剣聖は少女となる
遠い記憶が、ゆっくりと光の向こうへ沈んでいく。
剣聖と呼ばれ、剣鬼と罵られた長い生涯が遠ざかり、代わりに失われていたはずの感覚が一つずつ戻ってきた。
指先に温度がある。空気が肌へ触れている。息を吸えば胸が膨らみ、その奥では心臓が規則正しく脈打っていた。
長い間忘れていた、生きた肉体の感覚だった。
剣聖はゆっくりと目を開き、最初に自分の手を見た。白虎の獣人だった頃のような白い毛皮も鋭い爪もない。あるのは人間のものとほとんど変わらない白い肌と、細く長い指だった。
手を開き、握る。指を一本ずつ動かし、手首を回してみる。動作に遅れはなく、思った通りに身体が応じた。
「どう?」
声のした方へ顔を向けると、エミリアが満足そうな笑みを浮かべている。その傍らには、いつものメイド姿へ戻ったルミも立っていた。
剣聖は答えるより先に身体を起こした。肩から銀白色の長い髪が流れ落ち、その時、頭の上に今までとは違う感覚があることに気付く。
意識を向ける。
右側が、ぴこりと動いた。
もう一度。
今度は左。
さらに感覚を確かめるように意識すると、頭の上に生えた二つの白い耳が、ぴこぴこと左右に動いた。
「……動くな」
剣聖本人は、新しい身体機能を確認しているだけだった。
だが、それを見ていたエミリアの瞳が僅かに輝いた。
「……こうして見ると、ケモナーの気持ちが少し分かった気がするわ」
「エミリア様がお喜びなら、何よりです」
ルミは穏やかに微笑んだ。
「今回はエミリア様のこだわりが、いつにも増して強かったですからね」
「当然でしょう? 白虎なのよ。ここは譲れないわ」
何故かエミリアの方が得意げだった。
白虎らしさは残したい。しかし元の獣人そのままでは面白くない。耳と尾は残し、顔立ちは美しく、剣士としての鋭さも失わせない。
そんな細かな注文を思い出したのか、ルミの笑顔が少しだけ遠いものになる。
当の剣聖は二人の会話など気にも留めず、今度は背後へ意識を向けていた。腰から伸びた白い尾が意思に合わせてゆっくりと左右へ揺れる。
「……これも動く」
エミリアはますます満足そうに頷いた。
「鏡も見てみなさい」
言われるまま姿見へ向かい、そこに映った姿を見て、剣聖は初めて足を止めた。
鏡の中にいるのは、剣聖の知るどの獣人とも違う少女だった。
銀白色の長い髪。整った人間に近い顔立ち。頭には白虎の耳があり、腰からは縞模様の尾が伸びている。
この世界の獣人は、男も女も人間より遥かに獣へ近い。白虎の獣人であれば、女性であっても虎に近い顔立ちを持ち、全身を白い毛皮に覆われているのが普通だった。
だが、鏡の中の少女は違う。
白虎の名残は、耳と尾に色濃く残っている。それ以外は、ほとんど人間の少女と変わらなかった。
「……獣人の女とも違うのか」
「ええ。その方が美しいでしょう?」
エミリアは即答した。
剣聖は鏡へ近付き、自分の頬に触れる。髪を手に取り、耳を動かし、尾まで視線を落とした。
女の身体になっていることも当然理解している。
だが、驚きはそれ以上続かなかった。
「そうか」
「……それだけ?」
「他に何がある」
「貴方、男だったでしょう?」
「そうだな」
「今は女よ?」
剣聖は鏡の中の自分をもう一度見た。
「見れば分かる」
エミリアは何とも言えない顔をした。
しかし剣聖の興味は、もう鏡から離れていた。身体を確認するように足を開き、腰を落とす。
以前より明らかに小さい。腕も脚も細くなり、体重も軽い。
重心を前へ移し、一歩踏み込んだ。
「……速い」
予想していた位置より身体が先へ出た。
今度は意識して床を蹴り、腰を回し、その力を上体へ伝える。拳を空へ放つと、小さく風が鳴った。
身体は軽い。それなのに弱くない。
むしろ力を入れてから身体が動き出すまでの遅れは以前より小さく、足から腰、腰から肩、そして腕へと力が滑らかに抜けていく。
さらに、肉体の内側には今までとは比べものにならないほど豊かな魔力が満ちていた。意識を向ければ、それが血液のように自然と全身へ巡っていく。
剣聖は重心を左右へ移し、踏み込み、急停止する。そこから身体を捻って反対へ切り返し、何度か同じ動作を繰り返した。
長い年月、自分の身体を極限まで使い続けてきたからこそ分かる。
この身体は。
強い。
そして、まだ使い方次第でいくらでも化ける。
