土小人は酒精を好む①
その日、エミリアは王都の大通りを歩いていた。
もちろん、女王としてではない。
髪をまとめ、目立たない外套を羽織った、謎の悪女エミィとしてである。
いつもの休暇も、そろそろ終わり。
王城へ戻る道すがら、エミリアは賑わう街並みを眺めていた。
「随分、店が増えたわね」
通りの両側には、以前にはなかった露店や飲食店が並んでいる。
香ばしく焼けた肉の匂い。煮込み料理から立ち上る湯気。焼きたてのパンを求める人々の声。
半年前まで、王都には食事を楽しむ余裕さえほとんどなかった。
それが今では、昼を過ぎてもあちこちから客を呼び込む声が聞こえてくる。
悪くない。
寂れた街よりも、こうして華やかな方が私の国らしい。
そんなことを考えながら歩いていると、見覚えのある看板が目に入った。
黒い薔薇を描いた看板の下で、店主が忙しそうにパンを焼いている。
黒薔薇ソーセージパン。
以前、エミリアが教えた料理だった。
今ではすっかり王都に定着しているらしく、店先には何人もの客が並んでいた。
「あっ、エミィさん!」
店主がこちらに気づき、嬉しそうに手を振った。
「聞いてくださいよ。このパン、本当に売れるんですよ! 最近じゃ似たようなのを出す店まで増えてきて」
「あら。それは結構なことではなくて?」
「ええ! 最初に教えてくれたエミィさんには頭が上がりませんよ」
エミリアは満足げに微笑んだ。
前世で知っていたものを少し教えただけで、それが街へ広がり、商売へ育っていく。
こういう光景は嫌いではない。
むしろ、自分の言葉ひとつで街が変わっていく様は、なかなか気分がいい。
店主と別れ、さらに通りを進んでいく。
すると今度は、香辛料の強い香りが鼻をくすぐった。
「……カレーね」
最近、王都でも少しずつ見かけるようになった料理だ。
店の中を覗けば、大皿に盛られたカレーを豪快にかき込む客達の姿がある。
その光景を見た瞬間、エミリアの脳裏に前世の記憶が蘇った。
――そういえば、あれもあったわね。
エミリアは先ほどのパン屋へ振り返る。
「店主。少しいいかしら?」
「はい?」
呼び戻された店主が、不思議そうに首を傾げた。
エミリアはカレー屋を指さす。
「今度、あのカレーをパンの中に入れてみなさい」
「カレーを、パンに?」
「ええ。ただ、そのまま入れたら中身が流れ出すでしょうから、ルーは少し固めにした方がいいわね」
店主が真剣な顔で頷く。
「なるほど……」
「それから、焼くだけではなく揚げてみるといいわ。表面に衣をつけてもいいでしょうね」
「パンを揚げるんですか?」
「そうよ」
前世では珍しくもなかったカレーパン。
この世界では、まだ見たことがない。
そこまで教えれば、あとは料理人達が勝手に試行錯誤するだろう。
「まあ、試してみなさい。美味しくできたら今度いただくわ」
「分かりました! やってみます!」
目を輝かせる店主を残し、エミリアは再び歩き始めた。
そのままカレー屋へ目を向けると、奥の席に数人のドワーフ達が座っている。
どれも仕事帰りなのだろう。
厚手の服には黒い煤や細かな金属粉がこびりつき、袖を捲った腕にも汚れが残っていた。額には乾いた汗の跡があり、疲れた身体を椅子へ預けながら、それでも大皿のカレーを勢いよくかき込んでいる。
「辛ぇ! だが美味ぇ!」
一人が顔を真っ赤にしながら笑った。
「こりゃ仕事上がりにはたまらんな!」
「おい、もう一杯酒をくれ!」
その声に、店員が申し訳なさそうに首を振る。
「すみません、それで最後なんですよ」
「もうないのか……」
ドワーフが残念そうに杯を覗き込んだ。
隣の男も、自分の杯を一口飲んで眉を寄せる。
「しかし、やっぱり薄いなぁ」
「贅沢言うな。今じゃ酒が飲めるだけマシじゃろ」
「そりゃそうだがよ。炉の前で一日働いた後くらい、もっとこう……腹にガツンと来る酒が欲しいじゃねぇか」
「それは分かる」
誰かを責めているわけではない。
ただ、一日の仕事を終えた職人達が、食事と酒を囲みながら愚痴を零しているだけだった。
エミリアは足を止めた。
――酒。
そういえば。
王国へ来てからというもの、まともに酒のことを考えた記憶がない。
食料。
道路。
上下水道。
商売。
工房。
最近では農地まで弄っている。
だが酒造りには、ほとんど手をつけていなかった。
理由は単純だ。
蓮自身、前世で酒を日常的に飲む人間ではなかった。
エミリアの身体になってからも、特に欲しいと思ったことがない。
だから、完全に後回しになっていた。
「……酒、ね」
店先に置かれた樽を見る。
そこでエミリアは、ふと思った。
赤いワインを満たしたグラス。
夜のバルコニー。
月明かりを背負いながら、優雅に杯を傾ける悪の女王。
「……そういえば、ワインを片手に佇む悪の女王を、まだやっていないわね」
