剣鬼と剣聖②
それから、長い年月が流れた。
白虎の青年は剣を振り続けた。今までのように力任せに振るうのではなく、構えを学び、足運びを覚え、間合いを考え、刃筋を意識した。
世界中を巡り、名のある剣士がいれば挑んだ。知らない流派があれば見て、使えそうな技があれば試した。敗れれば理由を考え、勝っても自分の動きを振り返る。
誰か一人に師事したわけではない。
他者の技を見て、試し、自分に必要なものだけを残していった。
十年。
数十年。
さらにその先。
いつしか、青年と呼ぶには長すぎる時間が流れていた。
かつて生まれ持った力を誇り、自分より弱い者を見下していた白虎の男は、もういなかった。
強さとは、そんなに単純なものではない。
それを、あの日の敗北が身体へ刻み込んでいた。
やがて白虎の男は、名のある剣士達を次々に倒すようになった。生来の力と速さへ、積み重ねた技が加わっていた。
それでも、足りない。
記憶の中に焼き付いた、あの日の剣。
あれはもっと遠かった。
そして百年近い歳月を経て、白虎の男はついに再び剣聖と向かい合った。
余計な言葉はなかった。
剣聖が構える。
男も剣を構える。
その姿を見た瞬間、長い年月が消えた。
自分が追い続けてきた剣が、そこにある。
二人の剣が交わった。
一日目では決着がつかなかった。二日目には互いの身体へ傷が増え、それでも三日目まで剣戟は途切れなかった。
かつては何をされたのかすら理解出来なかった剣筋を、今なら追える。
刃の置き方も、重心の崩し方も、間合いの奪い方も分かる。受けられる。返せる。時には、その先へ剣を届かせることさえ出来る。
自分は強くなった。
間違いなく、あの日とは違う。
だが、剣を交える時間が長くなるほど、白虎の男の中へ小さな違和感が積み重なっていった。
剣聖の技は衰えていない。
むしろ、あの日より深い。こちらの動きを読む精度も、重心を崩す角度も、剣を置く位置も、記憶の中にあるものより研ぎ澄まされている。
それなのに。
僅かに、遅い。
最初は、自分が速くなったからそう感じるのだと思った。
だが違う。
剣聖は次の動きを読んでいる。判断も正しい。剣も、そこへ向かおうとしている。
身体だけが、ほんの僅かについてきていない。
踏み込みが浅い。切り返しに小さな遅れがある。戦いが長引くほど呼吸が乱れるまでの時間は短くなり、脚の戻りも、剣を持ち上げる腕も、少しずつ鈍っていった。
一度や二度の打ち合いでは気付かなかっただろう。
だが、百年近くあの剣を追い続け、三日三晩、誰よりも近くで斬り結んだからこそ分かってしまった。
――老いている。
技は、あの日より上だ。
剣は、あの日より深い。
なのに身体だけが、あの日より弱くなっている。
男の胸に、言葉に出来ない感情が広がった。
こんなものを求めていたわけではない。
それでも戦いは止まらなかった。剣聖も剣を止めない。
そして三日目の終わり。
白虎の男の剣が、ついに剣聖の守りを抜いた。
一閃。
片腕が宙を舞い、握られていた剣が地面へ落ちる。
男の切っ先が、剣聖の喉元で止まった。
長い沈黙の後、剣聖は僅かに目を細めた。
「……見事だ」
勝った。
百年近く追い続けた相手に、ついに勝った。
そのはずだった。
だが、男の胸には歓喜がなかった。
三日三晩戦ったからこそ理解してしまった。最後に勝敗を分けたものは、自分の剣技だけではない。
体力。
肉体。
そして、流れてしまった時間。
もし今の自分が、あの日と同じ肉体を持った剣聖と戦っていたなら。
本当に勝てただろうか。
分からない。
そして、その答えを確かめる機会は永遠に失われた。
百年近い歳月をかけて、ようやく追いついた。
だが、自分が追いつくより先に。
目標の身体が老いてしまった。
どれだけ努力しても、どれだけ剣を振り続けても。
時間だけは、待ってくれなかった。
自分を裏切ったのは、剣聖ではない。
――時間だった。
◇
当代の剣聖を倒した白虎の男。その噂は瞬く間に広まり、やがて人々は男自身を新たな剣聖と呼ぶようになった。
