銀波は月明かりを映す
王国の変化は、書類へ目を通すだけでも分かるようになっていた。
エミリアの執務机には、各地から届いた報告書がいくつも積まれている。人口、工房、商取引、物流、税収。少し前までなら不足や損失ばかりが目についた数字も、今では随分と様子が違っていた。
「……また増えてるわね」
エミリアが手にしているのは、ローゼンバーグへ移り住んだ職人たちについての報告だった。中でも目立つのは、シルヴァニア豊穣公国から来た者たちだ。
鍛冶師、細工師、大工、石工、織物職人。最初は一人で様子を見に来る者が多かったが、最近では弟子や家族を連れて移り住む例も増えている。
『思っていたより、かなり増えましたね』
「そうね」
蓮が報告書へ目を通す一方で、『エミリア』はまったく別のことを考えていた。
『ところで、さっきの首飾りなんですけど。新しく出来た装飾品に、今の服だと少し合わないと思うんです。胸元に宝石を使うなら、襟の形をもう少し変えた方が――』
「まだ考えてたの? 開けすぎると宝石より肌に目が行くわよ」
『蓮がそれを言います?』
「私だから言うのよ。見せれば美しいってものじゃないわ」
執務机の端には、何枚かの服飾デザインが置かれている。『エミリア』が頭の中で形を組み直し、蓮が気づいたところへ意見を返す。それを何度か繰り返すうちに、今ではこんなやり取りもすっかり日常になっていた。
『では黒い布を残して、銀糸を使いましょうか』
「紫も少し欲しいわね」
『それなら袖口に――』
そんな会話を続けながらも、蓮の目は報告書から離れていない。
公国側についても、断片的ながらいくつかの情報が入っていた。
閉じた工房がある。弟子だけでは仕事を回せなくなった工房もあるらしい。農具や日用品の納入が以前より遅れている地域がある、という話もあった。
もっとも、どれも公国全体を把握出来るほど確かな情報ではない。国境を越えてきた商人や職人から聞き取った話をまとめたものに過ぎなかった。
「まあ、人が抜ければ多少は影響も出るでしょうね」
『公国、大丈夫でしょうか?』
「知らないわよ。他所の国だもの」
そう答えながらも、蓮はもう一度報告書へ目を落とした。
職人の流入は今も続いている。ローゼンバーグ側から何かを強制したわけではない。より良い技術を求め、より良い環境を求め、本人たちが勝手にこちらへ来ているだけだ。
だが、公国側から見れば話は違う。
自国の技術を支えていた人間が減り続ければ、いつまでも笑って見ているとは限らない。
『何か言ってくるでしょうか?』
「さあ? まだ何もされてないもの」
『随分と他人事ですね』
「でも、何かされてから考える必要もないでしょう?」
エミリアは僅かに口元を上げ、次の紙へ手を伸ばした。
『……何か考えてます?』
「別に。使える手札は、多い方がいいってだけよ」
帝国との戦争もそうだった。
相手が動いてから慌てて対処する必要などない。今ある情報から起こりそうなことを考え、その時に使えるものを先に用意しておけばいい。
公国が何をするかなど分からない。外交的な抗議かもしれないし、人材流出を止めようとするだけかもしれない。何もしてこない可能性だってある。
相手が何を選ぶかは相手の自由だ。
こちらは、何が起きても困らないようにしておけばいい。
そう考えながら次の報告書を開き、エミリアの眉が僅かに寄った。
「……また川?」
『今度は南西部ですね。大雨で水位が上がったみたいです』
田畑への浸水、街道の一部損壊、橋脚の補修。大きな人的被害こそなかったものの、似たような報告は毎年上がっている。
国が豊かになればなるほど、こうした被害によって失うものも増えていく。
「せっかく私の国が豊かになってるのに、雨が降るたびに壊されるなんて気に入らないわね」
『自然に文句を言っても仕方ないですよ』
「だったら、従わせればいいでしょう?」
『川をですか?』
「そうよ」
エミリアは水害報告を閉じた。
「クロエを呼んで」
◇
「ダム?」
呼び出されたクロエは、エミリアの描いた簡単な図を覗き込みながら首を傾げた。
「そう。川を堰き止めて、大量の水を貯める構造物よ。雨が多い時に水を受け止めれば、一度に下流へ流れ込む量を減らせるでしょう?」
紙の上には、川を塞ぐ巨大な壁と、その背後に広がる貯水域が描かれている。
「なるほど。川そのものを止めるというより、流す量を管理するのか」
「そういうこと」
クロエはすぐに図へ食いついたが、しばらく眺めたところで顎へ手を当てた。
