豊穣神ラクシュ 挿絵有
2026/10/05
挿絵を入れて改行を直しました
神界。
大地・豊穣・創造を司る神、ラクシュの住まう領域には、今日も柔らかな光が満ちていた。
色とりどりの花が咲き乱れ、瑞々しい果実が枝をたわませる。澄んだ水は白亜の宮殿を囲むように流れ、甘い花の香りを含んだ風が開け放たれた窓から穏やかに吹き込んでいた。
その宮殿の一室で、ラクシュはゆっくりと瞼を開く。
「んー……よく寝たわ」
寝台の上で大きく伸びをする。
もちろん、神である彼女に睡眠は必要ない。眠らなくても疲れはしないし、食事を取らなくても飢えることはない。湯浴みも、髪や肌の手入れも、本来なら必要のないものだった。
それでもラクシュは眠り、食事を楽しみ、毎朝こうして身だしなみを整える。
必要だからではない。楽しいからだ。
何より、美しい自分をさらに美しく整える時間を、ラクシュはことのほか気に入っていた。
寝台を降り、大きな鏡の前へ腰を下ろす。
艶やかな金髪。透き通るような白い肌。鮮やかな緑の瞳。
鏡に映る自分を眺め、満足そうに頷いた。
「今日も完璧ね」
櫛を手に取り、鼻歌交じりに長い金髪を梳いていく。
さらさらと流れる金糸のような髪。その一本を何気なく摘まみ――ラクシュの手が止まった。
「…………え?」
毛先が、割れている。
瞬きをして、もう一度見る。
やはり割れていた。
枝毛だった。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ!」
慌てて別の毛束を手に取る。一本、二本と確かめ、さらに別の場所にも傷んだ毛先を見つけた。
ラクシュの顔が青ざめる。
「う、嘘でしょ……? ワタクシの髪に、枝毛……?」
六柱神の一柱たる豊穣神ラクシュ。
大地を潤し、生命を育み、豊かな実りをもたらし、無から新たなものすら創り出す神。
そして何より――この世界で最も美しい神。
少なくとも本人は、そのことを一度たりとも疑ったことがない。
「そんな……ワタクシ様の美しい髪が……」
あまりの衝撃に、ふらりと身体がよろめいた。
思わず頬へ手を当て――今度は指先に妙な感触を覚える。
「……ん?」
頬を撫でる。
もう一度、ゆっくりと撫でた。
普段なら何の抵抗もなく滑るはずの指先に、ざらりとした違和感がある。
ラクシュの表情が固まった。
「…………肌荒れ?」
鏡へ顔を近づける。
地上の者なら、気にも留めない程度のものかもしれない。
だが、毎日自分の美貌を眺めているラクシュには分かる。
分かってしまった。
「ま、まさか……このワタクシ様が!?」
悲鳴が神界に響き渡った。
しばらく鏡の前で右を向き、左を向き、頬を撫で、髪を確かめ続ける。
しかし、どれだけ確認しても枝毛は消えないし、肌のざらつきも気のせいにはなってくれない。
やがてラクシュは、ようやく別の可能性へと思い至った。
「……おかしいわ」
自らの内側へ意識を向ける。
大地を動かし、豊穣をもたらし、創造を成す神としての力。
その神力が――減っていた。
「どういうことよ……?」
神力を支えるのは、人々から神へと向けられる想いだ。
祈りだけではない。感謝、憧れ、信頼、願い。そうした様々な想いが神へ集まり、その力となる。
ラクシュは目を閉じ、自らへ向けられている想いを辿った。
シルヴァニア豊穣公国。
長きにわたり、自らが守護してきた国。
祈りは今もある。神殿もあり、祭事も続いている。
それなのに、自分へと集まる信仰力は以前より明らかに弱くなっていた。
「なんでよ!? ワタクシの眷属達が暮らす公国は楽園って呼ばれてるのよ? 人だって昔より増えてるんだから、信仰力だって増えて当然じゃない!」
考えても答えは出ない。
ならば、地上の者へ直接聞けばいい。
ラクシュは意識を地上へと伸ばした。
* * *
シルヴァニア豊穣公国――公都エメラルディア。
深い緑に抱かれた広大な大地に、その都は存在していた。
自然を切り拓き、石と壁で押し退けて作られた都市ではない。
巨木の合間を縫うように家々が並び、建物の壁には蔦や花が絡む。街の中を流れる水路には澄んだ水が絶えず流れ、その脇では色鮮やかな花々が風に揺れていた。
森の中へ街を作ったのではない。
森と大地の中へ、人々の暮らしそのものを溶け込ませたような都だった。
それでいて、決して素朴なだけではない。
木造の家屋には精緻な彫刻が施され、石造りの建物には美しい意匠が刻まれている。橋の欄干、街路を照らす灯具、店先に掲げられた看板に至るまで、一つ一つが洗練され、長い年月をかけて培われた職人達の技術が息づいていた。
大通りには、籠いっぱいの果実を積んだ露店が並ぶ。
焼きたてのパン。香草を使った料理。菓子。酒。
食べ物はどこにでも溢れていた。
