王土は宝玉を産む②
王城の浴室には、柔らかな湯気と薔薇の香りが満ちていた。
十分に身体を温めたエミリアは、湯船からゆっくりと立ち上がった。白い肌を伝った湯が肩から鎖骨を滑り、細く括れた腰を辿って床へ落ちていく。濡れた髪は背中へ張りつき、湯気の向こうに浮かぶその姿は、我ながらよく出来たものだと思うほど整っていた。
浴槽の傍らには、黒薔薇の印章を刻んだいくつもの容器が整然と並んでいる。今ではすっかり見慣れた光景だ。エミリアは黒薔薇石鹸を手に取り、軽く濡らして泡立てる。きめ細かな泡を腕から肩へ滑らせると、ほのかな薔薇の香りが湯気の中へ広がった。
壁際の姿見には、柔らかな泡に包まれた白い身体が映っている。何気なく鏡の中の自分を眺めていたエミリアは、ふと口元を緩めた。
『どうしたんです?』
「初めてこの身体を洗った時のことを思い出したのよ」
『……ああ』
「あの頃の貴女、私がお風呂に入るだけで『私の裸を見ないでください!』って大騒ぎしてたじゃない」
『あれは、最初に蓮が私の身体をおかしく触ってたからです!』
「あ、あれはお約束な展開なのよ」
『何のお約束ですか!』
「異世界ものとか、男女が入れ替わる話とか……そういう時は、一度くらい確認するものでしょう?」
『だからって確認する場所がおかしかったんです!』
「仕方ないじゃない。本当に男から女の身体になったのよ? そりゃあ気になるでしょう」
『開き直らないでください!』
エミリアは聞こえないふりをして、身体についた泡をゆっくりと洗い流した。
考えてみれば、あの頃は『エミリア』も何かにつけて騒いでいた。身体を洗うだけで文句を言われ、着替えるだけでも抗議され、鏡の前で少し身体を確かめようものなら悲鳴まで飛んできたものだ。それが今では、こうして入浴しながら普通に雑談している。
「それが今じゃ、私が身体を洗ってても平然としてるんだから。慣れるものね」
『蓮があまりにも遠慮しないから、諦めただけです』
「同じことでしょう?」
『全然違います』
きっぱりと言い返され、エミリアは小さく笑った。身体を洗い終えたところで、『エミリア』が感心したように声を漏らす。
『でも、改めて使ってみると、この石鹸って凄いですよね』
「今さら?」
『今さらだからですよ。最初は石鹸があるだけでも驚いたのに、今では普通に使ってますから』
確かに、黒薔薇石鹸が完成した当初は随分と騒がれた。それまでにも身体を洗うための品は存在していたが、泡立ちや香り、洗い上がりまで考えて作られたものとなれば話は別だ。
元々は、自分が使うために作らせた。
それが少しずつ改良され、気がつけば王城だけでなく、王都でも使う者が増えている。
『それだけでも凄いのに、髪用の石鹸まであるんですから』
「石鹸じゃないわ。シャンプーよ。効能が違うの」
『分かってますよ。言ってみただけです』
「本当かしら」
エミリアは別の容器を手に取ると、中の液体を掌へ出して髪へ馴染ませていく。
最初に作ったシャンプーも、元を辿れば石鹸の技術から始まっていた。灰から得たカリと植物油を使い、液体状の石鹸として仕上げる。泡立ちも洗浄力も申し分なく、薔薇の香りまで加われば、最初は十分な出来に思えた。
――少なくとも、実際に使うまでは。
「そういえば最初のシャンプー、酷かったわね」
『あれは本当に凄かったですね。髪が……こう、ぎしぎしして』
「思い出させないでちょうだい」
初めて使った時、泡立ちまでは良かった。問題は洗い流した後だった。指を通そうとしても引っ掛かり、髪同士が絡み合う。それまでより綺麗になるはずが、触り心地だけなら悪化したとしか思えなかった。
当然、エミリアが許すはずもない。
『「美しくないわ!」って、凄い顔してましたね』
「だって美しくなかったもの」
