緑海の主は激流の如く②
翌日の昼。
ローゼンバーグ王国との国境に、シルヴァニア豊穣公国の軍勢が再び整列していた。
一万の兵と、二百体の神兵。
昨夜の襲撃で数体の《麗》が吹き飛ばされたものの、大きな損害は出ていない。魔導兵が放った火や風、雷をはじめとする幾つもの魔法も、神兵の動きを止めるには至らなかった。
兵達の間には、むしろ昨日以上の自信が広がっていた。
「やはり、奴らの魔法では神兵を止められんようだな」
軍列の前方でドルガディンが呟く。
「少なくとも、昨夜使われた魔法ではな」
セルディウスはそう答えたものの、その表情は晴れない。
昨夜の襲撃には不可解な点が残っていた。
あの見慣れぬ女は、僅かな人数で陣へ踏み込み、《麗》を数体ほとんど一撃で吹き飛ばした。それほどの力がありながら深追いすることもなく、同行していた魔導兵達も、様々な魔法を神兵へ浴びせただけで早々に撤退している。
攻撃偵察。
そう考えれば筋は通る。
実際、神兵に魔法がどの程度通じるのか確かめる目的だったとすれば、昨夜の行動にも説明はつく。
それでも、何かが引っ掛かった。
「まだ気になるのか?」
「ああ。だが、考えても答えは出ない」
セルディウスはそこで思考を切り、川向こうへ視線を向けた。
ローゼンバーグ側の国境砦。その手前には、昨日までなかった簡素な陣が設けられている。
しかし、そこにも大軍の姿はなかった。
遠目に見えるのは、幾つかの人影だけ。
「……少ないな」
アルトリウスも目を細める。
「昨日以上に、何を考えているのか分からん」
「兵を砦の後方へ隠している可能性はあります」
「だとしても、表へ出している者が少なすぎる」
肉眼では、その人数すら正確には判別できない。
だが。
「……ちょっと待ちなさい」
神輿ゴーレムの上にいたラクシュが、不意に身を乗り出した。
鮮やかな緑の瞳が細められる。
「ラクシュ様?」
「よく見えないじゃない。ワタクシ様が直接見てあげるわ」
ラクシュの意識が、大地へと繋がった。
自らの領域たる大地を通し、遠く離れた場所を捉える神の視界――《ラブリー★アイ》。
その視線が国境の川を越え、ローゼンバーグ側の陣を映し出す。
「…………」
ラクシュの顔から、すっと表情が消えた。
「どうされました?」
「……椅子」
「はい?」
「椅子とテーブルがあるわ」
アルトリウス達が顔を見合わせる。
「それが何か?」
「何かじゃないわよ!」
ラクシュの声が一段高くなった。
彼女の視界には、肉眼では判別できなかった光景がはっきりと映っていた。
豪奢な一脚の椅子。
その前に置かれた小さなテーブル。
そこへ優雅に脚を組んで腰掛けている、銀髪の女王。
エミリア・ローゼンバーグ。
その背後には、昨夜襲撃してきた白い獣の耳と尾を持つ女を含め、五人の女達が控えている。
そして、もう一人。
黒いメイド服を纏った銀髪の女が、ティーポットを傾けていた。
琥珀色の液体が白いカップへ注がれる。
エミリアはそれを受け取り、何事もないように一口飲んだ。
「……お茶飲んでる」
「は?」
ドルガディンが間の抜けた声を出した。
「あの女、お茶飲んでるのよ!」
「……この状況で、ですか?」
「そうよ! 椅子に座って、脚まで組んで! メイドに紅茶を注がせてるの!」
セルディウスが僅かに眉を寄せる。
「ということは、女王本人が前線に出ているのですね」
「そこじゃないわよ!」
ラクシュが神輿の上で立ち上がった。
「昨日ワタクシ様に、全員でかかってこいとか偉そうなことを言っておいて! 実際に来たら目の前でお茶ってどういうことよ!」
「ラクシュ様。一度お待ちください」
アルトリウスの声が低くなる。
「向こうが何かを企んでいる可能性があります。あまりにも不自然です」
「不自然なのはあの女の態度よ!」
「それも含めてです。まずはこちらから――」
その言葉が終わるより早く、ラクシュが腕を振り上げた。
