緑珠の王と黒輝の女王④
シルヴァニア豊穣公国から正式な宣戦布告が届いた翌日。
ローゼンバーグ王城の一室には、普段の軍議とは異なる顔ぶれが集められていた。
クロエ、リン、セリア、ランカ、シオン。そしてルミ。
オルガをはじめとした重臣達の姿はない。今回の相手はシルヴァニアだけではなく、その背後にいる豊穣神ラクシュ。そして、そのラクシュが敵視している存在についても話さなければならないからだ。
月と死と転生を司る禍津神――ルミナ。
その正体を知る者だけが、この場には集められていた。
長机の上には、ローゼンバーグとシルヴァニアの国境周辺を記した地図が広げられている。エミリアは椅子へ腰掛けたまま、黒いドレスの袖口から伸びた指先で国境線をゆっくりとなぞっていた。
「ラクシュが、本格的に動き始めています」
静かな声で告げたのはルミだった。
銀色の髪を肩から流し、いつものメイド姿のままエミリアの傍らに立っている。その表情には普段と変わらない柔らかな微笑みがあった。
「分体を地上へ降ろし、神兵まで動かしているのでしょう。あの子も、かなり本気のようですね」
「そうみたいね」
エミリアは地図から顔を上げない。
「必要でしたら、私が対処いたしますよ」
「貴女が?」
「はい。ルミとしてではなく――ルミナとして」
その名前が出た瞬間、部屋の空気が僅かに変わった。
「ラクシュ本人が動くのであれば、私が相手をするのが最も確実でしょう。エミリア様が望まれるのでしたら、何も心配する必要はありません」
「別にいらないわよ」
「……はい?」
ルミがぱちりと瞬きをした。
あまりにもあっさりと切り捨てられ、ドールズ達の視線までエミリアへ集まる。
当の本人は気にも留めず、地図の端へ指を移した。
「クロエと魔導兵。それとシオンと近衛がいれば十分かしら」
「承知した」
壁際に立っていたシオンが短く答える。銀白色の髪の上で、白い獣耳が僅かに動いた。
その直後だった。
「ちょっと待って!」
「お待ちください、エミリア様」
リンとセリアの声がほぼ同時に上がる。
エミリアが面倒そうに顔を上げた。
「何よ」
「何よ、じゃないよ! なんでボクが入ってないのさ!」
リンが白衣の裾を揺らして一歩前へ出る。
セリアもその隣へ進み出た。黒と白に淡い紫を重ねた巫女服の袖が、静かな動きに合わせて揺れる。
「私もです。なぜ私達を残されるのですか?」
「必要ないからよ」
エミリアはあっさりと言い切った。
「正面から大軍と殴り合うつもりなんてないもの。必要な戦力だけ連れていけば十分でしょう?」
「儂も納得できんの」
今度はランカが腕を組んだ。
小柄な身体で椅子へ深く腰掛けていたが、その赤い瞳には露骨な不満が浮かんでいる。
「……また増えた」
「増えたとは何じゃ。儂もお主のドールズじゃぞ」
「だからって全員で行く必要はないでしょう?」
エミリアは呆れたように息を吐いた。
「前の帝国の時だって大丈夫だったでしょう?」
何でもないことのように口にして、再び地図へ視線を戻す。
その瞬間。
「……全然、安全じゃないよ」
リンの声が低くなった。
エミリアの指先が止まる。
いつものリンの柔らかな声とは違う。
白衣の裾を握ったまま、リンがもう一歩近づく。その拍子に長い前髪が僅かに分かれ、普段は隠れている片目が覗いた。
その瞳は、うっすらと涙に濡れていた。
「リン?」
「今、考えたでしょ」
「何を?」
「だって、アレを使うんでしょ。だったら――」
「止めなさい」
鋭い声が続きを遮った。
リンが目を瞬く。
「それ以上は駄目よ」
「なんで!?」
「神様はね、どこから覗いているか分からないのよ」
エミリアは椅子の背へ身体を預け、人差し指を自分の唇へ添えた。
「少なくともラクシュなら、大地が繋がっている場所は見ようと思えば見られる。今、この部屋だってね」
「えっ!?」
リンが思わず足元を見る。
ランカも眉を寄せ、シオンの白い耳がぴくりと動いた。
クロエだけは、一瞬だけ目を細める。
何かに思い当たったように地図へ視線を落とし、それから何も言わずエミリアを見た。
「実際に見ているかどうかなんて関係ないわ。見ようと思えば見られる相手に、わざわざこちらの手札を教えてあげる必要なんてないでしょう?」
