土小人は酒精を好む③
数日後。
夜の王城、その一室。大きな窓の向こうには王都の灯りが点々と浮かび、室内には魔導灯の柔らかな光が満ちていた。
中央の丸いテーブルには軽い料理と果実水。そして、二種類の酒瓶がいくつか並べられている。
ひとつは、水のように澄んだ蒸留酒。もうひとつは、香草や木の実で香りをつけた、前の世界でいうジンに近い酒だった。
エミリアは並んだ瓶を眺め、満足そうに目を細める。
「それにしても、ミンメイは素晴らしいわね」
向かいに座っていたクロエも、素直に頷いた。
「そうだね。あの精度は私も予想していなかった」
蒸留器を完成させるまでには、いくつもの問題があった。クロエが構造と魔法回路を考え、ランカが炉や釜、大きな金属部品を形にする。そして、その二人だけでは手の届かなかった細部を仕上げたのがミンメイだった。
僅かな歪みも許されない細い管の接続。熱によって狂わない部品の厚み。クロエが示した細かな魔法回路を、寸分違わず形へ落とし込む指先。
どれも、これまで本格的な仕事を任されてこなかった少女の技とは思えなかった。
「まさか、あそこまで細かな仕事が出来るとは思わなかったわ」
エミリアが感心したように呟くと、隣に控えていたルミが嬉しそうに頷く。
「はい。細工師としての天稟なら、ミンメイはランカ様を上回っています」
随分とはっきり言い切った。ランカは片眉を上げ、ルミへ視線を向ける。
「わしの前で言い切るとは、いい度胸じゃのう」
「事実ですから」
ルミはまったく悪びれない。
しばらく黙っていたランカだったが、やがて小さく鼻を鳴らした。その声に悔しさはなく、むしろ口元には隠しきれない笑みが浮かんでいる。
「……まあ、否定はせん。昔から細かい物をいじるのは好きな子じゃった。基礎も教えておったが、仕事としてやらせる前に病に倒れてしもうたからの」
ランカはそう言って、テーブルの上の瓶へ目を落とした。
「あやつは、わしには出来ん仕事をする」
短い言葉だった。それだけに、祖父としての誇らしさがよく伝わった。
エミリアはそんなランカを見て、くすりと笑う。
「嬉しそうね」
「孫が褒められて嫌な爺がおるか。それに、あやつがおらなんだら、こいつも完成せんかったからの」
ランカが酒瓶を軽く叩く。
完成した蒸留酒。その出来を確かめるため、今夜は試飲を兼ねたささやかな慰労会となっていた。
集まったのは、エミリア、クロエ、リン、セリア、ランカ、そしてルミ。気心の知れた者だけの小さな宴である。
「では、飲んでみましょうか」
エミリアの言葉を合図に、クロエが蒸留酒をそれぞれのグラスへ注いでいく。さらさらと流れる液体は無色透明で、見た目だけなら水と変わらない。だが、顔を近づければ、鼻を刺すような鋭い香りがある。
まだ試作品ということもあり、まずは水で薄め、香りや味を確かめながら飲み始めた。
エミリアもグラスを口元へ運ぶ。
この身体で酒を口にするのは、これが初めてだった。
一口含むと、舌を刺す刺激とともに強い香りが鼻へ抜ける。記憶にある前世の蒸留酒と比べれば、まだ精製も洗練も足りない。それでも、この世界で作った最初の一杯として考えれば十分な出来だった。
「……なるほど。まだ粗いけれど、悪くないわね」
クロエも少量を口に含み、味を確かめるように少し黙った。
「雑味はまだあるね。でも最初の試作品とは比べものにならない」
その横で、ランカだけが露骨に眉を寄せていた。グラスを見る。一口飲む。もう一度、グラスを見る。
「……薄いのう」
向かいにいたリンが呆れたように目を細めた。
「水で割ってるんだから、当たり前でしょ」
「せっかく強い酒を作ったというのに、わざわざ薄めてどうする」
ランカはぶつぶつ言いながら蒸留酒の瓶へ手を伸ばす。その動きを見て、リンが慌てて身を乗り出した。
「ちょっと、ランカ! それ、そのまま飲むの?」
「酒は身体で確かめるもんじゃ」
止める間もなく、ランカは自分のグラスへ透明な酒を注ぎ、そのまま豪快に口へ運んだ。見た目だけなら、幼い少女が強い酒を迷いなく煽っているようにしか見えない。
「……うむ! これじゃ。喉を焼くこの感じがええ!」
