大地に囚われる剣鬼①
王都へ流れ込む人々は、今も増え続けていた。
商人や職人だけではない。働き口を求める者、新しい暮らしを求める者、それまで故郷を離れることなど考えもしなかった者まで、少しずつローゼンバーグ王国へ集まり始めている。当然、人が動けば噂も動く。
その日、エミリアの執務机へ置かれていた報告書にも、移住してきた者達から聞き取った話がいくつかまとめられていた。
「……剣聖の亡霊?」
エミリアは、目に留まった一文を読み上げた。
王都へ移り住んできた獣人達の間で、古くから語られている話らしい。白虎の獣人。かつて大陸最強とまで謳われた剣聖。
一国に仕えながら、最後はその国に裏切られて命を落とし、死してなお未練を捨てられず、怨霊となって彷徨い続けているという。
「……大陸最強、ねぇ」
報告書を眺めながら、エミリアは小さく呟いた。
『この大陸は、レムリアス大陸と呼ばれています。外海を越えた先には、別の大陸もあるそうですよ』
不意に、内側からもう一人のエミリアの声が聞こえる。
「それは知っているのだけれど……相変わらず、聞いた話ばかりね」
少し意地悪く返すと、内側のエミリアが困ったように黙った。
『……昔は、国外へ出られるほど元気ではありませんでしたから』
「ああ……そうだったわね」
さすがに、それ以上は言えなかった。
改めて報告書へ視線を落とす。どこまでが事実なのかは分からない。長い年月を経て語り継がれた噂など、いくらでも尾ひれが付く。
それでも――レムリアス大陸最強の剣聖。
その肩書きは、十分に興味を引くものだった。
そして、数日前にランカと交わした会話を思い出す。
――使うだけなら片手剣と同じように扱えば、使えんこともないじゃろうが。
だが、それでは美しくない。せっかく刀として作らせたのなら、それを刀として扱える者に持たせたい。
「……惜しいわね。生きているなら、ちょうど欲しい人材だったのだけれど」
「なら、会わせてあげますよ」
すぐ横から声がした。
エミリアは驚くこともなく、ゆっくりと視線だけを向ける。いつの間にか、ルミが立っていた。
「……いたの、貴方」
「いましたよ。さっきから」
「そう」
「相変わらず反応が薄いですね……」
ルミは苦笑しながら、机の上の報告書を覗き込んだ。
「その剣聖、気になるんでしょう?」
「ええ。一度くらい見てみたいわね」
「だったら簡単です」
「何が?」
ルミは少し得意そうに胸を張った。
「私の権能を忘れてるんですか?」
数秒、エミリアはルミの顔を見つめた。
「……そういえば貴方、女神の分体だったわね」
「そういえばって何ですか!」
「普段の貴方を見ていると忘れるのよ」
「酷い!」
ルミが抗議する。だが、次の瞬間、その表情が変わった。
姿は何も変わっていない。見慣れたメイド姿も、その顔も同じ。それなのに、唇には先ほどまでとはまるで違う、妖艶な笑みが浮かんでいる。空気そのものが、静かに塗り替えられていく。
エミリアの傍らに控える分体、ルミ。その奥にいる本来の存在。
月と死と転生を司る禍津神――ルミナ。
「貴女が私に願うのならば、すぐに転生させて、貴女の下僕にしてあげるわ」
ルミナは悠然と笑った。
死者の魂を転生させることも、その後の人生を勝手に決めることも、彼女にとっては些細なことなのだろう。
エミリアは小さく息を吐く。
「……相変わらず、分かっていないのね」
「あら。何が?」
「そんな下僕はいらないわ。大陸最強と呼ばれていた。ただそれだけで私の隣に置くほど、私の配下は安くないのよ」
頬杖をついたまま尊大に言い放ち、報告書を指先で軽く叩く。
「まずは会わせなさい」
「会って、どうするの?」
「決まっているでしょう? 私の下僕にする価値があるかどうかは、私が見て、私が決めるのよ」
ルミナは一瞬だけ黙り、ますます愉快そうに微笑んだ。
「ふふっ。そうだったわね」
「今頃分かったの?」
「いいえ。知っているから好きなのよ」
「そう。なら、連れてきなさい」
「ええ。仰せのままに、私の女王様」
ルミナが片手を上げる。
詠唱も祈りも、大仰な儀式すら必要ない。指先でゆっくりと宙をなぞると、音もなく空間が歪み、そこに確かに何かが開いた。
執務室の温度が落ちる。生者のいる場所へ、本来存在しないものが近づいてくるような感覚が広がっていく。
「来なさい」
静かな声だった。
だが、それは呼びかけではない。命令だった。
「大陸最強とまで謳われながら、死してなお未練に縛られた剣聖。私の女王が、貴方に興味を持ったわ」
床から黒い靄が溢れ出す。
ルミナの笑みが深くなる。
「光栄に思いなさい」
黒い靄が渦を巻き、ひとつの場所へ集まっていく。やがて、その中から白い毛並みが現れた。
白地を走る黒い虎縞。長い腕と脚。鋭い爪。
人より明らかに長身ではあるが、筋肉で膨れ上がった巨躯ではない。引き締まった身体には必要なだけの筋肉が均整よく付き、その立ち姿からは力強さ以上に研ぎ澄まされた鋭さが伝わってくる。
人に獣の耳や尾が付いたような姿でもない。二本の脚で立ち、人の言葉を操る――人よりも遥かに獣へ近い、白虎の獣人だった。
半透明の身体にはいくつもの傷が残り、纏う衣服も古びている。武器はないにもかかわらず、一本の抜き身の刃が、そのまま形を得て立っているようだった。