腹を空かせて店先を眺める子供はいない。明日の食事を心配して俯く者もいない。
人々は穏やかに笑い、食事を楽しみ、木陰では老人達が語らっている。子供達は芝生を駆け回り、その傍らでは母親達が談笑していた。
豊かな自然。
溢れる食。
美しい街並み。
穏やかに暮らす人々。
誰が見ても、ここは豊かな国だった。
まさしく――楽園。
その公都の中心に、公王宮がある。
執務室では、一人の大柄な男が机に向かい、積み上げられた書類へ目を通していた。
シルヴァニア豊穣公国公王――アルトリウス・ヴェルド・トロール。
人間を優に見下ろす長身と、均整の取れた逞しい体躯。その顔立ちは驚くほど端整で、高い鼻梁と整った輪郭、涼やかな瞳を持つ美丈夫だった。
トロールという種族に強い誇りを持ち、その民を深く愛する若き公王。
そして、豊穣神ラクシュを心から敬う者でもある。
かつてトロールは陽光に弱く、暗い地下や洞窟で暮らすことを余儀なくされていた。
その彼らへ加護を授け、明るい日の下で生きられる世界を与えたのがラクシュだった。
王族に生まれ、種族の歴史を誰より深く知るアルトリウスにとって、その恩義は何物にも代え難い。
そして彼には、もう一つ――公王らしからぬほど強いこだわりがあった。
美食である。
幼い頃より豊穣神ラクシュから、地上では味わうことのできないほどの果実や料理を与えられてきた。その経験もあって、食に対する情熱は並々ならぬものがある。
普段は理知的で冷静な男だが、美味なるものに関してだけは話が別だった。
そんなアルトリウスの手が、唐突に止まった。
『アルトリウス!』
頭の中へ響いた声に、公王は顔を上げる。
「……ラクシュ様?」
『最近、何か変わったことはない!?』
あまりにも唐突な問いだった。
「変わったこと……でございますか?」
『ワタクシへの信仰力が減りそうなことよ! 何かあるでしょう!?』
アルトリウスはしばし考え込んだ。
「直接関係があるかは分かりませんが……近頃、国外へ移住する者が増えております」
『移住?』
「はい。特にドワーフを始めとする職人の流出が目立ちますが、それだけではありません。商人、料理人、若者、家族ごと移り住む者も増えております」
ラクシュの眉がぴくりと動いた。
『どこへ行ってるのよ?』
「その多くが、ローゼンバーグ王国へ」
『ローゼンバーグ……?』
ラクシュは少し考えた。
そして、ようやく思い当たる。
『ああ、最近ルミナが何かやってるっていう、あの滅びかけてた国ね』
地上の一国家の事情など、ラクシュはいちいち気にしていなかった。
最近になってルミナが何やら関わっているらしい――その程度の認識しかない。
『で? そんなところに、みんな何しに行ってるのよ?』
「新しい技術や暮らしに惹かれているようです。職人達は新たな製法や魔導エネルギーを用いた魔導具を求め、他の者達も、これまでにない料理や生活用品に魅力を感じていると聞いております」
『新しい料理に、魔導具……?』
ラクシュの声色が変わった。
アルトリウスも僅かに目を細める。
「例の白く柔らかなパンも、ローゼンバーグでしか満足に手に入らないとか」
以前から噂だけは届いていた。
従来のパンとはまるで違う、白く、柔らかく、きめ細かな食感を持つという新しいパン。
美食家であるアルトリウスが、興味を持たないはずがない。
『それなら、ラブリーアイで見れば早いわね!』
「……ラブリーアイ?」
アルトリウスの呟きなど意に介さず、ラクシュは意識を大地へと広げた。
繋がる大地を通して、その視界が遠く離れたローゼンバーグ王国を捉える。
そこには、ラクシュの知らない光景が広がっていた。
白く柔らかな食パンを抱えて歩く者。
湯気を立てる茶色い料理。
香辛料の芳醇な香りまでは届かないはずなのに、美味しそうに頬張る者達の顔を見ているだけで、その味まで想像できそうだった。
「……お、美味しそうじゃない」
ラクシュの喉が、ごくりと鳴った。
カレーを口いっぱいに頬張り、幸せそうに笑う子供。
焼きたての白いパンをちぎり、湯気の立つ料理へ浸して食べる男。
ラクシュの視線がしばらくそこから動かない。
『ラクシュ様?』
「……はっ! 違うわよ、今は食べ物を見てる場合じゃないの!」
そう言いながら、もう一度だけカレーへ視線を戻してから、ようやく先へ進める。
店先には見慣れない魔導具が並び、人々が足を止めては楽しそうに品定めをしていた。
工房ではドワーフ達が槌を振るい、見たこともない器具を囲んで熱心に意見を交わしている。
そして、その傍らには――宝飾品。
「……なによ、これ」
ラクシュの緑の瞳が輝いた。
首飾り。指輪。髪飾り。
磨き上げられた宝石と金属が組み合わされ、これまで見たことのない意匠を形作っている。
