緑珠の王と黒輝の女王①
豊穣神ラクシュからもたらされた神託を前に、アルトリウスはしばらく言葉を発しなかった。
ローゼンバーグ王国へ流れているシルヴァニアの民。その背後には、月と死と転生を司る禍津神ルミナがいる。ラクシュはそう確信している。
『だから、連れ戻すのよ! ワタクシの可愛い眷属達を、あんな邪神の好きになんてさせておけないわ!』
「……ラクシュ様」
『なによ?』
アルトリウスは深く頭を垂れ、それから静かに顔を上げた。
「まずは、事実を確かめさせていただけませんでしょうか」
『……ワタクシの言うことが信じられないの?』
不満げに頬を膨らませるラクシュに、アルトリウスは首を横に振る。
「いいえ。ラクシュ様のお言葉を疑っているのではございません。だからこそ、正しく対処する必要があると考えております」
神託が下った。それだけで兵を動かすことも、シルヴァニアでは不可能ではない。
だが、アルトリウスは一国を預かる王だった。
「ローゼンバーグへ特使を送りましょう。我が国から移った者達が、どのように暮らしているのか。何者かに強制されているのか。そして、我が国への帰還を望む者がいるのであれば、それを妨げられていないか。まずは我らの目で確かめます」
『でも、ルミナに惑わされていたら、自分から帰りたいなんて言わないかもしれないじゃない』
「その可能性も含めて確認いたします。そして可能であるならば、交渉によって民を取り戻します。戦わずに済むのであれば、それに越したことはございません」
ラクシュは腕を組み、しばらく考え込んだ。
思い込みは強い。今回に限って言えば、すでに犯人をルミナだと決めつけてもいる。だが、ラクシュは戦争そのものを好む神ではない。
『……まあ、それで帰ってくるなら、その方がいいわね』
「ありがとうございます」
『でも! 向こうが素直に返さないなら、ちゃんと助けに行くのよ!』
「無論でございます」
そこでアルトリウスは、傍らに控えていた侍従へ目を向けた。
「宰相と軍務卿を呼べ」
『……あら? 交渉するんじゃなかったの?』
「いたします」
『じゃあ、どうして軍を?』
問われたアルトリウスは、ごく当然のことのように答えた。
「交渉がまとまらなかった場合に備えるためでございます」
使節が帰還してから兵を集め、武具を揃え、食糧を確保し、輸送手段を準備する。それでは遅い。
国家が軍を動かすとは、兵を一か所へ集めれば済む話ではなかった。
「兵の状態を確認し、武具を点検する。街道を調べ、兵糧と輸送手段を確保する。必要であれば備役の者達にも、いつでも召集へ応じられるよう準備だけはさせておきましょう」
『もし交渉で終わったら、全部無駄になるじゃない』
「それでよいのです」
アルトリウスは迷わなかった。
「軍を整えた労が無駄になり、費やした金だけが失われる。それで臣民の血が流れずに済むのであれば、安いものでしょう」
ラクシュが目を丸くし、やがて満足そうに笑った。
『うん。そういうところ、アルトリウスはちゃんとしてるわよね!』
「恐れ入ります」
『だったら、ワタクシも準備しておくわ! エンジェルちゃん達を動かせるようにしておくから!』
「……神兵を、でございますね」
『エンジェルちゃん!』
「承知いたしました。エンジェルちゃんを」
『そう、それでいいのよ!』
神が造った兵士なのだから天使。ラクシュの中では、どうやらそういうことらしい。
アルトリウスはその点について考えることを諦めた。
『せっかくだから煌ちゃんも出しましょう。それと、お友達を三人くらい!』
「煌型を四体」
『それから華ちゃん! 二十八号機のあの子なら、どーんって真ん中に立ってるだけでも格好いいじゃない!』
「華型二十八号機を中央に。承知いたしました」
『五体並んだら、すっごく絵になるじゃない!』
