大地に囚われる剣鬼②
「最初からそうしなさい」
エミリアが満足そうに言い放つと、執務室を満たしていた剣気と殺気も完全に消えていった。少し離れた場所では、ルミがようやく肩の力を抜いている。
『……あの』
内側から、弱々しい声が聞こえた。
(あら。起きたのね)
『……今、何があったんですか?』
(気絶していたわよ)
『えっ!? 私、気絶していたんですか!?』
(ええ。剣気を受けた瞬間に)
『そんな……』
随分とショックだったらしい。
エミリアは内側で落ち込む彼女をひとまず放っておき、目の前の剣聖へ意識を戻した。先ほどまでとは違い、剣聖の視線から敵意は消えている。もっとも、研ぎ澄まされた刃のような雰囲気そのものは変わっていなかった。
「それで?」
剣聖が短く問う。
「何?」
「何を斬ればいい」
エミリアが僅かに首を傾げた。
「国か。人か」
どうやら配下になるという話を、そういう意味に受け取ったらしい。
「貴方に斬らせたいものはないわ」
「……何?」
「今のところは、ね」
剣聖の耳が僅かに動く。
「なら、何故欲しがる」
「何故って……」
エミリアは不思議そうに瞬きをした後、楽しそうに唇を吊り上げた。
「大陸最強と謳われた剣聖が、悪の女王の配下に墜ちるのよ? 最高じゃない」
「……それだけか」
「十分でしょう?」
あまりにも当然のように言い切る。
剣聖はしばらくエミリアを見つめていたが、彼女は気にする様子もなく腕を組んだ。
「貴方に望むのは、強くあることよ」
「強く?」
「ええ。私の配下を名乗るのなら、誰にも侮られないだけの強さを持っていなさい。それさえ守るのなら、あとは自由にするといいわ」
「……自由に?」
「剣を振りたければ好きなだけ振ればいい。鍛えたければ、誰にも止められないほど鍛えなさい。貴方は貴方の望むまま、強さを求め続ければいいのよ」
エミリアは悠然と笑った。
「その生き方で、私を楽しませてくれればそれでいいわ」
剣聖は黙った。
やがて、その口元が僅かに緩む。
「……妙な女王だ」
「悪の女王よ」
「同じだ」
「全然違うわ」
少し不満そうに返すエミリアを見て、剣聖の表情がまた僅かに緩んだ。
「……しばらくなら、付き合う」
「随分と偉そうね」
「互いに」
「あら」
エミリアは目を細める。
まあいい。ひとまず、それで十分だった。
「それに――貴方に見せたいものがあったのよ」
「見せたいもの?」
エミリアは執務室の壁際へ歩き、そこに置かれていた一本の武器を手に取った。
細長い鞘。鞘や鍔には薔薇を模した装飾が施されているが、収められたままでは、それ以外に特異なところは見当たらない。
剣聖が視線を向ける。
「それは?」
鞘から柄へと目を移し、僅かに首を傾げた。
「……曲剣か? 持ち手も鍔も見慣れない形だが」
「違うわ」
エミリアは微笑み、柄へ手をかけた。
そして、わざとゆっくりと。見せつけるように、鞘から刃を抜いていく。
漆黒の刀身が少しずつ姿を現した。
その瞬間、剣聖の目が変わった。
先ほどまでエミリアへ向けられていた視線が、完全に漆黒の刃へ吸い寄せられる。
「……なんだ、その武器は」
これまで淡々としていた声に、初めて隠しきれない熱が混じった。
「この刀身……波紋……斬ることに特化した武器か?」
一歩、距離を詰める。視線が刃先から鍔へ、また刃先へと走っていく。
「曲剣とも違う。三国の偃月刀とも違う……これほど細身で、斬撃に耐えられるのか?」
先ほどまで言葉少なだった剣聖から、次々と疑問が零れてくる。
エミリアはすぐには答えず、その反応を楽しむように漆黒の刀身を僅かに傾けた。
「どう?」
「……」
「この世界にはない武器よ」
剣聖の視線が、再び刀身を這う。
エミリアは満足そうに微笑んだ。
「――【刀】というの」
数秒の沈黙。
「見せろ」
剣聖が一歩、エミリアへ詰め寄った。
「もっと近くで見せろ」
「あら。随分と食いつくのね」
「いいから見せろ」
「命令する立場が逆じゃなくて?」
そう言いながらも、エミリアは刀を持ち上げる。
剣聖は手を伸ばそうとはしなかった。いや、伸ばしても意味がない。今は肉体を持たない、魂だけの亡霊なのだから。
顔を寄せるようにして、食い入るように刀身を観察する。波紋、刃の厚み、反り、峰、柄、鍔。その視線は何度も往復した。
「……触れられないのが煩わしい」
「死んでいるものね」
剣聖は刀から目を離さないまま問う。
「使い方は知っているのか」
「型くらいなら出来るわよ」
エミリアは刀を構えた。静かに姿勢を整え、一つの型を取る。
そして、漆黒の刃を振るった。
刀身が滑らかに空を斬る。
剣聖の目が、その軌跡を追った。
「……違う」
「何が?」
「剣とは、身体の使い方が違う」
一度見ただけで気付くらしい。
