剣鬼と剣聖①
光の中へ沈んでいく意識。その奥底から、遠い記憶がゆっくりと浮かび上がってきた。
最初に見えたのは、雪だった。
山深い土地に、白虎の獣人達が暮らす集落があった。強き者が群れを率い、その力で弱き者を守る。彼らにとって強さとは誇りであり、群れの中での価値を示すものでもあった。
そこで生まれた一人の青年は、幼い頃から抜きん出ていた。誰よりも力が強く、誰よりも脚が速い。反応も鋭く、目の前で振るわれた拳や武器を見てから避けることすら出来た。
特別な技を学んでいたわけではない。ただ、生まれ持った肉体が圧倒的だった。
相手より速く踏み込み、相手より強く武器を振るう。攻撃が来れば避け、受ければ力で押し返す。それだけで勝てた。
成長する頃には同年代で敵う者はいなくなり、やがて年長の戦士達にも勝つようになった。そして勝ち続けるうちに、青年の中には一つの考えが根付いていった。
強い者が上に立つ。
ならば、自分が誰より上に立つのは当然だ。
「弱い者が強い者に従う。それがこの部族の掟だろう?」
そんな言葉を口にすることも増えた。年長者が諫めても、青年は聞かなかった。何か言いたいのなら、自分より強くなればいい。自分より弱い者の言葉に従う理由などないと、本気でそう考えていた。
部族そのものが強さを尊んでいる以上、その考えを完全に否定することも難しかった。だが青年が強くなるほど態度は尊大になり、周囲の者達は次第にその力を誇りではなく、恐れをもって見るようになっていった。
やがて青年が成人を迎えた頃、次代の族長を決める戦いが行われた。
強き者が群れを率いる。
古くから続く掟に従うなら、青年こそ次の族長になるはずだった。本人も、それを疑っていなかった。
戦いが始まっても、その自信は揺るがない。対戦相手の攻撃を軽々とかわし、武器を打ち合わせれば力で押し込み、一歩踏み出すたびに相手を後退させる。
力も速さも、自分が上だった。
――この程度か。
青年にとっては、族長となる資格を証明するだけの戦いだった。
決着は近い。そう思った時、相手の一撃を武器で受け止めた瞬間に乾いた音が響いた。
手にしていた武器が、根元から折れた。
「……?」
あり得なかった。その程度の一撃で壊れるような武器ではない。
青年の視線が、一瞬だけ折れた断面へ落ちる。その僅かな隙を相手は逃さなかった。脇腹へ強烈な一撃を受け、青年の身体が地面を転がる。
すぐに起き上がった時には、すでに勝敗が宣言されていた。
周囲から歓声が上がる。
青年は黙って地面の武器を拾い、折れた断面を見た。長く武器を扱ってきた者でなくとも分かるほど不自然だった。
壊れたのではない。
壊れるように、あらかじめ細工されている。
青年はゆっくりと顔を上げ、長老達を見た。戦士達を見た。共に育った者達へ視線を向けた。
誰も目を合わせようとしなかった。
「武器の管理すら満足に出来ぬ者に、族長は任せられん」
長老が告げた。
誰が細工したのか。誰が命じたのか。どこまでの者が知っていたのか。問い詰めようと思えば出来た。
だが、必要なかった。
誰一人として異を唱えない。誰一人として青年を見ようとしない。それだけで十分だった。
部族の者達は、自分が族長になることを望んでいなかった。
青年は強かった。それだけなら、彼らにとって理想の族長だったかもしれない。
だが青年は、弱い者を軽んじた。自分より弱い者の言葉には耳を貸さず、力さえあれば自分の考えを押し通していいと思っていた。
長老達は恐れたのだ。
この青年が族長となった時、誰が止められるのか、と。
「この勝負は終わった。お前に族長となる資格はない」
青年の牙が僅かに覗いた。
「……だから、こんな真似をしたのか」
答える者はいなかった。
その沈黙を見回し、青年は折れた武器を地面へ投げ捨てた。
卑怯者。
弱者。
正面から自分を倒すことも出来ず、こんな手段でしか排除することのできない者達。
青年の胸に浮かんだのは、反省ではなかった。
――やはり弱い。
「……くだらない」
その日のうちに、青年は集落を去った。
追う者はいなかった。青年も一度たりとも振り返らなかった。
自分が間違っていたなどとは、少しも思わなかった。
◇
山を下りた青年は各地を放浪し、生きるために傭兵となった。魔物を狩り、盗賊を討ち、商隊を護衛し、時には国同士の戦争にも参加した。
武器にはこだわらなかった。剣でも槍でも斧でもいい。敵を倒せるのなら、それで十分だった。