「ちょっと、すっごく綺麗じゃない!」
さらに視線を巡らせる。
今度は、女性が髪を洗っていた。
その手にあるのは、ラクシュの知らない液体。
地上の者達が呼ぶ名を拾う。
「……シャンプー?」
豊かな泡で髪を洗い、それを水で流していく。
続いて、別のものを髪へ馴染ませていた。
「リンス!?」
乾かされた髪は、さらさらと艶やかに輝いている。
ラクシュの手が、無意識に先ほど見つけた枝毛へ伸びた。
次に目へ入ったのは、小さな容器から白いものを指に取り、頬へ丁寧に塗っている女性だった。
「……クリーム」
一瞬、沈黙する。
「クリーム!!?」
ラクシュは思わず身を乗り出した。
「なによそれ! そんなものまで創ってるの!?」
宝飾品。
シャンプー。
リンス。
クリーム。
美味しそうな料理まである。
どれも自分の知らなかったものばかりだった。
そして、それらを生み出す場所には、自分が創造の加護を授けたドワーフ達の姿がある。
ラクシュの中で、一つの答えが出来上がった。
「……そういうことね!」
自分の眷属達が、授けられた創造の加護を使って、次々と新しいものを生み出している。
ラクシュはそう理解した。
「ワタクシの眷属達が創ったものじゃない!」
ならば。
「ワタクシ様のものよ!」
堂々と言い切った。
『……ラクシュ様?』
「なによ!」
「……いえ。何でもございません」
アルトリウスは深く追及しなかった。
だが、その頭には別のものが引っ掛かっていた。
白いパン。
カレー。
まだ見ぬ料理の数々。
一方、ラクシュもカレーのことを完全に忘れたわけではない。
ただ今は、それ以上に枝毛と肌荒れの方が重大だった。
そして、ようやく根本的な疑問へと戻る。
「……ちょっと待ちなさいよ」
そもそも、なぜ自分の眷属達がローゼンバーグにいるのか。
楽園と呼ばれるシルヴァニア。
食べ物には困らない。土地は豊かで、気候も穏やかだ。
そんな国から人々が出ていき、つい最近まで滅びかけていた王国へ集まっている。
しかも、自分へ集まる信仰力まで減っている。
「……ルミナね」
『はい?』
「絶対、ルミナが何かやってるのよ!」
アルトリウスは僅かに目を瞬かせた。
「しかし、移住した者達は自ら望んでローゼンバーグへ向かったと聞いておりますが……」
「だから、それがおかしいの!」
即答だった。
「ワタクシの楽園から、自分から出ていくなんておかしいじゃない! しかもワタクシへの信仰力まで減ってるのよ?」
月を司るルミナ。
月は、人の精神をも司る。
ラクシュの中で、すべてが繋がった。
「ルミナがみんなの心を弄って、ワタクシへの想いを奪ってるのよ!」
「…………」
「邪神の企みに決まってるじゃない!」
アルトリウスはしばらく黙っていた。
公王として考えれば、あまりにも飛躍した結論である。
だが――先ほど聞いた話を思い返す。
職人だけではない。
商人も、料理人も、若者も、家族までもがローゼンバーグへ流れている。
そして何より。
噂に聞く食パンも。
カレーも。
新しい酒も。
シルヴァニアでは手に入らない。
アルトリウスの表情が僅かに険しくなった。
「……なるほど」
『分かったでしょう!?』
「それは許せませんな」
『でしょう!?』
公王は重々しく頷く。
「これほどの美食まで用意して、我が国の民を惹きつけていたとは」
一瞬、沈黙した。
『……そこなの?』
「食は国の豊かさを示す重要な文化でございます」
至って真面目な顔だった。
ラクシュは何か言おうとして――先ほど自分もカレーを見て生唾を飲み込んだことを思い出し、口を閉じる。
「……まあ、そうね! 美味しいものまで向こうだけにあるなんておかしいわ!」
その言葉に、アルトリウスが力強く頷いた。
珍しく二人の意見が完全に一致した。
「行くわよ、アルトリウス!」
「承知いたしました」
ラクシュは長い金髪を大きく払い、堂々と胸を張る。
「邪神に惑わされたワタクシの眷属達を目覚めさせるの! ワタクシへの想いだって取り戻さないといけないんだから!」
そして、指先でそっと頬を撫でる。
まだ残っている、ざらついた感触。
ラクシュはきゅっと眉を吊り上げた。
「信仰を取り戻し――ワタクシ様の美容も取り戻すのよ!」
アルトリウスも静かに頷いた。
「そして、新たな美食も」
「当然じゃない! それもワタクシ様が直接確かめるわよ!」
こうして。
ローゼンバーグで生まれた新たな品々を、是が非でも欲しがる者が現れた。
それも、一人ではない。
六柱神の一柱――豊穣神ラクシュ。
そして、その神を深く敬愛する、美食家の公王アルトリウス。
二人の視線が、ローゼンバーグ王国へと向けられた。
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