『クロエさんたち、その一言でまた研究に戻されてましたよね』
「完成したと思っていたものが未完成だっただけよ」
『あれをそう言えるの、蓮くらいですよ』
原因を調べてみれば、石鹸のアルカリ性によって髪がきしんでいるらしいと分かった。そこで蓮が思い出したのが、酸性のもので中和するという単純な考え方だった。
「要するに、石鹸でアルカリ性に傾いた髪を、酸性のもので戻せばいいのよ」
そう言って試したのが、薄めた酢だった。
結果だけを言えば、きしみはかなり改善した。
だが――。
『臭かったですね』
「臭かったわね」
効果はあっても、酢の香りを纏って歩く悪の女王など美しくない。薔薇水や香料を加えて誤魔化してみたものの、使用感も含めて満足出来るところまでは届かなかった。
そこで開発は一度、壁にぶつかった。
転機は、まったく別の話から訪れた。
◇
『この服には麻を使いましょう』
衣装の意匠を考えていた時、『エミリア』が何気なくそう口にした。布の種類を選んでいただけの、本当に何でもない一言だった。
「……麻?」
『はい。夏用なら涼しいですし――』
「それよ!」
『え?』
突然立ち上がったエミリアに、『エミリア』が困惑する。
「麻……亜麻……亜麻仁!」
『あの、服の話をしていたんですけど』
「服は後!」
『酷くないですか!?』
日本にいた頃、蓮は美容品を自作していたわけではない。だが、亜麻仁という名前には覚えがあった。種から油が採れること。そして、水に浸したり煮出したりすると粘り気のあるものが出ることも、どこかで見聞きしていた。
ならば試す価値はある。
すぐに亜麻仁を用意させ、水で煮出してみる。すると、狙い通りとろみのある粘液質が得られた。
それを薄めた酢へ混ぜ、さらに薔薇水と香料を加えて調整する。何度か配合を変えた末、酢による中和効果を残しながら、以前よりも髪の指通りとまとまりを良くするものが完成した。
現代のコンディショナーと比べれば、まだまだ単純なものだ。
それでも、この世界で使う分には十分だった。
◇
エミリアは髪を洗い終えると、最後の容器へ手を伸ばした。
『それに、その香油も――』
「リンスよ」
『分かってますよ!』
「さっきから何一つ分かっていないように聞こえるのだけれど?」
『名前は分かっています。こうして改めて使うと驚くって言ってるんです』
亜麻仁を使った黒薔薇リンスを髪へ馴染ませる。指を通せば、最初の液体石鹸型シャンプーを使った時とは比べものにならないほど滑らかだ。
『これ、私が麻って言ったところから出来たんですよね』
「正確には亜麻仁だけどね」
『そこは少しくらい私のおかげって言ってくれてもいいと思います』
「じゃあ、ほんの少しだけ貴女のおかげね」
『ほんの少し……』
「何よ。私が知識を思い出さなかったら、麻布のままで終わっていたでしょう?」
『それはそうですけど』
不満そうな声を聞き流しながら、エミリアは髪を丁寧に洗い流した。
石鹸。
シャンプー。
リンス。
どれも最初は、自分が快適に、美しく過ごすために作らせたものだった。
それがいつの間にか黒薔薇の印章を与えられ、王都へ広がっている。
『昔の私なら、これが全部お風呂で普通に使えるなんて信じなかったでしょうね』
「便利でしょう?」
『はい。それは認めます』
「素直でよろしい」
『上から目線ですねぇ』
「女王だもの」
当然のように答え、エミリアは浴室を出た。
侍女たちに身体と髪の水気を拭わせたあと、エミリアは衣服を受け取る前に、大きな姿見の前へ立った。
『……蓮?』
「何?」
『何してるんですか?』
「確認よ」
濡れた髪を背へ払い、正面から鏡の中の自分を眺める。
滑らかな白い肌。華奢に見えて、均整の取れた身体。細く締まった腰から脚へ続くしなやかな線。少し身体をひねれば、その動きに合わせて女性らしい曲線が形を変える。