「そうね。でも、この刀を使った実戦となると私にも分からないわ」
「……分からない?」
「ええ。型や技術なら知っているものもある。でも、私がこの刀で実戦を重ねてきたわけではないもの」
剣聖の耳が僅かに伏せる。
その反応を見て、エミリアは笑った。
「だから――貴方が使いなさい」
剣聖の視線が、エミリアへ戻る。
「使って、覚えて、磨くのよ」
エミリアは漆黒の刀身を見せつけるように傾けた。
「この刀、使いたいでしょう?」
返事はなかった。
必要もなかった。
その目が、すでに答えている。
「未知の剣技を知りたいでしょう?」
「……あるのか」
「あるわよ」
「どれほど」
「さあ?」
エミリアは肩をすくめる。
「流派なんて数え切れないほどあったもの。構えも、足運びも、間合いの取り方も違う。刀を鞘に収めた状態から、そのまま斬撃へ繋げる居合のような技術まであるわ」
剣聖の表情が、少しずつ変わっていく。
未知の武器。知らない技。そして、その先にあるかもしれない新たな高み。
エミリアには、もう分かっていた。
この剣聖が欲しいものを。
「私なら、貴方が欲しいものを全部用意できるわ」
剣聖が顔を上げる。
「刀」
漆黒の刃へ視線が向く。
「その刀を振るための肉体」
今の半透明な身体へ、剣聖自身が目を落とす。
「そして、貴方の知らない知識」
最後に、エミリアは妖しく微笑んだ。
「欲しいわよね?」
一瞬の沈黙。
剣聖の視線は、漆黒の刀から離れなかった。
「……欲しい」
低く漏れた声だった。
「この刀を使いたい。知らない技を知りたい」
先ほどまでの静かな声音に、抑えきれない熱が混じっていく。
「もっと強くなりたい」
エミリアが僅かに目を細めた。
レムリアス大陸最強。
そう謳われた者が、迷いもなく口にした言葉だった。
「まだ足りない」
「あら?」
「最強などではない」
白虎の瞳に、強い熱が宿る。
「まだ――超えられていない」
誰を。
何を。
エミリアには分からない。
だが、その言葉に込められた執着だけは十分すぎるほど伝わった。
「もっと先へ行きたい。まだ上があるのなら、そこへ行きたい」
今まで押し殺されていたものが、堰を切ったように溢れ出す。
「刀も、肉体も、知識も――全部欲しい」
そして、剣聖は初めて漆黒の刀から視線を外し、真正面からエミリアを見た。
「それをくれるというなら、何でもしよう」
エミリアの笑みが深くなる。
――もう、逃げる気などないでしょうね。
「分かったわ。でも――」
刀をゆっくりと鞘へ納める。
「私が貴方に望むものは、何も変わらないわ」
「……?」
「その刀を極めなさい」
エミリアは真っ直ぐに剣聖を見る。
「そして今度は――最強の刀術使いになるのよ」
数秒の沈黙。
そして、剣聖が笑った。
初めて見せる、快活な笑みだった。白虎の牙が覗く。
「面白い!」
その声が執務室に響く。
「面白い女王様だ。それは、こちらがやりたいことではないか」
「ええ」
エミリアも笑う。
「でも、それは私の望みでもあるのよ」
そこまで言って、ふと想像した。
漆黒の刀を携えた剣聖。誰にも届かないほど研ぎ澄まされた刀術。大陸最強と謳われた存在が、未知の武器を手にさらに高みへ至る。
そして、それが自分の傍らに立つ。
――悪の女王に仕える、最強の刀使い。
「……ふふ」
思わず頬へ手を添え、目を細める。うっとりとした笑みが自然と浮かんだ。
「最高じゃない……」
想像するだけで、ぞくぞくするほど美しい。
エミリアは改めて剣聖を見上げた。
「最高の刀術を修めて、私を楽しませなさい」
「望むところだ」
答えは即座に返ってきた。
先ほどまでの「しばらく」など、もうどこにもない。
エミリアは満足そうに頷くと、ルミへ振り返った。
「では、まずは身体を用意しましょう。ルミ」
「かしこまりました」
ルミが恭しく頭を下げる。
次の瞬間、その表情に妖艶な笑みが浮かんだ。
月と死と転生を司る禍津神――ルミナ。
その神力が静かに満ち、剣聖の魂を包み込んでいく。
「……これは」
「大人しくしていなさい」
エミリアは楽しそうに笑った。
「次に目を覚ました時には、思う存分その刀を振れるわ」
半透明だった剣聖の輪郭が、少しずつ光へ溶けていく。意識が遠ざかる、その寸前。
エミリアの声が届いた。
「ああ。それと――」
「……?」
「私のドールズには、美しさも必要なの」
剣聖の耳が僅かに動く。
「とびきり美しい身体にしてあげるわ」
「……待――」
問い返すより先に、意識が闇へ沈んでいく。
その様子を眺めながら、エミリアは楽しそうに笑った。
「まあ――答えは聞いてないけどね」
光が消える。
そして、剣聖の意識は遥か昔の記憶へと沈んでいった。
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