そして外の世界でも、青年は勝った。
名のある戦士にも、騎士にも、傭兵団の猛者にも。青年の力と速度へ正面から抗える者は、ほとんどいなかった。
部族を追い出されたことで、その増長が治ることもなかった。むしろ外でも勝ち続けることで、自分の考えは正しかったのだという確信を深めていった。
結局、あの部族は自分を恐れただけなのだ。
強い者が勝つ。弱い者が負ける。
世界は、それだけで出来ている。
やがて青年は、自分より強い者を探すようになった。自分の力がどこまで通用するのか。それを確かめること自体が、いつしか目的になっていた。
そんなある日、一人の剣士の噂を聞いた。
当代の剣聖。
その肩書きだけで十分だった。
青年は剣聖を探し出し、勝負を挑んだ。
剣聖は拒まなかった。
互いに剣を構える。青年は先に地面を蹴り、一気に間合いを潰した。
振り下ろした剣を、剣聖が受ける。
青年が力を込めると、その身体が僅かに後ろへ下がった。
――軽い。
続けざまに剣を振るう。受けられればさらに踏み込み、かわされれば横薙ぎに追う。
力はこちらが上。
速さもこちらが上。
反応だって負けていない。
青年の口元に薄い笑みが浮かんだ。
――剣聖といっても、この程度か。
それでも、妙だった。
押しているはずなのに終わらない。何度攻めても決定打にならず、剣聖は刃を受け、かわし、ほんの僅かずつ位置を変えながら攻撃を凌ぎ続けている。
反撃らしい反撃も、ほとんどなかった。
ただ、見ている。
青年の剣を。足を。肩を。腰を。
何かを探すように、じっと観察していた。
しばらくして、剣聖の表情から興味が消えた。
「……何も技もない」
青年の眉が動く。
「何?」
剣聖は短く続けた。
「つまらん」
青年の顔から笑みが消えた。
次の瞬間。
空気が変わった。
青年が剣を振るう。剣聖の刃がほんの僅かに触れただけで、その軌道が逸れ、込めたはずの力がどこかへ逃げた。
すぐに踏み込む。
剣聖が半歩ずれる。
青年の刃が空を切る。
ならば速さで押す。さらに踏み込もうとした瞬間、その先にはすでに剣先が置かれていた。
青年は咄嗟に身体を捻り、頬を掠めた刃から逃れる。すぐに後ろへ跳んだが、剣聖は追ってこない。
それなのに、青年が望んだ間合いには戻れていなかった。
分からない。
動きは見えている。剣聖は自分より速いわけではなく、力も弱い。
なのに剣が先にある。
青年が攻撃を始めるより先に、その終わりを知っているかのようだった。
速さを流され、力を逸らされ、踏み込みを崩される。肩へ傷を受け、反撃すれば剣を弾かれ、前へ出れば足元を崩される。
少しずつ、青年の身体に傷が増えていった。
先ほどまでとは逆だった。
今度は青年が、何も出来ない。
力を込めても通じない。もっと速く動いても、それでも届かない。
こんなはずがない。
自分の方が強い。
自分の方が速い。
それなのに。
勝てない。
青年は焦りながら、それでも剣聖の動きから目を離せなかった。
足を置く場所。身体の傾き。刃を振る角度。そのすべてが次の動きへ繋がり、一つとして無駄がない。
その時、ようやく青年は理解した。
自分はただ、生まれ持った力を振り回していただけだった。
速さに任せて踏み込み、相手より強いから勝っていただけ。
目の前の剣士は違う。
自分より弱い。
自分より遅い。
それでも、自分より遥かに巧い。
そして。
――美しい。
次の瞬間、青年の剣が宙を舞った。
気付いた時には、冷たい刃が首筋へ添えられている。
完全な敗北だった。
剣聖は何も言わず刃を引き、そのまま背を向けた。
青年は動けなかった。
悔しかった。腹も立った。先ほど浴びせられた言葉を今すぐ否定してやりたかった。
だが、出来ない。
負けた。
誰かに武器を細工されたわけではない。卑怯な手段を使われたわけでもない。
正面から挑み。
正面から叩き潰された。
青年は拳を強く握りしめ、遠ざかっていく剣聖の背中を睨んだ。
だが胸の奥に芽生えたものは、怒りだけではなかった。
もう一度、あの剣を見たい。
あの技を知りたい。
そして今度こそ。
あそこへ届きたい。
地面へ落ちた剣へ目を向ける。
今まで武器など何でもよかった。
敵を倒せれば、それで十分だった。
だが、その日。
白虎の青年は、生まれて初めて自ら一つの武器を選んだ。
剣だった。
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