女王陛下は白く美しい
蒸留酒が完成してから、数日後。
エミリアは再び、ランカの工房を訪れていた。
炉の熱気と、金属を叩く乾いた音。壁際には大小様々な工具が並び、作業台の上には製作途中らしい部品が無造作に置かれている。
その中央で、ランカは赤く熱した鉄を前にしていた。
「ランカ!」
工房へ入るなり声をかけると、振り上げかけていた槌が止まった。
「……今度はなんじゃ」
振り返ったランカの顔には、早くも嫌そうな色が浮かんでいる。
エミリアは気にせず、胸を張った。
「食パンが食べたいのよ!」
ぱーん、とでも効果音が付きそうな勢いだった。
ランカは数秒、黙った。
「……なんじゃそれ?」
予想通りの反応に、エミリアは作業台へ近づく。
「パンよ」
「それは分かるわい」
「四角くて、白くて、柔らかいパン」
「知らん」
即答だった。
この世界にもパンはある。むしろ主食として広く普及している。
だが、蓮の記憶にある食パンのように、きめが細かく、ふわりと柔らかく、それでいて綺麗な四角形に焼き上げたものは見たことがなかった。
以前から食べたいとは思っていた。けれど、普通のパンと違い、あの形に焼くには専用の型がいる。
そして今、その型を作れる職人が、この王国にはいる。
「こういう物を作ってほしいの」
エミリアは紙を引き寄せ、簡単な絵を描き始めた。
長方形の箱。その上には蓋。
内側へ生地を入れ、膨らんでも一定の形から外へ出ないようにする。
ランカは横から覗き込み、顎を撫でた。
「要するに、金属の箱じゃろ?」
「そうね」
「……それだけか?」
「それだけよ」
ランカの眉間に深い皺が寄った。
「嫌じゃ」
「何故よ!」
「いい加減、この工房でまともな鍛冶をさせんか!」
工房に怒声が響く。
ランカは槌を作業台へ置き、ぶつぶつと文句を言い始めた。
「蒸留器じゃ、管じゃ、妙な魔法回路じゃ……最近は鍛冶屋なのか何なのか分からん仕事ばかり持ち込まれおって」
「どれも役に立ったでしょう?」
「役に立つかどうかの話ではないわい!」
ランカは腕を組み、鼻息を荒くする。
「この間、まともに武器らしい物を打ったのは、あの刀が最後じゃぞ」
その言葉に、エミリアは少しだけ目を瞬いた。
「……そういえば、そうね」
蓮の知識をもとに形を伝え、ランカが試行錯誤の末に打ち上げた異国風の片刃剣。
刀身そのものは実用一点張りで、余計な装飾などない。ただ、その後に拵えた鍔や鞘には、エミリアの好みに合わせて薔薇を思わせる意匠が僅かに施されていた。
ランカは呆れたように続ける。
「それに、あの刀。まだ使う者がおらんのじゃろう?」
「そうね」
ランカは腕を組み直し、少し考え込んだ。
「あれは作っていて面白い武器ではあったがの。普通の剣とは形も重心も違う」
しばらく考えたあと、肩をすくめる。
「まあ、使うだけなら片手剣と同じように扱えば、使えんこともないじゃろうが」
エミリアは即座に首を横へ振った。
「それは美しくないわ」
「じゃろうな」
ランカも即答した。
元の世界で様々な武術を修めてきた蓮には、武器を使えることと、使いこなすことが違うくらい、よく分かっている。
せっかく刀として作らせたのだ。ならば、その形に相応しい使い方をする者に持たせたい。
妙なところで、二人の意見は一致していた。
そんな会話をしていた、その時だった。
工房の奥から軽い足音が聞こえてくる。
「お爺ちゃーん、誰とおはな――」
顔を出した少女が、ぴたりと固まった。
ミンメイだった。
袖を捲った作業着姿。髪は邪魔にならないよう簡単にまとめられ、頬には薄く煤がついている。
その視線がエミリアを捉えた。
「……え」
一瞬。
そして。
「え、エミリア様ぁ!?」
顔が一気に真っ赤になった。
エミリアが何か言うより早く、ミンメイは自分の姿を見下ろす。
煤のついた作業着に、適当にまとめただけの髪。仕事をしていたのだから当然の格好なのだが、本人にとってはそうではなかったらしい。
「お、お爺ちゃん! エミリア様が来てるなら教えてよ!」
「なんでじゃ」
「もうっ!」
ミンメイはそれだけ叫ぶと、工房の奥へ引っ込んでいった。ばたばたと足音が遠ざかる。
ランカはその背中を見送り、眉間へ皺を寄せた。
「……何なんじゃ、あやつは」