これはいけない。
悪の女王を名乗る以上、あまりにも大きな見落としである。
「必要だわ」
王都の酒事情をどうにかしなければならない。
極めて重要な案件として、エミリアの中で優先順位が一気に上がった。
◇
王城へ戻ったエミリアは、早速クロエ、ランカ、そしてオルガを呼び出した。
「今度は酒か、嬢ちゃん」
オルガは開口一番、少し呆れたように言った。
「ええ。この国の酒について知りたいの。種類と値段、それから、どの程度流通しているのか」
「また急だな」
そう言いながらも、オルガはすぐに頭を切り替えた。
王都の商業を取り仕切る人間だけあって、この手の話には強い。
「庶民が飲んでるのは、麦酒か安い果実酒が中心だな。ただ、どっちも酒精はそれほど強くねぇ」
オルガはそのまま説明を続ける。
「質も安定しちゃいない。麦酒は長く保たねぇし、果実酒も店によってかなり差がある。水で薄めて出してる店も珍しくねぇな」
「強い酒はないの?」
「ないわけじゃねぇよ。上等な果実酒や、長く寝かせた酒ならある。ただし値が張る。飲んでるのは貴族か、金を持ってる商人くらいだ」
なるほど。
存在しないわけではない。
だが、庶民や職人が毎日のように飲めるものではないらしい。
「それと、最近は別の問題も出てる」
「何かしら?」
「単純に、酒そのものが足りねぇ」
オルガは困ったように頭を掻いた。
「王都の人間が増えた上に、飲食店も一気に増えただろ。酒を扱う店が増えた分、供給が追いつかなくなってんだよ」
エミリアは腕を組んだ。
街が活気づいた結果、別のものが不足する。
当然と言えば当然の話だった。
「それで、今日ドワーフ達が酒の話をしていたのね」
その言葉に、ランカが鼻を鳴らす。
「そりゃそうじゃ。ドワーフから酒を取り上げるなど、槌を取り上げるようなものじゃ」
「そこまで?」
「そこまでじゃ」
即答だった。
「炉の前で一日中鉄を叩くんじゃぞ。仕事が終われば酒を飲む。それで明日も槌を振るう。酒はいる。絶対にいる」
ランカは腕を組み、断言した。
「しかも王都の酒は薄い。あれでは飲んだ気にもならんわ」
「随分な言われようね」
「事実じゃ」
どうやら、ドワーフ達にとってはかなり切実な問題らしい。
エミリアは少し考えた。
「オルガ。当面の酒は輸入できる?」
「できなくはねぇな。東の公国から回してもらえば、当面の分くらいは何とかなるだろ」
その言葉にランカも頷いた。
「向こうなら酒造りをしておる土地も多い。ドワーフ向けの酒も、ここのものよりはずっとマシじゃ」
「それなら話は早いわね」
「ただな、嬢ちゃん」
オルガが少し表情を険しくする。
「輸入に頼り続けるとなりゃ話は別だ。量を増やせば金も掛かるし、向こうの事情ひとつで値段も入ってくる量も変わる」
「気に入らないわね」
自分の国で必要なものを、いつまでも他国の都合に左右されながら買う。
エミリアの趣味ではない。
輸入は当面の応急処置として使えばいい。
だが、それとは別に、自前でも作れるようにしておくべきだ。
「なら、こちらでも作りましょう」
「酒をか?」
「ええ。それも、ドワーフ達が文句を言えないくらい強いものを」
ランカの目が光った。
「ほう?」
クロエも面白そうに口元を緩める。
「エミリア様。また何か知っているのかい?」
「前の世界に、強い酒を作る方法があったわ」
そこでエミリアは記憶を探った。
酒そのものに詳しいわけではない。
だが、仕組みくらいなら知っている。
「まず、酒を温めるの」
「ほうほう」
クロエが身を乗り出す。
「すると、酒精を含んだ蒸気が出る。それを管へ通して、別の場所で冷やすのよ」
エミリアは紙を引き寄せ、簡単な図を描いていく。
釜。
そこから伸びる管。
冷却する部分。
最後に液体を受ける容器。
「蒸気を冷やせば、また液体に戻る。その液体を集めれば、元の酒よりずっと強い酒になるはずよ」
クロエが図を覗き込み、しばらく黙った。
「……なるほど」
やがて、その目が完全に研究者のものへ変わる。
「沸点の差を利用するわけか。完全に分離するわけではないだろうけど、酒精を濃くすることはできそうだねぇ」
「作れそう?」
「できると思うよ」
クロエはあっさり答えた。
その横からランカも図を覗き込む。
「釜と炉なら、わしが作れる。太い管や骨組みも問題ないじゃろう」
「じゃあ決まりね」
エミリアは満足げに微笑んだ。
「クロエが仕組みを詰めなさい。ランカは釜と炉、それから必要な金属部品を。人手がいるなら工房のドワーフ達も使って構わないわ」
「任せておけい」
「面白くなってきたねぇ」
こうして、ローゼンバーグ王国で強い酒を生み出すための新たな試みが始まった。
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