その様子を見たリンは、半ば呆れながら自分のグラスへ鼻を近づけ、すぐに顔をしかめた。
「ボク、昔からこの匂い苦手なんだよね。なんか消毒液みたいでさ」
ランカが楽しそうにグラスを揺らす。
「なんじゃリン坊。お主、うまい酒を飲んだことがないんじゃな!」
「あるよ! ボクだって、このお酒よりずっと美味しいお酒を飲んだことあるからね!」
ぴたりとランカの手が止まった。
ゆっくりと顔を上げ、リンを見る。
「……ほう」
その目つきが変わったのを見て、リンが僅かに身体を引いた。
「な、なに」
ランカはグラスを置き、少し身を乗り出す。
「話を聞かせてもらおうか」
「嫌だよ! その顔、絶対また作る気でしょ!」
「当然じゃ。酒の話じゃぞ!」
「この酔っ払いロリ爺!」
「誰がロリ爺じゃ!」
「見た目幼女で強い酒がぶ飲みしてる爺なんだから、そのままでしょ!」
二人の言い合いを眺めながら、セリアが口元へ手を添えて小さく笑った。
「仲がよろしいですね」
「どこが!?」
リンは勢いよく振り返ると、そのまま蒸留酒のグラスを置き、代わりに果実水へ手を伸ばした。
「……やっぱりボク、こっちの方がいいな」
セリアは自分のグラスを上品に傾けながら、穏やかに微笑む。
「お子様ですね」
「セリアの方が年下でしょ!」
「見た目のお話でしたら、リンも似たようなものでは?」
「それ言ったら、ここにいる人だいたいおかしいからね!?」
その言葉に、エミリアは思わず吹き出した。室内へ穏やかな笑い声が広がる。
こうして身内だけでくだらない話をしながら過ごす時間も、悪くない。
エミリアは再びグラスへ口をつけた。少し温くなった酒が喉を通る。
「……惜しいわね」
その呟きに反応して、クロエがグラスから顔を上げた。
「何がだい、エミリア様」
「もう少し冷えていた方が美味しいと思うのよ。前の世界では、こういう酒を氷と一緒に飲むこともあったわ」
「氷……この時期に?」
クロエの視線が、テーブルの端に置かれた水差しへ移る。
「作ればいいでしょう」
何でもないことのようにエミリアが答えると、クロエはしばらく水差しを見つめたあと、小さな器へ水を注いだ。
指先へ魔力を集める。
「水そのものを作る必要はない。熱を移動させて、温度だけ下げれば……」
器の周囲の空気が少しずつ冷えていく。やがて水面に薄い膜が張り、それが徐々に厚みを増して透明な氷へ変わった。
クロエの表情が明るくなる。
「出来た」
砕いた氷をグラスへ落とす。
からん。
小さく澄んだ音が鳴った。
エミリアも氷を入れてもらい、グラスを軽く傾ける。透明な酒の中で氷がぶつかり、魔導灯の光を反射した。
「……これ、いいわね」
クロエが首を傾げる。
「味が?」
「それもあるけれど」
エミリアはもう一度グラスを揺らした。
からん、からん。
夜の城。透明な酒。グラスの中で揺れる氷。
「雰囲気がいいわ」
悪の女王が夜の城で酒を嗜む姿として、実に悪くない。
エミリアは上機嫌で一口飲んだ。冷たさのおかげか、先ほどより刺激が柔らかく感じる。
「こっちの方が好きだわ」
その横で、クロエも氷入りの酒を試していた。しかし一口、二口と飲んでいるうちに、その視線は酒ではなく、グラスの中の氷へ向かっていく。
「……これ、冷やす工程そのものを魔導具に使えるんじゃないかな」
クロエはグラスの外側についた水滴を指先でなぞった。
「氷を作るだけじゃない。一定の範囲だけ低い温度に保てれば、別の使い道がある」
「ああ。それなら前の世界にあったわよ」
クロエの指が止まる。
「あるのかい?」
「ええ。食べ物や薬品なんかを、冷やしたまま保存する箱ね」
その瞬間、クロエの目から酒宴の気配が消えた。
「……保存」
小さく呟く。
「低い温度を保てれば、物によっては長く保存出来るわ」
クロエはしばらく黙り込み、やがて視線を宙へ漂わせた。
「内部だけ温度を下げる……常に魔力を流し続けるのは効率が悪い。なら、まず冷気を逃がさない構造を作って――」
ぶつぶつと呟き始める。それでも手だけは無意識にグラスを持ち上げ、時折酒を口へ運んでいた。
向かいからその様子を見ていたランカが、呆れたように鼻を鳴らす。