「だが、これは簡単ではないねぇ。川幅だけではない。地形も地盤も調べる必要があるし、水を溜めた時に周囲へどんな影響が出るかも見なければならない」
「やっぱり時間かかる?」
「かなりね」
「なら、ダムそのものは急がなくていいわ」
クロエが顔を上げる。
「先に水害をどうにかしなさい。水を一時的に逃がせる貯水池と、流量を調整出来る水門。それならダムより早く作れるでしょう?」
「それなら現実的だねぇ。増えた水を貯水池へ逃がし、下流の状態を見ながら戻す。場所によっては放水路も必要になるだろうが、巨大なダムを一から作るよりはずっと早い」
「それを優先して。ただし、将来のことも考えて設計してちょうだい」
「将来?」
エミリアは先ほどの図へ、もう一つ円を描き加えた。
「高いところから水を落として、これを回すの」
「水車?」
「もっと大きなものね。発電に使うわ」
クロエの目が細くなる。
「なるほど」
「王都の発電設備だけじゃ、これから足りなくなるでしょう? 地方でも電気を作って、それを魔導エネルギーへ変換出来るようにしたいの」
魔導具が王都から地方へ広がれば、当然それを動かす魔導エネルギーも必要になる。
今すぐ王国全土へ供給出来るわけではない。だが、水害対策として各地の河川を調べ、貯水や水門の技術を積み上げておけば、いずれ発電設備を各地へ広げる際の下地になる。
「今は治水。将来は発電か」
「どうせ作るなら、一つしか使い道がないものより、後から色々使える方がいいでしょう?」
「同感だよ」
クロエは図へ何本か線を書き足したところで、ふと手を止めた。
「ところでエミリア様。さっきから私と話しながら、何をしているんだい?」
「服を考えてるわ」
「それは見れば分かる。私と話しているのに、そちらも同時に進んでいるじゃないか」
クロエの視線が執務机の端へ向く。ダムの図面の隣では、新しい衣装の下書きが少しずつ変化していた。
「そっちは『エミリア』よ」
「……二人で?」
「ええ」
『袖はこの形の方がよくないですか?』
「それだと装飾が隠れるわ。肘から先だけ細くした方がいいんじゃない?」
『あ、それなら良さそうですね』
クロエが数秒、黙ってエミリアを見つめた。
「器用だねぇ」
「別に大したことじゃないわよ。二人でそれぞれ考えてるだけだもの」
「それが大したことなんだよ」
研究者らしい笑みが、クロエの口元へ浮かぶ。
「……それ、私に憑依して試してもらえないかい?」
「前にもしたでしょう?」
「以前とは違う。あの時は、君と私が一つの問題を一緒に考えた。君の知識と私の知識を組み合わせて、魔科学を作っただろう?」
「そうね」
「今回は、一つの身体の中で別々の思考を同時に走らせてみたい。君は君の世界の知識で構造を考える。私は魔導技術の側から発電や制御を考える。同時に進められれば随分楽になる」
エミリアは少し考え、やがて笑った。
「面白そうね。いいわ、やってみましょう」
◇
蓮の意識がクロエの身体へ移る。
以前にも経験した感覚だった。意識を向ければ、クロエが積み上げてきた膨大な知識へ手が届く。
魔石学、術式理論、素材、魔導回路、発電設備。
『さて、始めようか』
「ええ」
蓮は図面へ目を落とした。
まずは貯水。水を高い位置へ溜め、そこから低い場所へ落とす。その考えへ触れた瞬間、クロエの思考が動いた。
『……位置エネルギー』
「気づいた?」
『君の知識にある言葉だね。なるほど、そういう概念もあるのか。高い場所にあるものは、落下することで力を取り出せる。つまり、この設備では単純な水量だけでなく、高さも重要になるわけだねぇ』
「そういうこと」
『水を大量に溜めればいいわけじゃない。どれだけの高さから、どれだけの量を流すか。それで取り出せる力も変わる』
「理解が早くて助かるわね」
『説明を聞いているわけじゃないからね。君が知っている概念へ、こちらから直接触れられる』
紙の上へ線が増えていく。
蓮は河川や貯水設備の大まかな構造を考え、クロエはその横で発電機構と魔導エネルギーへの変換を考える。だが、しばらくするとクロエが小さく唸った。
『出来なくはない。だが、君たちほど綺麗には分かれないねぇ。私がこちらを考えていても、君の思考が入り込んでくる。逆もそうだろう?』
「少しはね」
『限界突破を最大出力まで使ってみないかい? 憑依そのものに時間制限はない。危険なのは最大出力を続けた時だ。シオン君の時から考えて、一時間程度なら試せるだろう』
「本当に自分を実験台にするのが好きね」