エミリアは口元へ手を添えた。
「面白い子ね」
「最近、妙にお主を意識しとるんじゃ」
「そうなの?」
「命を助けられた上に、仕事まで褒められたからの。憧れとるんじゃろ」
その言葉に、エミリアは少しだけ満足そうに目を細めた。
悪の女王へ憧れる。
実に良いことだ。
しばらくして、着替えたミンメイが戻ってきた。
先ほどより髪も整えられている。ただし、急いできたのか少し息が上がっていた。
「お、お待たせしました!」
「別に待っておらん」
「お爺ちゃんは黙ってて!」
先ほどとは随分扱いが違う。
ミンメイは改めてエミリアへ向き直り、深々と頭を下げた。
「エミリア様。今日はどうされたんですか?」
「食パンを作るのよ」
「……しょくぱん?」
やはり同じ反応だった。
エミリアは先ほど描いた絵を見せる。
「この型をランカに作ってもらおうと思ったのだけれど、嫌だと言うのよ」
ミンメイが紙を覗き込む。一方、ランカは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「そんな箱を作るために、わしを使うでない」
「箱……」
ミンメイは図面から目を離さなかった。
蓋の形。箱の厚み。角の処理。
そして、生地が膨らんだ時にも形を維持出来るよう、きちんと閉じなければならない蓋。
「これ……寸法は揃ってた方がいいんですよね?」
エミリアが頷く。
「もちろん。出来れば同じ物をいくつも作りたいわ」
「蓋も、隙間が大きいと駄目ですか?」
「そうね。中で膨らんだ生地を押さえる必要があるから、きちんと閉まる方がいいでしょうね」
ミンメイの瞳が、少しずつ輝き始める。
それを横から見ていたランカが、嫌な予感でも覚えたように眉を寄せた。
「おい、ミンメイ」
「お爺ちゃんがやらないなら、私がやる!」
「やっぱりか!」
ミンメイはもう止まらなかった。
紙を手に取り、角度を変えながら眺める。
「板を切って合わせるだけじゃなくて、同じ大きさに揃えた方がいいですよね。蓋も滑らせるようにすれば外れにくいし……」
「出来るの?」
エミリアが尋ねる。
ミンメイは勢いよく顔を上げた。
「やります!」
「出来るか聞いたのだけれど」
「やります!」
「……まあ、いいわ」
ランカは深いため息をついた。
「お主、蒸留器が出来てから随分と積極的になったのう」
その言葉に、ミンメイは少しだけ照れたように笑った。
「だって……私にも、出来ることがあるって分かったから」
その声は小さかったが、迷いはなかった。
エミリアは何も言わず、その少女を見つめる。
病に倒れ、職人になる未来を失いかけ、それでもようやくもう一度、自分の手で道を歩き始めた少女。
ならば、その道を使わせればいい。
「では、任せるわ」
「はい!」
ミンメイの返事が、工房に明るく響いた。
◇
最初の型は、鉄とアルミニウムの二種類で作られた。
「こっちは、随分軽いですね」
アルミニウム製の型を持ち上げ、ミンメイが感心したように呟く。同じ形の鉄製と比べれば、重さは明らかに違った。
ランカは二つを手に取り、縁や継ぎ目を確かめる。
「アルミニウムは熱の回りも早い。じゃが、数を作るなら鉄の方がええじゃろうな。わしらも扱い慣れとるし、何より丈夫じゃ」
「なら、量産するなら鉄ね」
「そうなるじゃろう」
エミリアは鉄の型を眺め、少し眉を寄せた。
「でも、鉄だと錆びるでしょう?」
「なら、表に錫を被せればよかろう」
あまりにも簡単に返され、エミリアが目を瞬いた。
「錫?」
「鉄の表へ薄く錫をかけるんじゃ。そうすれば、そのまま使うより錆びにくくなる」
「そんな方法があるなら先に言いなさいよ」
「聞かれとらん」
ランカは平然としていた。
別に新しい発明でも何でもない。長年金属を扱ってきたランカにとっては、用途に合わせて表面を別の金属で覆うことも、職人として知っている手のひとつに過ぎなかった。
結局、鉄とアルミニウムの二種類を実際に使って焼き比べ、その後の量産品には、丈夫で作り慣れた鉄を使うことになった。
表面には錫を薄く被せる。
それだけだ。
何という金属板なのか、そんな名前まで気にする者はいなかった。
必要なのは、何度使っても歪みにくく、同じ大きさのパンをきちんと焼けることだった。