さらに年月が流れ、その名は国境を越えて広がった。ついには、レムリアス大陸最強の剣聖とまで謳われるようになる。
だが、本人だけはその称号を素直に受け入れなかった。
最強。
そんなはずがない。
自分はまだ、あの日の剣を超えたという確信を得ていない。ならば、まだ上がある。まだ先へ行ける。
剣聖は答えを求めるように、剣を振り続けた。
やがて、一つの国へ招かれた。
まだ周辺国と争いながら領土を広げている、小さな国だった。
剣聖はそこで幾つもの戦場へ立った。敵将を斬り、軍を崩し、劣勢を覆す。剣聖が戦場へ立つたび、国は勝った。
最初、剣聖は一人だった。
命じられた戦場へ赴き、敵を斬る。ただそれだけだった。
だが、何度も戦場へ立つうちに、その背を追う兵が少しずつ増えていった。
「あんたについていけば、生きて帰れる」
最初にそう言われた時、剣聖は相手にもしなかった。
それでも兵達はついてきた。
危険な場所へ行く時、剣聖は部下だけを先へ出さなかった。攻めるなら自ら先頭へ立ち、退く時は最後まで残った。助けられる者がいるのなら、簡単には見捨てなかった。
若い頃なら、弱い者が倒れるのは、その者が弱いからだと切り捨てていたかもしれない。
だが、今は違う。
かつて自分より力も速さも劣る相手に、技だけで完全に敗れた。強さに一つの形しかないと思い込んでいた頃の自分は、もういなかった。
それを誰かへ語ることはなかった。ただ、行動だけが変わっていた。
何度も同じ戦場を生き抜くうちに、剣聖と共に戦うことを望む兵達が自然と集まっていった。やがて一つの部隊と言っていいほどのまとまりになったが、正式な名が付けられたわけではない。
ただ、剣聖が率いる部隊であることから、周囲には「剣聖隊」などと呼ぶ者もいた。
彼らは共に飯を食い、傷を負えば助け合い、何度も互いの命を預けてきた。
「まるで家族ですね」
そんなことを言われたこともあった。
剣聖は眉を寄せた。
「家族ではない。ただ、共に戦っているだけだ」
本人は最後までそう言って譲らなかった。
だが、傍から見れば十分に家族のような部隊だった。
剣聖自身も気付いていなかったのかもしれない。
かつて故郷を捨て、誰も必要としなかった男が、いつの間にか自分の内側へ入れた者達を見捨てられなくなっていたことに。
その頃には、かつて小国だった国も大きく領土を広げ、バルディア帝国と呼ばれるようになっていた。
そして帝国が大きくなるほど、剣聖の名もまた大きくなった。
兵達はその背を追い、民は英雄と呼ぶ。
剣聖本人に権力を求める意思などなかった。剣聖隊と呼ばれる者達も、皇帝へ反旗を翻そうなどとは考えていない。
ただ、皇帝の目には違って映った。
レムリアス大陸最強と謳われる剣士。
その傍らには、何年も死線を共にしてきた兵達がいる。
命令だから従っているのではない。
地位を求めて集まったのでもない。
ただ、剣聖という一人の男を信じて、その背を追っている。
それが、皇帝には恐ろしかった。
もし剣聖が反旗を翻したなら。
彼らは誰についていくのか。
一度生まれた疑念は、やがて恐怖へ変わっていった。
そしてある日。
剣聖と、その兵達へ命令が下された。
敵地深くへ入り、要所を攻略せよ。
危険な任務だったが、死地へ赴くことなど何度も経験している。剣聖は命令を受け、いつものように兵達を率いて敵地へ入った。
だが、今回は違った。
予定されていた援軍が来ない。
撤退しようとした時には、すでに退路へ敵が回り込んでいた。
完全に孤立している。
そこで初めて、剣聖は理解した。
これは戦ではない。
自分達を、生きて帰すつもりがない。
それでも、剣聖は共に来た兵達を見捨てなかった。
「俺一人なら、どうとでもなった」
そう呟いてから、剣を構える。
だが。
後ろには、共に戦ってきた者達がいる。
ならば。
自分だけが生き残ればいい戦いではなかった。
剣聖は前へ立った。
敵を斬り、傷を受け、それでも剣を振り続けた。兵達が逃げられる道を作り、自らは最後尾へ残る。
「行け」
短く告げる。
一人でも多く、生きて帰す。
それだけを考えて剣を振った。