「でも……」
「だから、言っちゃ駄目」
そこでエミリアは指を唇から離し、僅かに口元を吊り上げた。
「それに――こういうところで黙っていた方が、とっても、らしいでしょう?」
「……何がらしいのさ」
「悪の女王よ」
当然でしょう、と胸を張る。
黒いドレスの胸元を飾る紫の宝石が、窓から差し込む光を受けて小さく煌めいた。
だが、リンは笑わなかった。
「……だからって、大丈夫にはならないよ」
「リン」
「前はボク達が原因だったから、何も言えなかったんだ」
握られた白衣の袖が、僅かに震える。
「帝国が来た時、エミリア様が危ないことをするって分かってても、ボク達が原因だったから……何も言えなかった」
リンは一度俯き、すぐに顔を上げた。
「でも今回は違う!」
前髪の奥から覗く瞳には、まだ涙が滲んでいる。
「それ、失敗したらどうするんだよ!」
「失敗しないわよ」
「そういう話じゃない!」
声が部屋へ響いた。
それでもエミリアは何も言わない。
「エミリア様はボク達を下僕って言うんでしょ?」
「ええ」
「だったら、ちゃんと使ってよ!」
リンは袖を握ったまま、一歩も退かなかった。
「ボクは絶対についていくからね」
しばらく、誰も口を開かなかった。
リンがここまで感情を露わにすることは珍しい。
その様子を傍らで見ていたセリアの表情が、ゆっくりと変わった。
リンには、人の心が分かる。
そのリンが、エミリアの考えを読み取ったうえでここまで強く反対している。
胸元へ添えていたセリアの手が、静かに握られた。
「……私も参ります」
声は穏やかだった。
だが、先ほどまでとは明らかに違う強さがあった。
「セリアまで?」
「はい」
セリアは一歩前へ出る。淡い紫の布地が足元で揺れ、その表情にはもう迷いがない。
「無駄だと言われても、私は付いていきます」
「貴女ねぇ……」
「エミリア様が悪の女王として戦われるのであれば、私はその下僕です」
そして、穏やかに微笑んだ。
「私も、エミリア様と一緒に――悪いことをさせてもらいます」
エミリアが一瞬だけ目を丸くする。
「……随分と言うようになったわね」
「エミリア様に教えていただきましたから」
満足そうに返され、エミリアは言葉に詰まった。
「そうそう」
リンも目元を袖で軽く拭いながら頷く。
「悪いことするなら、ボク達も混ぜてよ」
「貴女達、悪の意味を何か勘違いしてない?」
「お主が言うかの」
ランカが呆れたように鼻を鳴らした。
「儂も行くぞ」
「ランカまで?」
「当たり前じゃ。主だけ戦場へ出て、儂らは大人しく待っとれと言われても納得できんわい」
「戦場なのよ?」
「分かっとるわ。儂を誰じゃと思っとる」
ランカは腕を組んだまま、ふん、と顎を上げた。
「それに魔導兵も連れていくのじゃろ。現場で何かあった時、クロエ一人より儂もおった方が都合がよかろう」
「私は一人でも問題ありませんが」
クロエが淡々と口を挟む。
「ほれ」
「今、問題ないって言ったでしょうが」
「ですが、対応出来る手札は多い方がいい。それはエミリア様も普段から仰っていることではありませんか?」
クロエは眼鏡の位置を指先で直し、薄く笑う。
「……貴女は最初から連れていくって言ったわよね?」
「ええ。ですから私は反対していませんよ」
「完全にそっち側じゃない」
「合理的な判断です」
悪びれる様子もない。
エミリアは最後にシオンへ視線を向けた。
「シオン」
「何だ?」
「貴女は最初から連れていくつもりだったけど……何か言いたそうね」
白い尾が一度だけゆっくりと揺れた。
シオンはリン達を見回し、それからエミリアを見る。
「皆で行けばいい」
「……貴女までなのね」
「その方がいい」
それだけ言うと、再び口を閉じた。
「まったく……」
エミリアが額へ手を当てる。
五人の視線が集まっていた。
忠誠も、心配も、意地も、それぞれ違う。
だが、誰一人として引くつもりはないらしい。
「……分かったわよ。全員連れていくわ」
リンの顔がぱっと明るくなった。
「やった!」
「ありがとうございます、エミリア様」
「最初からそうすればよいのじゃ」
「ただし!」
エミリアが全員を見回す。
「私の命令には絶対に従いなさい。勝手な真似をしたら、その場で置いていくわよ」