ラクシュの目的が途中から少し変わっているような気もしたが、軍事的には十分すぎる戦力だった。
煌型四体。そして、それらを従えるように立つ三十メートル級の華型二十八号機。
これだけでも、小国ならば王都の門を閉ざして震え上がるだろう。
「しかしラクシュ様。神兵を動かすにも、神力を消耗なさるのでは?」
『そこは大丈夫!』
ラクシュは胸元で両手の指を合わせ、小さなハートを作ると、片目を閉じた。
『ワタクシのゴージャス★ぢからを、たっぷり入れておくから!』
「……神力を補充していただける、と」
『ゴージャス★ぢからよ!』
「承知いたしました」
訂正する意味は、おそらくない。
ほどなくして宰相と軍務卿が呼ばれ、アルトリウスは次々と指示を出した。
常備兵の現状。備蓄されている武器と防具。各地の備役兵の数。馬車、荷車、街道、橋梁。兵糧の備蓄と、追加で供出可能な量。負傷者が出た場合の後送経路。
ただし、まだ召集令は出さない。民にも公表しない。
今はあくまで、戦争となった場合に備えた確認と準備に留める。
「ローゼンバーグは、バルディア帝国の主力を退けた国だ。決して侮るな」
軍務卿が表情を引き締める。
「承知しております」
「我々にはラクシュ様の御加護がある。神兵もいる。だが、それを理由に備えを怠ることは許さん」
シルヴァニアは長く、大きな戦争を経験していない。
東方三国との小競り合いはあった。国境で武器を交えたこともある。だが、国を挙げて軍勢を動かすような戦は、今を生きる者達にとってほとんど過去の物語だった。
それは、弱かったからではない。
シルヴァニアにはラクシュの加護があり、強靱なトロール達がおり、いざとなれば神兵まで動く。周辺国もまた、長らく大規模な侵攻を仕掛けてくるような状況にはなかった。
戦う必要がなかったのだ。
だからこそアルトリウスは、力があることと、戦に慣れていることを同じものとは考えなかった。
「交渉で終われば、それが最良だ。だが、終わらなかった時に何も準備していなかったでは済まされん」
その日のうちに、ローゼンバーグ王国へ送る特使が選ばれた。
外交経験があり、感情に流されにくく、他国の歓待程度で任務を忘れるような人物ではない。アルトリウス自身が信を置く男だった。
託された目的は明確である。
ローゼンバーグへ渡ったシルヴァニアの民について、その実情を確認する。
そして可能であるならば、戦うことなく帰還させる。
数日後。
特使を乗せた馬車は国境を越え、ローゼンバーグ王国へと入った。
◇
国境を越えて間もなく、特使は小さな違和感を覚えた。
「……道が整備されているな」
ローゼンバーグの王都へ向かう街道は、想像していたよりもはるかに走りやすかった。
もちろん、どこまでも石畳が続いているわけではない。それでも路面はきちんと均され、大きく抉れた轍や、馬車が激しく跳ね上がるような穴はほとんど見当たらない。雨水が溜まりやすい場所にも手が入れられているらしく、国境を越えてからというもの、長く放置されていると感じる区間は一度もなかった。
道は、作ればそれで終わりではない。
維持するには人手も金も必要になる。
「少し前まで、衰退していた国と聞いていたが……」
特使は馬車の窓から外を眺めた。
そして、もう一つ気づく。
行き交う者が多い。
商品を積んで王都へ向かう荷馬車。反対に、王都から各地へ散っていく商人。数台の馬車を連ねた隊商とも、すでに何度かすれ違っていた。
その中には、シルヴァニアで見覚えのある商品を積んだ馬車まである。
「なるほど……これなら、旅慣れぬ者でも来られるか」
公国からローゼンバーグへ移った者達。
その全てが、自ら道を探し、たった一人で未知の国を目指したわけではないのだろう。
商人へ頼み、隊商に同行させてもらえばいい。護衛付きの一団へ加わることができれば、旅の危険も大きく減る。
