閑話 謎の悪女と、異国の聖歌
聖歌隊の案は決まった。
だが、実際に始めようとしたところで、セリアとグレゴールは早くも大きな問題にぶつかっていた。
聖歌がない。
仮神殿の一室で、二人は何枚もの紙を前に向き合っていた。机の上には、ルミナの教えを歌にするための言葉が書き出されている。月、死、転生、願い、学び、抗う心。祈りとして込めるべきものは分かっていた。子供達にも覚えやすいよう、言葉を短く整える方針も決まっている。
問題は、旋律だった。
「歌詞は、どうにか形にできると思います」
セリアは、紙に書かれた言葉を見つめながら言った。
「ルミナ様の教えを元に、子供達にも覚えやすい言葉へ整えればよい。ですが、それをどのように歌わせるかとなると……」
「旋律ですな」
グレゴールも、深く頷いた。
「太陽神教には、古くから伝わる聖歌がありました。祭礼、葬送、祝福、巡礼。場に応じて歌い継がれてきたものがございます。ですが、ルミナ様の聖歌となると、少なくとも我々の手元には残っておりません」
「本来であれば、どこかに伝承があったのかもしれません。けれど、今の王国でそれを探している時間はありません」
セリアは小さく息を吐いた。
聖歌隊という案そのものは、素晴らしかった。文字を読めない者にも祈りを届けられる。子供達にとっては、礼儀や発声、言葉を学ぶ機会にもなる。神殿を、ただ静かで厳かな場所ではなく、人の声が響く場所にできる。
けれど、歌わせるためには、歌がいる。
「まさか、作曲から始めることになるとは思いませんでした」
「祈りを形にするのは、なかなか難しいものですな」
グレゴールは穏やかに言ったが、その表情は真剣だった。
「言葉だけであれば、教義として整えられます。ですが旋律は、人の心に直接触れるもの。軽すぎれば祈りにならず、重すぎれば子供達の声に合わない。これは思った以上に難題です」
セリアは頷き、再び紙へ視線を落とした。
その時だった。
廊下の向こうから、子供達の明るい声が聞こえてきた。
「エミィ様だ!」
「今日は何を持ってきたの!?」
「見せて見せて!」
「こら、順番です。押してはいけません」
セバスの穏やかな声も混ざっている。
セリアとグレゴールは、同時に顔を上げた。
「……エミィ様?」
セリアが首を傾げる。
その名に聞き覚えはあった。王都の孤児院へ時折現れる、謎の悪女である。子供達へ菓子や果物を配り、気まぐれに食事の改善案を出し、気づけばセバスへ追加予算を置いていく。黒い外套を纏い、自らをエミィと名乗るその人物の正体について、深く詮索する者はいなかった。
詮索してはいけない。
少なくとも、孤児院ではそういうことになっている。
「またいらしていたのですね」
「そのようですな」
グレゴールは穏やかに言ったが、その表情には少しだけ苦笑が混ざっていた。
やがて扉が叩かれ、セバスが顔を出す。
「失礼いたします」
「セバス様。何かありましたか?」
「はい。子供達が少々賑やかになっておりますので、お詫びに参りました」
そう言いながらも、セバスの表情は柔らかい。困っているというより、微笑ましく見守っている顔だった。
「エミィ様が来られているのですか?」
「はい。本日は焼き菓子と果物をお持ちくださいました」
「また、ずいぶんと気前のよいことで」
グレゴールが小さく呟く。
セバスは何も言わず、ただ穏やかに微笑んだ。
その沈黙だけで、十分だった。
「少し様子を見に行きましょうか」
セリアが言うと、グレゴールも頷いた。
「ええ。ちょうどよいかもしれません。子供達の声を聞けば、聖歌の方向も見えてくるかもしれません」
三人は部屋を出て、孤児院の広間へ向かった。
広間には、子供達が集まっていた。人間の子供もいれば、獣人の子供もいる。まだ少し距離を置いている子もいたが、同じ菓子を手にしているせいか、普段より空気は柔らかかった。
その中心に、黒い外套をまとった少女がいた。
顔を隠しているわけではない。むしろ隠す気など、まるでない。艶やかな黒髪。整いすぎた顔立ち。そこにいるだけで空気を支配してしまうような気配。
けれど、本人が名乗った名はエミィだった。
謎の悪女エミィ。
そういうことになっている。
「一列に並びなさい。押した子には渡さないわ」
「はーい!」
「エミィ様、これ何?」
「焼き菓子よ。甘いけれど、食べ過ぎると夕食が入らなくなるから一つずつ」
「えー!」
「不満があるなら没収するわ」
「ありません!」
子供達が慌てて背筋を伸ばす。
その光景を見て、セリアは少しだけ目を瞬かせた。口調はどう聞いても優しくない。けれど子供達は怖がっていない。むしろ楽しそうにしている。
グレゴールは、なぜか深く頷いていた。
「なるほど。厳しさの中に慈しみがありますな」
「……そうでしょうか」
セリアは小さく呟いた。