それぞれの返事が返ってくる。
そこで、それまでやり取りを眺めていたルミが、にこやかに口を開いた。
「それなら、私がついて行っても問題はないですね」
エミリアがゆっくり振り返る。
「……貴女まで?」
「はい。ラクシュ本人が動いた場合には、私の出番なのでしょう? でしたら、最初から近くにいた方が確実です」
「それは、まあ……そうだけど」
「では決まりですね」
「勝手に決めないでくれる?」
「もう皆様をお連れになるのでしょう? 一人増えても、大きな違いはないかと」
「神様一人を誤差みたいに数えないで」
ルミは楽しそうに微笑むだけだった。
「……もういいわ。貴女も来なさい」
「ありがとうございます、エミリア様」
結局、最初はクロエとシオンだけを連れていくつもりだったはずが、ドールズ全員にルミまで同行することになってしまった。
エミリアは一度だけ天井を仰ぎ、気を取り直すように地図へ視線を戻す。
「それで、ルミ。もう一つ確認しておきたいの」
「何でしょう?」
「ラクシュの権能よ。この間聞いた話、本当に間違いないのよね?」
「大地、豊穣、創造ですね」
「ええ」
ルミは迷うことなく頷いた。
「間違いありません。ラクシュの本質は大地にあります。豊穣も創造も、そこへ深く結びついた権能です」
「そう」
「それが何か?」
「それに、前もって仕込んでおいた工作で、ラクシュへの信仰はもう落ち始めているわ」
「ええ。それも神力へ影響しているでしょう」
「なら十分ね」
エミリアの口元が僅かに上がった。
「……十分?」
「勝てるってことよ」
ルミが怪訝そうに首を傾げる。
その時、クロエが地図へ目を向けた。
視線の先にあるのは、シルヴァニアとの国境。
「私も、大丈夫だと思うけどねぇ」
何でもないことのような言葉だった。
エミリアが横目でクロエを見る。
「でしょう?」
「ええ」
二人はそれだけで会話を終えた。
リンも何も言わない。
先ほど注意されたばかりなのだから、今度こそ口を閉ざしている。ただ、まだ僅かに赤い目元には不安が残っていた。
ルミが三人を順番に見る。
「……三人とも、何か分かっているようですね」
「気のせいよ」
「そうでしょうか?」
そこで、シオンが不思議そうに首を傾げた。
「ルミは神なのだよな?」
「はい」
「なら、エミリア様がやろうとしていることは知っているんじゃないのか?」
「知りませんよ?」
「……?」
白い耳が、ぺたりと伏せられた。
シオンは本気で不思議そうにルミを見る。
「神なのに?」
「知ろうとすれば、分かりますけどね」
ルミは穏やかに答えた。
だが、その直後。
微笑みの質が、僅かに変わった。
紫の瞳が妖しく細まり、柔らかなメイド姿の奥から、ほんの一瞬だけ禍津神の気配が覗く。
退屈しきった世界を眺め続け、それでも面白いものを求める神の顔だった。
「知らない方が、面白いでしょう?」
シオンは少し考えた。
伏せられていた白い耳が、ゆっくりと元へ戻る。
「それは分かる」
「でしょう?」
「そこで意気投合するのね、貴女達……」
エミリアが半眼で二人を見る。
退屈を何より嫌うルミナにとって、答えを先に知ることなど興醒めでしかない。未知の境地を追い続けるシオンにも、その感覚だけはよく分かるらしい。
「そのうち分かるわよ」
エミリアは地図を畳み、椅子から立ち上がった。
黒いドレスの裾が床を撫で、長い銀髪が背中でさらりと流れる。
「さて。これで決まりね」
紫の瞳で、自分の下僕達を一人ずつ見回す。
「ついてくるのは構わないわ」
そこで一度、言葉を切った。
「でも、美しさだけは忘れちゃ駄目よ!」
びしりと指を突きつける。
「特に! クロエとシオンは気をつけなさい!」
名指しされたクロエが眼鏡の奥で目を細め、困ったように苦笑した。
「元々、私達はついていくはずだったんじゃなかったかねぇ……」
「それとこれとは別よ!」
隣ではシオンの白い耳が僅かに伏せられる。
「心外だ」
「何がよ」
「教わったことは守る」
きっぱりと言い切るシオンに、今度はエミリアが一瞬言葉に詰まった。
「……ならいいけど」
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