大勢いた兵は、僅かな人数にまで減った。
それでも全滅はしなかった。
剣聖は、生き残った者達を連れて死地を抜けた。
鎧は裂け、全身が血に染まり、握った剣にも幾つもの刃こぼれがある。
それでも、遠くに帝国の軍旗が見えた時。
生き残った兵達は安堵した。
帰ってきた。
助かった。
そう思った。
剣聖だけが、足を止めた。
帝国兵達は剣を抜いていた。
槍を構え、道を塞ぎ、生還した者達を囲んでいる。
救援ではない。
指揮官が前へ出た。
「ご帰還、何よりです。剣聖様」
誰一人として武器を下ろさない。
そして、男は静かに続けた。
「ですが――剣聖様は敵地にて勇敢に戦い、討ち死になされたと。皇帝陛下は、そうおっしゃられております」
それだけで、すべて分かった。
援軍が来なかった理由。
退路を断たれた理由。
この兵達が、ここで待っていた理由。
皇帝にとって。
剣聖は、すでに死んだ人間なのだ。
生きて帰ってきては困る。
剣聖は静かに息を吐いた。
遠い昔を思い出した。
折れた武器。
誰も自分と目を合わせようとしなかった部族の者達。
あの頃とは、自分も随分変わった。
それでも。
また同じだった。
強すぎるから。
恐れられた。
今度は故郷ではなく。
自分が長く戦ってきた国に。
「……そうか」
剣聖は欠けた剣を構えた。
背後から、生き残った兵の一人が声を上げる。
「剣聖様……!」
剣聖は振り返らなかった。
「お前達は下がっていろ」
「ですが――」
「ここまで来たのだ。生きて帰れ」
それだけを告げる。
兵達は動けなかった。
剣聖はもう前しか見ていなかった。
家族ではない。
ただ共に戦ってきただけだ。
本人は、最後までそう言い張っただろう。
それでも。
だからこそ。
彼らを死なせるつもりはなかった。
剣聖は一歩、前へ出た。
すでに身体は限界だった。
敵地で戦い抜き、多くの血を失っている。立っているだけでも辛い。
それでも、剣を下ろす理由にはならなかった。
帝国兵が襲いかかる。
一人を斬る。
直後に背中を斬られ、それでも振り返ってもう一人を倒す。腹へ槍を受ければ、その柄を掴んで相手を引き寄せ、残った力で刃を振るった。
もう圧倒など出来なかった。
一人倒すたびに、剣聖自身にも傷が増える。
脚が動かなくなる。
腕が上がらなくなる。
視界が霞んでいく。
それでも最後まで、剣を振った。
そしてついに。
膝が落ちた。
レムリアス大陸最強と謳われた剣聖は、その場に倒れた。
◇
後に、帝国の記録には一つの物語が残された。
剣聖は命令に背き、敵地から帰還した後に錯乱した。帝国兵へ刃を向け、多くの味方を斬った裏切り者。
血に飢えた怪物。
――【剣鬼】。
そう記された。
だが、それだけが残ったわけではなかった。
あの死地から剣聖によって救い出され、生きて帝国へ戻った者達がいた。
かつて「剣聖隊」と呼ばれた兵達。
彼らは知っていた。
援軍が来なかったことを。
剣聖が最後まで自分達を守ったことを。
自分が傷ついても、一人でも多く生かそうと剣を振り続けたことを。
だから、彼らは語った。
帝国が何と記そうとも。
あの人は最後まで――【剣聖】だった、と。
剣鬼。
剣聖。
二つの名が残った。
だが、本人にとってはどちらもどうでもよかった。
肉体が滅びても、魂は大地へ残った。
故郷に裏切られた。
追い続けた答えは、時間に奪われた。
最後には、仕えた国に裏切られた。
怒りもあった。
恨みもあった。
だが、長い年月の中で、それらすら次第に薄れていった。
最後まで残ったのは、もっと単純なものだった。
――まだ、超えられていない。
まだ強くなれる。
まだ先がある。
まだ知らない剣が、どこかにあるかもしれない。
だから、終われない。
剣聖と呼ばれ、剣鬼と罵られた白虎の魂は、その執着だけを抱えて長い年月を彷徨い続けた。
そして、その果てに。
一本の漆黒の刀と、一人の悪の女王に出会った。
――もっと強くなりたい。
――まだ足りない。
――最強などではない。
――まだ、超えられていない。
死してなお。
その想いだけは、何一つ変わっていなかった。




