緑珠の王と黒輝の女王③
シルヴァニア豊穣公国、公都エメラルディア。
その日、都の中央広場には朝早くから多くの民が集まっていた。普段であれば露店が軒を連ね、豊かな農作物や工芸品を求める声で賑わう場所だ。だが今日、広場の中心を占めるのは商人ではない。
整然と並ぶ常備兵。その後方には、各地から招集された備役兵達が続いている。槍や弓を携えた者、鎧に身を包んだ者。中でもひときわ目を引くのは、周囲の兵より頭二つ、三つは大きなトロールの戦士達だった。
だが、この場に集まった者達の視線を最も強く奪っているのは、彼らですらない。
広場の奥には、四体の巨大な人影が朝日を浴びながら並んでいた。
神兵《煌》。
五メートルを優に超える巨体は金と宝石で華美に飾り立てられ、戦場へ赴く兵器というより、神殿へ奉納された巨大な美術品にすら見える。その中でも七号機はひときわ金色に輝き、遠目からでも嫌というほど目立っていた。
さらにその背後には、三十メートル近い巨体を誇る《華》二十八号機が、街並みを見下ろすように静かに立っている。ラクシュの神力より生み出された神兵。その圧倒的な姿は、戦の経験などほとんど持たない民にすら、分かりやすい安心感を与えていた。
「……あんなものまで出るのか」
「なら、俺達が戦うまでもないんじゃないか?」
「ローゼンバーグは帝国の軍を退けたって話だぞ」
「でも、帝国にラクシュ様の神兵はいなかっただろ?」
兵列の後方で、そんな声が交わされる。
熱気に満ちている者ばかりではなかった。シルヴァニアは豊かな国だ。畑を耕せば作物は実り、森へ入れば恵みがあり、職人は自らの技を磨きながら不自由のない暮らしを送ることができる。他国へ命を懸けて奪いに行かなければならないものなど、これまでほとんどなかった。
「まさか本当に召集されるとはな……」
「畑は家族に任せてきたけど、長引いたら困るぞ」
「出征すれば、税の減免も出るんだろ? さっさと終わってくれれば悪い話じゃない」
「褒賞も出るらしいぞ」
「俺は金より家に帰りたいよ」
不安、期待、諦め、使命感。集められた兵達の胸にあるものは、一様ではない。
それでもラクシュへの信仰が篤い者達、とりわけトロールの兵達の士気は高かった。
「我らを地上へ導いてくださったラクシュ様の神託だぞ」
「ああ。邪神に惑わされた同胞を放ってなどおけん」
「必ず連れ戻す」
その声には迷いがない。そして彼らほど熱心ではない者達も、広場の奥に並ぶ巨大な神兵を見れば、少なからず思う。
――そう長い戦にはならないだろう。
やがて正面に設けられた壇上へ、三人の男が姿を現した。
中央に立つのは、公王アルトリウス・ヴェルド・トロール。その左右には、宰相セルディウス・ヴェルド・セインと、将軍ドルガディン・ヴェルド・セインが控えている。
アルトリウスは深緑を基調とした儀礼装束を纏い、その上から植物の紋様を金糸で刺繍した外套を羽織っていた。普段の穏やかな公王とは違う。今日この場に立つのは、一国を戦へ導く王だった。
広場の騒めきが少しずつ消えていく。
アルトリウスは一歩前へ出た。
「シルヴァニアの民よ。今日、諸君をここへ集めた理由は、すでに聞き及んでいることと思う」
静かな声だった。だが、広場の隅まで届くほどよく通った。
「近年、我が国から多くの民がローゼンバーグ王国へ渡った。職人、商人、そしてその家族。中には、我が国にとってかけがえのない技を持つ者もいる」
アルトリウスは一度、群衆を見渡す。
「当初、私はまず事実を確かめるべきだと判断した。豊穣神ラクシュ様より神託が下ったからこそ、感情のまま兵を動かすのではなく、何が起きているのかを確かめる必要があると考えたからだ」
神託を軽んじたのではない。戦を始めれば、人は死ぬ。その重さを知る王だからこそ、特使を送った。
「だが、ラクシュ様がお示しになられた危惧を退けるには至らなかった」
アルトリウスの声が僅かに低くなる。
「ローゼンバーグの背後には、月と死と転生を司る禍津神ルミナがいる。そしてローゼンバーグの女王エミリアは、我が国より渡った民を――『私の下僕』『私のもの』と公言した」
ざわり、と広場の空気が揺れた。
「下僕……?」
「シルヴァニアの民をか?」
「やっぱり……」
人々の表情に、はっきりと警戒が浮かび始める。
その時だった。
「公王陛下!」
壇の脇から、力強い声が上がった。人々の視線が向く。