「……面白い」
初めて、明確な喜色が声に混じった。
エミリアも満足そうに微笑む。
「でしょう?」
さらに身体を捻ろうとして、剣聖の動きが止まった。
今まで存在しなかった重みが、身体の動きに僅かに遅れて揺れた。
胸元を見る。
片手で軽く押さえ、もう一度身体を捻ってみる。
「……これは邪魔だな」
「感想はそこなの?」
「剣を振る時に揺れる」
「それはそうでしょうけど……」
「固定した方がいいな」
すでに剣を振ることを前提に考えている。
エミリアは小さく息を吐いた。
「貴方も随分と極端ね」
剣聖は答えなかった。
視線が、部屋の隅へ置かれていた一本の刀に釘付けになっていたからだ。
黒い鞘。
薔薇の意匠が施された鍔。
亡霊の身では触れることすら出来なかった、見知らぬ剣。
――刀。
剣聖は迷わず歩み寄り、それを手に取った。
鞘ごと持ち上げて重さを確かめる。片手、両手と握りを変え、腰へ添えて位置を調整した。
まだ抜いてすらいない。
それなのに、目つきは完全に変わっていた。
「気に入った?」
「外へ行く」
「はい?」
「ここでは狭い。振れない」
そう言って、そのまま扉へ向かう。
「待ちなさい」
エミリアが即座に呼び止めた。
剣聖が振り返る。
「何だ」
「その格好でどこへ行くつもり?」
「刀を振りに行く」
「そういう意味で聞いていないわ!」
剣聖は自分の身体を見下ろした。
ドールズ化を終えたばかりの身体には、上下とも最低限の肌着しか身につけていない。
「着ているが」
「それは肌着でしょう!」
「隠すべきところは隠れている」
「そういう問題ではないのよ!」
剣聖は少し考えた。
どうやら本気で何が問題なのか分からないらしい。
「獣人だった頃は毛皮があったから、服装などほとんど気にしたことがない。暑い土地では腰蓑一枚で過ごしていた時期もある」
「今は毛皮がないでしょう!?」
言われて、自分の腕を見る。
白い素肌しかない。
「なるほど」
「今そこで納得するの?」
剣聖は再び自分の肌着を見る。
「なら、これだけ着ていれば十分だろう。昔より隠れている」
「十分じゃないわ!」
エミリアは額へ手を当てた。
剣聖はまだ納得していない様子だったが、それより刀を振れないことの方が気になるらしい。
「自由にしろと言っていなかったか?」
「言ったわよ」
「なら好きにさせてほしい。早く刀を振りたいんだが」
エミリアは数秒、無言で剣聖を見つめた。
この男――いや、今は少女だが――は、本当に剣のことしか考えていないらしい。
「ええ。自由は約束するわ」
剣聖の白い耳が、こちらへ向いた。
「好きなだけ剣を振りなさい。好きなだけ強くなりなさい。貴方がどこまで届くのか、私も見てみたいもの」
そこでエミリアは言葉を切り、肌着姿の剣聖を上から下まで眺める。
「だけど――私のドールズである以上、美しさは義務よ。それだけは守ってもらうわ」
「美しさ?」
「ええ。私の配下がみすぼらしい格好で歩き回るなんて許さない。服装も身だしなみも、振る舞いもね」
剣聖は少し考えた。
「服を着ればいいのか?」
「……どうやら、それだけでは済まなさそうね」
エミリアの脳裏に、一人の少女の姿が浮かんだ。
研究以外にはほとんど頓着せず、身だしなみというものを一から教える羽目になったクロエ。
随分と教育した結果、今ではドールズとして恥ずかしくない姿を保つようになっている。
だが今度は研究ではない。
剣だ。
しかも、こちらはこちらで相当に根が深そうだった。
エミリアは腕を組む。
「決めたわ」
「何をだ」
「貴方にはまず、ドールズとしての教育が必要よ」
剣聖の耳が、ぺたりと僅かに伏せられた。
「……刀は?」
「その後」
「今では駄目か?」
「駄目よ」
剣聖はしばらく黙り込み、手にした刀へ名残惜しそうな視線を落とした。
「……分かった」
明らかに落胆している。
白い耳まで、さらに少し下がった。
その様子を見て、エミリアはほんの僅かに罪悪感を覚えた。
だが。
それでも譲るつもりはない。
悪の女王のドールズとなる以上、美しくあることだけは絶対だった。
こうして。
かつてレムリアス大陸最強と謳われた剣聖への、新たな教育が始まることになった。
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