第三十九章 大切な君と
「……むかしむかし、あるところに——」
自分の声が、
こんなにもやわらかくなるなんて、
知らなかった。
ページをめくるたびに、
小さな手が、私の服の裾をぎゅっと掴む。
隣で、
規則正しい寝息。
まだ幼い我が子は、
いつの間にか夢の中に落ちていた。
絵本の途中。
王子様が呪いを解く、
いちばん大事な場面の手前で。
「……あらら、寝ちゃった」
小さく笑う。
でも、
本を閉じることができなくて、
そのまま、指をページに挟んだまま、
しばらく動けなかった。
⸻
(……私も、こうやって読んでもらってたんだ)
ふと、思い出す。
白い天井。
消毒液の匂い。
窓から差し込むやわらかい光。
そして、
あの人の声。
——霞叔母ちゃん。
どんな時でも、
笑っていた人。
どんな物語も、
本当にそこにある世界みたいに、
連れて行ってくれる人だった。
「……」
気づけば、
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
同時に、
少しだけ、きゅっと締め付けられる。
(……あの時の気持ち、今なら少しわかる気がする)
この小さな存在に、
何かを残したいと思う気持ち。
何もできなくても、
せめて、
物語だけでも。
夢だけでも。
優しさだけでも。
⸻
「……霞叔母さんも、こんな気持ちだったのかな」
ぽつりと、
零れるように呟く。
自分でも驚くくらい、
自然に出た言葉だった。
⸻
「……そうなんじゃない?」
隣から、
穏やかな声。
顔を上げると、
夫が、少し笑いながらこちらを見ていた。
その視線はやさしくて、
どこか、全部を受け止めてくれているようだった。
「会ってみたかったな。その人に」
静かに続く言葉。
「君をこんなに素敵な女性に育ててくれた人の一人なんだろ?」
その言い方に、
胸の奥が、ふっとほどける。
(……ああ、この人は)
全部を知らなくても、
ちゃんと理解してくれている。
無理に踏み込まないで、
でも、ちゃんと寄り添ってくれる。
そんな人だ。
⸻
「……私も」
小さく笑いながら、
我が子の頭をそっと撫でる。
「会って欲しかったな」
指先に伝わる、
やわらかいぬくもり。
「この子にも、会って欲しいって思うし」
言葉にした瞬間、
胸の奥にあった想いが、
ゆっくりと形になっていく。
叶わない願い。
でも、
消したくない願い。
⸻
夫は何も言わずに、
ただ隣に座る。
その距離が、
ちょうどよくて、
安心できた。
⸻
「来月の月命日、行くかい?」
ふと、夫が言う。
その言葉は、
とても自然で、
とても当たり前みたいに響いた。
「そうだね!」
思わず、少しだけ声が弾む。
「挨拶に、行こうか」
⸻
窓の外では、
風が木々を揺らしていた。
やわらかい光が、
カーテン越しに揺れている。
あの日と同じ、
優しい時間。
⸻
(……ちゃんと、繋がってる)
そう思えた。
叔母がくれたもの。
あの時間。
あの声。
あのぬくもり。
全部が、
今の私の中にあって、
そして、
この子へと続いていく。
⸻
眠る我が子を見つめながら、
そっと絵本を閉じる。
表紙には、
あの物語のタイトル。
何度も読んだ、
大切な一冊。
⸻
「……また、続きを読もうね」
小さく囁く。
届かなくてもいい。
でも、
きっと届いている気がした。
⸻
その夜、
私は久しぶりに、
夢の中で、
あの人の声を聞いた気がした。