「もう我慢できないわ!」
「ラクシュ様!」
「エンジェルちゃん達!」
二百体の神兵が、一斉に反応した。
白と緑の《麗》が顔を上げ、その後方で巨大な《煌》と《華》が動き出す。
アルトリウスが目を見開く。
「お待ちください! まだ進軍の号令は――」
「あの生意気な女王を、とっちめなさい!!」
ラクシュの腕が振り下ろされた。
地面が震えた。
百体の《麗》が一斉に歩き出し、その後ろから八十体の《煌》、二十体の《華》が続く。
「ラクシュ様!」
アルトリウスの制止は届かない。
神兵を創り出したのはラクシュだ。その命令を受けた彼らは、公王の号令を待つことなく進み続ける。
「全軍待機!」
アルトリウスは即座に声を張った。
「生身の兵は動くな! 神兵へ続くな!」
ざわめきながらも、公国軍はその場に留まる。
一方、二百体の神兵は速度を緩めない。
先頭の《麗》が簡素な関所を抜け、そのまま広く露出した川床へ降りていった。
川の水量は昨日と変わらず少ない。中央付近を細い流れが残るだけで、大部分は湿った土と石が剥き出しになっている。
三メートルの《麗》にとっては障害にもならない。
続いて《煌》が川床へ降りる。巨大な足が地面を踏み締めるたびに振動が響き、さらに後方から《華》も続いた。
「……動かないわね」
ラクシュは《ラブリー★アイ》を通して、川向こうを睨んでいた。
エミリアは逃げない。
五人の女達も、その場から動こうとしない。
メイドの女――ルミに至っては、空になったカップへ再び紅茶を注いでいる。
「まだ飲むの!?」
「ラクシュ様、今はそこではありません」
「分かってるわよ!」
セルディウスは神兵とローゼンバーグ陣を交互に見た。
胸騒ぎが消えない。
これだけの戦力が向かっているにもかかわらず、相手に慌てる様子がまるでない。
「……あまりにも静かすぎる」
先頭はすでに川の中ほどまで進んでいる。
《麗》だけではない。
《煌》も続々と川床へ入り、《華》もその巨体を降ろしていく。
最後方にいた大型の《華》までが川床へ足を踏み入れた。
二百体。
すべての神兵が、国境の川へ入った。
その時だった。
ごう――。
セルディウスが顔を上げた。
「……何だ?」
低い音。
風ではない。
地鳴りにも似ているが、それとも違う。
ごおおおおお――。
音は急速に大きくなっている。
「上流だ!」
兵の一人が叫んだ。
セルディウスが振り向く。
そして、息を呑んだ。
川の上流。
遠くに、白く光るものが見える。
それは見る間に大きくなった。
「……水?」
大量の水だった。
長く水量を減らしていた川には不釣り合いなほどの、膨大な水。
しかも妙に澄んでいる。
土砂を巻き上げて茶色く濁ることもなく、透明な奔流が川幅いっぱいに広がりながら、猛烈な勢いでこちらへ迫っていた。
「神兵を川から上げろ!」
セルディウスが叫ぶ。
だが、遅い。
轟音。
押し寄せた水が、先頭の《麗》へ激突した。
次々と神兵が水に包まれていく。
「……なーんだ」
ラクシュが肩の力を抜いた。
一瞬驚いたものの、神兵は倒れていない。
巨大な身体で流れを受け止め、そのまま前へ進んでいる。
「その程度……おバカね」
ラクシュは勝ち誇ったように腰へ手を当てた。
「ワタクシ様のエンジェルちゃんが、その程度の水で倒せるわけがないでしょう!」
先頭の《麗》が一歩進む。
二歩。
激しい流れの中でも、その巨体は揺らがない。
「ほら! 何とも――」
三歩目。
ふわり。
「……え?」
ラクシュの笑顔が止まった。
《麗》の足が、川底から離れていた。
沈んだのではない。
逆だ。
水面へと押し上げられている。
「……ハァ?」
隣の《麗》も浮いた。
さらに、その隣も。
一体、二体と次々に水中から持ち上げられ、その足が水面へ乗る。
十体。
二十体。
そして《麗》だけではない。
五メートルを超える《煌》が浮かび上がった。