湯上がりの肌にはまだ薄く赤みが残り、濡れた髪と相まって、普段とはまた違う艶があった。昔なら、この姿をまともに眺めるだけで『エミリア』が悲鳴を上げていたというのに、今では蓮の方がすっかり堂々としている。
「うん」
正面、横向きと一通り確かめたあと、エミリアは満足そうに腰へ手を当てた。
「今日も完璧な悪の女王ね!」
『だから、それ私の身体なんですけど!?』
「さっきまで普通に洗ってたでしょう?」
『それとこれとは別です!』
「今さらじゃない」
『昔の私に謝ってください!』
「昔の貴女も今ここにいるでしょうが」
『そういう意味じゃありません!』
エミリアはくすくすと笑い、もう一度鏡の中の自分へ目を向けた。
確かに、現状で大きな不満はない。若い身体には十分な張りがあり、肌にも目立った荒れはない。黒薔薇の品を使うようになってからは、髪の手触りも以前よりずっと良くなっている。
けれど、美しさとは今だけ整っていればいいものではない。
「でも……そろそろ次のステップかしらね」
『次のステップ?』
エミリアは自分の腕へ指先を滑らせた。湯上がりの肌は滑らかで、今すぐ何かをしなければならない状態ではない。
「この身体には、今は必要ないかもしれないけれど――ケアは必要よ」
『ケア?』
「美しくなくなってから慌てても遅いでしょう?」
姿見の中の自分へ、妖艶に微笑む。
「完璧な状態は、完璧なうちから維持するものよ」
『……また何か作る気ですね』
「当然よ」
◇
数日後。
王城の一室には、黒薔薇製品の開発に関わってきた薬師や職人たちが集められていた。卓上には植物油、蜜蝋、香草、薔薇水、そして亜麻仁から採った油など、いくつもの材料が並んでいる。
「肌へ塗るもの、ですか?」
「ええ。洗った後の肌を乾燥させないためのものよ」
エミリアの注文に、薬師の一人が首を捻る。
「傷や炎症へ塗る軟膏ならございますが……」
「治療用ではないわ。毎日使うの」
「毎日、でございますか?」
「そうよ。肌へ薄く伸ばせて、水分が逃げるのを抑える。けれど、いつまでもべたべたするのは駄目。香りも強すぎない方がいいわね」
蓮も、保湿クリームの正確な製法まで知っているわけではない。
日本にいた頃に売られていた品を使ったことはあるし、おおまかな目的も分かる。だが、成分表を一つ一つ覚えていたわけではなかった。
だから、求めるものだけを伝える。
自分の肌へ毎日使っても不快ではなく、美しさを保つためのもの。
何をどう組み合わせればそこへ辿り着くのかは、この世界の専門家たちに考えさせればいい。
試作はすぐに始まった。
最初に作られたものは油分が強すぎた。確かに肌は覆われるが、塗った場所がいつまでもべたつき、エミリアは一度触っただけで眉を寄せた。
「駄目ね」
「やはり、重すぎますか?」
「これを塗ったまま服を着ろというの? 美しくなる前に不快で嫌になるわ」
「では、もう少し油分を抑えてみます」
次は逆に軽くしすぎて、しばらくすると肌が乾いてしまった。別の試作品は一晩置くと水分と油分が綺麗に分かれ、容器の中で二層になっている。
エミリアはそれを眺め、呆れたように息を吐いた。
「これも駄目。塗った時だけ良くても意味がないでしょう?」
「では、油分を少し戻しまして……」
「亜麻仁油も試してみなさい。リンスを作った時に出たでしょう?」
「承知いたしました」
亜麻仁油だけでは重い。
他の植物油や蜜蝋、薔薇水などと合わせ、混ぜ方や割合を変えていく。香りが強すぎれば却下され、べたつけばやり直し、肌へ伸ばした時の感触が気に入らなければ、また配合を変える。
エミリアが求めているのは、薬として使える程度のものではない。