◇
数日後。
王城の厨房には、甘く香ばしい匂いが漂っていた。
焼き上がったばかりのパンが、金属の型に収まったまま作業台へ運ばれてくる。
ミンメイが仕上げた型は蓋まで綺麗に噛み合い、膨らむ生地をしっかりとその中へ閉じ込めていた。
もちろん、型を作れば、それだけで食パンになるわけではない。
王城の料理人やパン職人達にも協力させ、エミリアの曖昧な記憶を頼りに、小麦粉の配合や水分量、乳や油脂の量を変えながら何度も試している。
最初は固かった。
次は膨らまなかった。
その次は柔らかいが、妙に重かった。
それでも、同じ形の型を使うことで大きさと焼き加減を揃えやすくなり、試作を重ねるたびに少しずつ完成へ近づいていった。
そして、ようやく。
「焼けました!」
料理人が嬉しそうに型を運んでくる。
そのまま作業台へ置こうとしたところで、エミリアが手を上げた。
「待って」
「はい?」
「置く前に、一度だけ軽く落として」
料理人が固まる。
「……落とすんですか?」
「壊すほどではないわよ。底へ軽く衝撃を与えるだけ」
少し不安そうな顔をしながらも、料理人は型を持ち直した。
ごんっ。
底が作業台へ当たり、鈍い音が響く。
それを見ていたミンメイが目を見開いた。
「ええっ!? せっかく作った型を!」
「この程度で歪むの?」
「歪みませんけど!」
思わず即答する。
エミリアは満足そうに頷いた。
「なら問題ないわ。焼き上がった直後に少し衝撃を与えておいた方が、冷めた時に潰れにくかったはずなのよ」
「先に言ってください!」
珍しくミンメイから抗議が飛んだ。
型から取り出されたパンへ、料理人がナイフを入れる。
さくり、と薄い表面を抜けた後、中は驚くほど柔らかかった。切り分けられた断面は白く、細かな気泡が均一に広がっている。
エミリアは一枚を手に取った。
指先で押す。
柔らかく沈み、ゆっくり戻る。
一口。
噛む。
これまでのパンとは違う。硬い皮を噛み千切る必要もなく、口の中で柔らかな生地がほどけていく。
元の世界で食べていた物と、まったく同じではない。
小麦も違う。材料も違う。技術もまだ粗い。
それでも。
「……これよ」
ぽつりと漏れた。
隣で見守っていたミンメイが、目を大きくする。
「本当ですか?」
「ええ。まだ改良の余地はあるけれど……十分だわ」
ミンメイの顔が、一気に明るくなった。
「よかった……!」
胸の前で両手を握り締める。
型を作っただけ。
そう言ってしまえば、それだけの仕事だった。
けれど、自分の作った物でエミリアが喜んでいる。その事実が、ミンメイには何より嬉しかった。
エミリアはもう一口食べる。
「せっかくだから、焼いても美味しそうね」
「焼いたばかりですが?」
料理人の一人が困惑する。
「そうじゃなくて、切ってからもう一度焼くのよ」
エミリアは少し考える。
元の世界では、それを何と呼んでいたか。
すぐに答えが浮かんだ。
「トーストね」
またひとつ。
王城の料理人達が、新しい言葉を覚えた。
◇
食パン。
エミリアがそう呼んだ奇妙なパンは、やがて王都のパン職人達にも伝わった。
ただし、その名前まで素直に定着したわけではない。
「なあ。この『食パン』って、何で食パンなんだ?」
店頭に並んだ白いパンを眺めながら、一人の男が首を傾げる。
隣にいた男は、さも当然のように答えた。
「知らねえのか? エミリア様が食べるために作らせたパンだからだよ」
「エミリア様が食べるパンで、食パン?」
「そういうことだ」
「なるほどな」
何ひとつ合っていなかった。
だが、噂というものは、もっともらしければ広がる。
女王が好むパン。
普通のパンより白く、驚くほど柔らかい。
そうなれば、商売人が放っておくはずもなかった。
ある店は看板に大きく、
『クイーンブレッド』
と書いた。
別の店では、もっと分かりやすく、
『女王パン』
と売り出した。
どちらもエミリアの許可は取っていない。
さらに噂は、別の方向へも育っていく。
「この女王パン、食べ続けると肌が綺麗になるらしいぞ」
「本当か?」
「だって真っ白だろ?」
「パンが?」
「それにエミリア様が好んで食べてるんだぞ」
「……エミリア様、すごく肌が綺麗だな」
「だろ?」
「二つくれ!」