ただそこにいるだけで分かる。尋常ではない。
大陸最強という肩書きがどこまで正しいかはともかく、この剣聖が生前、並外れた存在だったことだけは疑いようがなかった。
白虎の剣聖がゆっくりと周囲を見渡し、やがてルミナへ視線を向ける。
「……死者の神か」
低く、短い声だった。
「ええ」
「何故、呼んだ」
ルミナは答えず、エミリアへ視線を送った。次の瞬間、その身を纏っていた妖艶な気配がふっと薄れ、唇にはいつものルミの柔らかなメイドの微笑みが浮かぶ。
「はい。お連れしましたよ、エミリア様」
エミリアは椅子から立ち上がり、そのまま剣聖の前までゆっくりと歩いていく。
長身の剣聖を、僅かに顔を上げて見つめる。それでも、どちらが相手を値踏みしているのか、その場にいれば迷う者はいなかっただろう。
白い毛並み。均整の取れた身体。そして、魂だけになってなお消えていない鋭さ。
悪くない。
「貴方が、大陸最強と謳われた剣聖ね」
「……昔の話だ」
「そう。合格ね」
剣聖の目が僅かに細くなる。
「何の話だ」
「貴方、私の配下になりなさい」
沈黙が落ちた。
剣聖はしばらくエミリアを見下ろしていた。
「断る」
「あら。随分と早いのね」
「小娘に仕える理由がない」
その言葉を聞いても、エミリアの表情は変わらない。むしろ、僅かに口元を上げた。
「小娘、ね」
「違うのか」
「見た目だけなら否定しないわ。でも、それと私が人の上に立つ器かどうかは、まったく別の話でしょう?」
剣聖の瞳が細くなる。
「王か」
「女王よ」
「その器には見えない」
「貴方の見る目が足りないだけね」
即答だった。
空気が僅かに張り詰める。だが、剣聖が怒った様子はない。しばらくエミリアを見つめた後、その口元が僅かに歪んだ。
「……言う」
「事実だもの」
「なら――試す」
「何を?」
「人の上に立つ器か。耐えられぬなら、それまで」
短い言葉に、余計な感情はない。
エミリアは逃げるでも身構えるでもなく、ただ悠然と剣聖を見上げ、少しだけ顎を上げた。
「いいわ」
剣聖の耳が僅かに動く。
「……何?」
「試したいのでしょう?」
エミリアは両手を軽く広げる。
「好きになさい」
その態度に、剣聖の目が初めてはっきりと変わった。
次の瞬間。
空気が爆ぜた。
黒い靄が剣聖の全身から噴き出す。同時に叩きつけられたのは、単なる殺意ではない。
剣気。殺気。闘志。怨念。
長い年月をかけて研ぎ澄まされてきた、剣聖という存在そのもの。それら全てが巨大な刃となり、執務室を満たした。
『――っ』
内側から、小さく息を呑む声がした。
それきりだった。
(……エミリア?)
返事はない。内側のエミリアは、剣気を受けた瞬間に意識を失っていた。
少し離れた場所にいたルミも僅かに肩をすぼめ、無意識なのか半歩だけ身を引いている。
「……これは、ちょっと嫌ですね」
神の分体であるルミですら、好んで浴びたいものではないらしい。
普通の人間であれば、立っているどころか意識を保つことすら難しかっただろう。剣聖は動いていない。武器もない。ただ、その魂が持つ全てを叩きつけているだけ。
それだけで、かつてレムリアス大陸最強と謳われた理由が分かる。
だが、エミリアは動かなかった。
一歩も下がらず、顔色すら変えない。黒い靄がドレスの裾を激しく揺らし、長い銀髪を舞い上げても、ただ静かに剣聖を見上げている。
剣聖の瞳に、僅かな変化が生まれた。
圧がさらに増す。剣気も殺気も、闘志も怨念も、その全てが一点へ集まり、エミリアの魂そのものを斬り裂こうとする。
それでも、エミリアは退屈そうに息を吐いただけだった。
「……もう終わり?」
剣聖の眉が僅かに動く。
「何?」
「大陸最強だというから、もう少し期待していたのだけれど」
エミリアは自ら黒い怨念の中へ一歩踏み込む。
「憎しみも、恨みも、殺意も。好きなだけ抱えていればいいわ。それは貴方のものだもの。捨てろなんて言わない」
さらに一歩。
その瞳が、真正面から剣聖を射抜く。
「けれど、その程度のもので私が怯むと思わないことね」
唇に浮かぶのは、不敵で傲慢な笑みだった。自分が怯む可能性など、最初から考えてすらいない。
剣聖は何も言わない。
エミリアは、そのすぐ目の前まで歩み寄った。
「悪の女王たる私にとって、貴方の殺意など――」
黒い靄が荒れ狂う。
その中で、エミリアだけがどこまでも悠然と笑っていた。
「涼風と変わらないわ」
強がりでも虚勢でもない。本当に、何ひとつ恐れていない。
剣聖には、それが分かった。
やがて黒い靄がゆっくりと薄れ、剣気も殺気も収まっていく。
剣聖はしばらくエミリアを見つめていた。先ほどまでの、ただの小娘を見る目ではない。
初めて、目の前にいる存在そのものを確かめるように。
「……名は」
短い問いだった。
エミリアの笑みが深くなる。
「ずいぶん遅い質問ね。ローゼンバーグ王国女王、エミリア・ローゼンバーグ」
胸を張り、当然のように言い切った。
「この国に君臨する、悪の女王よ」
「悪の女王……」
剣聖は、その言葉を確かめるように繰り返した。
長い沈黙の後、ほんの僅かに口元が緩む。
「……面白い。話は聞こう」
エミリアは満足そうに顎を上げた。
「最初からそうしなさい」
感想、御意見いただけると嬉しいです