十メートル級の巨体も、その足を川底から離していく。
さらに《華》まで。
数十トンはあろう巨大な神造ゴーレム達が、一体、また一体と水面へ浮上していく。
そして。
一体の《麗》が、水の上で一歩を踏み出した。
「…………」
セルディウスが絶句する。
神兵は、押し流されているのではない。
水面の上に立っている。
まるでそこに見えない大地でも存在するかのように。
《麗》が歩く。
《煌》も歩く。
《華》までもが。
巨大なゴーレムの群れが、一斉に水の上を歩き始めた。
異様だった。
あまりにも。
「ハァっ!? 何!? 何が起きてるの!?」
ラクシュの声が裏返る。
「なんで浮いてるのよ!? ワタクシ様、そんな機能つけてないわよ!」
「ラクシュ様にも分からないのですか!?」
「分かるわけないでしょう!」
セルディウスの背筋に冷たいものが走った。
神兵を創った神自身が理解できない現象。
ならば、これは偶然ではない。
「一度退かせてください!」
「で、でも!」
ラクシュは水面を進む神兵達を見た。
浮いている。
確かに異常ではある。
しかし、壊れてはいない。
命令にも従っている。
何より、まだ前へ進める。
「……関係ないわ!」
ラクシュが腕を振り上げた。
「そのまま進みなさい!」
命令を受け、《麗》が一歩を踏み出す。
ぱきり。
「……え?」
今度は、小さな音。
激しい水音に紛れてしまいそうなほどだった。
だが、《ラブリー★アイ》で見ていたラクシュには、はっきりと見えた。
先頭を歩く《麗》。
白と緑の滑らかな胸部装甲に、一本の亀裂が走っている。
「……なによ、それ」
もう一体。
ぱきり。
さらに一体。
《煌》の肩から小さな欠片が落ちた。
水面へ転がり、そのまま流されていく。
「ちょっと待ちなさいよ……」
亀裂が増えた。
一体だけではない。
十体。
二十体。
水面を歩く神兵達の身体へ、次々とひびが広がっていく。
「待って」
先頭の《麗》の腕が、崩れ落ちた。
「待ちなさいってば!」
ばきり。
音が連鎖する。
花弁を模した外殻が割れ、腕が落ち、脚部が崩れる。それでも神兵達は、与えられた命令へ忠実に前へ進もうとした。
一歩進むたび。
その身体が壊れていく。
「止まりなさい!」
ラクシュが叫ぶ。
「エンジェルちゃん達、止まって!」
だが、一度始まった崩壊は止まらなかった。
《煌》の片脚が砕ける。
支えを失った巨体が水面へ倒れ込み、そのまま奔流に押されて流され始めた。
「う、嘘……」
その横では《麗》が二体、三体と折り重なるように倒れていく。
崩れ落ちた破片が、水に運ばれていく。
《華》にも亀裂が走った。
十メートルを超える巨体が軋み、膝を折る。
「いや……」
そして。
最後方にいた、ひときわ巨大な神兵。
二十八号機。
ラクシュが誇る《華》の特別機、その脚にもゆっくりと亀裂が走った。
「いやいやいやいや、ちょっと待って!」
ラクシュが両手で頭を抱える。
「なんで!? なんで壊れるの!? さっきまで何ともなかったじゃない!」
答えられる者はいなかった。
アルトリウスにも。
セルディウスにも。
ドルガディンにも。
何が起きているのか理解できない。
ただ一人。
ラクシュだけは《ラブリー★アイ》を通して、川向こうの様子まで見ることができた。
豪奢な椅子へ腰掛けた銀髪の女王は、神兵達が次々と崩れていく光景を前にしても、慌てるどころか立ち上がりさえしない。
ルミが静かに紅茶を注ぐ。
エミリアはそれを受け取り、悠然と一口飲んだ。
まるで。
こうなることなど、最初から分かっていたかのように。
ラクシュの目の前では、二百体の神兵達が次々と水上で崩壊し、巨大な身体を奔流に押されて流されていく。
「なんなのぉぉおぉぉぉぉぉっ!?」
豊穣神ラクシュの絶叫が、国境一帯へ響き渡った。
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