自分が毎日使いたいと思えるものだった。
そして数日後。
エミリアは出来上がった乳白色のクリームを指先へ取り、腕へ薄く伸ばした。
柔らかく広がり、肌の上へ薄い膜を作る。それでいて、少し待てば指先にも嫌なべたつきは残らない。鼻を近づければ薔薇水の香りが僅かに漂う程度で、香油のようにいつまでも強く残ることもなかった。
「……悪くないわね」
薬師たちの顔に、目に見えて安堵が浮かんだ。
「これなら毎日お使いいただけるかと存じます。乾燥もかなり抑えられるはずです」
「薔薇水も、このくらいなら邪魔にならないわ」
エミリアはもう一度、塗った部分へ指を滑らせる。
今の身体では、劇的な違いが出るわけではない。
そもそも何も塗らずとも十分に若く、十分に美しい。
それでも、気に入った。
「いいわ。今日から使う」
「ありがとうございます」
「明日からの分も用意しておきなさい。なくなってから作り始めるなんて許さないわよ」
「はい。すぐにご用意いたします」
満足したエミリアが小瓶を置こうとすると、職人の一人が遠慮がちに口を開いた。
「あの……陛下」
「何?」
「こちらのクリームですが……我々にも、販売させていただくことは可能でしょうか?」
エミリアは僅かに首を傾げた。
「これを?」
「はい。石鹸やシャンプー、リンスをお使いの方々から、新しい品を求める声も多く……この品も、きっと欲しがる者がおります」
「そう」
自分が満足出来るところまで仕上がったものだ。
それを他の者が使いたいというのなら、止める理由もない。
「私の下僕が美しくなるために使うというのなら、好きにしなさい」
「ありがとうございます!」
職人たちの表情が明るくなる。
だが、もう一人が少しだけ迷った様子で尋ねた。
「では……こちらにも、黒薔薇の印章を付けてもよろしいでしょうか?」
「いいわよ」
「よろしいのですか?」
「石鹸もシャンプーもリンスも、元は私が使うために作ったものでしょう? これも同じよ」
そこでエミリアは言葉を切った。
先ほどまで柔らかかった空気が、僅かに変わる。
「ただし――」
職人たちが背筋を伸ばした。
「品質を落としたら、分かっているわよね?」
「は、はい!」
「私が使っているものが、粗悪品などと一緒にされるのは許さないわ」
黒薔薇。
それはいつの間にか、自分が使う品に刻ませてきた印になっている。
ならば、その印を付ける以上、誰が手に取ろうと同じ品質でなければ気に入らない。
「材料を誤魔化すのも、手間を惜しむのも駄目。黒薔薇を名乗るなら、私が使っても不満のないものを作り続けなさい」
「必ずお守りいたします!」
「なら、好きになさい」
それ以上は興味を失ったように、エミリアは軽く手を振った。
自分が使う分さえ確保され、黒薔薇の名を汚されなければ、それでいい。
『また黒薔薇が増えましたね』
内側から、『エミリア』が楽しそうに声を掛けてくる。
「私が欲しいものが一つ増えただけでしょう?」
『でも、皆さん凄く嬉しそうでしたよ』
「そう?」
『自分たちの作ったものを、蓮が認めてくれたのが嬉しいんじゃないですか?』
「私は気に入ったと言っただけよ」
『それが嬉しいんですよ』
「変なの」
エミリアはもう一度、小瓶を手に取った。
乳白色のクリームが、透明な容器の中に収まっている。
今の自分には、なくては困るほどのものではない。
それでも、美しさを維持するためなら、使っておいて損はない。
そして、自分と違って肌の乾燥や荒れに悩む者なら、この小さな瓶の価値をもっと強く感じるのだろう。
「まあ――」
エミリアは小瓶を指先で弄びながら、口元へ満足そうな笑みを浮かべた。
「どこかに肌荒れを気にする貴婦人でもいれば、是が非でも欲しくなるでしょうね」」
感想、御意見いただけると嬉しいです