エミィは、こちらに気づくと、菓子の入った籠をセバスへ預けた。
「あら。ずいぶん真面目な顔をしているわね」
「失礼いたします、エミィ様」
セリアは軽く頭を下げた。
「聖歌隊について、グレゴール様と相談しておりました」
「聖歌隊?」
「はい。孤児院の子供達に、神殿で聖歌を歌ってもらう案です。文字を読めない方にも祈りを届けられますし、子供達にとっても言葉や礼儀を学ぶ機会になります」
「良い案ではないの」
エミィは当然のように言った。
セリアは少し困ったように微笑む。
「ありがとうございます。ですが、問題がありまして」
「問題?」
「歌わせる聖歌が、まだありません」
その言葉に、エミィは少しだけ目を細めた。
「歌詞については、ルミナ様の教えを元に作れます。けれど、旋律がないのです。太陽神教の聖歌を流用するわけにもいきませんし、ルミナ様の聖歌がどこかに伝わっていたとしても、今の私達の手元にはありません」
「つまり、曲がないのね」
「はい」
セリアは素直に頷いた。
「聖歌隊は妙案だと思ったのですが、まさか作曲から始めなければならないとは思いませんでした」
エミィは、しばらく考えるように視線を上げた。
聖歌。
蓮の記憶の中に、それに近いものはいくつかあった。学校で聞いたもの。テレビから流れていたもの。映画やゲームで使われていたもの。そして、動画投稿サイトで一時期話題になっていた、やたらと神聖で、やたらと記憶に残っている歌。
本来どういう経緯で作られたものなのか、蓮は詳しく知らない。ただ、荘厳で、静かで、どこか悲しく、コメント欄で「聖歌みたいだ」と騒がれていたことだけは覚えていた。
意味を完全に覚えているわけではない。
けれど、旋律は覚えている。雰囲気も覚えている。言葉の中に、たしか百合が出てきたことも覚えている。
「旋律なら、ひとつ心当たりがあるわ」
「エミィ様が、ですか?」
セリアが目を瞬かせる。
「ええ。遠い国で、聖歌のようだと評判になった歌よ」
嘘ではない。
たぶん。
少なくとも、蓮のいた世界では多くの者に知られ、強く印象に残る歌だった。正式な聖歌なのかは怪しいが、この場で説明する必要はない。
エミィは、子供達を見渡した。
「少し静かになさい」
その一言で、広間が静まり返る。
子供達は菓子を持ったまま口を閉じ、セリアとグレゴールも自然と姿勢を正した。セバスだけが、いつもの穏やかな表情で一歩下がる。
エミィは、ゆっくりと息を吸った。
そして、歌った。
仮神殿に併設された孤児院の広間に、澄み切った歌声が響く。
それは、言葉の意味を知らずとも祈りだと分かる声だった。夜の湖面へ落ちる月光のように静かで、冷たく、けれど深く胸へ沈んでいく。悲しみを叫ぶのではなく、痛みを抱いたまま眠らせるような旋律。遠いどこかへ失われた魂を送り、もう一度巡る道を示すような響き。
子供達は息を呑んだ。
セリアは、胸の前で手を組んでいた。
グレゴールは、目を見開いたまま微動だにしない。
エミィの身体は、歌声すら美しかった。
音程は一切揺らがない。息継ぎは自然で、響きは透明だった。蓮の記憶に残っていた旋律を、エミリアの肉体が完璧な音として再現していく。そこに絶対的な美貌と、抗いがたい存在感が乗った時、それはもはやただの歌ではなかった。
神に捧げる祈り。
死者を送る鎮魂。
月の下で眠る魂への祝福。
聞く者達は、そう受け取った。
歌が終わっても、誰もすぐには動けなかった。
広間には、余韻だけが残っている。
最初に膝をついたのは、グレゴールだった。
「……素晴らしい」
その声は、かすかに震えていた。
「なんという深い旋律。月の静けさ、死への畏れ、魂の安息、そして巡る命への祈念。これは、まさにルミナ様の聖歌に相応しい」
「私も……そう思います」
セリアの瞳も、わずかに潤んでいた。
「言葉の意味は分からないのに、不思議です。胸の奥に、静かに届くような……悲しみを否定せず、それでも眠りと明日を与えてくれるような歌でした」
子供達も、ぽかんとエミィを見上げている。
「今の歌、私達も歌うのですか?」
一人の子供が尋ねた。
エミィは、少し考えた。
「そうね。旋律は悪くないわ」
「旋律は、ですか?」
セリアが聞き返す。
「ええ。けれど、そのままでは使えないわね」
感動に包まれていた空気の中で、エミィは当然のようにそう言った。
グレゴールが顔を上げる。
「どこか問題が?」
「百合は、らしくないわ」
エミィは静かに言った。
「百合……ですか」
「ええ。清らかで、穢れなく、神の祝福を受ける花。それも美しいのでしょうけれど、この国の祈りには少し弱いわ」
彼女は、近くの机に置かれていた紙を一枚取った。
「苦しみの中でも気高くあるもの。傷つきながらも美しさを失わないもの。棘を持ち、踏みにじられるだけでは終わらないもの。神の祝福、高貴、麗美。そのすべてを込めるなら、百合では足りない」