『研究者だからねぇ』
「いいわ。試しましょう」
限界突破を最大出力へ引き上げる。
その瞬間、思考の感覚が変わった。
『……ほう』
「これは……」
一つの身体の中で、二本の思考がはっきりと分かれていく。
蓮は水の流れと貯水設備を考え続ける。同時にクロエは発電と魔導回路の組み立てを進めている。互いに何を考えているのかは分かり、必要な知識も瞬時に受け渡せる。それなのに、先ほどまでのように相手の思考が邪魔にならない。
『これか。君と『エミリア』が普段やっていることは』
「多分ね」
『実に面白い』
クロエの思考が一気に加速した。
水量、落差、取水口、発電設備、貯水池、放水路。蓮の知識から概念を拾い上げ、それをクロエ自身の魔導技術へ置き換えていく。
そして、水門。
『……それにこれは』
クロエの思考が一瞬だけ止まった。
『エミリア様が考えてることをするなら、しっかりとした水門が必要だねぇ』
「そうね」
『普段の流量を細かく調整出来るだけでは足りない。必要なら、大量の水を一気に流せる構造にしておいた方がいい』
「そのつもりで作りなさい」
『了解したよ』
増水した川から水を受け止める以上、ただ貯め続ければいいわけではない。雨量が想定を超えれば、今度は貯水池そのものが危険になる。
必要な時に水を逃がし、下流へ流れる量を調整する。そのためにも、頑丈で確実に動く水門は欠かせない。
二人はさらに設計を続けた。
そして一時間ほどが過ぎた頃。
『……っ』
クロエの思考が僅かに乱れた。
「クロエ?」
『来たねぇ』
身体ではない。もっと深い場所から、強い疲労が押し寄せている。
魂そのものが限界へ近づいていた。
「ここまでね」
『あと少し――』
「却下」
『残念だ』
蓮は限界突破の最大出力を止め、そのまま憑依を解除した。
◇
「……ふぅ」
自分の身体へ戻ったクロエが、椅子へ深く腰を沈めた。机の上には、短時間で描いたとは思えない量の紙が積まれている。
「どうだった?」
「イメージは掴めたし、基礎も考えられた。位置エネルギーという概念も面白いし、発電についても方向性はかなり見えたよ」
「なら出来そう?」
「けど、簡単じゃないねぇ。この規模になると机の上だけでは決められない。川幅、水量、地形、地盤。実際に調べる必要がある。ダムなんて作るなら、なおさらだ」
「ダムは後でいいわ」
「そうだね。まずは水害の多い場所から調べて、水門と貯水池を整備する。将来、発電へ拡張出来るよう余裕を持たせておこう」
「それでいいわ」
クロエは頷いたものの、すぐに別のことが気になったらしい。
「それより、エミリア様。今のはおかしい」
「何が?」
「私が今の状態を維持出来たのは一時間ほどだ。蓮君が私へ憑依しているだけなら問題ない。だが、蓮君が限界突破を最大出力まで使い、二人の思考を完全に分けて動かした途端、魂の方が限界へ近づいた」
そこでクロエはエミリアを見た。
「君たちは?」
「私たち?」
「君と『エミリア』だよ。さっき普通に別々のことを考えていただろう? しかも、今日初めて始めたわけじゃない」
『……あ』
頭の中で『エミリア』が小さく声を漏らした。
確かに、いつからかそれが当たり前になっていた。
蓮が政策を考えている間に、『エミリア』が記憶を探す。蓮が書類を読んでいる間に、『エミリア』が別のことを考える。先ほども、蓮が国政を処理する横で、『エミリア』は新しい衣装を考えていた。
「……ルミ」
エミリアが呼ぶと、しばらくして銀髪のメイドが執務室へ現れた。
「お呼びでしょうか、エミリア様」
「聞きたいことがあるの」
クロエが先ほどの実験を説明すると、ルミは少し考えてから頷いた。
「なるほど。少々紛らわしくなりますので、ここからは魂のお名前で説明させていただきますね」
「魂の名前?」
「はい。現在このお身体を主に動かしておられる方を蓮様、元々このお身体にいらした方をエミリア様、と呼ばせていただきます」
『その方が分かりやすそうですね』
「お願い」
ルミは改めて説明を始めた。
「まず、蓮様の憑依そのものには時間制限はありません。先ほどクロエ様のお身体で、蓮様が限界突破を最大出力まで使用し続けたことで、クロエ様の魂が限界へ近づいた。問題はこちらですね」
「そこまでは私も分かっているよ」
「そして、蓮様がエミリア様のお身体へ憑依している間も、限界突破の恩恵は非常に強く働き続けています。身体能力も魔力も、元の状態から大きく引き上げられていますよ」
エミリアは自分の手を見た。
