供が、この国のどこかにいるのなら。
老いたこの身にも、まだできることがあるのではないか。
そんな思いが、胸の奥に静かに芽生え始めていた。
「エミリア様」
セバスは、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「どうか、そのままお進みください」
たとえ、その道が常識外れであっても。
たとえ、そのお姿が以前とは違っていても。
たとえ、いつか私がこの廊下に立たぬ日が来たとしても。
この国のどこかで。
私は変わらず、貴女様に仕え続けましょう。
それが、老いた執事にできる最後の奉公なのだから。
◇
その頃。
偶然にも、その独白の一部を耳にしてしまったエミリアは、廊下の陰で震えていた。
正確には、蓮である。
「……誰か、何かすっごい勘違いしている気がするわ」
心の底から、そう呟いた。
(セバス……)
内側で、本来のエミリアが小さく震える。
(ありがとうございます……でも、すみません……たぶん、かなり誤解しています……)
エミリアは額を押さえた。
悪の女王としての威厳を保とうとした。
だが、無理だった。
「私はただ、私好みの国に作り替えているだけなのだけれど……」
そう呟いたところで。
背後から、ルミの穏やかな声がした。
「それで皆様が幸せになっているのですから、よろしいのでは?」
エミリアは振り返る。
ルミは、いつも通り完璧な笑顔で立っていた。
「……貴女まで言うの?」
「事実ですので」
「不本意ね」
「エミリア様らしいかと」
エミリアは小さく息を吐いた。
そして、廊下の先を見た。
セバスの背中は、もう見えない。
けれど。
その背が、いつも自分の少し後ろにあったことを。
エミリアは、知っていた。
蓮も。
そして、本来のエミリアも。
「……まあ、いいわ」
エミリアは黒いドレスの裾を翻す。
「勘違いでも、役に立つなら利用してあげる」
(そういう言い方をするから誤解されるのです……)
内側のエミリアが、少し困ったように呟いた。
ルミは微笑んだまま、静かに頭を下げる。
エミリアは、悪の女王らしく胸を張った。
そして、いつも通り堂々と歩き出す。
誰かの幸せを願っているつもりなどない。
ただ、自分の美学に従っているだけ。
ただ、自分の欲しい国を作っているだけ。
そのはずなのに。
今日もまた、城の誰かが笑っていた。
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