エミィは、優雅に微笑んだ。
「やはり、薔薇ね」
広間の空気が、再び静まった。
セリアは、その言葉を胸の中で繰り返す。
薔薇。
苦しみの中でも気高くあるもの。傷つきながらも美しさを失わないもの。棘を持つことで、ただ踏みにじられるだけでは終わらないもの。
それは、ルミナの教えに重なる。
そして同時に、目の前の悪女そのものでもあった。
「……素晴らしいです」
セリアは、思わず呟いた。
「清らかであることだけを尊ぶのではなく、傷を抱え、それでも気高くあろうとする心を尊ぶ。確かに、それはこの神殿に相応しい祈りです」
「ええ」
グレゴールも、深く頷いた。
「百合ではなく薔薇。穢れなき者だけではなく、苦しみの中にある者、傷ついた者、道を失った者にも届く象徴。なんと深い……」
グレゴールの声は、また震えていた。
エミィは何も言わず、紙へ視線を落とした。
そこまで深く考えていたかどうかは、蓮にも少し分からなかった。ただ、百合ではない。この国で歌わせるなら、薔薇だ。それだけは、妙に確信があった。
「旋律は使うわ。けれど、言葉は作り直しなさい」
「はい」
セリアは真剣に頷いた。
「月に祈り、死を恐れず、巡る魂に安らぎを願う。そして、苦しみの中でも気高く咲く薔薇を讃える歌にしましょう」
「子供達にも覚えやすいよう、短い言葉に整えましょう。ですが、祈りとしての深さは失わぬように」
グレゴールが続ける。
子供達は、よく分かっていない顔をしながらも、何やらすごいことが決まったらしいと感じていた。獣人の子供が、自分の手の中の焼き菓子を見下ろし、それから小さく手を上げる。
「あの、薔薇って、痛いやつですか?」
「棘があるものね」
セリアが優しく答える。
「でも、痛いだけではありません。とても美しい花です」
「痛いのに?」
「ええ。痛みを持っていても、美しく咲くことはできます」
子供は少し考え、それから頷いた。
「じゃあ、すごい花ですね」
「そうですね」
セリアは、柔らかく微笑んだ。
エミィは、そのやり取りを横目で見ながら、少しだけ満足そうに口元を緩めた。
「では、決まりね。貴方達はその聖歌を覚えなさい。下手でも構わないわ。ただし、投げ出すことは許さない。祈りは、声にして初めて届くこともあるのだから」
「はい!」
子供達の返事が、広間に響いた。
セリアとグレゴールは、深く頭を下げる。
「ありがとうございます、エミィ様。これほど美しい旋律を示していただけるとは思いませんでした」
「構わないわ」
エミィは当然のように言った。
「神殿に相応しい歌を用意する。それだけのことよ」
その姿は、あまりにも堂々としていた。
祈りすら、自らの美学に従わせる悪女。
神の教えを地上に刻み、異国の旋律さえローゼンバーグの薔薇へ変えてしまう存在。
その場にいた者達は、皆そう受け取った。
その日の午後、仮神殿には子供達の歌声が響いた。
まだ音程は揃っていない。声量もばらばらで、途中で歌詞を忘れる子もいる。けれど、セリアは一人一人の声を丁寧に拾い、グレゴールは感極まったように頷き、セバスは静かに拍子を取っていた。
月へ祈る歌。
死を恐れぬ歌。
巡る魂に安らぎを願う歌。
そして、苦しみの中でも気高く咲く薔薇の歌。
それはまだ、完成にはほど遠い。けれど、子供達の声に乗った時、不思議と神殿の空気へ馴染んでいった。
夕暮れが近づく頃、ルミは廊下の端でその歌を聞いていた。
子供達の声は拙い。けれど、そこには確かに祈りがあった。月と死と転生を司る神として、それは悪いものではない。むしろ、かなり良い。
「……良い歌ね」
ルミの口から、静かな声が漏れた。
それはメイドのルミの声でありながら、明らかにルミナの声音だった。
「ただ」
ルミナは、少しだけ目を細める。
「どうして私の聖歌なのに、最終的に薔薇の歌になっているのかしら」
誰も答えない。
当然だった。
廊下には、メイド姿のルミが一人立っているだけである。
広間からは、子供達の歌声が聞こえてくる。たどたどしく、それでも懸命な声だった。
月を讃え、魂を慰め、そして気高く咲く薔薇を歌う。
ルミナはしばらく黙ってそれを聞き、やがて小さく息を吐いた。
「まあ、悪くはないわ」
その声は、不満そうでありながら、どこか満更でもなさそうだった。
こうして、ルミナ神殿の少年少女聖歌隊には、最初の聖歌が与えられた。
由来は、遠い異国で聖歌のようだと評判になった旋律。
意味は、月と死と転生への祈り。
象徴は、百合ではなく薔薇。
そしてその正体を知る者は、この世界に一人しかいない。
蓮だけが、心の中で静かに呟いていた。
――アニソンだけどね。
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