「おいクロエ。酒を飲んどるのか、考え事をしとるのか、どっちじゃ」
クロエは視線を宙へ向けたまま答えた。
「両方だよ」
返事だけは早かった。
エミリアはそのやり取りを眺めながら、小さく笑う。
からん。
グラスを揺らす。氷の音が妙に心地いい。
もう一口。
さらに、もう一口。
頬が少し熱くなっていた。だが、不快ではない。むしろ身体の力がほどよく抜け、気分が良かった。
前世の蓮は、それほど頻繁に酒を飲む人間ではなかったが、決して弱くもなかった。
これくらいなら問題ない。
そう思っていた。
今の身体が、蓮の身体ではないという、ごく当たり前のことを忘れて。
隣から、ルミがそっと顔を覗き込んだ。
「エミリア様。少しお顔が赤くなっていますよ?」
「そう?」
エミリアは頬へ手を添える。確かに少し熱い。
「でも、気分は悪くないわ」
むしろ楽しい。
皆の笑い声がいつもより近く聞こえ、魔導灯の光も柔らかい。グラスの中で氷が鳴るたび、妙に心が弾んだ。
エミリアは頬杖をつく。普段なら、人前ではあまり見せない姿勢だった。
しばらくして、その視線がクロエへ向く。
「……クロエ」
「ん?」
クロエはまだ冷却魔導具について何か考えていた。
エミリアは指先で隣の席を示す。
「こっちに来なさい」
クロエがようやく思考を止め、怪訝そうに顔を上げた。
「今かい、エミリア様?」
「今」
仕方なく席を立ち、エミリアの隣へ移る。
「何かあった?」
「別に」
そう答えると、エミリアはそのままクロエの肩へ頭を預けた。
「……」
クロエの動きが止まった。
つい数秒前まで頭の中を埋め尽くしていた冷却魔導具の構想が、綺麗に消える。
「エ、エミリア様?」
「なによ」
「いや……何でもない」
クロエの頬が少しずつ赤くなる。酒のせいではない。
エミリアはそんなことにも気づかず、心地よさそうに目を細めた。
「クロエ、あったかいわね」
「……そうかい」
いつの間にか、部屋が静かになっていた。
果実水のグラスを持ったリンが、口を半開きにして固まっている。セリアも珍しく目を瞬かせ、ランカは何とも言えない顔で自分のグラスを置いた。
そしてルミだけが、ぱっと目を輝かせていた。
しばらくすると、エミリアはクロエから身体を離し、今度はリンへ視線を向ける。
「リン」
呼ばれたリンが、びくりと肩を揺らした。
「は、はい」
「こっち」
エミリアが手招きする。リンは果実水のグラスをテーブルへ置き、恐る恐る近づいた。
するとエミリアは、その頭へ手を乗せて、ゆっくりと髪を撫でる。
「貴女は、本当によく働くわね。偉いわ」
「……」
リンの身体が固まった。
数秒後、リンはおずおずと顔を上げる。
「エミリア様」
「なに?」
「……もう一回言ってもらっていいですか?」
「何を?」
「……なんでもないです」
リンはそれ以上何も言わず、そのまま大人しく撫でられていた。
止める側が、また一人減った。
次にエミリアの視線が向いたのはセリアだった。
「セリア」
「はい」
セリアはいつもの穏やかな笑みを浮かべて答える。
「貴女も来なさい」
「お呼びでしょうか?」
セリアが近づくと、エミリアはその肩へ腕を回し、そのまま首元へ顔を埋めた。
「っ……」
セリアの身体が僅かに強張った。普段なら崩れない微笑みも、その瞬間だけ止まる。
エミリアは気にする様子もなく、満足そうに小さく息をついた。
「……セリアの匂い、好きだわ。いい匂い」
「…………」
完全に言葉を失っていた。
ようやくセリアが声を絞り出す。
「エミリア様……」
「なぁに?」
「……いえ。何でもありません」
そう答えたセリアも、離れようとはしなかった。
その様子を見ていたランカが、呆れたように腕を組む。
「お主ら、完全に楽しんどるじゃろ」
その声に、エミリアが顔を上げた。
「ランカ」
「なんじゃ」
「こっち」
ランカが自分を指差す。
「わしもか?」
「早く」
仕方なく近づいた瞬間、エミリアは小さな身体を両腕で抱き込んだ。
「うおっ!?」
ランカが目を白黒させる。エミリアの胸元へ、すっぽりと収まってしまった。
エミリアは可愛いものを愛でるようにランカの頭へ頬を寄せ、そのままぎゅっと抱きしめる。
「……可愛いわね」