「でも、私そんなに強くないわよ?」
「元になるものがなければ、引き上げようがありませんから」
「どういう意味?」
「例えば魔力です。エミリア様のお身体は、元々それほど大きな魔力を持っていません。そこを大きく引き上げても、突然大魔法を使えるほどにはならないということです」
「なるほどね」
「筋力も同じです。蓮様は身体を鍛えていらっしゃいますが、力そのものを特別に伸ばす訓練をしているわけではありませんので……そうですね。普通の兵士と腕相撲をしたら、勝てるかもしれない。その程度でしょうか」
「大きく引き上げられて、その程度なの?」
「元のエミリア様は華奢な女性ですから」
「失礼ね」
「事実です」
クロエが横で楽しそうに笑っている。
「ただし、蓮様が元々得意とされている身体操作や反応、体幹などについては、より大きな恩恵を受けているでしょうね」
「それで?」
クロエが本題へ戻した。
「多重思考も、その限界突破のおかげなのかい?」
ルミの表情が少しだけ真面目になる。
「限界突破が関わっているのは間違いないと思います。ですが、それだけでは説明出来ないでしょうね」
『どういうことですか?』
「本来、一つの身体の中で二つの魂が長期間共存すること自体、普通ではありません。まして蓮様とエミリア様は、それぞれ別のことを考え、それを同時に処理しながら日常生活を送っています」
ルミは現在のエミリアの身体へ視線を向けた。
「先ほどクロエ様のお身体で、蓮様が限界突破を最大出力まで使って一時間ほど行えたことを、お二人は普段から自然に続けている。それでも魂に目立った負荷が出ていません」
「私たちにとっては普通だったもの」
『言われるまで変だと思いませんでしたね』
「そこが一番不思議なのです」
ルミは困ったように微笑んだ。
「蓮様とエミリア様の魂は、普通の憑依よりも遥かに深く馴染んでいます。融和、と表現してもいいかもしれません」
『融和……』
「限界突破による強化に加えて、お二人の魂そのものが非常に高い水準で馴染んでいる。だからこそ、二つの思考を同時に動かしても互いを削らず、長時間安定していられるのではないかと思います」
「どうしてそんなことになったの?」
「そこまでは私にも分かりません」
ルミは僅かに首を傾げた。
「何かあったのでしょうね。蓮様とエミリア様の魂が、そこまで融和するほどの何かが」
その言葉に、蓮も『エミリア』も少しだけ黙った。
『……何か、ですか』
「色々ありすぎて分からないわね」
『そこは少しくらい考えてくださいよ』
「考えてるわよ。貴方は服の続きを考えてなさい」
『今その話します!?』
クロエが楽しそうに笑った。
「実に興味深いねぇ」
その瞳は、完全に研究者のものへ変わっている。
エミリアはそんなクロエを見て、むしろ満足そうに微笑んだ。
「それでこそね。悪の科学者は研究に身を捧げないといけないわ」
「では?」
「研究対象にしたいなら、好きにするといいわ」
クロエの笑みがさらに深くなる。
「素晴らしい」
「ただし、治水の仕事を放り出すのは駄目よ」
「もちろんだとも。むしろ研究対象が増えたくらいだ」
「なら結構」
水門と貯水池。
まずは毎年繰り返される水害を抑えるための設備として、各地の調査と設計が始まることになった。
それはやがて、発電設備を各地へ広げ、王都の外でも魔導エネルギーを安定して供給していくための下地にもなる。
そして――使えるものに、使い道が一つしかない必要もなかった。
◇
その夜。
エミリアは一人、王城のバルコニーへ出ていた。
昼間の熱が抜けた夜風が髪を揺らす。王都の灯りのさらに向こうでは、遠くを流れる川が月明かりを受け、銀色の帯となって夜の大地を横切っていた。
『綺麗ですね』
「ええ」
欄干へ手を置き、エミリアはその流れを眺める。
公国から流れ込む職人たち。少しずつ豊かになっていく王国。そして、毎年のように牙を剥く川。
公国がこれから何をするのかは分からない。
川が来年、どれほど荒れるのかも分からない。
けれど、分からないからといって、何もせずに待つ理由にはならない。
水門も、貯水池も、今はまだ紙の上にあるだけだ。それでも一つずつ形にしていけば、水害を抑え、いずれは各地へ魔導エネルギーを届ける礎にもなる。
そして必要なら、それ以外の役目を与えればいい。
月光を映す川面を眺めながら、エミリアは静かに目を細めた。
「神だろうが、自然だろうが――私の国の邪魔はさせないわ」
遠く、銀色の波が月明かりを映していた。