豪奢な衣装に身を包んだ、大柄なトロールの男が前へ進み出た。
アイゼル公爵、ブーサ・ヴェルド・イーク。
整った顔立ちと長身の恵まれた体格。その姿だけを見れば、醜悪などという言葉とはほど遠い。だが彼を知る者の多くは、別の意味で彼を《醜悪公》と呼んでいた。
「皆の者、聞いてくれ! 私は、ローゼンバーグの女王と直接相対したことがある!」
それだけで周囲がざわついた。
「我が街アイゼルには、偉大なる剣匠バランがいた! だが、奴らはそのバランをローゼンバーグへ奪い去った!」
「バランを……?」
「あの剣匠の?」
名を知る者達から声が上がる。ブーサは拳を握り締めた。
「それだけではない! あの女王は、不可思議な光を放った! 昼の太陽すら霞むほどの、目も開けていられぬ異様な光だ!」
ブーサの顔が険しく歪む。
「そして、その光はこの私の肌を焼いた!」
トロール達が一斉にざわついた。
彼らにとって、太陽は特別な意味を持つ。本来、地上の陽光を苦手とする種族を、ラクシュの加護が地上へ導いた。その自分達を焼く光。しかも、それを操ったのがローゼンバーグの女王だという。
「当時、私はあれが何なのか理解できなかった! だが今なら分かる! 禍津神ルミナがあの国にいるというのならば――あの光もまた、邪神の力に違いない!」
どよめきが広がった。
「公王陛下! ラクシュ様の神託は正しい! 我らの同胞は、あの国から救い出さねばならぬ!」
「そうだ!」
前列にいたトロールの兵が声を上げた。
「ラクシュ様の眷属を取り戻せ!」
それに続く声が増えていく。一方で後方の備役兵達は、そこまで激しく拳を掲げてはいなかった。ただ、顔に浮かぶ不安は先ほどとは違う種類のものへ変わっている。
「本当に邪神がいるのか……」
「公爵まで実際にやられてるなら……」
「神兵も出るんだ。俺達は後ろについていけばいいだろ」
「早く終わってくれれば、それでいい」
誰もが同じ理由で戦う必要などない。
同胞を救いたい者。神託に従う者。褒賞を期待する者。命令されたから武器を取った者。そしてただ、無事に帰ることだけを願う者。
その全てを、国家は兵として束ねていく。
アルトリウスが再び前へ出ようとした、その時だった。
壇上の背後で、突如として金色の光が弾けた。眩い光が渦を巻き、無数の光粒が空へ舞い上がる。その周囲では、何の必要があるのか分からない小さなハート型の光まで、きらきらと飛び交っていた。
やがて光の中から、一人の女性が姿を現す。
長い金髪。鮮やかな緑の瞳。白と緑を基調に、金を惜しみなく使った華美な衣装。
豊穣神ラクシュ。
神力を抑え、地上へ降ろした分体である。
その姿が完全に形を成した瞬間、ラクシュは片手でピースサインを作り、その指先を顎の下へ添えて軽く小首を傾げた。
『じゃーん! ワタクシ様、降臨!』
最後に金色の光がぱあっと弾ける。
「ラクシュ様だ……!」
「本当に降臨なされたぞ!」
先ほどまでとは比較にならない騒めきが広場を満たした。
アルトリウスは一瞬だけ目を閉じた。ここまで派手にする必要があるのかとは思ったが、口には出さない。
ラクシュは一転して、広場の民へ両腕を広げた。
『シルヴァニアのみんな! ワタクシは、この国を豊かにしたかった! みんながお腹いっぱい食べて、好きなものを作って、笑って暮らせる国にしたかったの!』
広場が静まり返る。
『だからこそ、ワタクシの可愛い眷属達を、邪神になんて好きにはさせないわ! 連れ戻すのよ! みんなまとめて!』
「おおおおおおおっ!!」
前列を中心に、大きな歓声が上がった。
『それに心配しなくても大丈夫! ワタクシのエンジェルちゃん達もいるんだから!』
ラクシュは背後の四体の《煌》と、《華》二十八号機を示すように大きく手を広げる。巨大な神兵を見上げ、再び歓声が湧いた。
「エンジェルちゃん……」
セルディウスが小さく呟いた。
「神兵だ」
アルトリウスも小声で訂正する。
『エンジェルちゃんよ!』
「……はい」
しっかり聞こえていたらしい。
アルトリウスはそれ以上の抵抗を諦め、改めて広場へ向き直った。
ラクシュが降臨したことで、空気は完全に変わっていた。熱狂する者。神兵の姿に安堵する者。不安を抱えながらも、神自身の言葉ならばと納得する者。理由は違っても、今や視線は一つの場所へ集まっている。
「シルヴァニアの民よ」
アルトリウスが右手を掲げた。