「な、何を言うとる!」
「だって可愛いもの」
「わしはお主よりずっと年上じゃぞ!」
「知ってるわ。でも、可愛いものは可愛いの」
「…………」
ランカも黙った。
少し前まで強い酒を豪快に煽っていた姿はどこへやら。今では完全に愛玩される側である。
その光景を見ながら、クロエは小さく息を吐いた。
「……結局、誰も止めないじゃないか」
果実水を持ち直したリンが、すぐにクロエへ視線を向ける。
「クロエが最初でしょ」
「……それを言われると弱いな」
クロエは僅かに肩をすくめた。
そして、そんな全員の様子をルミはずっと見ていた。
エミリアが、普段なら絶対に見せないほど無防備に皆へ甘えている。
クロエへ寄りかかり、リンの頭を撫で、セリアへ顔を埋め、ランカを抱きしめた。
まだ、自分には来ていない。
ルミの視線が、そっと酒瓶へ向かった。
「エミリア様」
「なぁに、ルミ」
甘い声。それだけで、ルミの背筋がぴんと伸びる。
「もう少し、いかがですか?」
「いただくわ」
エミリアは素直にグラスを差し出した。
ルミが嬉々として酒を注ごうとしたところで、クロエがその手元へ視線を落とす。
「ルミ。それ以上はやめておいた方がいい。エミリア様は、もう十分に酔っているだろう」
「大丈夫です!」
即答だった。
その返事を聞いたリンが、果実水のグラスを置いて身を乗り出す。
「どこが大丈夫なのさ! 完全に酔ってるよ!」
「ですが、とても楽しそうです!」
「だからって飲ませていい理由にはならないでしょ!」
二人が言い合っている間にも、エミリアは差し出された酒をゆっくり飲んでいた。
そして、さらに表情が柔らかくなる。
ルミの袖へ手を伸ばし、指先で摘まんだ。
「ルミ」
「はい!」
「もっと近くにいなさい」
「はいっ!」
返事と同時に、ルミはエミリアの隣へ座る。
エミリアは満足そうにその肩へ身体を寄せた。
「……ふふ。ルミ、あったかい」
その一言で、ルミの顔がぱっと明るくなる。
そして、テーブルの上の酒瓶を見る。
もう一杯なら。
もっと甘えてくれるかもしれない。
そんな欲が出た。
「エミリア様。こちらも、もう少しいかがですか?」
「ん……」
エミリアが素直にグラスを差し出す。
それを見たクロエが、今度ははっきりと眉をひそめた。
「ルミ。さっき止めただろう」
「少しだけです!」
リンもすぐ横から口を挟む。
「その『少しだけ』、何回目!?」
しかし、エミリア本人はただ楽しそうに笑っていた。
ルミが注いだ酒を受け取り、ゆっくりと口をつける。
一口。二口。
飲み終えると、しばらくぼんやりとグラスの中を見つめていた。
「……エミリア様?」
ルミが顔を覗き込む。
エミリアがゆっくりと顔を上げた。
「ルミぃ……」
「はいっ!」
両腕が伸びてくる。
ルミは待っていましたとばかりに身体を寄せた。
エミリアはそのまま抱きつき、頬を寄せる。
「ルミ……好きよ」
「――っ!?」
ルミの顔が一瞬で真っ赤になった。
「い、今、もう一度――」
聞き返そうとした、その瞬間だった。
ふっと、エミリアの身体から力が抜けた。
「……え?」
まるで、張り詰めていた糸が突然切れたように、そのままルミへ全体重を預ける。
「エミリア様?」
返事はない。
ルミが少し身体を揺する。
「エミリア様!?」
返ってきたのは、静かな寝息だけだった。
完全に潰れていた。
しばし、誰も何も言わなかった。
やがてリンが、じっとルミを見る。
「……ルミ」
「はい」
「飲ませすぎ」
「……はい」
さすがのルミも、今度ばかりは素直に項垂れた。
◇
翌朝。
エミリアは、いつもと変わらない時間に目を覚ました。
身体を起こす。
頭痛はない。吐き気もない。身体の重さすらなかった。
むしろ、よく眠れた朝のように頭はすっきりしている。
「……」
しばらく天井を見つめ、昨夜の記憶を辿った。
皆で完成した酒を飲んだ。
ランカとリンが言い合っていた。
クロエが氷を作った。
グラスの中で鳴る音が綺麗だった。
酒も思ったより悪くなかった。
そこまでは覚えている。
その先がない。
(……途中から記憶がないわね)
『私もです』
内側から、エミリアの声が返ってきた。
(貴女も?)