道が分からなくとも、ローゼンバーグへ向かう商人について行けば辿り着ける。
一度誰かが辿り着けば、その者が次の者へ道を教える。家族が来る。弟子が来る。友人が来る。
人が人を呼ぶ。
シルヴァニアから民が流れている理由の一端を、特使はようやく理解した気がした。
もっとも。
こうして商人の往来を助け、移住する者達の旅まで容易にした街道整備。そのきっかけが、壮大な国家戦略でも、交易政策でもなく――女王エミリアのお尻事情であったことを、特使は知る由もなかった。
馬車で長時間揺られて、お尻が痛くなるのは嫌。
ただそれだけの理由から始まった道の整備が、結果として物流を促し、商人を呼び、人の流れまで作り出していたのである。
そんな女王の事情など知らぬ特使は、ローゼンバーグという国への認識を少しずつ改めながら、王都へ向かっていった。
そして王都へ入って最初に抱いた感想もまた、意外なほど素朴なものだった。
「……随分と、人が多いな」
バルディア帝国の大軍と戦ったばかりの国。
しかも少し前まで、衰退著しい小国と聞いていた。
ならば街には戦の傷跡が残り、人々の顔にも暗さがある。
特使は無意識に、そんな光景を想像していた。
だが実際に目へ飛び込んできたものは、まるで違った。
往来には荷を積んだ馬車が行き交い、商人達の声が飛び交う。店先には見慣れない商品が並び、食事時になれば、あちらこちらから食欲を刺激する香りが漂ってくる。
そして何よりも目についたのは、働く者達の顔だった。
忙しい。
だが、沈んでいない。
職人達は新しい道具を前に声を弾ませ、商人達は次に何を仕入れるかを話し合い、人々は明日にはまた何か新しいものが増えるとでも信じているように笑っていた。
シルヴァニアにも笑顔はある。
豊かな土地。満ち足りた食卓。ラクシュの恩恵によって約束された、穏やかな暮らし。
しかし――何かが違う。
「……活気、か」
特使は、小さく呟いた。
シルヴァニアが穏やかに満ち足りた国であるなら、ここは常に何かが動いている国だった。
その日の謁見は、到着した時刻が遅かったため翌日へ回された。
王国側から用意された宿へ案内され、そこで出された夕食に、特使は再び言葉を失った。
柔らかな白いパン。色鮮やかな野菜を使った料理。そして大皿の中央には、薄く切られた牛肉が幾重にも重ねられていた。
ただ並べてあるのではない。
一枚一枚を花弁に見立て、中央から外へ広がるように盛り付けられたそれは、まるで一輪の薔薇のようだった。
薄く切られた肉の中心には鮮やかな赤みが残り、その色合いまでもが瑞々しい花弁を思わせる。
「……肉料理で、薔薇を作ったのか」
特使は思わず見入った。
肉料理を美しく見せるという発想そのものが、彼には新鮮だった。
だが、美しさに感心したのも束の間だった。取り分けた一枚を間近で見て、今度はその赤さに眉を寄せる。
「……待て。これは本当に火が通っているのか?」
思わず口にすると、給仕が穏やかに微笑んだ。
「いいえ。中心までゆっくりと熱を通しております。よろしければ、そのままお召し上がりください」
少しばかり疑いながら、一切れを口へ運ぶ。
「…………」
柔らかい。
表面の香ばしさとは対照的に、内側は驚くほどしっとりとしていた。噛めば肉の旨味が広がり、生肉を食べているような不快さなどどこにもない。
それどころか――美味い。
「……この肉は、どうやって」
「ローストビーフと申します。表面を焼いたあと、肉の中まで火が入りすぎないよう、時間をかけて仕上げるそうです」
「ローストビーフ……」
聞き慣れない料理名を口の中で転がしながら、特使はもう一切れ取った。
そこで、肉から漂う複雑な香りに気づく。
「……香辛料まで使っているのか?」
「はい。下味に何種類か」
「何種類も?」
特使は思わず給仕を見た。
香辛料は高価だ。