「我らはローゼンバーグの土地を欲しているのではない。富を奪うためでもない。我らの目的はただ一つ。我らの同胞を、禍津神の影響より救い出すことだ」
兵達が武器を握り直す。
「戦わぬ者へ刃を向けることを禁ずる。略奪も許さぬ。我らは奪うためではなく、取り戻すために行く」
そして、その声が一段強くなる。
「本日をもって、シルヴァニア豊穣公国はローゼンバーグ王国へ最後通牒を発する」
セルディウスが一枚の書状を掲げた。
「我が国より渡った民を解放し、その帰還を妨げぬこと。定めた期限までに要求が受け入れられなければ――」
ドルガディンが腰の大剣へ手を掛ける。
「我らは武力をもって、同胞を救出する」
広場が静まり返った。
それは最後の要求であると同時に、拒絶されれば戦端を開くという明確な意思表示だった。
「ローゼンバーグは、バルディア帝国の主力を退けた国だ。決して侮るな!」
アルトリウスの声が強くなる。
「ラクシュ様の御加護がある。神兵がある。だが、それだけに頼り己の務めを忘れることは許さぬ! 全員、生きてこの国へ戻れ!」
その言葉に、先ほどまで黙っていた兵達からも声が上がった。
勝つためだけではない。
帰るために戦え。
その言葉ならば、戦を望まぬ者にも届く。
「行くぞ!」
アルトリウスが腕を振り下ろす。
「我らの同胞を取り戻す!」
「おおおおおおおおっ!!」
武器が掲げられ、槍が空を向き、盾が打ち鳴らされた。
誰もが同じ熱を抱いているわけではない。
それでも、公王の命令と神の神託の下。
豊穣の国シルヴァニアは、ついに戦へと歩み始めた。
◇
数日後。
ローゼンバーグ王城。
届けられた一通の書状に目を通していたオルガが、深い溜息と共に顔を上げた。
「……正式な宣戦布告だ」
「へぇ」
玉座に腰掛けたエミリアは、それだけだった。
あまりにも軽い返事に、オルガの眉が跳ね上がる。
「へぇ、じゃないだろうが! 自分が招いたことだって分かってるのか!?」
エミリアの紫の瞳が、ゆっくりとオルガへ向けられた。
「じゃあ聞くけど。あんな言い掛かりに、そのまま従えば良かったと言うの?」
「それは――」
「今回だけじゃないわ。今回、向こうが『自分達が正しいから返せ』と言ってきて、それに従ったとして。次はどうするの?」
エミリアは玉座の肘掛けへ片肘を預ける。
「私達が作ったものを見て、『本来は自分達のものだ』と言われたら渡すの? その次も? 向こうが正しいと言い張る度に、私達が折れるの?」
「……交渉ってものがあるだろう」
「したわ」
即答だった。
「技術が欲しいなら、ギルドで作り方を公開している。好きに見て、好きに持っていけばいい。そう言ったでしょう?」
「だからな、嬢ちゃん。言い方ってもんが――」
「オルガ」
その一言で、オルガの言葉が止まった。
怒鳴ったわけではない。それでも、普段の少女と同じ調子ではなかった。玉座にいるのは、ローゼンバーグを治める女王だった。
「これは私の矜持よ」
エミリアは真っ直ぐにオルガを見つめた。
「私の下僕を返せと言われたから返す。私達が作り上げたものを寄越せと言われたから差し出す。そんな真似をするくらいなら、最初から女王なんてやっていないわ」
「嬢ちゃん……」
「ここだけは譲らない。オルガ、貴方が相手でもね」
しばし、二人の視線がぶつかった。
やがてエミリアは、手元の宣戦布告へ視線を落とす。
「話は終わりよ」
紙面には、シルヴァニア側の要求が並んでいる。そのどれにも、従う気はなかった。
「向こうは、自分達が正しいと思っている。それで私のものを奪いに来る」
エミリアは書状を閉じた。
「なら、来ればいいわ」
玉座から立ち上がる。黒いドレスの裾が、僅かに揺れた。
「こちらから仕掛けるつもりなんてなかった。でも、向こうから来るというのなら話は別よ」
その口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
「私に逆らうのなら、容赦なんてしてあげない」
紫の瞳が細められる。
「悪の女王らしく――」
一拍。
「正面から踏み潰してあげるわ」
オルガは何も答えなかった。
ただ、目の前に立つ女王を見つめていた。
その言葉が強がりでも、勢い任せでもないことくらい。
長く傍にいるオルガには、よく分かっていた。
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