当然ながら、何の根拠もなかった。
食パンに美白効果などない。
だが、白くて柔らかいパンを、誰もが認めるほど美しい女王が好んで食べている。
それだけ揃えば、妙な噂が生まれるには十分だった。
王都ではいつしか、クイーンブレッド、あるいは女王パン。
そんな呼び方の方が、食パンよりも広く使われ始めていた。
◇
そして、その噂は王国の中だけでは収まらなかった。
新しい酒。
驚くほど柔らかく、美味しい白いパン。
それを好んで食べているのは、ローゼンバーグの美しい女王。
さらに、その白いパンには肌を美しくする効果まであるらしい。
尾ひれの付いた噂だけが、商人達を通して森林公国へ流れていった。
肝心の商品名など、ほとんど知られていない。
「なあ、王国のパンはないのか?」
森林公国の町で、男が行商人へ尋ねる。
商人は荷物を整理しながら首を振った。
「パンならあるだろう」
「そうじゃない。ローゼンバーグのだよ。白くて柔らかいやつ」
「ああ、あれか」
「持って来てないのか?」
「無理だね」
「なんでだよ」
商人は肩をすくめる。
「向こうでも作ったそばから売れてるんだ。国外へ持ってくるほど数がない」
近くで話を聞いていた女が、すぐに食いついた。
「肌が綺麗になるっていうパンでしょ?」
「それは知らん」
「エミリア女王が毎日食べてるって聞いたわよ」
「毎日かどうかも知らん」
「じゃあ、本当にないの?」
「ない」
「少しくらい仕入れてきてよ」
「だから物がないんだって」
似たような会話が、各地で繰り返された。
酒も同じだった。
ローゼンバーグで作られ始めた、これまでにない強い酒。飲んでみたい者は多いが、商人へ頼んでも、王国内の需要を満たすだけで精一杯だと言われる。
金を積んでも手に入らない。
ならば、欲しい者に残された方法はひとつだった。
ローゼンバーグへ行く。
最初は、強い酒の噂を聞きつけたドワーフだった。
次に、新しい工房と技術を求める職人達が続いた。
そして今度は、仕事と新しい暮らしを求める者達まで国境を越え始める。
「向こうなら仕事があるらしいぞ」
「本当か?」
「工房も店も、建物も足りてないそうだ」
「農地も広げてるって話だ」
「飯もうまいらしい」
「例の白いパンも食えるのか?」
「王都なら売ってるらしいぞ」
「……行くか」
理由は人それぞれだった。
仕事や金を求める者。新しい技術を学びたい職人。酒や食事に惹かれた者。
あるいは、エミリアという女王への漠然とした憧れ。
だが、一度動き始めた流れは止まらない。
ローゼンバーグ王国では、あまりにも急速に産業が広がっていた。
道路を造れば人が要る。店や工房が増えれば、そこで働く者が要る。農地を広げれば働き手が要り、人が増えれば今度は家や店が必要になる。
流れ込んでくる人間が増えても、仕事がなくなる気配はない。
むしろ、まだ足りなかった。
働く意思があり、腕があり、今の暮らしを変えたいと願う者ほど、公国を離れていく。
森林公国に残る者達の顔ぶれは、少しずつ変わり始めていた。
けれど、それが何を意味するのか。
まだ誰も、深く考えてはいなかった。
◇
そんな流れなど知る由もなく、エミリアは王城で焼きたての食パンを食べながら、数日前のランカの言葉を思い返していた。
――使うだけなら片手剣と同じように扱えば、使えんこともないじゃろうが。
確かに、その通りではある。
刀を武器として振るうだけなら、それなりの剣士へ渡しても使えないことはないだろう。
だが、それでは美しくない。
元の世界で様々な武術を修めてきた蓮には、武器を使えることと、使いこなすことが違うくらい、よく分かっている。
武器には、それぞれの形に至った理由がある。
せっかく刀として作らせたのなら、それを刀として扱える者に持たせたい。
「……刀を扱える人材、ね」
エミリアは柔らかなパンを一口齧りながら、小さく呟いた。
ただ強い剣士ではない。
あの刀を見て、その形に合った扱い方が出来る者。
そんな人材が都合よく転がっているとは、さすがに思わなかったが。
――世界というものは。
時々、妙なところで話が繋がるものである。
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