シルヴァニアにも交易を通じて入ってくるものはあるが、料理一皿へ惜しげもなく何種類も使うような品ではない。
ところが、この肉には香りづけ程度では済まないほど、様々な香辛料が使われている。それだけではない。添えられた料理からも、また別の香りが漂っていた。
「こんな高価なものを、これほど使っているのか?」
給仕は少し不思議そうに首を傾げた。
「この辺りで使うものの多くは、国内で作られておりますので。香辛料を特産とする村もございます」
「……国内で?」
「はい。最近では料理人の方々が、どの香辛料を組み合わせれば美味しくなるのか、色々と試しているそうですよ」
高価な香辛料を買い集め、贅を尽くしているのではない。
この国で採れたものを、この国の料理人達が使い、新しい料理を生み出している。
特使は手元の皿へ視線を落とした。
シルヴァニアは豊穣の国だ。
食材の量でも質でも、決して他国に劣っているとは思わない。
だが――これは違う。
豊かな食材があるだけではない。
どうすればもっと美味しくなるのか。
どうすれば今までになかった味になるのか。
そのために手を加え、工夫し、試した痕跡が、目の前の一皿にはあった。
「お気に召したようでしたら、こちらもお試しください」
給仕が指し示したのは、先ほどの白いパンだった。
「肉を挟んで、こちらのソースを少しつけて召し上がるのも美味しいですよ」
「パンに、肉を?」
勧められるまま、白いパンへローストビーフを挟み、添えられていた褐色のソースを少量かける。
玉ねぎの甘み。肉汁の旨味。葡萄酒のほのかな酸味に、香辛料の刺激が重なる。
一口。
特使の動きが止まった。
「……これは」
「いかがでしょう?」
「……危険だな」
「え?」
給仕の表情が強張る。
特使は慌てて首を振った。
「違う。美味すぎる。これでは、いくらでも食べられてしまう」
「まあ」
給仕がくすりと笑った。
特使もつられて苦笑しながら、もう一口かじる。
柔らかなパン。
肉。
ソース。
それぞれ単独でも美味いものが、重なることでまるで別の料理になる。
シルヴァニアでは、良質な肉も、小麦も、野菜も珍しくない。
なのに。
「同じものを使っても、これほど変わるものなのか……」
思わず漏れた言葉に、答える者はいなかった。
食後には甘味まで用意されていた。
部屋へ戻れば、洗髪料と、髪を整える香りのよい液体まで置かれている。
何から何まで、聞いていたローゼンバーグとは違った。
翌朝。
王城へ向かう馬車の中から、特使は再び街を眺めていた。
昨日と変わらず、人々は忙しそうに働いている。だが、その顔には笑顔がある。
工房の前では、数人の職人が身振りを交えながら議論していた。
その中には、シルヴァニアでよく見慣れたドワーフの姿もある。
笑っていた。
楽しそうに。
これから何を作るのか、それを考えること自体が楽しいとでもいうように。
「……なるほど」
特使は目を細めた。
街道を行き交う商人達。
見たことのない商品。
昨日口にした料理。
そして、目の前で楽しそうに働く自国出身の職人。
公国から人が流れている理由が、少しずつ見えてきた気がした。
まだ、何が正しいのかは分からない。
ラクシュの神託が誤っているとも思っていない。
自分は調査と交渉のために来たのだ。
だが一つだけ。
ローゼンバーグという国について、出発前に抱いていた印象が間違っていたことだけは、認めざるを得なかった。
やがて馬車が止まる。
「到着いたしました。女王陛下がお待ちです」
「分かった」
特使は衣服を整え、馬車を降りた。
この国を治めるという、黒き女王。
エミリア・ローゼンバーグ。
その人物がどのような王なのか。
この時の特使は、まだ知らなかった。
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