『はい。でも……すごく楽しかったですね』
蓮は昨夜を思い返す。
確かに嫌な感覚は何も残っていない。むしろ妙に満ち足りている。
皆と飲み、くだらない話をして、氷の音を楽しんでいた。そこまでは間違いなく楽しかった。
(アルコールで気分が高揚していたんでしょうね)
『そうかもしれません』
(途中までは雰囲気も良かったし、味も悪くなかったわ)
『氷を入れたお酒、綺麗でした』
(あれは気に入ったわね)
問題があるとすれば、記憶が飛ぶほど飲んだはずなのに、翌朝には酒がまったく残っていないことだった。
頭痛も吐き気もない。喉がひどく渇いているわけでもない。
(……酔いやすいくせに、残らない身体なのかしら)
少し変わった体質ではある。
しかし体調が良いのなら、深く考えるほどでもない。
エミリアはそう結論づけ、いつも通り身支度を整えた。
朝食の席には、昨夜と同じ面々が揃っていた。
エミリアが席につき、紅茶へ手を伸ばす。
「昨日のことなのだけれど」
ぴくり。
クロエの手が止まった。リンはカップから口を離し、セリアの笑みが僅かに固まる。ランカは何気なく視線を逸らし、ルミだけがなぜか妙に姿勢を正した。
その反応を見て、エミリアは眉を寄せる。
「途中から記憶がないのよね。私、何かしていなかったでしょうね?」
一瞬、全員の視線が交差した。
肩へ寄りかかられたクロエ。
頭を撫でられ、褒められたリン。
首元へ顔を埋められたセリア。
可愛いもののように抱きしめられたランカ。
そして、最後まで甘えられたルミ。
昨夜の光景が、それぞれの頭を駆け巡る。
最初に口を開いたのはクロエだった。何事もなかったようにカップを持ち直す。
「特に何もありませんでしたよ、エミリア様」
その言葉を受けて、リンもすぐに頷いた。
「うん。何もなかったよ」
セリアはいつもの穏やかな笑みを取り戻す。
「ええ。特に問題はありませんでした」
ランカも腕を組み、平然とした顔を作った。
「何もなかったのう」
最後に、ルミが勢いよく頷く。
「何もありませんでした!」
エミリアが怪訝そうにルミを見る。
「……まだ貴女には聞いていないのだけれど」
「何もありませんでした!」
「……そう」
妙に息が合っている。
少しだけ引っかかった。
けれど、身体は絶好調。二日酔いもない。
魂の中に残っているのも、楽しかったという穏やかな感覚だけだ。
ならば、本当に大したことはなかったのだろう。
「まあ、いいわ」
エミリアは紅茶を口へ運ぶ。
その瞬間、彼女から見えないところで全員がほんの少しだけ安堵した。
昨夜のことを。
誰一人として、エミリアへ教えるつもりはなかった。
◇
その後。
新しい酒が出来たという噂は、思っていた以上の速さで王都へ広がっていった。
水のように透き通っているのに、喉を焼くほど強い酒。
これまでの麦酒や果実酒とは、まるで違う酒。
とりわけ、その噂へ強く食いついたのはドワーフ達だった。
「ローゼンバーグで、とんでもなく強い酒が出来たらしいぞ」
「水みたいに透明なのに、腹まで焼ける酒じゃと?」
「なんじゃそれは!」
「飲みに行くぞ!」
工房の仕事を求めて王都へ集まり始めていたドワーフ達に、新しい理由が加わった。
酒がある。
しかも、自分達がまだ飲んだことのない酒が。
その噂を聞きつけ、さらに多くのドワーフ職人がローゼンバーグ王国を目指すようになった。
やがて、その中には酒造りを生業とする者達まで混じり始める。
この世界にも、酒を造る技術はあった。
麦酒。
果実酒。
長く寝かせ、味を変える熟成酒。
しかし、一度出来た酒をさらに蒸留し、より強い酒へ変える技術は知られていなかった。
だからこそ。
新しい酒を目にした酒匠達は、すぐにその可能性へ気づいた。
使う原料を変えればどうなる。
発酵させる酒を変えれば。
香りを加えれば。
樽で寝かせれば。
もっと旨く出来るのではないか。
もっと強く出来るのではないか。
もっと、自分達だけの酒を造れるのではないか。
その欲望は、職人達にとって何より強い燃料だった。
エミリアがひとつのきっかけを与え。
クロエ達が技術を形にし。
そこへ、本職の職人達が群がっていく。
そうして。
ローゼンバーグ王国には、またひとつ新しい産業が芽吹き始めた。
もっとも。
そんな未来をまだ知らないエミリアは。
昨夜の自分が何をしていたのかも知らないまま、今日もいつも通り優雅に紅茶を飲んでいた。
感想、御意見いただけると嬉しいです
感想、御意見等いただけると嬉しいです




